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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第1章 マウンドの土、体育館の風

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第1話 「坂道の交差点とチョークの粉」

 交差点は、千光寺へと続く裏道の途中にあった。

 石畳が十字に交わっている。

 角には古びた小さな地蔵が建っている。

 長い年月を経て石の輪郭が丸くなった地蔵は、赤い前掛けをして、夕暮れの影の中に静かに佇んでいた。


 観光客はめったに通らない。

 地元の人間の生活道路だ。

 急な斜面を縫うように作られた細い路地は、人がすれ違うのがやっとの幅しかない場所も多い。

 道の両側には、板張りの古い塀や、苔の生えたコンクリートの擁壁が迫っている。

 洋平は、右肩に大きなアイシングを巻き、左手で重いエナメルバッグを支えながら、その坂を下ってきた。

 ゆかりは、右手をジャージのポケットに深く突っ込み、疲労に耐えながら、同じ坂を上ってきた。


 二人は、十字路で同時に角を曲がろうとした。

 夕暮れの薄暗さと、古い土塀の死角。

 互いに、自分の抱える疲労と手の痛みに気を取られていた。

 そのため、数メートル先に迫る互いの存在に気づくのが、ほんの一瞬だけ遅れた。

「あ」

 小さく声が漏れた。

 ゆかりの正面から、大きな影が迫ってくる。

 咄嗟に避けようとして、ゆかりの足が石畳の僅かな窪みに引っかかった。

 毎日の厳しい練習で疲労が限界まで蓄積した足首は、すでに踏ん張る力を失っていた。

 バランスを崩した。

 身体が傾く。

 重力が、容赦なく身体を固い石畳へと引きずり込もうとする。

 手をつこうとしたが、右手がジャージのポケットの中で布地に絡まって、うまく抜けない。

 固い地面が迫った。

 目を閉じた瞬間、強い力で右腕を掴まれた。


「っと、危ねえ」

 すぐ耳元で、低い声がした。

 地面に倒れていないことに気づき、ゆかりはゆっくりと目を開ける。

 目の前に、同じクラスの坂口洋平が立っていた。

 泥だらけの野球部のユニフォーム。

 胸元には赤茶けた土の染みがべったりと付いている。

 右肩には巨大な氷嚢がサランラップでぐるぐると巻き付けられている。

 洋平の左手が、ゆかりの右腕を強く掴んでいた。

 彼は咄嗟に左手のバッグを放り出し、空いた手で腕を掴んだ。

 石畳に落ちたエナメルバッグが、少し離れたところで鈍い音を立てた。

 中に入っていた金属製のスパイクが鳴る音が聞こえた。

 無意識の反射だった。

 マウンドで鋭いピッチャー返しに反応するのと同じ。

 理屈ではない、極限まで研ぎ澄まされた身体の動き。

 思考を挟まずに、身体が勝手に他者を助けるために動いていた。


「大丈夫か、宮下」

 洋平が聞いた。

 瞬きを数回繰り返し、ゆかりは状況を理解しようとした。

 腕を掴まれている。

 その力が、ひどく強い。

 そして、何より・・熱い。

「は、はい。すみません」

 慌てて姿勢を立て直した。

 ポケットから手を抜き、ジャージの裾を整える。

「気をつけて」

 洋平は短く言い、ゆっくりと手を離した。

 その瞬間、二人の指先が微かに触れ合った。


 ゆかりの指は、氷のように冷え切っていた。

 極度の疲労と、きつく巻かれたテーピングによって血流が悪くなっていた。

 対照的に、洋平の手は燃えるように熱かった。

 激しい投球の余熱が、分厚い皮膚の下でまだ脈打っている。

 冷たい指先と、熱を帯びた手のひら。

 わずか一秒にも満たない接触だった。

 だが、その温度差は、互いの脳裏に確かな記憶として残った。


 洋平は、地面に落ちたバッグを拾い上げ、左肩に担ぎ直した。

 ふと、自分の左手を見る。

 今、触れた手。

 冷たくて、細くて、それでいて・・どこか、ひどく硬い感触がした。

 普通の女子高生の手ではなかった。

 教室で見る物静かな彼女からは想像もつかない、何かを削りながら戦っている人間の手の感触。

 その細い指先に刻まれた見えない傷の深さを、ボールの縫い目を感じ取る敏感な指先が確かに感じ取っていた。


 ゆかりもまた、自分の右手を見つめていた。

 掴まれた腕には、まだ強い熱が残っている。

 無骨で、硬く、マメだらけの手だった。

 ポケットに隠していた自分の手と同じ、いや、それ以上に過酷な時間を過ごしてきた証が深く刻まれた手。

 恥ずかしい隠すべきものだと思っていた自分の手を、一瞬でも肯定されたような気がした。

「あの」

 声が出た。

 坂を下りかけていた洋平が振り返る。

「ありがとうございました」

 頭を下げた。

「いや。暗いから、足元気をつけろよ」

 それだけ言い、再び坂を下っていった。


 ゆかりは背中が見えなくなるまで、交差点に立っていた。

 遠くで、再びフェリーの汽笛が鳴った。

 夕闇が、尾道の街を完全に包み込もうとしていた。

 右手を出し、ゆっくりと握りしめる。

 チョークの粉で白くなった指先に、確かに、彼のぬくもりが残っていた。


 その夜。

 坂口家の鉄工所は、すでにシャッターが下りていた。

 洋平は勝手口から家に入り、土間で泥だらけのスパイクを脱いだ。

 奥の台所からは、煮魚と味噌汁の匂いが漂ってくる。

 換気扇が低い音を立てて回っていた。

「遅かったな」

 茶の間で新聞を読んでいた父の健一が、眼鏡越しにこちらを見た。

 分厚く、筋張った手が新聞紙をめくる。

 その手には、長年染み付いた機械油の黒い汚れが残っていた。

「ちょっと投げすぎた」

 洋平は短く答え、冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出した。

 グラスに注ぐ時、右手の指先が微かに震えた。

 疲労が限界を超えると、いつもこうなる。

「氷、ちゃんと替えろよ。肩は商売道具だ。甲子園に行くためだけじゃない、この先の人生を支えるもんだからな」

「分かってる」

 洋平は麦茶を一気に飲み干し、二階の自分の部屋へと上がった。


 ベッドに仰向けに倒れ込み、天井の染みを見つめる。

 右肩のアイシングはもう完全に溶けきり、ただの生ぬるい水の袋になっていた。

 それを乱暴に外し、床に置く。

 右手を目の前にかざした。

 関節は太く、皮は厚く、ところどころに新しい血豆ができている。

 ふと、交差点で掴んだ、あの細くて硬い腕の感触が蘇った。

 氷のように冷たかった指先。

 いつも教室で物静かな宮下ゆかりが、自分と同じような、何かと戦い続けている人間の手をしていた。

 あのチョークの粉のような白い粉は、一体何だったのだろう。

 同じクラスとはいえ、今までほとんど話したこともなかった。

 だが、あの交差点でのわずかな接触は、洋平の胸の奥に、言葉にできない小さな引っ掛かりを残した。

 窓の外から、遠く波の音が聞こえるような気がした。


 同じ頃、宮下家。

 ゆかりは、狭い浴室でシャワーを浴びていた。

 熱いお湯が、疲労で強張った筋肉をゆっくりと解きほぐしていく。

 ボディソープをスポンジで泡立て、右腕を洗う。

 ふと、動きが止まった。

 洋平に掴まれた二の腕のあたりに手の跡がついているわけではない。

 だが、そこだけが周囲の皮膚よりも少しだけ温度が高いような気がした。

 あの、大きな熱い手。

 泥と汗の匂い。

 ぶっきらぼうだけど、どこか優しい坂口くんの声。


「お姉ちゃん、お風呂長いよ!」

 脱衣所の外から、妹の遥の声がした。

「ごめん、今出る!」

 ゆかりは慌ててシャワーを止め、バスタオルで身体を拭いた。

 パジャマに着替え、洗面所の鏡の前に立つ。

 ドライヤーで髪を乾かしながら、ふと、洗面台の横に置かれたハンドクリームに目が止まった。

 ドラッグストアで売っている、安価な柑橘系の香りのハンドクリーム。

 ゆかりはそれを手に取り、右手のひらにたっぷりと出した。

 硬くなったタコに、クリームを丁寧に刷り込んでいく。

 擦り切れた皮膚が、わずかにヒリヒリと痛む。

 普段なら、この手を見るたびにため息をつきたくなる。

 だが今夜は、少しだけ違った。

 いつも教室で遠くから見ていた野球部の彼の手は、自分の手よりもずっと無骨で、ずっと傷だらけだった。

 自分の手を、決して恥じることはないのだと、あの無言の接触が教えてくれたような気がした。

 ゆかりは両手を顔に近づけ、深く息を吸い込んだ。

 柑橘系の甘酸っぱい香りが、鼻腔を満たす。

 それは、過酷な練習の記憶を少しだけ和らげ、明日への微かな活力を与えてくれる匂いだった。


 部屋に戻ると、遥がベッドの上で新体操の雑誌をめくっていた。

「お姉ちゃん、今日の練習どうだった?」

「うん、まあまあかな」

 ゆかりは微笑みながら答え、自分のベッドに腰掛けた。

「秋の大会、絶対見に行くからね。リボン、一番綺麗に回せるのはお姉ちゃんだよ」

「ありがとう、遥」


 窓の向こう、尾道の夜景が広がっている。

 斜面に散りばめられた無数の家の灯りが、まるで星空のように瞬いていた。

 あの坂道のどこかで、彼もまた、この夜空を見上げているだろうか。

 ゆかりは部屋の電気を消し、静かに目を閉じた。

 右手のひらに残る微かな熱をしばらく感じていた。

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