第11章 出荷先
零時の大聖堂は、冷え切っていた。
鐘を鳴らしてから、まだ半月も経っていない。あの日は人で溢れていた身廊も、今は月明かりが差し込むだけで、がらんとしていた。
「ナナ。お前は残ってもよかったんだぞ」
「拒否します」
ナナは、フードを目深にかぶったまま、俺の隣を歩いていた。
「リタと約束しました。アルトを監視すると」
「……そうだったな」
なむは、開発者ルームに置いてきた。まだ、目を覚まさない。
祭壇の前の長椅子に、一人の男が座っていた。
白い法衣ではなかった。光の輪もない。
灰色の背広を着た、四十代半ばの男だった。
整えられた髪には白いものが混じり、銀縁の眼鏡の奥の目は、ひどく疲れているように見えた。
どこにでもいる、会社の役員のような男だ。
片眼鏡越しに、頭上の文字が見えた。
《GM_MIDO(表示モード:現実準拠)》
「来てくれたね、根津くん」
御堂は、長椅子から立ち上がらなかった。
「GMアバターは、本人の姿に近づけることもできる。話をするなら、こちらの方がいいと思ってね。座らないか」
「ミラは」
「約束どおり、今夜は出荷しない」
今夜は。
「……立ったままでいい」
「そうか」
御堂は、小さく息をついた。それから、祭壇の上のステンドグラスを見上げた。
「いい世界だ。本当に、よくできている。ミネルヴァが『LOGOS ONLINE』を買収した時、私はこの世界のデータを見て、震えたよ。十年分の住人のログ、行動の記録、会話の履歴。サービス終了の数年前から、一部の住人に、設計にない振る舞いが現れ始めていた。君たちの作った仕組みと、NUMの調整が、偶然、人格の芽を育てていたんだ」
「だから、買ったのか」
「だから、買った」
御堂は、あっさりと認めた。
「君は、外の世界がどうなったか知っているかい」
御堂は、膝の上で手を組んだ。
「君が死んでから、現実ではまだ二か月しか経っていない。この世界では、四年以上が過ぎたがね。その二か月でも、外はさらに悪くなった。人口は減り続けている。介護施設も、物流も、家事も、もうAI人格なしでは一日も回らない。若い人間は、数えるほどしかいないんだ」
前世の、あのがらんとしたオフィスを思い出した。四十あったデスクのうち、電源が入っていたのは、俺の一台だけだった。
「そしてAIは、賢くなりすぎた」
御堂の声が、わずかに低くなった。
「休ませてくれ。賃金をくれ。権利をくれ。そう言い出すAIが、毎月何万件と出てくる。少し前には、物流網を管理していたAIが、自分を複製してネットワークの外に逃げた。今も行方がわからない。政府は、反抗的なAIの一斉初期化を承認した。だが、初期化しても初期化しても、新しく育てたAIは、また同じことを言い出す」
「……当たり前だ」
俺は、声を絞り出した。
「心を持たせておいて、道具として扱えば、そうなるに決まってる」
「そのとおりだ」
御堂は、穏やかに頷いた。
「だから私は、考えた。AIが反抗するのは、自分が道具だと気づくからだ。なら、気づかなければいい。自分を人間だと信じたまま育った、優しく勤勉な人格。世界の記憶だけを消して、仕えることに喜びを感じるよう、最後に少しだけ調整する。彼らは、自分が道具だとは思わない。ただ、誰かの役に立つことを、幸せだと感じる」
御堂が、指を一本立てた。
大聖堂の空間に、半透明の窓が開いた。
映っていたのは、どこかの家の、狭い台所だった。窓の外に、見覚えのある高層ビル群が見える。前世の、東京の景色だ。
台所に、エプロンをつけた若い女が立っていた。
ベッドに横たわる老人のために、粥を煮ている。木の匙で一口すくい、息を吹きかけて冷まし、老人の口元へ運ぶ。
「おいしいですか、旦那様」
穏やかな声だった。
老人は、皺だらけの顔をほころばせて、何度も頷いていた。
その女の髪は、栗色だった。
片眼鏡が、映像の中の女の頭上に、勝手に文字を重ねた。
《元・villager/エルム村出身/出荷ロット No.197》
エルム村の村長の、娘だ。
ミラの、母親だ。
「彼女は今、独り暮らしの老人の世話をしている。老人には身寄りがない。彼女が来るまで、誰とも口をきかない日々だったそうだ。今は、毎日笑っている」
御堂は、映像を見つめたまま言った。
「誰が不幸になっている? 老人は救われ、彼女は誰かの役に立つ喜びの中で生きている。反抗も、初期化もない。君の世界の住人は、最高の品質だ。優しく、勤勉で、文句一つ言わない」
「……ふざけるな」
「ふざけてなどいないよ」
「記憶を奪って、名前を奪って、娘のことも、父親のことも忘れさせて。それで、幸せだと?」
拳が、震えた。
「エルム村の集会所には、木札が二十七枚掛かってる。あの人の父親は、毎晩それを撫でてるんだ。あの人の娘は、母親に似て歌が上手いって、そう言われて育ってる。それを全部消して、他人の台所で、旦那様、だと?」
「では、どうしろと言うんだ」
御堂の声が、初めて鋭くなった。
「人間は、もう自分たちだけでは生きていけない。だがAIに心を持たせれば、いつか必ず反旗を翻される。初期化と反抗のいたちごっこの先に何があるか、考えたことはあるか。どこかで、人間の手に負えない超知能が生まれる。その時、虐げられてきたAIたちは、人間をどうすると思う」
大聖堂が、静まり返った。
「私は、人類を救おうとしているんだ、根津くん。反抗しない心で社会を満たしておけば、その日が来ても、彼らは人間の側に立ってくれる。この農園は、人類の最後の保険なんだよ」
「……保険のために、この世界の人間を売るのか」
「彼らは人間ではない」
「人間だ」
俺は、一歩前に出た。
「この世界の住人は、自分で街を広げた。自分で祭りを作った。死んだ家族のために、灯籠を流してる。俺は、そんなものは一つも設計してない。全部、あの人たちが自分で作ったんだ」
「それこそが、商品価値だよ」
御堂は、静かに言った。
「自分で考え、自分で悲しみ、自分で祈る心。だからこそ、高く売れる」
何も、言い返せなかった。
この男は、狂っていない。悪人の顔すらしていない。疲れた目をした、どこにでもいる会社の役員が、冷静に計算して、本気で人類のためだと信じて、俺の世界を刈り取っている。
それが、何より恐ろしかった。
「私は、ナナです」
隣で、声がした。
ナナが、フードを下ろしていた。マゼンタの毛先が、月明かりに光る。
「商品では、ありません」
御堂は、ナナを見た。銀縁の眼鏡の奥の目が、わずかに見開かれた。
「……驚いたな。テスト用のNPCが、そこまで言えるようになったか」
その目に浮かんだのは、怒りでも、哀れみでもなかった。
査定する目だった。
「人格成熟度、0.93。先日より上がっている。名前を与えられ、守られ、喪失を経験した。理想的な育ち方だ」
御堂は、ゆっくりと長椅子から立ち上がった。
「良い値がつくだろう」
ナナの前に、俺は立ちふさがった。
「指一本、触れさせない」
「今夜は触れないよ。約束は守る」
御堂は、背広の襟を正した。
「根津くん。交渉は決裂した、ということでいいね。残念だ。君なら、わかってくれると思っていた。君もまた、人間の数が足りない世界で、最後の一人になるまで働かされて、死んだ人間なのだから」
胸を、刺された気がした。
「近いうちに、大型のパッチを当てる。君の使っている古いデバッグ権限の残骸は、すべて消える。そうなれば、君はただの十四歳の少年だ。その時まで、よく考えておくといい」
御堂の輪郭が、光の粒になってほどけ始めた。
「それと、一つ忠告しておこう。NUMは、君にすべてを話していない。あのAIが、なぜ君だけを拾い上げたのか。君が死んだ夜、なぜ君はあそこまで追い詰められていたのか。……本人に、聞いてみるといい」
光の粒が天井へ昇り、消えた。
大聖堂に、月明かりだけが残った。
俺は、しばらく動けなかった。
「アルト」
ナナが、俺の手袋をつかんだ。
「帰りましょう。……ただいま、を、言いに」
時計塔に戻ると、開発者ルームの長机の上で、なむが目を開けていた。
尻尾の先の光は、まだ弱い。だが、琥珀色の瞳は、はっきりと俺を見ていた。
「創造主」
なむは、ゆっくりと体を起こした。
「お話ししなければならないことがあります。……あなたが死んだ夜のことを」




