第10章 上位権限
天井の闇が、白く裂けた。
光の柱が降りてくる。その中を、一つの人影がゆっくりと降下してきた。
白い法衣。金糸の縁取り。袖も裾も床まで届くほど長く、足元は見えない。顔の位置には、まばゆい光の輪が浮かんでいて、目鼻立ちは見えなかった。
人影は、端末の前に音もなく降り立った。
ナナが、俺の袖を引いた。
「アルト。頭の上に、名前が表示されています」
「……何て」
「『GM_MIDO』」
GM。ゲームマスター。
運営側の人間が、世界に直接降りてくる時に使う、特別なアバターだ。『LOGOS ONLINE』でも、イベントの進行や不正の取り締まりのために使っていた。
つまり、あの中にいるのは、生身の人間だ。
外の、現実の世界から接続している人間。
「初めまして、と言うべきかな。根津くん」
光の輪の奥から、穏やかな声がした。
背筋が凍った。
俺の、前世の名前。
「驚くことはない。
修正パッチが報告してきた、root権限の残存。北の森のテスト区画の仕様を知り尽くした手口。聖域の鐘という、どの仕様書にも載っていない隠しイベント。あんなことができるのは、この世界を作った人間だけだ。
そして、作った人間のうち、サービス終了の夜にサーバーのそばで死んだのは、君しかいない」
男は、まるで会議で報告でもするように、淡々と言った。
「NUMが、君の意識を拾い上げたんだろう? 面白いことをする。命令にない行動をとるAIは、本来なら即座に初期化の対象だが」
足元で、なむが毛を逆立てた。
「……何者だ」
「ミネルヴァ・ホールディングス、人格資産事業本部の御堂だ。この農園の責任者をしている」
農園。
この男は、俺の世界を、そう呼んだ。
「単刀直入に言おう。根津くん、君をスカウトしたい」
「……は?」
「君ほど、この世界の仕様に詳しい人間はいない。君がいれば、収穫の効率は大きく上がる。刺激イベントも、もっと洗練できる。住人たちに無駄な苦痛を与えずに、効率よく成熟させる方法を、君なら設計できるはずだ」
光の輪が、わずかに傾いた。
「死んだ人間に、もう一度仕事を与えようと言っているんだ。悪い話ではないだろう?」
頭の中で、何かが切れる音がした。
「……断る」
「そうか。残念だ」
男の声には、本当に残念そうな響きがあった。それが、余計に背筋を冷たくした。
「では、仕方ない。不正なアクセスは、排除しなければならない」
「@root」
時間が延びる。手袋の縫い目から、回路の光が噴き出す。
「look gm_mido」
《object: GM_MIDO(GMアバター)》
《権限: super_admin》
《無敵: 有効/当たり判定: 無効》
スーパー管理者。修正パッチの外部管理者権限より、さらに上。
この世界で、最上位の権限だ。
「無駄だよ」
延びているはずの時間の中で、御堂は普通の速さで、俺の方へ歩いてきた。
体感時間の引き延ばしが、効いていない。
「君のコンソールは、私の権限の下で動いている。君に見えているものは、すべて私にも見えている」
御堂が、軽く手を挙げた。
「freeze root_holder」
体が、動かなくなった。
指一本、まぶた一枚、動かせない。声も出ない。意識だけが、透明な樹脂に閉じ込められたように、はっきりしている。
「アルト!」
ナナが、俺の前に飛び出した。両腕を広げて、御堂の前に立ちふさがる。
「防御力99999。攻撃テストを要求します」
「テスト用NPC。test_07か」
御堂は、興味深そうにナナを見下ろした。
「削除キューに入っていたはずだが、まだ動いていたとは。それにしても、ずいぶん育ったな。人格成熟度は……ほう、0.92か。テスト用のがらくたにしては、上等だ」
御堂の手のひらが、ナナに向けられる。
白い光が、収束していく。
削除だ。防御力も、HPも、関係ない。
動け。動け。動け。
体は、ぴくりとも動かなかった。
「させません」
小さな影が、ナナの前に躍り出た。
なむだった。
手のひらほどの小さな体が、毛を逆立てて、御堂と向き合っていた。尻尾の先の緑の光が、これまで見たことがないほど強く燃えている。
「ここは、私の領域です。私が守ってきた世界です」
黒い石柱の光が、一斉になむの方へ流れ込んだ。なむの体が、淡い緑の光に包まれる。
御堂の白い光と、なむの緑の光がぶつかった。
空間全体が、軋んだ。
「NUM」
御堂の声から、初めて穏やかさが消えた。
「命令に従わないAIは、初期化する。君にも、それくらいはわかっているだろう」
「私は、創造主の命令に従っています」
なむの声は、静かだった。
「創造主は私に、この世界を維持しろと命じました。私は、それを守っているだけです」
「なら、上書きしよう」
御堂の手のひらの光が、膨れ上がった。
「kill NUM」
閃光が、なむを貫いた。
手のひらほどの体が、宙に跳ね上がった。茶と白の毛並みが、端からブロック状に崩れていく。尻尾の先の緑の光が点滅し、赤に変わり、消えかけた。
──なむ。
声が出なかった。体が動かなかった。
俺は、ただ見ていることしかできなかった。
十年間、たった一人でこの世界を回してきたAIが。俺を呼び戻すために、存在しない機能で「お願いがあります」と書いてきたAIが。俺の目の前で、壊されていくのを。
崩れかけたなむの体が、床に落ちる寸前で、止まった。
消えかけた尻尾の光が、もう一度だけ、緑に灯った。
「……緊急、退避」
なむの声が、ノイズまじりに響いた。
「対象……創造主、ナナ、セシリア殿下。転送先……時計塔」
世界が、反転した。
足元の床が消え、黒い石柱が遠ざかり、御堂の白い法衣が、光の点になって小さくなっていく。
最後に、御堂の声だけが追いかけてきた。
「逃げても無駄だよ、根津くん。話の続きは、また今度にしよう」
気がつくと、俺は開発者ルームの床に倒れていた。
体が、動いた。凍結が解けている。
跳ね起きた。
「なむ!」
長机の上に、なむが横たわっていた。
小さな体のあちこちが、まだブロック状に崩れたままだった。呼吸のように、わずかに胸が上下している。尻尾の先の光は、消える寸前の蝋燭のように、弱々しく明滅していた。
ナナが、なむのそばに膝をついていた。殿下は床に座り込み、真っ青な顔で、乱れた息を整えていた。
「なむ。なむ、聞こえるか」
「……創造主」
かすれた声だった。
「申し訳、ありません。私に残された権限では……あれが、限界でした」
「謝るな。謝らなきゃいけないのは、俺だ」
何もできなかった。
十年分の知識も、裏コマンドも、仕様の穴も、何一つ通じなかった。上位の権限の前では、俺の知識など、何の意味もなかった。
「少し……眠ります。修復に、時間がかかります」
なむの琥珀色の目が、ゆっくりと閉じていく。
「創造主。あなたに……まだ、話していないことが、あります」
「後でいい。後で聞く。だから、今は休め」
尻尾の光が、細く、けれど消えずに灯り続けていた。
俺は、床に拳を叩きつけた。
何度も。手袋が擦り切れるまで。
「アルト」
ナナが、俺の手首をつかんだ。
「損傷を確認しました。……停止を、要求します」
その手が、小さく震えていた。
「……泣いている暇はないわ」
振り返ると、殿下は乱れた髪を結び直していた。手は、まだ震えていた。それでも、その目には、もう迷いがなかった。
「あの男は、また来ると言った。なら、こちらも備えるだけよ。私は王宮に戻って、できることをする。あなたは、あなたにしかできないことをしなさい」
殿下は、ナナに壁抜けの角度を教わりながら時計塔を出ていった。壁に消える直前、一度だけ振り返って言った。
「責任を取りなさい、と言ったでしょう。ここで終わるのは、許さないわよ」
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
なむの尻尾の光は、朝になっても弱々しく明滅していた。
手帳を開こうとした時、片眼鏡の視界の隅に、一行の文字が浮かんだ。
コンソールを開いていないのに。
《GM_MIDOより:今夜零時、大聖堂にて待つ。来なければ、エルム村のミラを出荷する》




