19上高地でおやきを食す(6)
そこまでしてカナコに会いに来た凪沙が、それまで会わないと言った理由を確認がてら聞いてみる。
「凪沙が『ずーっと気にしてる』って言ってたのは、私が結婚なんて考えてないっていう発言のことで、いいの?」
「うん、そうだよ。あんまりはっきり言うから、俺、あの場でかなりショック受けた。ハヤトさんもそれ聞いて『まだチャンスがある』なんて煽るから、本気で落ち込んじゃって」
日吉が凪沙に「急に元気がなくなった」と言っていたのは、このことだったのだ。
「カナコの気持ちがどうあっても、自分の気持ちは変わらない。そういう覚悟を決めるために会わない時間が必要だったんだ」
「あの時は、ああ言うしかなかったの。私の本当の気持ちを聞いてくれる?」
「ああ、聞くよ」
ひとけが少ないところで凪沙が立ち止まり、カナコの手をしっかり握った。そして池を見つめる彼と同じように、カナコも水面を見つめる。
「私、凪沙と付き合うことになって本当に嬉しかったの。ずっと凪沙と一緒にいたい、この関係を大切にしたいって思ってた。でも……」
凪沙は黙ってカナコの話に耳を傾けている。
「だからって凪沙との結婚を望んじゃいけないって思い込んでたの。凪沙は私よりもずっと年下なんだから、それを強要しちゃいけない、もし結婚を匂わせたら……凪沙は逃げるだろうって」
「えっ」
「こうやって言葉にすると、凪沙に対してずいぶん失礼なことを思ってたんだなってわかる。……ごめんね」
凪沙がどう思うかではなく、自分が彼をどう思って向き合うべきなのか。まずそこを考えなくてはいけなかったのに。
「でもね、それだけ凪沙と離れたくなかったの。以前の私みたいに……、結婚のことばかり考える自分がいたら、イヤがられると思っ――!?」
「カナコ、俺は違うから」
ふいに強く抱きしめられ、耳元に届いた彼の言葉に涙がこみ上げてくる。
「うん……」
「俺はいい加減な気持ちでカナコと付きあったわけじゃない。だから安心して」
「ん……うん……、ありがとう……」
凪沙の優しい声に何回泣かされてしまうのだろう。
グスンと鼻を啜るカナコに頬ずりをしながら、凪沙がささやいた。
「……ということは、カナコも俺との結婚を想像してたってことで、いいんだよね?」
「えっ、それは……」
「正直に言って」
すぐそばにある彼の瞳に降参したカナコは、素直にうなずいた。
「……想像しました」
「嬉しい、ありがとうカナコ……!」
ぎゅぎゅうううっと抱きしめられて、カナコもその気持ちに応える。
幸せに浸るふたりを祝うように、秋空を飛んでいく鳥の鳴き声が降ってきた。
明神池を離れ、来た道を戻る。午後になったためか観光客の数は減ってきたようだ。
「上高地を出たらどこに行くの?」
「ちょっと行きたいところがあってさ。付き合ってもらってもいい?」
「もちろんよ。どういうところなの?」
カナコの問いかけに、凪沙がニヤリと笑った。
「秘湯」
「ひとう、ってお風呂の秘湯のこと?」
「あっ、カナコは朝風呂に入ったんだっけ?」
「入ったけど行ってみたい……!」
秘湯は体験したことがないので、ぜひ入ってみたい。
「じゃあ行こう。そこでメシも食えるんだけど、宿泊もできるらしいんだ。予約は取らないところだから、そこに行ってみるまで、部屋が空いてるかわからないんだけどね。もし泊まれなかったら、どこかで車中泊しよう」
「うん、楽しみ。想像しただけでワクワクしちゃう」
「俺も楽しみ」
ふたりで笑い合い、林の中を河童橋方面へ急いだ。
話ながら歩いて行き、河童橋に到着した。このあたりはまだまだ人で混雑している。
お土産を買ってからバスターミナルへ向かった。
「本当に綺麗なところだった……。また来たいな」
勢いで夜行バスに乗って上高地まで来てしまったが、後悔どころか一生の良い思い出になる場所だった。
数々の美しく壮大な景色が、カナコの心に刻み込まれている。
「来年も来ようよ。今度はホテルかキャンプ場を予約してさ」
「そうね、絶対に来たい。凪沙は上高地に何度くらい来たことがあるの?」
「仕事も合わせると六回くらいかな。三年前に穂高も登った。奥穂までだけどね」
「そうなの!?」
驚くカナコに、凪沙はその時の様子をざっくりと教えてくれる。
二泊三日のコースを単独で登頂。天気も良く、それほど難しい箇所もなく、楽しい登山だったという。
(って、凪沙だから楽しいって言えるのよね。私は下から眺めているだけで十分幸せだわ……)
うんうんとうなずくカナコに、凪沙がとんでもないことを言い出す。
「カナコも涸沢までは行けると思うよ。来年一緒に行こうか」
「かっ、涸沢って、涸沢カールのことよね?」
「ああ。素晴らしい景色なんだ」
涸沢カールとは、穂高連峰に囲まれたカール状態になった地形のことで、氷河によって抉られた土地のことだ。
三千メートル級の山々に囲まれており、特に紅葉の時期は絶景になる。
そんな涸沢カールは河童橋から見える穂高の裏側にあり、容易にたどり着ける場所ではないと思っていたのだが……。
「私も上高地を調べている時にネットで見たけど、初心者の私には絶対に無理だって――」
「いや、全然行けるよ。カナコならできる」
自信ありげな凪沙の明るい言葉が、カナコの胸を打つ。
(私にもできる? 本当に……?)
こんなふうに言ってくれる凪沙に、今まで何度救われたことだろう。
「俺がそばについてるから、安心でしょ?」
「うん、行きたい。行ってみたい……!」
凪沙の顔を見上げると、彼も嬉しそうに笑った。しかし次の瞬間、眉根を寄せた彼に肩をぎゅっと抱き寄せられる。
「ハヤトさんが一緒に行きたいとか言いそうだから、絶対に、ぜーったいに内緒ね」
「ええ……、さすがにそんなことある……?」
「いや、ある。山好き、キャンプ好き、カナコが好き……なら有り得る」
あまりにも真剣な顔で言うので、カナコは思わず笑ってしまった。




