19上高地でおやきを食す(7)
「な、なんだよ、笑うことないじゃん」
「ごめんね、なんか凪沙が可愛くて」
「俺は真剣なのに……」
口を尖らせる凪沙が、ますます可愛く、愛おしくなる。
「私は凪沙しか見えてないから大丈夫。でもめんどくさいことになるのは私もイヤだから、ぜーったいに日吉に気づかれないようにするね」
「うん、ぜーったいに頼むよ」
そんな話をしているうちに、バスターミナルに到着した。乗車チケットを購入し、乗り場の行列に並ぶ。
少し離れた場所にいる女子たちが、こちらを見つめて何かを言っている。
キャッキャしているので凪沙のことだろう。こういう視線にもだいぶ慣れた。
「あのさ」
凪沙の不機嫌な声に、カナコは凪沙を見上げた。なぜか不機嫌な表情をしている。
「どうしたの?」
「なんか……、カナコのことを見てる男が多くて気になる」
「……へ?」
「いちゃついて見せつけてやろうかな」
イライラな彼の声を聞きながら、カナコは否定した。
「ちょっと凪沙、それは盛大な勘違いだよ。凪沙が見られることはあっても、私はないって――」
「あるの。カナコは綺麗で可愛いんだから、自覚持って」
「う……」
大真面目に言う凪沙の顔が近づいてきて、思わず口をつぐむ。顔は炎が出ているではと思うほど熱い。
(絶対今の、周りの人に聞こえてた。恥ずかしいけど、嬉しいけど、どうしよう)
焦るカナコのことなど構わず、凪沙は「持たせて」と言って、カナコの荷物も持ってくれた。
バスに乗り、凪沙の車が置かれている駐車場前で降りた。
カナコたちの他にも多くの人がここで降り、それぞれ自分たちの車へ急ぐ。
「だいぶ日が陰ってきたな。寒くない?」
「うん、大丈夫」
天気雨が降った後はずっと晴れており、今も青空が美しい。彼が言うとおり秋の日は傾くのが早く、山間にいるとなおさらそう感じた。
凪沙と車に乗り込み、出発する。向かうのは彼が言っていた「秘湯」の宿だ。
「……本当に、SNSには出てこないのね」
助手席にいるカナコは、スマホを見ながらつぶやいた。
その宿はテレビや雑誌はもちろんのこと、SNSで紹介するのもNGらしい。
「宿側が外観を載せるのも拒否しててさ。十年以上前のブログなんかだと写真が出てくるけど、それくらいしか情報がないんだよ。だからマジで『秘湯』なんだ」
「凪沙はどうやって知ったの?」
「会社の上司から聞いた。こっちにいる親戚に教えてもらって、行ってみたらすごく良かったんだって。不定休だから、今日営業してるかはわからないんだけどね」
「そういうのワクワクしちゃう」
「俺も」
凪沙の笑顔を見ると、さらにカナコの胸が躍る。
一時間ほど車を走らせ、国道から逸れた道を進んでいく。山の中はすでに薄暗くなっていた。
「着いた。……たぶん」
何もなさそうな場所で車を停車させ、凪沙がぽつりと言った。
「た、多分?」
「そこの小さい看板に『駐車場』って書いてあるから、たぶんそれだと思う」
確かに「駐車場奥入ル」という手作りの小さな看板が見えるが……。
「秘湯のことは何も書いてないみたいだけど……」
「位置的にはここで合ってるから、行ってみよう。何もなければすぐに車に戻ればいい」
「そうね」
駐車場と思われる場所に車を停めた。外に出ると、一層冷え込みが厳しくなっていた空気に、ふたりで震え上がる。
「足元気を付けて。薄暗い時が一番転びやすいから」
「ありがとう」
荷物を降ろした凪沙が、カナコの手を取る。
車も通らず、人っ子ひとりいない。上高地の賑やかさが懐かしく思えるほどに静かだ。
「そこの坂を下っていくんだよな? あ、あれが宿かな……?」
彼が指さす方に、大きな古民家が見える。
「本当だ。良かった、『たぶん』じゃなくて」
「ああ、たぶんじゃなかった。ホッとしたよ」
クスクスと笑いながら、小道の坂を下っていく。
木々が茂る林の間を抜けると、ふいに広い敷地に佇む古民家が現われた。
「素敵ね。あ、川の音が聞こえる……?」
「聞こえるね。近くを流れてるのか……。これは期待できるな」
足取り軽く、古民家へ近づいていく。
築何年ほど経っているのだろうか。
とても古そうだが手入れは行き届いており、清潔感がある建物だった。
「こんにちは~」
分厚い引き戸を開け、凪沙が大きな声で挨拶をした。
中に入ると広い吹き抜けの土間が出迎えてくれる。
受付らしい木製の大きな抽斗に置いてあるベルを鳴らすと、老齢の女性が奥から出て来て、にこやかに言った。
「いらっしゃいませ。おふたりさまですか?」
「はい。あの温泉だけじゃなくて宿泊もしたいんですが、空いてますか?」
凪沙の問いかけを聞いた女性は、後ろの棚から帳簿とペンを出した。
「ええ、空いてますよ。ここにね、お名前をお願いしますね」
「はい」
凪沙が記帳している間に、カナコはあたりを見回した。
広い廊下を挟んだ部屋は、何枚もの襖でこちらと仕切られている。上がり框だけでなく、柱も廊下も、よく磨かれて黒光りしていた。
天井からぶら下がるランプと、床に置いてある行灯が、レトロな雰囲気を醸し出している。
「お部屋はあっちになりますからね。これは鍵。今日のお客さんは、あなた方と、あと一組だけですよ」
「そうなんですか」
「どうぞ、ゆっくりしていってくださいね。お食事は六時から、そっちの一階ね。その前にお風呂でくつろいでくださいな。家族風呂は予約なしで、鍵をかければいいのでね」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
凪沙の後に続いてカナコもお礼を言うと、女性はにっこり笑いかけ、また奥へ引っ込んでしまった。
ぎしぎしと軋む廊下を、凪沙とふたり、部屋に向かって進んでいく。




