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19上高地でおやきを食す(8)

 カナコたちの部屋は二階だ。

 少々急な階段をゆっくり上り、一階と同じように美しく磨かれた廊下を進んで部屋の前に来た。


「どんなお部屋か楽しみ」


「俺もどういう部屋なのかは知らないから、ワクワクするよ」


 凪沙が引き戸の鍵を開け、ひらく。

 中に入り、小上がりを上がって襖を引くと……、二面採光の和室が現れた。外は紅葉が残る木々、そして連なる山が見える。


「素敵ね……!」


「いい部屋だ。眺めも最高」


 荷物を置いて部屋を見回った。

 八畳間には座卓と座布団。続きの六畳間が寝室だろう。どこも清潔で必要十分だ。高い天井は黒い梁が剥き出しになっていて、いい雰囲気だった。


「とりあえず風呂に行こうか。宿泊客は家族風呂も使えるらしいから、そこに入ろう」


「う、うん」


 家族風呂ということは、当然一緒に入るということで……。


「もしかしてカナコ、まだ恥ずかしいの?」


「……まだ、恥ずかしいよ」


 顔を覗き込まれてうつむくと、熱くなった頬に凪沙が触れた。


「カナコ、可愛い。こっち向いて」


「……」


 優しく顔を上げさせられて、凪沙の視線とつながる。彼はカナコの顔を見て目を細めた。


「ほんとだ、真っ赤になってる」


「からかわないで」


「ごめん、可愛いからつい」


 笑った凪沙の顔が近づき、チュッとキスをされる。目を閉じる間もなかった。


「っ!」


「もっと赤くなっちゃった」


「も、もう……」


 嬉しそうに笑う凪沙に、ぎゅっと抱きしめられた。彼の体温が伝わり、一瞬で幸せな気持ちになる。


「浴衣に着替えて行こう」


「うん」


 凪沙に手を取られて、クローゼットの前に行く。浴衣を取りだしてくれる彼を見つめながら、あんなにも不安になっていた気持ちはすっかりなくなっていることに、心から安堵した。



 母屋から外廊下に出る。そこから狭い階段を降りていき、家族風呂に到着した。だいぶ暗くなってきたが、灯籠が点々と置かれていたため、歩くのに不自由はない。

 入り口は五ヶ所に別れており、それぞれの風呂場は離れている。どこも使われておらず、カナコたちは一番奥にある家族風呂を選んだ。

 少々建てつけの悪いドアを開けて中に入る。


「なんか、川の音すごくない?」


 ドアの鍵を閉めた凪紗が、興奮気味に言った。

 せせらぎというよりも、急流を思わせる川の音が耳に届いているのだ。


「ということは、川を見ながらお風呂……よね?」


「どれくらい近いんだろう。楽しみだな」


 浴衣の上に羽織っていた薄手の半纏を脱ぐ。

 今朝、上高地に着いた時も結構な冷え込みだったので、このあたりもそうなのだろう。半纏が用意されていたのはありがたかった。


「ちょっと寒いけど……、カナコ大丈夫?」


「うん、全然平気」


「じゃあ俺、先に入ってるよ。お先に」


 カナコが振り向く間もなく、凪沙はさっさと浴場へ行ってしまった。


「えっ、はやっ……。あ、そうか」


 恥ずかしいと言っていたカナコに気を遣わせないよう、ひとりにしてくれたのだろう。


「もう~……、そういうところも大好き……!」


 帯をほどきながら、カナコはこぼれる笑みと幸せを噛みしめた。


 身に着けているものはすべて脱ぎ、タオルを手にガラス戸を開ける。内湯はなく、いきなり外の洗い場と露天風呂が現れたのだが……。

 

「わ、わ〜〜っ!! えええ!!」


 目の前の光景に、思わず声を上げる。

 川がすぐそばにあり、温泉との境目はかろうじて岩で囲ってあるくらいだったのだ。


「すごい迫力ね……!」


「すごいよな! 俺も叫んじゃった」


 湯船に浸かっている凪沙は、笑いながら手招きした。


「カナコもおいで。あったかいよ」


「うん」


 サッとお湯で体を流してから数段降りて、露天風呂に足先を入れる。

 すぐそばで冷たい川が流れているのに、温かいお湯に入っているのが不思議な感じだった。


 露天風呂自体も広く、優に五、六人は入れそうだ。

 湯船の部分から川のほうまで竹製の柵があるので、他の家族風呂から見えないようになっている。


 お湯に体を沈めながら、凪沙のそばに座った。

 湯船と川の水面が同じ高さという初めての体験に目をしばたたかせていると、凪沙がぼそりと言った。


「もうこれ……川の一部だよな」


「ほんとね。どこらへんまで温かいんだろう?」


「ぎりぎりまで行ってみようか」


「うん」


 お湯の中でしゃがみながら、ふたりでそろそろと川のほうへ近づいていく。


 川と露天風呂の岩で出来た仕切り。その向こうへ手を伸ばしてみる。


「川に手が届く~!」


 カナコがはしゃぐと、凪沙も笑って見ずに手を入れた。


「と言っても、全然ぬるくもないな。……ぬるかったら困るか」


「下からお湯が沸いてるから、それが川のほうまで続いてるんだろうね」


 足元から絶え間なく、ぷくぷくと小さな泡が上っている。


 湯船のきわから少しだけ乗り出してみると、岩だらけの川上と急流が、暗がりの中でかすかに見えた。川の大きな音は、そこから聞こえてくるものだったのだ。

 もうだいぶ暗いので奥までは見えないが、明日の朝また来てみれば良い景色を楽しめそうだ。


 カナコは再び肩まで湯に浸かりながら、川と温泉を見比べた。


「このあたりの川は本当に綺麗なブルーなのね。上高地もそうだった」


「川底に石灰を含んでいるから青くなるみたいだね。温泉は白濁がかかったブルーになってる」


「いいお湯ね」


「ああ。疲れが取れるよ。カナコも初上高地で疲れたんじゃない? 深夜バスだったんだし」


 凪沙に言われてみて、そんなことはすっかり忘れていた自分に気づく。


「ずいぶん前のことみたいに感じる……。今、こうして凪沙と露天風呂に入ってるなんて、昨夜、深夜バスに乗っていた私には想像もできなかったよ」


 カナコはしみじみと、ひとりごとのように呟いた。


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