17しみっしみのおでん(4)
「……どうしてって」
言いながら、日吉はちょうど空いたベンチを指さす。長い話はごめんだが、こちらから質問した手前、拒否はできない。
ベンチに座った日吉の隣に、カナコも腰を降ろした。
視線の先では子どもたちが鬼ごっこをして駆け回り、それを母親たちが見守っている。
「あの頃、俺……、怖かったんだよ。渋谷に本気になるのが」
「怖かったって、どういうこと?」
「渋谷も知ってると思うけど、俺、結構遊んでたじゃん?」
「そうね」
「今思えば本当にダサいんだけど、調子に乗ってものすごいカッコつけてた。特に女性の前ではね。でも渋谷の前ではカッコつけなかった、というかつける必要がなかった」
カナコが感じていた通り、彼はやはり気を遣ってはいなかったようだ。他の人と比べてカナコに対する態度は、かなり砕けていたように思う。
「失礼なこと言うけど、渋谷って俺の好みじゃなかったんだよ。だからなんていうか、カッコつける必要がなくて気楽だった。でも渋谷のそばにいるのが心地よくて、いつも一緒にいたくなって、他の人とは違った。それでこれは本気になりそうだって気づいた時、自分が変わるのが怖くて、他の女性に逃げた」
うなだれる日吉を横目に、カナコは大きくため息を吐く。
「ほんと失礼だし、思わせぶりな態度ばっかりしてたクセにカッコ悪いよね。でも、あの時まだ……お互い二十三歳くらい? だったから、仕方ないかもだけど」
「本当にごめん」
「別にもう、なんとも思ってないよ。ただ、そこから今の状況につながる意味はわからないから、説明して」
カナコは長引かせたくなくて日吉をせっついた。
余計な話で時間がかかり、隙を突かれて迫られるのは、もっと困るからだ。
「……話は戻るけど、美央を俺の実家で預かれないのは、実家が遠いっていうのと、俺の母親も美央と同じように亡くなってるからなんだ。親父はひとりで農家やってて、なかなかこっちには来られない」
「そう……」
「渋谷に昔の話を持ち出して、結婚って言ったのは……俺のわがまま。うちの親父と兄貴を見て寂しいなって思った時に、なぜか渋谷の顔が思い浮かんだんだよ。なんで俺、渋谷から離れようとしたんだろうって、急に後悔してさ」
いつも余裕に見える日吉の、気弱な口調だった。
「そこで一回、女性と付き合うのはやめた。自分を見つめ直そうと思って。で、こっちに戻ることになって、渋谷に会った時、昔の気持ちが蘇ったんだよ」
「なるほどね、わかったわ。で、いつ買い物に行く? この後行く?」
カナコの問いかけに、うなだれていた日吉が勢いよく顔を上げる。呆れたような間抜けな表情だ。
「自分で聞いたクセに、俺の言葉が全然刺さってないな……。って俺、今日はこの後、趣味の仲間と会う約束してるんだよ。だからまた連絡する、悪いな」
「あ、そう」
日吉はベンチから立ち上がり、深々とお辞儀をする。
「今日は付き合ってくれてありがとう」
「美央ちゃんによろしくね」
「ああ、言っておく。またな」
「うん」
笑顔で立ち去っていく日吉を、カナコはベンチに座ったまま見送る。先ほどの美央たちのように遠くなっていく背中を確認したカナコは、ホッと息を吐いた。
「はぁ~~……、私、すごいわ。うん、えらい」
今度は大きく深呼吸し、ペットボトルに残っていた緑茶を一気飲みする。
そして静かに自分の胸に手を当てた。
(私……全っ然、日吉になびかなかった。日吉の境遇や気持ちを聞いても、なーんにも響かなかったし、私の心には届かなかった……!)
この気持ちを一刻も早く、凪沙に伝えたい。
カナコの心はただただ、凪沙でいっぱいになっていくだけで、誰も入り込む隙間などなかった。
透と付き合っていた頃の自分だったら、日吉の「結婚」という甘い言葉にグラッときていたかもしれない。
何を今さら自分本位なことを言ってるんだ、とは思えなかったかもしれない。
そして日吉に乗り換えても上手くいかないことは薄々わかっていたとしても結婚して、やっぱりダメだったという結論に至る。
それは相手に依存したいというカナコの弱さが引き起こし、世間体を気にして結婚を急いた自分のせいなのだ。
という、妄想ではあるが、有り得そうな悲劇を起こさなくて済んだのは……。
(凪沙の力だ。凪沙を好きだという、私の気持ちの強さと、彼が私を大切に思ってくれる気持ち。そのふたつの力が、私の心をまったく動かすことはなかった)
カナコは感動していた。
すっかり変わった自分に。結婚に依存しようとしない、自分に。
凪沙と心から向き合って、彼のそばにいることが幸せなんだと気づけた自分に。
「よし、と」
ペットボトルの蓋をキュッと締めて、カナコは立ち上がった。




