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19上高地でおやきを食す(5)

 お互いの気持ちを確かめ合い、心が落ち着いたところで、凪沙がカナコの隣に座った。


「あ、おやきが……」


「握りしめちゃった?」


 手元を見て焦るカナコに、凪沙が問いかける。


「うん。すごい形になっちゃった……」


「じゃあ俺が食べちゃおう」


「え」


 カナコの右手を掴んだ凪沙は、潰れたおやきをパクッと食べた。ついでにカナコの指まで舐めてしまう。


「なっ、凪沙」


「うん、美味い。やっぱり長野と言えばおやきだよな。最高~……、カナコの指も」


「も、もう……」


 一気に顔が熱くなったカナコは、凪沙が食べたところに口を付ける。

 気にかかっていたことがなくなったおかげで、さっきよりもずっと美味しく感じられた。


「あのさ、カナコ。明日の予定はある?」


「え? ううん、特に何もないよ」


 今日は午後のバスで新宿まで帰り、明日は一日休むつもりだ。


「じゃあ明日まで俺と一緒に過ごせる? もしよければなんだけど……」


 カナコの顔を覗き込むようにして凪沙が尋ねる。

 そんな嬉しい提案を、断るわけがない。


「もちろんよ。凪沙と一緒にいたい」


「ありがとう! じゃあ早速なんだけど、俺が払うからバスはキャンセルしてもらって、一緒にシャトルバスに乗って駐車場まで行こう。それで――」


 凪沙が早口で指示を出し始めた。



 上高地はマイカー規制があるので、凪沙は途中の駐車場に車を停め、シャトルバスに乗ってきたのだという。

 シャトルバスは上高地から駐車場があるバス停を往復しており、予約がいらない。

 だが、カナコが利用した高速バスは予約必須であり、乗らない場合はキャンセルをしなければならないのだ。


「本当は上高地に泊まれればいいんだけど、この時期は人気がありすぎて、ホテルもキャンプ場も無理なんだ」


「それはそうよね。わかった」


 迷っているヒマはないので、カナコはその場で帰りのバスをキャンセルする。こういう時、ネットでの予約は本当に便利だ。

 

 凪沙が今まで散々支払いをしてくれているので、キャンセル料は自分で払うからと説得したが、「じゃあこの後は全部俺が払う!」と勢いよく言い切られてしまった。

 こうなったら彼が引くことはないので、カナコは大人しく従うことにする。


 お腹が減ったという凪沙の案内で、河童橋の先にある明神池に向かうことになった。途中、川が遠くまで見えるところで穂高を眺め、素晴らしい景色をふたりで堪能できた。


(凪沙と一緒に来たいと思ってたけど、それがすぐに叶うなんて幸せすぎる……)


 カナコは凪沙の隣でそう思いながら、大勢の人が行き交う中、彼とともに歩みを進めていった。


 湿原や林の中を通ってゆっくり歩くこと約一時間。

 明神池に到着した。昼食は池のほとりにある嘉門次(かもんじ)小屋で食べる予定だ。


 ここはガイドウォークの先駆者である、山案内人の上條(かみじょう)嘉門次が建てた小屋が始まりだという。現在では昼食を楽しんだり、宿泊もできる施設となっている。


 カナコと凪沙は外の席に座り、ふたりとも、ここの名物である岩魚の塩焼き定食を注文した。囲炉裏でじっくり焼かれた岩魚は、頭から骨まで食べられるという。


 テーブルに届いた定食を前に「いただきます」をし、早速、岩魚を頭からがぶりと食べた。


「お、美味し~! 身がふわふわ……っ!」


「塩加減が絶妙だな。めっちゃ美味い!」


 凪沙も満足そうに笑って、岩魚にかぶりついている。

 このあたりは黄色く色づいた葉がほとんど落ちていて、すでに冬の足音が近づいているように感じられた。


 カナコはご飯を食べながら、聞き忘れていたことを凪沙に問いかける。


「ねえ、凪沙。どうやって私の場所がわかっ……、あっ、もしかしてリアルタイムで画像を送ってたから!?」


 言いながら途中で気づいた。

 凪沙は最初からそのつもりで、カナコにリアルタイムの画像を送れと言ったのか。


「そうだよ。それでもカナコに追いつけなかったら、最終手段で電話しようと思ってた」


「な、なんでそんな回りくどいことしたの?」


「正直に言ったら、俺のことを気持ち悪がってカナコが逃げるかなって。そしたら電話にすら出てもらえないかもしれないじゃん?」


「……」


「でも、とりあえずここまで会いに来れば、俺の話を無理矢理にでも聞いてもらえる可能性はあるから」


 味噌汁を啜った凪沙は、ご飯もモリモリ食べ、再び話し始める。


「カナコが上高地から帰ってきてからでも良かったんだけどさ。なんか……、追いかけたかった。カナコが俺のところに戻ってこなかったらどうしようって、妄想なんだけど、焦っちゃって」


「凪沙……」


「……会いたかったんだ」


 苦笑した凪沙に見つめられて、胸がキュッと痛む。


「……自分で会わないって言ったのに?」


 凪沙にフラれるのではとヤキモキしていた気持ちを思いだし、ついぼやいてしまった。


「本当だよな。……でもカナコに会いたくてたまらなくなって、我慢できなかった」


 心なしか、凪沙の顔が赤く見える。

 カナコも照れくさくなって、もうひとくち岩魚を頬張った。

 いったんそこで話はやめ、温かい食事を楽しむ。


 行列が絶えないので、食べ終わったカナコたちはすぐに小屋を後にした。


「美味しかった~。すごい人気のお店なのね」


「アウトドアの雑誌や漫画にも登場するくらい有名な場所だから、ここを目当てに明神池を訪れる人も多いね。俺たちみたいに」


 クスッと笑った凪沙に、カナコも笑いかける。


「凪沙と一緒に来られて良かった」


「俺も、カナコと一緒で嬉しい」


 凪沙に手を取られて池のほとりをゆったりと歩いた。水面に映る山々も素晴らしく美しい。


「そういえば、凪沙は何時頃にマンションを出たの?」


「確か、夜中の三時半くらいかな」


「さっ、三時半!? ほとんど寝てないんじゃ……」


 驚いて声を上げたが、カナコが高速バスに乗っていた時間を考えれば、確かにと思わざるを得ない。


「四時間は寝たから大丈夫だよ。渋滞に巻き込まれたらカナコに追いつけないと思って早めに出たんだけど、こっちに来てからのほうが大変だったな」


 紅葉の時期の土曜日なので、シャトルバス乗り場がある駐車場に到着するまでの道が渋滞したようだ。


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