第4話 「雨の水道場、甘酸っぱい香り」
空の端から、どす黒い鉛色の雲がうねるように広がっていた。
肌にまとわりつく、重く湿った空気。
風が急に冷たさを増し、グラウンドの乾いた砂を大きく巻き上げる。
瀬戸内海に面した尾道の天気は、崩れるときはいつも突然だ。
海風が山の斜面にぶつかり、一気に雨雲を連れてくる。
さっきまで照りつけていた強烈な西日は完全に遮られ、グラウンドは夕闇が訪れたかのように薄暗くなった。
土の匂いがした。
グラウンドの砂埃と、遠くで降り始めた雨がアスファルトを叩く匂いが混ざり合った雨の匂いだ。
「降るぞ! 道具片付けろ!」
監督の太い声が響くと同時に大粒の雨が乾いた土を叩き始めた。
バラバラという無機質な音が瞬く間に鼓膜を覆い尽くすような轟音へと変わる。
夏の終わりの、容赦のない夕立だった。
土にまみれた部員たちが「うわっ」「急げ!」と声を上げながら慌ててボールケースやベースを抱え、屋根のある部室棟へと走った。
泥跳ねがユニフォームを汚していくが気にする余裕はない。
洋平は泥だらけの顔のまま空を見上げた。
大粒の雨が容赦なく頬を打ち、練習で火照った身体から急速に熱を奪っていく。
彼は最後に残ったトンボをフェンスに立てかけると、グラウンドの端にある水道場へ向かった。
そこは周囲から少し外れた場所にある、波板のトタン屋根がついた古い洗い場だ。
錆びた柱と苔むしたコンクリートの流しが長い年月を物語っていた。
屋根の下に入ると、分厚い雨のカーテンが外界とここを完全に隔絶したように感じられる。
薄暗い空間に、トタンを打つ激しい雨音だけが満ちている。
少し離れた部室の騒ぎ声は、もう届かない。
洋平は錆びついた蛇口をひねった。
勢いよく飛び出した冷たい水がコンクリートの流しに跳ね返った。
泥だらけになったユニフォームの膝とスパイクの裏にこびりついた土を洗い流した。
冷たい水が練習で熱を持った身体に心地よい。
今日投げ込んだ百球以上の球数が肩や肘に重い疲労として残っている。
右手を洗おうとした時、洋平は思わず顔をしかめた。
人差し指と中指の腹。
マメが潰れ、下の赤い皮膚が剥き出しになっていた。
今日は変化球の投げ込みを多くした。
縫い目との強い摩擦で指先の皮膚が限界を超えていた。
水が当たると焼け火箸を押し当てられたような鋭い痛みが走った。
洋平は、痛みに耐えるように顔を歪めながら指先の泥を丁寧に洗い落とした。
手のひら全体がジンジンと熱を持っている。
マウンドに立ち続けるための代償。
誰もが通る道だと分かっていても痛みは孤独だ。
マウンドという小さな円の中で、ピッチャーは常に孤独と戦わなければならない。
その孤独が、指先の痛みとなって現れているようだった。
蛇口の水を止めると世界には雨音だけが残された。
首にかけていたタオルで顔を拭い大きく息を吐き出す。
その時だった。
激しい雨音に混じって、軽やかな足音が聞こえた。
「すごい雨・・」
分厚い雨のカーテンからトタン屋根の下に飛び込んできたのは、ゆかりだった。
薄手のジャージの肩が濡れ、黒髪が湿って額に張り付いている。
急な雨に降られ、体育館から校門へ向かう途中でこの水道場に逃げ込んできたのだろう。
白いスニーカーの先は、泥水で少し汚れていた。
「あ・・」
ゆかりは、洋平がいることに気づき目を丸くした。
「・・奇遇だね」
洋平が少しぶっきらぼうに言うと、ゆかりはホッとしたような、少し照れたような顔をした。
「びっくりしました。すごい雨ですね。体育館を出た時は、まだ全然降ってなかったのに」
「尾道の天気は気まぐれだからな。すぐ止むだろ。ただの夕立だから」
二人は、狭いトタン屋根の下で少し距離を置いて並んだ。
雨は弱まる気配がなかった。
グラウンドはすっかり黒く染まりあちこちに大きな水たまりができていた。
水面を叩く雨粒の波紋が重なり合って幾重にも広がって消えていく。
会話が途切れると、激しい雨音の隙間にゆかりの微かな息遣いが聞こえた。
湿った空気の中、洋平はふと微かな匂いに気づいた。
制汗スプレーのような匂いではない。
シャンプーの香りとも違う。
もっと柔らかくて、清潔な匂いだった。
汗と泥にまみれ埃っぽい土の匂いしか知らない洋平の知らない種類の匂い。
彼女が日々向き合っている新体操という、美しさと繊細さを競う世界の匂いなのかもしれないと、ぼんやり思った。
ふと見ると、ゆかりの視線が洋平の右手に向けられていることに気づいた。
泥を落としたばかりの、赤く腫れ上がり、マメが潰れた手。
「・・痛くないんですか?」
ゆかりが心配そうに眉をひそめて聞いた。
その声は雨音に掻き消されそうだったが、洋平の耳にははっきりと届いた。
「痛いよ。でも、ピッチャーの勲章みたいなもんだからさ」
洋平は右手をジャージのポケットに隠そうとした。
泥と汗にまみれた不恰好な手を彼女に見せたくなかった。
住む世界の違いを見せつけられているようで少しだけ気後れした。
「待って」
ゆかりが一歩、洋平に近づいてきた。
距離が縮まり清潔な匂いが少しだけ強くなった。
ゆかりは肩にかけたバッグのジッパーを開け小さなチューブを取り出した。
ごく普通のハンドクリームだった。
「これ、使ってください」
ゆかりはチューブのキャップを開けた。
爽やかな香りが、水道場の湿った空気に一瞬で広がった。
柚子を思わせる柑橘系の香りだった。
甘さの中に微かな酸味が含まれている自然な香り。
ゆかり自身から漂う匂いと混ざり合い、雨と土の匂いに支配されていた空間を優しく塗り替えていく。
「ハンドクリーム?」
「はい。新体操も、リボンとか手具を強く握るから手が荒れるんです。だから、いつも持ち歩いてて」
ゆかりは洋平の顔を真っ直ぐ見上げた。
その瞳にはためらいがなかった。
痛みに耐えている人の助けになりたいという素直な気持ちが見えた。
「手、出してください」
洋平はためらいながら、ポケットからゆっくりと右手を出した。
ゆかりは自分の手のひらにクリームを絞り出すと、洋平の手の下に自分の手をそっと添えた。
ひやりとした、滑らかな感触が指先に触れる。
ゆかりは右手の人差し指と中指で潰れたマメの周りにクリームを優しく塗り込んでいく。
傷口に直接入らないように、赤く腫れた皮膚の表面を円を描くように丁寧になぞる。
ゆかりの指先にも、リボンやフープの摩擦でできた硬いタコがあるのが分かった。
彼女もまた、厳しい練習に耐え自分の限界と戦っている。
だが、洋平の皮膚に触れるその動きは、柔らかくそして温かかった。
音楽室でセレナーデを奏でた手。
固く結ばれたリボンを真剣な顔で解こうとしていた手。
その手が今、洋平の傷ついた指を大切な宝物を扱うかのように優しく包み込んでいる。
「しみるか?」
洋平が沈黙に耐えきれずに聞いた。
自分の声が少し上ずっているのがわかった。
「うん、少しだけ。どう?」
「ちょうどいい」
ゆかりはクリームの冷たさのことだと思った。
洋平は、自分の手から伝わる熱を指しているとは言わず、あえて訂正はしなかった。
激しい雨音が、二人の間の沈黙を優しく隠してくれた。
すぐ近くに、ゆかりのつむじがあった。
息をすれば髪が揺れるのがわかる距離だった。
鼻をかすめる香りは、さらに濃密になっていた。
ゆかりの体温で温められたクリームの香りが、ふわりと立ち上ってきた。
洋平は、心臓が普段よりも強く脈打っているのを感じていた。
マウンドで強打者を前にした時に感じる昂りではない。
もっと静かで、深く、確かな熱。
血液が指先に向かって集まっていくような感覚。
彼女の指が触れるたびに、そこから火がつくように熱が広がっていった。
クリームが皮膚の奥まで馴染む頃、ゆかりはゆっくりと手を離した。
「これで、少しはマシになると思います」
ゆかりはキャップを閉め、バッグにしまった。
彼女の顔に、少しの照れと満足げな微笑みが浮かんだ。
「・・サンキュ。わりぃな、手ぇ汚しちまって」
洋平は短く礼を言って右手を見た。
荒れてささくれ立っていた皮膚がしっとりとし、ツッパリ感が消えている。
手全体が、みずみずしい柑橘系の香りに包まれていた。
ふと、耳をつんざくようだった雨音が小さくなっていることに気づいた。
トタン屋根を打つの音が、まばらな雨音に変わっていた。
厚く垂れ込めていた雲の切れ間から、オレンジ色の夕暮れの光が差し込んできた。
グラウンドの水たまりを黄金色に反射させ雨上がりの澄んだ空気を優しく照らしている。
「止んだ」
ゆかりが空を見上げて嬉しそうに言った。
「そうだな。言った通りだろ」
「本当。じゃあ、私、行きます。明日も練習、頑張ってください」
ゆかりはバッグを肩にかけ丁寧に頭を下げた。
「うん。お前も、気をつけて帰れよ。風邪ひくなよ」
ゆかりは水たまりを避けながら軽やかな足取りで校門へと向かった。
小さな背中が校舎の角を曲がって見えなくなるまで水道場に一人立っていた。
雨上がりのアスファルトの匂いが、風に乗って運ばれてくる。
洋平は右手をそっと自分の顔の近くへ持っていった。
深く、息を吸い込む。
土と泥と汗に満ちた自分の匂いに混じって、ゆかりが残した柑橘系の香りが確かに指先に残っていた。
冷たい雨の感覚。
トタン屋根の響き。
自分の傷に触れた、彼女の指先の記憶。
洋平は、まだ少し熱を持っている右手をそっと握りしめた。
柑橘系の香りは、洋平がマウンドで孤独を感じるたびに鮮烈に蘇ることになる。
それが、どれほど深く自分の中に根を下ろしたのか、洋平自身も気づいていなかった。




