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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第1章 マウンドの土、体育館の風

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第3話 「音楽室のセレナーデと解けなかったリボンの結び目」

 放課後の校舎は、さまざまな音が入り混じっている。

 グラウンドからは野球部のバッティング音、体育館からはバスケットボールの弾む音が聞こえる。

 それらの音から少し離れた特別教室棟の三階は、静まり返っていた。


 音楽室の重い防音扉の向こうから、ピアノの旋律が漏れ出している。

 シューベルトの『セレナーデ』。

 ゆかりはグランドピアノの前に座り鍵盤の上に指を滑らせていた。

 西日が大きな窓から差し込み、空中に舞う埃を黄金色に染めている。

 光の帯の中で、白黒の鍵盤だけが冷たい光を放っている。


 ゆかりの指には、あちこちに白いテーピングが巻かれている。

 新体操のスティックとの摩擦でできたタコと、治りかけの擦り傷。

 その無骨な指先が、象牙色の鍵盤を押し込む。

 ポロン。

 静かな和音が響いた。

 ゆかりは幼い頃からこの曲が好きだった。

 派手な曲ではないけれど、静かな夜にぽつりぽつりと語りかけるようなメロディ。

 厳しい練習の前に、誰もいない音楽室でこの曲を弾くのが日課になっていた。

 テーピングで固められた指は滑らかには動かない。

 でも、自分の手から出る音が張り詰めた気持ちを少しだけ落ち着かせてくれる。

 最後の和音を響かせペダルからゆっくりと足を離す。

 音が空気の中に溶けて消えるのを待って、鍵盤から手を離した。


「すごいな、今の」

 突然、背後から声がした。

 振り返ると、音楽室の後ろのドアが半分ほど開いていて、二人の人影が見えた。

 泥だらけの野球部ユニフォームを着た屈強な体格の浩一と、右肩にアイシングを巻いた洋平だ。

 あの交差点で、冷え切った腕を掴んでくれた洋平だった。

 二人は、ワックスがけされた音楽室には似つかわしくない、土の匂いを漂わせて立っている。


「勝手に入ってごめん。廊下歩いてたら、音が聞こえたから」

 浩一が笑いながら音楽室に入ってくる。

 洋平もその後ろに続いていた。

「あ・・いえ、大丈夫です」

 ゆかりは慌ててピアノの椅子から立ち上がった。

「ピアノ弾けるなんて知らなかったな。宮下、だっけ。新体操部の」

 浩一はピアノのすぐ横まで近づき、鍵盤の内部を覗き込んだ。

「はい。でも、全然上手じゃないです。昔、少し習っていただけで」

「いや、上手かったよ! プロ野球の始球式みたいな緊張感があった」

 浩一の独特な例えに、後ろにいた洋平が思わず吹き出す。

「お前、なんでも野球で例えるのやめろよ。伝わらないだろ」

「なんだよ、伝わるだろ? ピシッとしてるっていうかさ」


 浩一は言い返すと、鍵盤の上に自分の右手を無造作に乗せた。

 ジャァァン、と不協和音が音楽室に響き渡る。

「うわっ」

 浩一は自分で出した大きな音に驚いて手を引っ込めた。

「浩一、お前の手はキャッチャーミットみたいに分厚いんだから、ピアノに向いてないって」

 洋平が呆れたように言う。

 ゆかりも、思わずくすりと笑ってしまった。

 さっきまでの静寂が嘘のように、室内の空気が明るくなった。


「宮下、これどうやって弾くの? ドレミくらいなら俺にも弾けるかな」

 浩一が真剣な顔で聞いてくる。

「ええと・・」

 ゆかりは浩一の隣に立ち、鍵盤の真ん中あたりにある『ド』の位置を指差した。

「ここがドです。親指から順番に、一つずつ右の鍵盤を押してみてください」

「おう。親指、人差し指・・」

 浩一は言われた通りに指を動かそうとしたが、指が太すぎてどうしても隣の鍵盤まで一緒に押してしまう。

 何度やっても、ドとレが混ざった濁った音しか鳴らない。

「あー、なんで一つだけ押せないんだよ」

 浩一がムキになって何度も鍵盤を叩く。

「指を少し丸めて立てて、指先の柔らかいところだけで押すとうまくいきますよ」

 ゆかりが手本を見せた。


 洋平はピアノから少し離れた窓際に寄りかかりそのやり取りを眺めていた。

 浩一の不器用な手と、それを教えるゆかりの手。

 洋平の視線は、自然とゆかりの手元に向けられていた。

 テーピングだらけの指。

 擦り切れた皮膚。

 交差点で一瞬だけ触れた、あの冷たい手。

 今は、窓からの西日を浴びている。

 浩一の冗談に笑い声を上げる横顔は普通の高校生に見えるけれど、その指先に刻まれた無傷の少ない皮膚だけが過酷な練習を物語っていた。


 浩一が「ドレミファソ」を弾き終え、「おっしゃ!」と声を上げた時、遠くで新体操部の集合を知らせるホイッスルが鳴った。

「あ、行かなきゃ」

 ゆかりは慌ててピアノの蓋を閉める。

「引き止めてごめん。練習、頑張れよ」

 浩一が笑って手を上げた。

「はい。お二人も」

 ゆかりは軽く頭を下げて音楽室を出た。

 すれ違いざま、洋平と一瞬だけ視線が交差した。

 洋平は何も言わず小さく頷いた。


 一時間後。

 体育館は、張り詰めた空気に包まれていた。

 秋の県大会に向けた通し練習。

 ゆかりはフロアの中央で、六メートルの赤いリボンを回していた。

 ピアノを弾いていた時とは違う速く力強い動き。

 ステップを踏み、跳躍し、リボンを空中に描く。

 笑顔はない。


 中盤の投げ技の直後だった。

 空中に高く放り投げたリボンをキャッチした瞬間手元に違和感があった。

 布地が空中で絡み合い、スティックのすぐ近くに固い結び目を作ってしまっていた。

 新体操ではリボンの結び目は減点対象になる。

 すぐに解かなければ・・。

 ゆかりは指先で結び目を解こうとした。

 けれど、滑り止めのロジンと汗で滑りが悪くなった指ではうまく掴めない。

 焦れば焦るほど力が入り結び目はさらに小さく締まっていく。


「宮下! 何やってるの!」

 コーチの声が体育館に響いた。

「すみません!」

 ゆかりはフロアを離れ壁際の自分の荷物のところまで走った。

 結び目は指先ではどうにもならないほど固く締まっている。

 このままでは練習にも使えない。

 ゆかりはバッグの底からテーピングを切る小さなハサミを取り出した。

 切るしかない。

 ほんの少し短くなってしまうけれど使えないよりはマシ。

 ハサミの刃を広げ赤い結び目に当てようとした。


 その時。

「切ったら、長さが変わるんじゃないのか」

 頭上から声がした。

 顔を上げると、洋平が立っていた。

 部活を終えて制服に着替え、エナメルバッグを肩にかけた姿で見下ろしている。

「・・解けないんです。固くなりすぎて」

 ゆかりはハサミを握りしめたまま答えた。


 洋平は何も言わずにゆかりの手からハサミを取り上げた。

 そして、もう片方の手で絡まった赤いリボンを掴む。

 洋平は、壁に背中を預けるようにしてその場に座り込み、リボンの結び目を目の高さまで持ち上げた。

 大きくて、マメだらけの手。

 指先の動きは驚くほど繊細だった。

 ボールの縫い目のわずかな高さをミリ単位で感じ取る投手の指先だ。

 洋平は爪の先を器用に使いながら固く締まった結び目の隙間を少しずつ広げていく。

 無理に引っ張ったりはしない。

 布地を傷つけないよう、息を潜めて細かな作業を続けた。

 体育館の喧騒が少し遠ざかっていくような気がした。


 不器用に見える大きな手が、丁寧に結び目を解いていく。

 ボールを投げるための太い指で一筋の赤い布をやさしく解きほぐす。

 三分ほど経った。

 赤い布が元の一本の帯に戻った。

 洋平は小さく息を吐きリボンを差し出した。

「ハサミで切るのも手だけどさ」

 洋平は言った。

「時間をかけて丁寧に解けば、また使えるだろ」


 ゆかりはリボンを両手で受け取った。

 洋平の体温が、赤い布に微かに残っている気がした。

「ありがとうございます!」

 洋平は「じゃあな」と言い出口へと歩いていった。

 ゆかりは、洋平の背中が見えなくなるまでリボンをぎゅっと握りしめていた。

 自分の中にあった頑なな気持ちが少しだけ解けていくような気がした。

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