表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
116/121

19上高地でおやきを食す(7)

「な、なんだよ、笑うことないじゃん」


「ごめんね、なんか凪沙が可愛くて」


「俺は真剣なのに……」


 口を尖らせる凪沙が、ますます可愛く、愛おしくなる。


「私は凪沙しか見えてないから大丈夫。でもめんどくさいことになるのは私もイヤだから、ぜーったいに日吉に気づかれないようにするね」


「うん、ぜーったいに頼むよ」


 そんな話をしているうちに、バスターミナルに到着した。乗車チケットを購入し、乗り場の行列に並ぶ。


 少し離れた場所にいる女子たちが、こちらを見つめて何かを言っている。

 キャッキャしているので凪沙のことだろう。こういう視線にもだいぶ慣れた。


「あのさ」


 凪沙の不機嫌な声に、カナコは凪沙を見上げた。なぜか不機嫌な表情をしている。


「どうしたの?」


「なんか……、カナコのことを見てる男が多くて気になる」


「……へ?」


「いちゃついて見せつけてやろうかな」


 イライラな彼の声を聞きながら、カナコは否定した。


「ちょっと凪沙、それは盛大な勘違いだよ。凪沙が見られることはあっても、私はないって――」


「あるの。カナコは綺麗で可愛いんだから、自覚持って」


「う……」


 大真面目に言う凪沙の顔が近づいてきて、思わず口をつぐむ。顔は炎が出ているではと思うほど熱い。


(絶対今の、周りの人に聞こえてた。恥ずかしいけど、嬉しいけど、どうしよう)


 焦るカナコのことなど構わず、凪沙は「持たせて」と言って、カナコの荷物も持ってくれた。


 バスに乗り、凪沙の車が置かれている駐車場前で降りた。

 カナコたちの他にも多くの人がここで降り、それぞれ自分たちの車へ急ぐ。


「だいぶ日が陰ってきたな。寒くない?」


「うん、大丈夫」


 天気雨が降った後はずっと晴れており、今も青空が美しい。彼が言うとおり秋の日は傾くのが早く、山間にいるとなおさらそう感じた。


 凪沙と車に乗り込み、出発する。向かうのは彼が言っていた「秘湯」の宿だ。


「……本当に、SNSには出てこないのね」


 助手席にいるカナコは、スマホを見ながらつぶやいた。

 その宿はテレビや雑誌はもちろんのこと、SNSで紹介するのもNGらしい。


「宿側が外観を載せるのも拒否しててさ。十年以上前のブログなんかだと写真が出てくるけど、それくらいしか情報がないんだよ。だからマジで『秘湯』なんだ」


「凪沙はどうやって知ったの?」


「会社の上司から聞いた。こっちにいる親戚に教えてもらって、行ってみたらすごく良かったんだって。不定休だから、今日営業してるかはわからないんだけどね」


「そういうのワクワクしちゃう」


「俺も」


 凪沙の笑顔を見ると、さらにカナコの胸が躍る。



 一時間ほど車を走らせ、国道から逸れた道を進んでいく。山の中はすでに薄暗くなっていた。


「着いた。……たぶん」


 何もなさそうな場所で車を停車させ、凪沙がぽつりと言った。


「た、多分?」


「そこの小さい看板に『駐車場』って書いてあるから、たぶんそれだと思う」


 確かに「駐車場奥入ル」という手作りの小さな看板が見えるが……。


「秘湯のことは何も書いてないみたいだけど……」


「位置的にはここで合ってるから、行ってみよう。何もなければすぐに車に戻ればいい」


「そうね」


 駐車場と思われる場所に車を停めた。外に出ると、一層冷え込みが厳しくなっていた空気に、ふたりで震え上がる。


「足元気を付けて。薄暗い時が一番転びやすいから」


「ありがとう」


 荷物を降ろした凪沙が、カナコの手を取る。

 車も通らず、人っ子ひとりいない。上高地の賑やかさが懐かしく思えるほどに静かだ。


「そこの坂を下っていくんだよな? あ、あれが宿かな……?」


 彼が指さす方に、大きな古民家が見える。


「本当だ。良かった、『たぶん』じゃなくて」


「ああ、たぶんじゃなかった。ホッとしたよ」


 クスクスと笑いながら、小道の坂を下っていく。

 木々が茂る林の間を抜けると、ふいに広い敷地に佇む古民家が現われた。


「素敵ね。あ、川の音が聞こえる……?」


「聞こえるね。近くを流れてるのか……。これは期待できるな」


 足取り軽く、古民家へ近づいていく。

 築何年ほど経っているのだろうか。

 とても古そうだが手入れは行き届いており、清潔感がある建物だった。


「こんにちは~」


 分厚い引き戸を開け、凪沙が大きな声で挨拶をした。

 中に入ると広い吹き抜けの土間が出迎えてくれる。


 受付らしい木製の大きな抽斗に置いてあるベルを鳴らすと、老齢の女性が奥から出て来て、にこやかに言った。


「いらっしゃいませ。おふたりさまですか?」


「はい。あの温泉だけじゃなくて宿泊もしたいんですが、空いてますか?」


 凪沙の問いかけを聞いた女性は、後ろの棚から帳簿とペンを出した。


「ええ、空いてますよ。ここにね、お名前をお願いしますね」


「はい」


 凪沙が記帳している間に、カナコはあたりを見回した。

 広い廊下を挟んだ部屋は、何枚もの襖でこちらと仕切られている。上がり框だけでなく、柱も廊下も、よく磨かれて黒光りしていた。

 天井からぶら下がるランプと、床に置いてある行灯が、レトロな雰囲気を醸し出している。


「お部屋はあっちになりますからね。これは鍵。今日のお客さんは、あなた方と、あと一組だけですよ」


「そうなんですか」


「どうぞ、ゆっくりしていってくださいね。お食事は六時から、そっちの一階ね。その前にお風呂でくつろいでくださいな。家族風呂は予約なしで、鍵をかければいいのでね」


「ありがとうございます」


「ありがとうございます」


 凪沙の後に続いてカナコもお礼を言うと、女性はにっこり笑いかけ、また奥へ引っ込んでしまった。


 ぎしぎしと軋む廊下を、凪沙とふたり、部屋に向かって進んでいく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ