第6話 剥がれた化けの皮 16 ―愛の涙は枯れる事なく流れ続ける―
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「何で先輩は《王に選ばれし民》の仲間になんかなっちゃったの?」
愛の口から本音が漏れた。そして、愛の歩みは止まる。
「えぇ、なに急に?」
ホムラギツネも止まった。
顔は見えないが、口調からは笑っていると分かる。
「どうして……どうして私は、先輩をホムラギツネって呼んでるの? 何で先輩をバケモノだって認めてるの?」
愛は真田萌音を敵と思い込もうとしていた。『憧れの先輩は存在していなかった』と、『大好きだった先輩なんて全部嘘だったんだ』と、自分自身に言い聞かせ続けていた。けれど、人の感情は思考では変えられない事の方が多い。長年慕っていた先輩を敵と思うには、萌音と過ごした時間は長過ぎた。
瞳からは涙がポロポロと零れる。
愛の心は限界だった。英雄に選ばれた者として『輝ヶ丘の人々を守る為に、お婆ちゃんを守る為に、私は戦わなければいけない』と、認めたくもない事実を認めて、目の前の危機と必死に戦っていた。がしかし、今は次にどう動けば良いのかが分からなかった。どう動けば良いのかが分かれば、体がまず動き、考える事を止められる。しかし、今は次にどう動けば良いのかが分からない。思考し続ける中で、確かに固めた筈の覚悟の合間を縫って、迷いが表面に出てきてしまう。
真田萌音が大好きだから。真田萌音を愛しているから。抱いてしまう迷いが、涙と共に零れてしまう。
「やっぱり……嘘だなんて思えないよ。先輩はやっぱり先輩だもん。ねぇ、先輩。お願いだからバケモノなんてやめて、元の先輩に戻ってよ……私、聞いてます、バケモノは悪に心を乗っ取られて、破壊を好み、命を弄ぶ、邪悪な思考を持つ者だ……って。でも、それは《王に選ばれし民》が洗脳するとか、心を操るとか、そういうんじゃなくて、元々の悪人を《王に選ばれし民》がバケモノに選ぶから……らしいんです。でも、元々の悪人って何ですか? そんな人いるんですか? 悪人になった人は善人……ううん、善人じゃなくても"普通"にはならないの? 戻らないんですか?」
愛の本音が決壊したダムの様に放出され始めた。
「何なの急に……萎えるなぁ」
「だって、やっぱり私は先輩とは戦いたくないもん。味方になってほしかったくらいなのに……ねぇ、何でこんなになっちゃったんですか? やっぱり……お父さんの事があったからですか?」
「へぇ、そんな事まで知ってるんだ。よく調べてるじゃん」
「私、先輩が昔の先輩に戻れるなら何でもします。悪い心を持っちゃった人間が、普通には戻れないなんてそんな事絶対にないですから。だって、先輩は良い人だもん。先輩が首を振っても意味ないよ。私はずっと先輩を見てきた。だから知ってるんです。先輩が何を言っても、私は先輩は良い人だったって言い続けますから」
「そうだよ、萌音ちゃんは良い子だよ……」
佳代だった。
佳代は手を伸ばし、優しくゆっくりと萌音の背中を撫でた。
「私も愛ちゃんに同意するよ。はじめから悪人なんかいない。何か、心が傷つく出来事に萌音ちゃんは触れてしまったんだね? 苦しんでいたんだね、そうなんでしょう? ……ごめんね、何も気付いてあげられなくて」
「何だよ急に、二人揃って……萎えるって、やめてよ」
ホムラギツネの口調から笑みが消えた。
「やめませんよ……私は、先輩とは分かり合いたいから。あぁ、この石が先輩を元に戻す石だったら良かったのに。先輩の心に悪があるなら、私はそれを取り除きたい。それが出来るなら私、祈ります。先輩を助けたい、先輩を愛してるって気持ちで」
愛の中で、真田萌音との想い出が幾つも幾つも駆け巡った。
馬鹿話をして笑い合った日々、美味しいものを食べて喜び合った日々、時には叱られたりもして『先輩のバカヤロー!』と思った日もある。逆に萌音の優しさが心に染みて涙を流した日も。
その一つ一つは他人からすれば平凡なもので特別とは思えない日々だろう。けれど、愛にとっては特別だった。
愛は取り戻したいと思った。萌音と笑い合える日々を、喜び合える日々を。
「そっか、桃ちゃんは本当に良い子だね。バケモノになっちゃった私でも愛してくれるんだ」
「勿論ですよ、私は先輩を愛してます。助けたいんです」
「そっか……」
愛の気持ちが伝わったのか、萌音の口調は穏やかなものになっていく。
萌音はふざける様に上げていた両手を下ろした。そして、その手の中に顔を埋める。まだホムラギツネのままの体が、小刻みに揺れ始める。
「先輩?」
背後からだと萌音の顔は見えない。どんな表情をしているのかは分からないが、愛は感じた。『先輩が泣いている』と。
「桃ちゃん……ありがとう。本当にありがとう。こんな私を愛してくれて。私、本当に嬉しいよ」
「いいえ、お礼なんて要りません。それより先輩、変身を解いてもらっても良いですか?」
愛の気持ちが悪の心を浄化したのだろうか。
愛は自分の気持ちが伝わったと信じて、萌音の背中から石を持った右手を離した。
愛はまた歩き始める。佳代をつれて、萌音の正面に回ろうとゆっくりと。
「愛ちゃん、良かったね。これで萌音ちゃんとまた仲良く出来るね」
「うん!」
愛は頷いた。
佳代には笑顔があった。佳代の瞳からは虚ろさは薄まって見える。僅かだが活力が戻って見える。
安心した愛は萌音の横顔を見上げながら歩く。萌音は両手に顔を埋めているから、横からでは小刻みに揺れる白い手しか見えないが。
「ねぇ先輩、もう泣かないで。私、まずはお婆ちゃんに治療を受けさせてあげたいんです。だから、輝ヶ丘を囲っている物をどかして……え?」
正面に回ると、手と手の隙間から萌音の顔が見えた。
愛は固まった。佳代もそうだ。二人揃って動けなくなった。
「フフフ……」
泣いてなどいなかったからだ。
萌音は泣くどころか、笑っていた。両手の中にあったのは、ニヤリと唇を歪めた邪悪な笑み。
この笑顔を見て、愛と佳代は驚愕で固まった。そんな二人に向かって、萌音は言う。
「桃ちゃん、ありがとう。私の為に祈ってくれて」
「えっ……」
愛は口をぽかんと開いた。その顔を見た萌音は、愛の右手を指差す。青い石を握った手だ。
「なに驚いてんの? いま、祈ってくれたでしょ? その石に、私を愛してるって――」
「祈った……」
愛の心臓の鼓動は早くなる。心を満たしていた安堵感や幸福感は一瞬にして消えた。
愛はそのつもりはなかった。祈ったつもりはなかった。しかし、ホムラギツネは不敵に笑う。この笑みを見れば分かる。これは人間としての笑みではなく、バケモノとしての笑みだと。
愛は理解した、自分は術中にはまった……と。そして、
「熱いっ!!」
突如、青い石が熱を持った。炎を直接手に持たされたのではないかと思える程の熱さに。
愛はあまりの熱さに石を落としてしまう。
この光景に、ホムラギツネの笑みは更に広がる。
「フフフ……そうだよ、熱いんだよ。熱い……熱いよ……私の体も熱くなる!! 力が……力が漲る!!! 輝ヶ丘は燃えるんだぁッ!!!!!」
「そんな……そんな……嘘だ……嘘だよ!!!」
愛がどんなに拒否しようとも、現実は嘘には変えられない。
「ギィーーーェーーー!!!」
これから輝ヶ丘を燃やす炎のつもりか、ホムラギツネの全身に生えた白い毛が逆立った。
毛が逆立つと同時に、人間であった自分と完全に決別しようとする萌音の心を表すかの様に、亀裂の走っていた白い仮面が真っ二つに割れた。
足元に仮面が落ちると、隠されていたホムラギツネの素顔が見えた。そこには人間だった頃の名残はない。目は細く、鋭く吊り上がり、鼻は高く狐そのものだ。口は裂けていく。口角が耳の近くにまで広がり、巨大な牙が何本も見えた。
腕には毛が生えていく。白い毛だ。その毛も、生えると一緒に逆立っていく。
「ギィーーーーェーーーー!!!!」
「お願い先輩! 嘘って言って!! ……あッ!!!」
泣き付く様に近付いた愛をホムラギツネは殴り飛ばした。
細く吊り上がった瞳は血走り、大きな牙を持つ口は痙攣しているのかと見紛う程にガチガチと震えている。
「ウゥゥゥゥ……」
獣が威嚇する時の様な唸り声を発したかと思うと、ホムラギツネは両手を地面につけた。まさに獣だ。ホムラギツネは四足歩行になり、跳ねる様に走り出した。
入口の引き戸を壊して山下商店から飛び出すと、ホムラギツネは長い鼻をヒクヒクと動かしながら愛たちの前から去っていく。
「そんな……嘘だ……嘘だよ」
愛は止められなかった。突如として獣と化したホムラギツネを、見ているしか出来なかった。
「どうして……どうして……」
「愛ちゃん……」
愛は呆然として座り込んでしまう。
佳代が抱き締めても、愛の涙は枯れる事なく流れ続ける。
第三章、第6話「剥がれた化けの皮」 完




