第6話 剥がれた化けの皮 13 ―ホムラギツネ―
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「先輩……」
愛の頬に涙が伝う。
愛の怒りは、やはり悲しみに変わった。
"憧れだった萌音自体が偽りの存在であった"と思い込もうとしてみても、やはり心の底からは思えない。
思えないが、美しかった容姿も変貌し、血に塗れている萌音を見ると、そうとしか思えなかった。
思えないが、思いたくはなかった。愛の記憶の中では萌音は憧れの萌音なのだから。
頬を伝う涙が、顎の先に届くまでの間に、愛は思った。
『本当に、私が大好きだった先輩はいないの?』と。『もしも先輩を元に戻せるなら私には何が出来るの?』と。
「先輩……元の先輩に戻ってよ……」
けれど現実は残酷だった。愛はまだ実感を重ねなければならない。
愛の涙が顎の先を通り、ほろりと落ちた。
「何を言っている……泣いてる場合じゃないだろ、立ち上がれ。まだ英雄の力がないって言うけど、だったらどうすれば良いのか一所懸命考えろ……人類を救うのが英雄の役目なんでしょ」
「え……?」
何故だろう。萌音の瞳からもひとすじの涙が流れた。
しかし、愛はこの涙の意味を聞けなかった。
萌音の涙は頬を伝う途中で消えてしまったから――
愛は幼い頃に、赤井正義に妖怪図鑑を見せられた事がある。「嫌だよ、怖いよ」と言っても強引な正義は聞いてはくれず、無理矢理見せられた中で、愛がたった一つだけ『綺麗』と思えた妖怪がいた。
《九尾の狐》
白い体に九つの尾を持つ狐の妖怪。
その九尾の狐が現在、
― 私の目の前にいる
……愛はそう思った。
思ったが、愛は分かっている。目の前にいるのは、妖怪ではなくバケモノだと。
涙を流した後、萌音の体は目映い光に包まれた。
それは時間にして一、二秒程だった。極々わずかな一瞬の出来事だった。
そして、光が消えた時には真田萌音は居なくなっていた。彼女は人間を捨ててしまったのだ。
禍々しいバケモノの姿へと変化してしまっていたのだ。
「先輩……」
萌音の全身は白く染まっていた。
白くて厚い毛が全身を覆っている。
まるで毛皮のコートを羽織っているかの様だが、肘から指先までは腕捲りしたかの様に人間と同じ形の腕が見えている。しかし、この腕も白い。"白"というよりも"無"だ。まだ色に染められる前の塗り絵と同じだった。
指先には鋭く長い爪がある。この爪でさえも白い無だ。
顔には仮面があった。狐を模した仮面だ。
白い仮面だが、何故か割れている。仮面の右上部から左下部にかけて、稲妻の様な大きなヒビが斜めに走っていて、口元は完全に割れている。仮面ではない本物の口が見えている。人間らしい整った形の唇が見えている。
口元の肌も腕同様に白いのだが、唇だけは違っていた。まるで墨で紅を引いたかの様に黒かった。
仮面の上からは耳が飛び出している。ツンと真っ直ぐに立っていて白い毛に覆われた耳だ。
下半身に視線を移せば、尾がある事も分かる。これもまた狐が持っている尾に似た形だ。
白くて長い尾だ。一本が一メートル程もある。これが九本も生えている。
「どう? これが神が与えてくれた、私の新しい体だよ……」
九本の尾が威嚇をする様に床をバタバタと叩いた。そして、黒い唇がニヤリと笑った。
「《ホムラギツネ》……これが、真田萌音を捨てた私の新たな名前。どう桃ちゃん? 気に入ってくれた? こんな私でも、好きになってくれるかな?」
「なる訳ないでしょ」
愛はホムラギツネの全身を確かめると、涙を拭って立ち上がった。
バケモノになってしまった萌音を確認し、『泣き虫な自分は捨てなければならない』と彼女は思った。
「私の好きな先輩は、真田萌音。ホムラギツネなんか知らない……」
愛は拳を握った。拳を握って、左を前に、右を自分の顔の横に持ってくる。
「おぉ……戦う気なの? 変身も出来ないのに? それじゃあ、どう殺されたい? 噛み殺されたい?」
ホムラギツネは舌なめずりをした。黒い唇を白い舌がなぞる。
「それとも……絞め殺されたい?」
九本の尾が、一斉に床を叩いた。
「それとも……焼き殺されたいかな?」
ホムラギツネは口を大きく開いた。口内には揺蕩う炎が見える。
「おっ、眉がピクってしたね。流石の桃ちゃんでも炎はやっぱり驚くか……そっか、分かったよ。それじゃあ、焼き殺してもらいたいんだね」
ホムラギツネは強引な結論を出した。
愛は眉を動かしたつもりはない。炎に驚いたつもりもない。白い舌も九本の尾にも、ホムラギツネの全てに驚いているのだから、炎だけに驚いてはいないのだ。だが、ホムラギツネは勝手に結論を出すと、再び口を大きく開いた。力を溜める為の動作なのか、大きく仰け反って天井を向いた。
愛は焦った。背後の居間には佳代がいる。ホムラギツネが力を溜めている間に走り出せば逃げられそうではあるが、自分が逃げてしまえば佳代が犠牲になるだろう。それでは気を失っている佳代を連れて逃げようかとしても、動作が鈍くなるが確実。それに、階下へ行く階段はホムラギツネの後ろにある。辿り着けるかも分からない。どう考えても、佳代か自分か、またはどちら共が炎に焼かれる未来しか見えない。
愛はどうすれば良いのかを考えた。自分も佳代も、どちら共が助かるにはどうすれば良いのかと。
正義ならどうするか、勇気ならどうするか、ボッズーならどうするか。三通りで考えてみても、答えは一つしか出てこなかった。
「……ッ!!!」
愛は跳び上がった。前でも後ろでもない、真っ直ぐ上にだ。
愛の頭の上には襖が外れた鴨居があった。鴨居の上には長押がある。長押の上部には隙間がある。愛はその隙間に手を伸ばし、指をかけた。
それから、懸垂が如く指の力で体を持ち上げ、宙に浮いた足を体を丸める様に縮込ませる。愛は駅前公園で何度も懸垂を行った。腕の傷があろうが、このくらいの動作は容易だ。
そして、ホムラギツネの急所はガラ空きだ。仰け反っているから顎が見える。狙いは定まった。後は思いっ切り足を伸ばすだけだ。
ドンッ!!!
「ギャァッ!!」
愛が見つけた答えは至極簡単、ホムラギツネと戦うという事。事前にファイティングポーズを取っていたのだから、戦う覚悟は決まっていた。ならば実行は早い。
愛の蹴りが炸裂すると、ホムラギツネの口内からは小さな爆発音が聞こえた。力を溜めて吐き出そうとしていた炎が爆ぜたのだろうか。ホムラギツネは口を押さえて悶絶した。
この隙を愛は逃さない。
愛は悶絶するホムラギツネの真横を通り抜け、階段がある方向へと走った。
階下へ行き、颯爽と逃げる為か……そんな筈はない。愛は知っているからだ。階段のすぐ近くには花瓶が置かれた戸棚がある事を。愛は花瓶を手に取った。
「ごめんね、お婆ちゃん。今度代わりの花瓶を買ってあげるから、許して……!!」
愛は独り言を呟きながら、挿された花を抜き取り、ホムラギツネへと向き直る。
ホムラギツネは未だ悶絶している。そんなホムラギツネに向かって、花瓶を投げ付ける勢いで水をかけた。
「濡れてもまだ、炎は出せるの?」
「お前ぇ!! よくもォッ!!!」
愛はまだ行く。今度は手に持った花瓶が武器になる。
しかし、相手はバケモノだ、弱くはない。ホムラギツネは鋭く尖った爪と、野獣の様な牙を愛に向け、走り出した。
「ブッ殺してやるッ!!!」
愛に接近したホムラギツネは鋭い爪を振りかざす。
が、ホムラギツネの長い爪は弧を描いて空を切った。
何故ならば、愛が素早く屈んだからだ。それも足をドンッと前に踏み出して、体を捻りながら――避けられた方はピンチ、避けた方はチャンス、世の常だ。
体を捻る愛が斜め上を見上げると、再びホムラギツネの顎が見えた。愛はその顎に向かって勢い良く花瓶を振り上げた。
「ッッッ!!!」
ガチャンッと音を立てて花瓶は壊れた。破片が方々へと飛んでいき、ホムラギツネは倒れた。愛も額と腕に傷を負ったが、痛みには気付かない。痛みよりも、強敵な筈のバケモノが倒れた事の方が衝撃が大きく、愛は小さくガッツポーズを作った。
「う……うぅ……」
「やった……」
が、愛は油断していない。ガッツポーズは作ってみたが、バケモノが簡単に倒せる相手ではないとも知ってる。
愛は急いだ。佳代の救出へ向かう為に。廊下に散乱した花瓶の残骸を避けながら、居間に向かって走った。
「お婆ちゃん!! 起きて!!」
走りながら呼び掛けると、反応があった。指先がピクピクと動き、這ってはいるが佳代が動いたのだ。
佳代は走ってくる愛に向かって手を伸ばした。
「ももちゃ……うしろ」
「えっ?」
佳代に名前を呼ばれると、愛は立ち止まってしまった。何を言おうとしているのか聞こうとしてしまったのだ。
その直後だ。
「!!!」
愛は何かに驚いた。足に何かが巻き付いたと知る。
「え……?!」
振り向こうとしたが、直後に足が引っ張られた。
愛は倒れてしまう。そして、倒れた瞬間に分かった。自分の足に巻き付いた物は、それはホムラギツネの尾だったと。
ホムラギツネの尾は一メートル程の長さしかなかった。ホムラギツネが倒れている場所から愛が立ち止まった場所、居間の入口までは三メートルは離れていたが、ホムラギツネの尾は伸縮自在なのだろうか。否、『伸縮自在なのだろうか』ではない。確実に伸縮自在だった。愛を引き倒したホムラギツネの尾は、スルスルと縮んでいき、再び一メートル程の長さへと戻っていくのだから。
「ヤ、ヤバい!!」
愛は再び焦った。
このままではホムラギツネのすぐ近くに連れていかれてしまう。
ホムラギツネはまだ仰向けに倒れたままであり、尾の動きがホムラギツネの意識下なのか、無意識下なのかは分からないが、このままでは確実にピンチが待っている。
「や、やめて!!」
愛は自分を引き寄せようとするホムラギツネの尾に少しでも抗おうと、床に手を付けてグッと力を入れた。しかし、無理だった。この程度の抵抗では抗えなかった。愛の体は引き摺られ続ける。
「ど、どうしよう!! ……ん?」
床を引き摺られる愛の手に何かが触れた。コツンとではあるが、少しピリッと痛みのある物だった。
愛はソレを咄嗟に手に取る。
「ギィーーェーー!!!」
次の瞬間、ホムラギツネが起き上がった。
真っ黒な唇からは怪物じみた奇声が聞こえた。
この叫びはホムラギツネの怒りを示しているのだろうか。聞かなくともそうなのだと分かる。ホムラギツネは倒れる前と同様に鋭い爪を愛に向かって振りかざしたのだから。
愛とホムラギツネとの距離は既にホムラギツネの悪爪が届く距離だった。このままでは切られてしまう。
愛が英雄でなければ、己に降りかかってくる惨劇を想像して瞼を閉じていただろう。
愛は英雄に選ばれし者なのだから閉じはしないが。瞼を閉じるどころか、愛は逆に目を見開いた。狙いを定める為に。
グサリッ――突き刺さった。
「ギャァーーー!!!!」
愛の顔面にホムラギツネの悪爪が、違う。
床を引き摺られた愛が咄嗟に掴んだ花瓶の欠片が、ホムラギツネの手のひらにである。
ホムラギツネは絶叫し、手のひらからは真っ黒な血が吹き出していく。
ホムラギツネが悶絶すると共に、愛の足からは尾が離れた。このチャンスを逃す訳にはいかない。
ホムラギツネは再び倒れ、愛は素早く立ち上がる、ホムラギツネに躍りかかる。
「私は! 負けないッ!!」
愛は更なる攻撃を続けようと花瓶の欠片を持った右手を振り上げた。それはナイフの様に鋭利な欠片だ。
ホムラギツネの手のひらには幸運にも肉球があった。真っ黒な肉球が。肉球は柔らかかった。だから傷を負わせられた。しかし、他はどうだろうか。
顔には仮面を被っている。胴体は白い毛に覆われている。やるならば、素肌が見えている腕しかない。
「ギィーーェーー!!!」
だが、その腕が愛に向かって伸びてきた。
「ェーーーーーッ!! ブッ殺してやるッ!!!」
ホムラギツネは愛の首を掴んだ。
人間の姿をしている時よりも、その力は強い。
「……ッ!!」
首を絞められて、声が出ない。呼吸が出来ない。耐えようとすると、希望として掴んだ花瓶の欠片が手のひらに突き刺さってくる。
愛の体は宙に浮いた。ホムラギツネが持ち上げたのだ。
「ブッ殺す! ブッ殺す!! ブッ殺す!!! ブッ殺す!!!!」
ホムラギツネは首を絞めたまま、何度も何度も愛を壁に打ち付けた。
愛の意識は朦朧としてくる。呼吸が出来ないからか、全身を打ち付けられる痛みからか、愛にすら分からない。
愛は自分の死を受け入れ欠けた……。




