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19上高地でおやきを食す(4)

 空は晴れていて、うっすら雲が流れているだけだ。そこから細かい雨が降ってくる。糸のような雨に日が反射し、あたりは幻想的な風景に変わっていた。


「雨が降っても綺麗……」


 ジャケットのフードを被り、もうひとくちおやきを食べるために、大きな口を開けた時だった。


 道の向こう……、遠くから、凪沙にそっくりな男性が歩いてくる。


(……まさかね。こんなところにいるわけないのに、彼のことを考えすぎて幻覚を見るなんて、重傷だわ)


 川面へ視線を移しておやきをもぐもぐしていると、足音が近づき、すぐそばで止まった。


「見つけた」


「……え?」


 顔を上げると、幻覚のはずだった人が目の前にいる。


「な、凪沙……? 嘘でしょ?」


 目をこすってみたが、その人はまだ目の前に立って、ベンチに座るカナコを見下ろしている。正真正銘の凪沙だった。


「なっ、なんで? ちょっ――」


「前にカナコがさ」


「え?」


「俺が帰ってくるのを待ってて、玄関から出て来たじゃん? その時に『キモいことしてごめんね』って言ってたけど、俺のほうが全然キモいから」


 凪沙は苦笑しながらカナコの前にひざまずく。カナコの胸がきゅっと甘く痛んだ。


「……わざわざ私に、会いに来たの?」


「そうだよ」


「どうして……?」


 凪沙はカナコの手をおやきごと両手で包み、優しく微笑んだ。


「付き合うって言ったの、取り消そうと思って」


 付き合うと言ったのを、取り消す……?

 自分の耳を疑いながら、カナコは口をひらく。


「そ……、そんなことを言うために……わざわざここまで、来たの……?」


 声が震えてしまった。心臓が有り得ないくらいに大きな音を立て、その鼓動が耳に響いて苦しい。


「そうだよ」


 平然と答える凪沙の視線から、カナコは目を逸らした。


 ……何がいけなかったんだろう。

 まだ付き合い始めて間もないというのに。


 日吉と買い物に行った後から? あれの何がいけなかったのか、まだ理解できない自分がいる。鈍いから嫌われてしまったのか。

 凪沙が言っていた「ずーっと気にしてる」も、未だにわからないのだから。


(だからといって急すぎない? こんなところまで来て、そんなに私と別れたいの……? どうして……)


 いや、ダメだ。ここでごねたりしたら、凪沙がかわいそうだ。

 大人の余裕を持って笑顔で別れてあげよう。

 大人の余裕、大人の余裕、大人の…………。


「……」


 我慢していたのに、涙が浮かんできた。

 泣いたりしたら、それこそ凪沙の迷惑になるだけなのに。


「えっ、カナコ? 泣いてる?」


「なっ、泣いてない……! ぜ、全然泣いてないから……!」


 カナコはおやきを握りしめながら首を横に振った。


 俯いた顔にかかる髪のおかげで、彼に表情は見えないだろう。どうにかごまかせないかと必死に考えるカナコに、凪沙が追い打ちをかけた。


「じゃあ顔を上げてよ、カナコ」


「……いや」


「泣いてるじゃん。……ごめん、変な言い方をしたのかな、俺」


 変な言い方って何? と問い返す代わりに涙が溢れてしまった。

 おやきを持っている手は、まだ彼の両手に包まれている。


「ねえカナコ。もしかして……俺と別れるのがそんなにイヤで泣いてるの?」


 優しい凪沙の言葉に負けそうになる。だから必至にこらえようとした。


「……」


 大人の余裕、大人の余裕、大人の余裕…………と呪文のように心でつぶやいたけれど……無理だった。


「……そうだよ。だって大好きだもん、凪沙のこと」


 言い終わったと同時に、涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。


「俺も、カナコのことが大好きだよ。だからそれを伝えに来たんだ。聞いてくれる?」


 大好きなのに別れたいだなんて、ますます頭が混乱してくる。

 カナコの手を包んでいた凪沙の両手が離れ、カナコの髪に触れた。


「普通に付き合うのはやめて、俺と、結婚前提で付き合ってください」


「……え」


 今度こそ本当に聞き間違いなのではと、さらに耳を疑う。


「俺との結婚を考えてほしいんだ。もちろん、今すぐじゃなくていい」


 あまりにも驚いて、涙が引っ込んでしまった。

 自分の願望が幻覚と幻聴を引き起こしているのではと、そんな疑いまで持ってしまう。


「え……え……え」


 顔を上げると、カナコを見つめている凪沙と視線が合う。それは今まで見た中でも一番、優しげで、深い愛情を感じるまなざしだった。


「カナコに結婚は考えてないって、はっきり言われたけどさ。俺はそうじゃなかったからショックだった。でもずっと考えて、やっぱり俺は、いずれカナコと結婚するつもりで一緒にいたいって、諦められなかったから」


「えっ、その、あの、それってまさか……」


 凪沙の前で、日吉に「結婚」の話をされて、慌てて否定した話を言っているのだろうか。

 凪沙が離れてしまうのがイヤで、負担を掛けさせたくなくて、咄嗟に出た言葉。それを「ずーっと気にしていた」というのだろうか。


「わかってる。まだ付き合い初めだし、カナコがそういう気持ちになれないのは。だから待つよ、いつまででも――」


「違うの! そうじゃなくて、そうじゃ……」


 止まっていた涙が、再びぶわっとあふれ出した。

 今度はさっきとは真逆の、喜びの涙だ。


「うっ、うう~~……っ」


「カナコ、ごめん! 困らせたよね。こんなところまで追いかけてきて、イタイ奴だって普通は引くし、俺――」


「違っ、嬉し、嬉しい……! わ、私……、ひ、ひっく……う、嬉しいの……!」


 泣きながら凪沙の気持ちを受け入れる。

 彼が離れていくとばかり思っていたのに、こんなこと、信じられない。


「嬉しいって言ったの?」


「うん、嬉しい。嬉しい……!」


「やっ……た~~!!!」


 叫んだ凪沙に、思いっきり抱きしめられた。


「ふぐ……っ!」


「わっ、ごめん! 大丈夫カナコ?」


「だ、大丈夫。凪沙の匂い、久しぶりで……嬉しい」


 泣き笑いしながら、彼にしがみつく。


「……カナコ。俺と、結婚を前提に付き合ってくれますか」


「はい。よろしくお願いします……」


「ありがとう、カナコ……!」


 ぎゅうううっと、また抱きしめられて、カナコも強く抱きしめ返した。

 ひと目も憚らず抱きしめ合って、「好き」の言葉を繰り返す。


 涙でぐちゃぐちゃになったのは顔だけじゃなくて、右手に持っていたおやきもだったが、そんなことは気にせずに、大好きな人から受け取る幸せを噛みしめ続けた。



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