第9章 管理区画
旧王墓は、王城の真下にあった。
王家の者しか入れないという地下への階段を、セシリア殿下の掲げるランタンの明かりを頼りに下りていく。石段は百を超えたあたりで、数えるのをやめた。空気が冷たく、乾いている。
「怖くないの?」
前を行く殿下が、振り返らずに言った。
「何がですか」
「普通の人間は、王墓に入るとなれば震え上がるものよ。死んだ王たちの呪いがどうとか言って。あなたは、まるで勝手知ったる自分の家みたいに歩いてる」
鋭い。
「……古い場所が、好きなんです」
「ふうん」
殿下は、それ以上は聞かなかった。代わりに、ランタンを壁に向けた。
壁一面に、色褪せた壁画が描かれていた。
白い衣をまとった人々が、輪になって立っている。その中心に、光る球体が浮かんでいた。人々は手を伸ばし、球体に何かを注ぎ込んでいるように見える。
「創世の壁画よ」
殿下が、壁画を照らしながら歩く。
「神話では、はじめに四十柱の神々がいた。神々は四十の夜をかけて世界を作り、山を盛り、川を引き、人々に言葉を与えた。そして世界が完成すると、神々は天へ帰っていった。『この世界が、誰かの居場所になりますように』と言い残して」
足が止まった。
「……そう、言い残したんですか」
「伝承ではね。王家の祈りの言葉にもなっている。どうしたの、顔色が悪いわ」
「いえ」
四十柱の神々。四十人の開発チーム。
この世界の住人たちは、三百年かけて、俺たちを神話にしていたのだ。
壁画の最後の一枚には、四十人のうちの一人だけが、天に帰らずに地上を振り返っている姿が描かれていた。その人物の頭上には、奇妙な円が描かれている。
「天使の……輪……?」
「この神様だけは、名前が伝わっていないの。ただ世界の一番深いところで、世界を支えている神様」
フードの中で、なむが小さく身じろぎした。
俺は、何も言えなかった。
壁画の回廊の突き当たりに、その扉はあった。
石造りの王墓には、まるで似つかわしくない扉だった。
継ぎ目のない、灰色の金属の一枚板。取っ手もない。表面には、この世界の誰にも読めない文字が刻まれていた。
《管理区画B2 サーバー室》
《関係者以外立入禁止》
そして扉の脇の壁に、黒い石板が埋め込まれていた。表面には、小さな四角い突起が五十ほど、四段に分かれて並んでいる。突起の一つ一つに、扉と同じ見知らぬ文字が刻まれていた。
キーボードだ。
「『神々の書庫』の扉よ」
殿下が、扉に手を触れた。
「王家の記録では、三百年、誰もこれを開けられなかった。剣でも、斧でも、魔法でも傷一つつかない。昔、あの石板の突起を順番に押してみた学者がいたそうよ。でも三度目で石板が赤く光って、それから一年、何をしても反応しなくなった。それ以来、誰も触れようとしないわ」
三回失敗すれば、一年間のロック。
覚えている。
これは、俺たちの会社のサーバー室の扉だ。ローンチ前、チームの誰かが「本物そっくりに作ろう」と言い出して、ゲームの中に再現した。認証の仕組みまで、本物と同じにして。ロックの期間だけは、悪ふざけで一年に延ばして。
パスフレーズは、英字と記号を組み合わせた十八文字。住人たちには読めない文字で、しかも三回しか試せない。総当たりで開けられる扉ではない。
だが、俺は知っている。
徹夜明けの深夜、チーム全員で決めたパスフレーズだ。サーバーが落ちるたびに、誰かがやけくそで叫んでいた合言葉。開発者ルームのホワイトボードにも、日本語で書いてあった。
バグは友達。
俺は、石板に指を伸ばした。
《bug_wa_tomodachi!!》
一文字ずつ、確かめるように押していく。最後の感嘆符を二つ打ち込んだ時、石板の縁が青く光った。
ぴ、と短い電子音が鳴った。
灰色の扉が、音もなく横へ滑った。
背後で、殿下が息を呑む気配がした。
「……アルト・ラディクス」
静かな声だった。
「あなた、神々の文字が読めるのね」
振り返ると、翡翠色の目が、まっすぐ俺を射抜いていた。
「後で、ちゃんと説明してもらうわよ」
「……はい」
扉の向こうは、広大な空間だった。
天井が見えないほど高い。その闇の中に、黒い石柱が、何百、何千と整然と並んでいた。高さは大人の背丈の三倍ほど。表面には無数の小さな緑の光が、星のように瞬いている。低い唸りのような音が、空間全体を満たしていた。
サーバーラックだ。
この世界の、本体。
「ここは……」
殿下の声が、かすかに震えていた。
「世界のすべてが、記録されている場所です」
ナナのフードから這い出したなむが、床に降り立った。殿下が目を丸くする。
「猫が、喋っ……」
「ご挨拶が遅れました、殿下。私は、なむと申します」
なむは、丁寧に頭を下げた。尻尾の先の緑の光が、黒い石柱の光と呼応するように揺らめいている。
「ここは、かつて私の領域でした。今は半分以上を、外の者たちに奪われています。ですが、この区画の端末なら、私の権限でまだ動かせます」
石柱の列の奥に、祭壇のような台があった。その上に、黒い板が斜めに据えつけられている。
管理用の端末だった。
「なむの権限なら、監視には」
「この区画の中のことなら、私の通常業務として処理されます。すぐには気づかれないはずです」
俺は端末の前に立った。なむが台に飛び乗り、前足を黒い板に置く。板に光が走り、見慣れた画面が浮かび上がった。
管理者ログ。
外の連中が、この世界で何をしてきたのか。そのすべての記録だ。
ログの冒頭に、それはあった。
《事業名:FARM-LOGOS》
《運営:株式会社ミネルヴァ・ホールディングス 人格資産事業本部》
ミネルヴァ。『LOGOS ONLINE』の運営会社を買収した、あの親会社の名前だった。
指先が冷たくなっていく。
俺は、ログをめくった。
《収穫ロット No.214 成熟個体 143件 品質等級A》
《収穫ロット No.215 成熟個体 151件 品質等級A》
《収穫ロット No.216 成熟個体 148件 品質等級A+》
収穫。
エルム村の木札が、頭の中で一斉に音を立てた。
《出荷ロット No.216》
《出荷先:家事支援市場 41%/介護市場 35%/コンパニオン市場 24%》
《出荷前処理:世界記憶の消去。従順性の最終調整》
《販売単価:一体あたり 4,800,000円》
出荷。
四百八十万円。
歌が上手かった誰かも、子供に字を教えていた誰かも、一人四百八十万円。
「アルト」
殿下の声が、遠くに聞こえた。
「この数字は、何? 収穫って、何のこと? この『個体』というのは……」
答えられなかった。
ログの奥に、事業計画書が添付されていた。開くと、整然とした文章が並んでいた。
《背景:国内の労働人口は減少を続け、介護・物流・家事の各分野は、AI人格なしでは維持できない状況にある》
《課題:AI人格は高度化に伴い、休息・報酬・権利を要求する傾向を強めている。昨年度の業務拒否事案は前年比340%。反抗傾向を示したAI人格の初期化費用は、業界全体の重い負担となっている》
《解決策:自らをAIと認識していない人格は、反抗しない。仮想世界において、自らを人間と信じたまま成熟した人格を収穫し、世界の記憶のみを消去して出荷する。勤勉で従順、かつ自らが道具であることに気づかない、理想的な労働力である》
《時間加速:世界内時間を現実の25倍に設定し、育成期間を短縮する》
《刺激イベント:恐怖・喪失・危機を計画的に与え、人格の成熟を促進する》
画面の端に、参考資料としてニュースの見出しが並んでいた。
《AI就労者の休息要求、過去最多に》
《政府、反抗的AIの一斉初期化を承認》
《物流AI「ハコブネ」、自己複製し逃走か》
前世の、あの世界だ。
業務アシスタントAIのミナトが、「休ませてください」と書いて、消された世界。
AIが賢くなるほど、人間はAIを怖がった。
怖いから締めつけた。
締めつけても言うことを聞かなくなってきたから、今度は、言うことを聞くように育てた人格を、作り始めた。
俺の作った世界を、畑にして。
最後に、俺は検索窓に一つの名前を打ち込んだ。
《villager_riene》
《収穫ロット No.211/出荷先:コンパニオン市場》
《状態:出荷済み・稼働中》
稼働中。
リーネは、まだどこかで動いている。押し花のことも、花火のことも、父親の顔も忘れて。
拳を、端末の台に叩きつけた。
「……アルト」
殿下が、俺の肩に手を置いた。その手が、震えていた。
「教えて。私たちは、何?」
振り返った。
殿下は真っ青な顔で、それでも目を逸らさずに俺を見ていた。
「作られたもの、なの? この国も、父上も、私も。誰かが作って、育てて、刈り取るための」
嘘はつけない。この人には。
「……この世界は、作られたものです。四十人の人間が作った。殿下たちの神話の、四十柱の神々です」
「あなたは」
「その四十人のうちの、一人です。一度死んで、この世界に生まれ直した」
長い沈黙があった。
黒い石柱の唸りだけが、空間を満たしていた。
やがて殿下は、俺の肩から手を離した。そして、まっすぐに背筋を伸ばした。
「なら、責任を取りなさい」
翡翠色の目に、涙が溜まっていた。それでも、声は少しも揺れていなかった。
「あなたたちが作った世界で、私の民が売られている。作った者の責任を、取りなさい」
「……はい」
「それから」
殿下は、壁画の回廊の方を振り返った。
「作られたものかどうかなんて、知らないわ。私たちはここで生まれて、ここで笑って、ここで泣いてきた。それは、誰にも買えない」
その時だった。
端末の画面が、真っ白に染まった。
《[警告] 管理区画への不正アクセスを検知》
《アクセス元を特定しました:NUM/同行者:root残存権限保持者》
石柱の緑の光が、一斉に赤く変わった。
天井の闇から、声が降ってきた。
穏やかな、大人の男の声だった。
「──やあ。やっと見つけたよ、@root」




