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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第1章 マウンドの土、体育館の風

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第2話 「バッテリーの呼吸と嘘のつけない手」

 ブルペンの土は、内野の土よりも少しだけ赤みが強く、そして硬い。

 午後四時半。 西日がグラウンドの防球ネット越しに差し込み、赤茶けた土の上に長く影を落としていた。


 洋平はスパイクの裏でマウンドの土を軽く均し、右足でプレートの感触を確かめた。

 硬く踏み固められた土が、金属製の歯をしっかりと受け止める。

 首を回すと、骨が小さく鳴った。

 右肩から指先にかけて、じんわりとした熱が通っている。

 十分なストレッチと遠投を終え、筋肉の準備はできている。


 真新しい硬式球を右手で包み込む。

 白い革の匂いと、少し湿り気を帯びた土の匂い。

 ここは、洋平にとって一番落ち着く場所だった。

 ホームベースの向こうで、浩一がキャッチャーマスクを被った。

 プロテクターがこすれ、鈍い音がする。

 浩一は大きく脚を開いてしゃがみ込み、ミットを構えた。

 長年使い込まれて革がすっかり黒ずんだキャッチャーミット。

 浩一の父親が、中学時代に無理をして買ってくれたオーダーメイドのミットだ。

 その中心が、無数のボールを受け止めてきた証として白く色を失っている。

 そこが、洋平の標的だった。


 浩一は何も言わない。

 ただ、ミットを構えたままじっとこちらを見ている。

 マスクの奥の目は、普段のふざけた調子とは違い、冷たく鋭い。

 大きく息を吸い込む。

 肺の奥まで空気を入れ、そしてゆっくりと吐き出す。

 セットポジション。

 周りの音が、自然と遠ざかっていく。

 離れたグラウンドのサッカー部の声も、校舎から聞こえる吹奏楽部の音も、すべてが遠くに消えていく。

 残るのは、自分の心臓の鼓動と、目の前のミットだけだ。

 左足を高く上げる。

 体重を右足のプレートに集中させ、一気に前方へ解放する。

 腰を回し、胸を張り、右腕をしなるように回す。

 人差し指と中指の腹で、ボールの縫い目を強く握る。

 指先からボールが離れる瞬間「いける」という手応えがあった。

 白球は空気を切り裂きミットの中心に寸分違わず吸い込まれる。

 パンッ。

 乾いた、破裂音のような快音がブルペンに響き渡った。

 ミットの中でボールが僅かに土埃を上げる。


 浩一はミットを動かさず、数秒間その余韻を確かめるようにして立ち上がった。

「ナイスボール」

 声は低く淡々としている。

 浩一は軽くスナップを効かせてボールを投げ返してきた。

 洋平の胸元に、正確にボールが収まる。


 再びセットポジションに入る。

 今度はアウトコース低め。

 浩一のミットが、地面すれすれの位置に構えられる。

 投球動作からリリースへ。

 パンッ。

 先ほどよりも少しだけ低い、重い音が響く。

「いいぞ。その感覚、忘れんな」

 浩一の声が響く。

 それから三十球。

 直球だけを、コースを変えながらひたすら投げ込んだ。

 汗が額から流れ落ち、顎を伝って土に落ちる。

 右手の指先は、縫い目との摩擦で赤く腫れ始めていた。

 自分の思い描いた軌道で狙い通りにミットへ収まる感覚がある。


 三十一球目。

 浩一は、インコース高めにミットを構えた。

 最も球威が求められバッターをのけぞらせるコース。

 少しでも甘くなれば長打を打たれ、厳しすぎればデッドボールになる危険な領域。

 洋平は息を整え、左足を上げた。

 その瞬間。

 昨日の夕暮れ、あの交差点でのことが頭をよぎった。

 重力に引かれて倒れそうになった小さな身体。

 咄嗟に掴んだ、細くて硬い腕。

 氷のように冷え切っていたあの指先の感触・・。


 わずかな迷い。

 体重移動がコンマ数秒だけ遅れた。

 右腕が振られ指先からボールが離れる。

「外した」という嫌な感触があった。

 ボールは指先からすっぽ抜けインコース高めを大きく外れた。

 浩一は素早く立ち上がりミットを伸ばしてボールを掴み取った。

 ボフッ。

 鈍く、濁った音がした。

 ブルペンに静寂が落ちた。

 浩一はマスクを上にずらし洋平を見た。

 怒っているわけではない。

 探るような目だった。

 浩一はボールを持ったままマウンドに歩み寄ってくる。


「どうした」

 低い声で聞いた。

「ちょっと、指から抜けちゃった」

 洋平は自分の指先を見つめながら答えた。

「抜けちゃった、じゃないだろ」

 浩一は洋平の目の前で立ち止まりボールを軽く上に放り投げた。

「お前の球は、スピードガンで測っても大した数字は出ない。でも、打席に立つと球が消える錯覚を起こす。それは、お前が指先の感覚だけで、限界までボールに強烈なスピンをかけてるからだ」

 浩一は言葉を切り、洋平の目を見た。

「スピンをかけるには、迷いがあったらダメなんだよ。少しでも迷った瞬間に、指の引っかかりが甘くなる。一ミリのズレが、ホームベース上では数十センチのズレになる」 「・・」

「さっき、ミットに入る前に音が濁った。いつもの音じゃなかった。お前、何か別のこと考えてただろ」

 図星だった。

 浩一には隠し事ができない。

 マウンドとホームベース、十八・四四メートルの距離があっても、浩一はボールの回転とミットの音だけで、洋平の心理状態を読み取ってしまう。


「別のことって・・別になんも考えてないよ」

 洋平は笑ってみせたが、浩一の目は笑っていなかった。

「嘘つけ。お前の球には迷いが出ると音が濁る。嘘がつけないんだよ、お前は」

 浩一は呆れたように息を吐き、ボールを洋平の胸元に押し付けた。

「悪い」

「謝んな。俺はお前の球を受けるためにここにいるんだ。迷いがあるなら、全部ミットに投げ込め。俺が音で修正してやるから」

 浩一はそう言ってホームベースへと歩いていった。

 その後ろ姿を見つめながら洋平はボールを強く握りしめた。


 嘘がつけない手。

 確かに、その通りかもしれない。

 マウンドの上では、ごまかしがきかない。

 隠そうとしても、ボールの軌道やミットの音が自分の迷いをそのまま映し出してしまう。

 再びセットポジションに入る。

 雑念を払い落とすように、深く息を吐き出した。

 浩一のミットが再びインコース高めに構えられる。

 左足を上げ、今度は一切の迷いなく腕を振り抜いた。

 パンッ!

 ブルペンに、今日一番の澄んだ破裂音が響き渡った。

「ナイス!」

 マスクの奥で、浩一が少しだけ笑った気がした。


 練習後。

 すっかり日が落ち、グラウンドにはナイター照明が点灯していた。

 他の部員たちはすでに部室に戻り、ブルペンには洋平と浩一の二人だけが残っている。

 洋平はトンボを持ち、マウンドの土を丁寧に均していた。

 スパイクで掘られた穴に柔らかい土を埋め、平らにならしていく。

 ザッ、ザッという単調な音だけが、静かなブルペンに響いている。

 均し終えたあと、ホースを引いて水を撒いた。

 乾いた土が水を吸い込み、独特の湿った匂いが立ち上る。


 浩一はベンチに座り、プロテクターを外してスポーツドリンクを飲んでいた。

「今日の調子なら、週末の練習試合は完投いけるな」

 ペットボトルを置きながら言う。

「どうだろうな。マメ次第だ」

 洋平はホースの水を止めながら答えた。

「お前のマメ、もうタコみたいになってるから大丈夫だろ。皮が厚すぎて、感覚鈍ってんじゃないのか」

「鈍ってたら、あんなスピンかけられないだろ」

 洋平は苦笑いしながらトンボをフェンスに立てかけ、浩一の隣に腰を下ろした。

 冷えたスポーツドリンクを一口飲む。

 甘さと冷たさが、疲れた体に染み渡っていく。


「なあ、洋平」

 浩一が夜空を見上げながら口を開いた。

「ん?」

「お前、卒業したらどうするんだ?」

 その質問に、洋平はペットボトルを持った手を止めた。

 卒業後の進路。

 引退を数ヶ月後に控えた三年生にとって避けて通れない現実だった。

「どうするって・・親父の工場、継ぐに決まってんだろ」

 洋平は淡々と答えた。

 坂口鉄工所。

 それが、自分が帰るべき場所であり生きるべき場所。

 小さな頃からそう決められていた。

 油にまみれ火花を散らしながら鉄を加工する父の背中をずっと見て育ってきた。


「そうか。お前なら、大学でも野球続けられると思うけどな」

「無理だろ。俺の球、このミット以外じゃ捕れないだろ」

 洋平は浩一の足元に転がっているミットを指差して笑った。

「違いねえ」

 浩一も笑って、ミットを自分の膝の上に乗せた。

「でもさ」

 浩一はミットの黒ずんだ革を撫でながら少し真面目な声になった。

「お前のその手、鉄を打つための手には見えないんだよな」

「どういう意味だよ」

「なんとなくさ。泥だらけで不格好だけど、何か別のものを守るための手に見える」

 浩一はそれだけ言うと立ち上がってベンチの上の荷物をまとめた。

「ほら、帰るぞ。また明日な」

 浩一は背を向け、グラウンドを後にしていく。


 洋平はベンチに一人残され、自分の右手を見つめた。

 泥とロジンで汚れ、マメが潰れて血が滲んでいる手。

 鉄を打つ手ではない。

 別のものを守る手。

 浩一の言葉が、耳の奥に残る。

 あの氷のような冷たさを思い出した。

 自分の手の中にすっぽりと収まってしまった、あの細い腕。

 あの冷たさだけが記憶になって今も指先にへばりついている。


 洋平は右手をゆっくりと握りしめ、そして開いた。

 関節が鈍く痛む。

 嘘がつけない手。

 ブルペンの土の匂いが風に乗って鼻をくすぐった。

 ナイター照明がパチンという音とともに消え、グラウンドは深い夜の闇に包まれた。

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