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あの坂道で重ねた掌 〜マウンドで夢を絶たれた泥だらけの指先と、宙を舞う赤いリボン。嘘がつけない不器用な二人の、美しくて残酷な青春と恋の記憶〜  作者: かーすけ
第1章 マウンドの土、体育館の風

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プロローグ 「夕暮れの尾道」

 硬式球の縫い目は、思っているよりも鋭い。

 洋平は、右手の第一関節から第二関節にかけての皮膚を見た。

 硬く分厚くなっている。

 その奥には常に微かな熱がある。

 百球、二百球と投げるうちに、赤い糸は指先の皮を削っていく。

 投げるたびに、ボールと指先の間に摩擦が生じる。


 洋平はグラウンドの隅にある手洗い場の前に立った。

 蛇口を捻る。

 水が弾け出た。

 冷たい水を右手に当てる。

 赤茶けた土と泥で汚れた排水溝には、誰かが落とした短い靴紐が引っかかっていた。

 水は手を冷やしていくが、芯にある熱までは奪わない。

 水滴が指先から落ちる。


 今日の投球練習を思い出した。

 ストレートの軌道。

 スライダーの曲がり幅。

 チェンジアップの抜け。

 指先の感覚ひとつで、ボールの軌道は変わる。

 縫い目に指をかける。

 人差し指と中指の腹で、革の感触を確かめる。

 縫い目の高さや革の滑り具合は、毎日違う。


 夕暮れの尾道。

 瀬戸内海から風が吹く。

 遠くでフェリーの汽笛が鳴った。

 低く重い音が、グラウンドの防球ネットを抜けて届いた。


「アイシング、ちゃんと巻けよ」背後から声がした。

 浩一だった。

 キャッチャーミットを小脇に抱え、スポーツドリンクのペットボトルを持っている。

 スパイクの裏の金具がコンクリートを削る音がした。

「巻いてるよ」

 洋平は水道を止めた。

 右肩から二の腕にかけて、サランラップと氷嚢を巻いている。

 氷が溶け出し、水滴がユニフォームの袖を濡らしている。

 冷たさはすでに感覚を麻痺させていた。

「今日の最後の十球、指にかかりすぎてた。ミットの紐が切れるかと思った」

 浩一は隣に立ち、顔を洗った。

 冷たい水をすくい上げ、顔に浴びせている。

 水しぶきが洋平の腕に飛んだ。

 浩一はタオルで顔を拭きながら、ミットを撫でた。

「ミットが安物なんだろ」と洋平は言った。

「親父に買ってもらったオーダーメイドだ。お前の球がおかしいんだ」


 他愛のない会話。

 毎日繰り返されるやり取り。

 グラウンドの土の匂い。

 汗と制汗スプレーの混ざった匂い。

 浩一のミットは、投げる球をすべて受け止めてきた。

 迷いがある時は音が濁る。

 力が入りすぎている時は、高い音が鳴る。

 浩一は、音だけで洋平の状態を見抜く。


「じゃ、先帰るわ。明日も朝練な」

「おう」

 浩一がグラウンドを去った。

 洋平はエナメルバッグを左肩に担いだ。

 右肩はアイシングで固定されているため、少し歩きにくい。

 バッグの中には泥だらけのスパイクと、予備のグローブ、空の弁当箱が入っている。

 マウンドに向かって一礼し、学校の門を出た。


 尾道の街は、坂と階段でできている。

 学校から実家の鉄工所までは、細く入り組んだ坂道を下っていくルートが最短だった。

 石畳の道は、丸く削られ、ところどころに緑色の苔がある。

 夕陽が、瀬戸内の海を照らし始めていた。

 光は坂道の家々の屋根を照らし、長く伸びた影を石畳に落としている。

 路地の奥から、夕飯の匂いがした。

 カレーの匂い、魚を焼く匂い。

 どこかの家で点けられたテレビの音声が聞こえてくる。

 バラエティ番組の笑い声。


 自分の影を踏むようにして、ゆっくりと坂を下り始めた。

 右手の指先を、親指で擦る。

 マメが潰れ、薄い皮が一枚めくれた下には、赤い肉が見える。

 痛い。

 この痛みは、今日マウンドに立っていたという証明だった。

 空には、うろこ雲が広がっていた。

 明日も晴れるだろう。

 洋平は黙々と、石段を一段ずつ下りていった。


 左手でバッグの紐を握り直す。

 右肩の氷嚢が、歩くたびにカサカサと鳴った。

 坂の中腹にある自動販売機の前を通り過ぎる。

 釣銭切れの赤いランプが点滅している。

 遠くで野良猫が鳴いた。

 洋平は歩き続けた。

 鉄工所の匂いが、少しずつ近づいてくる。

 鉄の削りかすと、油の匂い。

 親父はまだ働いているはずだ。

 帰ったら、右手のアイシングを外して、風呂に入る。

 夕飯を食べて、素振りをして寝る。

 ありふれた一日が終わろうとしていた。


 体育館の床は、ワックスと汗の匂いがした。

 キュッ、キュッというゴム底のシューズの音が響く。

 天井の水銀灯がジージーと鳴っている。

 ゆかりは、赤いリボンを空中に放り投げた。

 手首の動きだけで、リボンは空中で螺旋を描く。

 新体操。

 流れるようなステップ、跳躍、指先からつま先までのシルエット。

 右手のひら、中指と薬指の付け根には、タコができている。

 スティックを握り、回し、弾く。

 その反復が、硬い角質を作っていた。

 タコの周りの皮膚は乾燥し、擦り切れ、白い粉を吹いている。

 テーピングを巻き直すたびに、皮膚が引っ張られて痛みが走る。

 リボンが床に落ちる直前、つま先を伸ばし、背中を反らせてスティックをキャッチした。

 動きが止まる。


「はい、そこまで」コーチの声がした。

 姿勢を崩し、息を吐く。

 胸が上下し、額から流れた汗が目に入る。

 足の裏には、フロアの硬い感触がある。

「最後のキャッチ、少し右肩が下がっている。完璧な円を描きなさい」

「はい。すみません」

 リボンを巻き取りながら、ゆかりは頭を下げた。

 〇・一秒の遅れ、数ミリのズレも許されない。

 笑顔の裏で筋肉は張り詰め、衣装の下には青あざがある。

 関節は常に痛み、柔軟性を維持するためのストレッチは痛みを伴う。


「今日はこれで終わり。明日は通し練習だから、しっかりケアしておくこと」

 コーチが体育館を出ていった。

 部員たちが床に座り込む。

 壁際の荷物の前に行き、タオルで顔を拭く。

 右手の指先が、ジンジンと痛む。

 滑り止めのロジンが、手のひらのシワに入り込んでいる。

 スポーツドリンクを飲み干し、着替えを済ませた。

 更衣室で、鏡に映る自分の顔を見た。

 疲れている。

 目の下には薄くクマがある。

 髪が汗で額に張り付いている。

 秋の県大会。それが、このメンバーで戦う最後の試合になるかもしれない。


 バッグにリボンとクラブを入れ、ファスナーを閉めた。

 重い。

 更衣室を出た。

 学校の門を出ると、日は落ちかけていた。

 空は紫とオレンジが混ざっている。

 海からの風が吹く。

 家は尾道の斜面に建つ古い民家だ。

 通学路は、狭い路地と急な階段の連続だった。


 足を引きずるようにして、坂道を上り始めた。

 歩きながら、右手を見た。

 白い粉が残っている。

 洗面所で洗ったが、皮膚の隙間に入り込んだ粉は落ちていない。

 テーピングの跡が赤く腫れ、タコは硬い。

 ふと、自分の手が気になった。

 雑誌に載っている同年代の女の子たちの手は、白くて、細くて、綺麗なマニキュアが塗られている。

 自分の手は傷だらけで、ゴツゴツしていて、湿布やテーピングの匂いがする。

 新体操には、完璧な美しさが求められる。

 だが、手は美しくなかった。

 それが、コンプレックスだった。

 誰にも言えない。

「名誉の負傷だ」と言われるだけだ。


 右手をジャージのポケットに入れ、うつむき加減で坂道を上った。

 カラスが鳴いた。

 街灯が点灯し始める。

 尾道の街が、夜の顔に変わっていく。

 坂道に連なる家々の窓から、光がこぼれている。

 早く帰って、お風呂に入りたい。

 ゆかりは足取りを進めた。


 尾道の街には、無数の坂道がある。

 泥だらけの野球部の少年も、純白の衣装で踊る新体操部の少女も、それぞれの痛みと情熱を抱えながら、毎日同じ街のどこかの坂を上り下りしている。

 すり減った指先、血豆の潰れた掌。

 誰にも言えない秘密のコンプレックスをポケットの中に隠したまま、二人の軌跡はまだ、交わることなく平行線を辿っていた。

 夕暮れの尾道の空は、静かに夜の帳を下ろそうとしている。

 遠くで鳴るフェリーの汽笛だけが、微かなため息のように暮れゆく街の細い路地へとゆっくりと溶けていった。

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