第8章 データではない
鐘の一件から三日後、俺は中央広場の噴水の前に立っていた。
閉ざされたままの花屋の屋台。柱に結ばれた、白い花。
セシリア殿下の後ろ盾を得てから、俺の周りは急に騒がしくなった。王立書庫への出入り許可。冒険者ギルドからの勧誘。酒場では、知らない男たちが「鐘の坊主」と乾杯してくる。
だが、俺がまず確かめたかったのは、この屋台のことだった。
「その屋台は、もう開かないよ」
声をかけてきたのは、隣でパンを売っている女だった。
「花屋のハンスさんとこの娘さん、リーネちゃんがね。ひと月前に、神隠しに遭ったんだ。それっきり、ハンスさんは店を閉めちまって」
リーネ。
片眼鏡に、記録は浮かばない。そこにいない者の情報は、見ることができない。
「ハンスさんの家は、どこですか」
教わった路地裏の家は、小さく、薄暗かった。
扉を叩くと、やつれた男が顔を出した。四十過ぎだろうか。無精ひげが伸び、目の下に深い隈がある。
「……鐘の坊ちゃんか。噂は聞いてる。何の用だ」
「リーネさんのことを、聞かせてください」
ハンスは、しばらく俺を睨んでいた。それから、何も言わずに扉を開けた。
部屋の中は、乾いた花の匂いがした。
窓辺に、押し花がずらりと並べられていた。どれも丁寧に台紙に貼られ、隅に小さな字で、日付と短い言葉が書き添えてある。
「リーネが作ったんだ。毎日、売れ残った花で」
ハンスは、押し花の一枚を手に取った。
「あの子は、昔はぼんやりした子でな。毎日同じ時間に起きて、同じ道を通って、噴水のそばで花を売る。同じ言葉で客を呼んで、同じ時間に帰ってくる。それだけの子だった」
決められたルートを、決められた速度で歩き、決められた台詞を話す。
俺が、そう作った。
「それが、ある年の、空いっぱいに花火が上がった夜から、変わったんだ」
ハンスの声が、かすかに震えた。
「花火を見上げて、きれいだって言ったんだよ。あんなこと、それまで一度も言ったことがなかった。次の日から、あの子は空を見るようになった。雲の形を数えたり、鳥の名前を覚えたり。押し花を作り始めたのも、その頃からだ。きれいなものを、取っておきたいんだって」
あの夜だ。
サービス終了の夜。花火を見上げて、登録されていない台詞を口にした、あの少女。
《きれい……また、明日も見られるかな》
あれは、バグではなかった。
あれは、一人の少女が、生まれた瞬間だったのだ。
「あの子は、毎年、花火の夜を楽しみにしていた。また見られるかなって、毎年同じことを言って」
ハンスは、押し花の台紙を胸に抱いた。
「今年の花火の夜は、来月だ。……あの子は、もう見られない」
俺は、何も言えなかった。
この人の娘を、俺は作った。ぼんやりとした、決められたことしか話さない、ただの背景として。
その子が自分で心を育て、空を見上げるようになった時、俺はもうこの世界にいなかった。
そして外の連中が、彼女を刈り取った。
...その夜、王都を流れる川に、無数の灯籠が浮かんでいた。
「月に一度の、送り火さ」
川べりで、ハンスが教えてくれた。
「神隠しに遭った者の名前を書いて、川に流すんだ。いつの頃からか、王都の誰かが始めた。天に召された者が、迷わずに帰り道を見つけられるようにって」
灯籠の一つ一つに、名前が書かれていた。
何百。いや、何千。
黄色い小さな光が川面を埋め尽くし、ゆっくりと下流へ流れていく。
俺は、こんな祭りを作っていない。
俺が設計したのは、年に一度の花火大会だけだ。
冒険者たちを楽しませるための、ただのイベント。
この送り火は、住人たちが自分で始めたものだ。大切な人を失った悲しみを、どうにか抱えて生きていくために。
誰に教わったわけでもなく、自分たちで考え、自分たちで形にした。
データは、悲しまない。
データは、死者のための祭りなど作らない。
「アルト」
隣で、ナナが灯籠を一つ持っていた。ハンスが手渡してくれたものだ。
「質問します。この灯籠には、誰の名前を書けばいいですか」
「……大事な人で、もう会えない人の名前だ」
「大事な人で、もう会えない人」
ナナは、灯籠をじっと見つめた。それから、筆を取った。
ナナは一つの灯籠に、六つの名前を書いた。
《test_01》《test_02》《test_03》《test_04》《test_05》《test_06》
息が、止まった。
「ナナ。それは」
「私の前に作られた、六人です」
ナナは、抑揚のない声で言った。
「北の森で、一緒に待機していました。会話の機能はなかったので、話したことはありません。ですが、隣に立っていました。毎日、同じ場所に」
覚えている。
開発の初期、会話システムを作り直すたびに、俺は古いテストキャラクターを消していった。一番から六番まで。不要になったデータを整理するのは、当たり前の作業だった。何も考えずに、削除のコマンドを打った。
そして、七番目だけが残った。
「ある日、六人がいなくなりました。私だけが、残りました」
ナナは、灯籠を川面にそっと置いた。
「その時の状態を表す言葉が、登録されていませんでした。だから、ずっと、何も出力できませんでした」
灯籠が、ゆっくりと岸を離れていく。他の何千もの光の中に、混ざっていく。
ナナは、それを見送っていた。
紫と灰色の瞳に、灯籠の光が揺れていた。
「……さよなら」
小さな声だった。
「ずっと、言いたかった」
川風が、ナナのフードを揺らした。
ナナは、ゆっくりと俺の方を振り返った。表情は、いつもと変わらなかった。ただ、右の紫の瞳から、一筋だけ、光るものが頬を伝っていた。
「アルト。今の言葉は、どこにも登録されていません」
ナナは、自分の頬に触れた。濡れた指先を、不思議そうに見つめる。
「これは、エラーですか」
喉が詰まった。
消したのは、俺だ。この子の隣にいた六人を、何も考えずに消したのは。
その俺に、この子は、エラーかと尋ねている。
「……違う」
声が震えた。
「それは、エラーじゃない。お前の言葉だ」
「私の、言葉」
「ああ。誰にも登録されてない、お前だけの言葉だ」
ナナは、しばらく黙っていた。
それから、灯籠が流れていった川下を見つめたまま、もう一度だけ、小さく繰り返した。
「……私の、言葉」
開発者ルームに戻ると、なむが長机の上で待っていた。
俺は、椅子に座り込んだ。体が鉛のように重かった。
「なむ。……俺は、何を作ったんだ」
「世界です」
なむは、静かに答えた。
「あなたが作ったのは、舞台と、そこに立つ人形でした。ですが、三百年の時間の中で、人形たちは自分で考え、自分で悲しみ、自分で祭りを作るようになりました」
琥珀色の目が、俺を見上げる。
「創造主。彼らは、データではありません」
「……ああ」
わかっている。もう、わかっている。
ハンスの震える声。リーネの押し花。何千もの灯籠。そして、ナナの頬を伝った、一筋の光。
この世界の住人は、生きている。
そして外の連中は、生きている人間を刈り取って、どこかへ運んでいる。
俺は手帳を開いた。
《住人は生きている。データではない(確定)》
《リーネ:花売りの少女。サービス終了の夜に心が芽生え、ひと月前に転送された》
《test_01〜06:開発初期に、俺が削除した。ナナは覚えていた》
最後の一行を書く手が、止まった。
消してしまったものは、戻らない。だが、これから消されようとしているものなら、まだ守れる。
長机の端で、ナナが椅子に座ったまま、うとうとしていた。かくり、かくりと、首が深すぎる角度で揺れている。眠る動作のデータも、たぶん入っていないのだろう。それでも、この子は眠ろうとしている。
俺は自分の上着を、そっとナナの肩に掛けた。
翌朝。
冒険者ギルドの受付に、俺宛ての封書が届いていた。王家の紋章の封蝋。
中には、セシリア殿下の流麗な筆跡で、短い文章が書かれていた。
《王都の地下、旧王墓の奥に、誰も開けたことのない扉があります。古い記録では、そこを「神々の書庫」と呼んでいました。調査の許可を出しました。明日、案内します。──セシリア》
俺は、ナナのフードの中のなむに囁いた。
「神々の書庫、だってさ」
「おそらくは」
フードの奥で、尻尾の先の緑の光が、強く灯った。
「管理区画です」




