第7章 仕様外の魔物
「アルト? 本当に、アルトなのか」
騎士団の宿舎の前で、長兄のルーカスは目を見開いた。
二十二歳。父譲りの角張った顎に、短く刈った灰銀の髪。騎士団の青い制服の胸には、小隊長の徽章が光っている。
兄は父からの手紙を読み終えると、深く息を吐いた。
「麦畑の話は、手紙で読んだ。……お前が、冒険者か」
「家を立て直したいんです」
「実家に金貨を二百枚送ったそうだな。父上の手紙の字が、震えていた」
ルーカスは、俺の頭に手を置いた。大きくて、硬い手だった。
「よくやった。だが、無茶はするな。王都は今、物騒だ」
「神隠しですか」
兄の手が、ぴくりと止まった。
「……知っているのか」
「エルム村で見ました」
ルーカスは周囲を見回し、声を落とした。
「王都でも、この一年で百人以上が消えている。だが騎士団には、調べるなという命令が下りている。大神殿が、神の御業に人が手を出すべきではないと、王宮に進言したそうだ」
大神殿。外の連中は、この世界の信仰まで利用しているのか。それとも、住人たちが自分で理由を探した結果なのか。
「それに、ここ最近は妙な魔物の噂もある。城壁の外で、見たこともない灰色の獣が目撃されている。剣が通じなかったという話まである」
「剣が、通じない」
「噂だ。……お前は近づくなよ」
俺は曖昧に頷いた。
ログ・リーダー越しに見た兄の頭上には、こう浮かんでいた。
《ルーカス・ラディクス(騎士団・第三小隊長)》
《人格成熟度: 0.81》
背筋が冷えた。
兄もいつか、刈り取られる側に入るかもしれない。
灰色の獣が王都に現れたのは、それから五日後のことだった。
昼下がりの西区市場。俺とナナが露店で林檎を買っていた時、空気が軋んだ。
広場の真ん中の空間に、亀裂が走った。ガラスにひびが入るように、何もない宙に白いノイズの線が広がっていく。
亀裂の向こうから、それは這い出してきた。
狼に似ていた。だが、体の表面は毛皮ではなく、尖った灰色の板を無数に貼り合わせたような、ぎざぎざの多面体だった。目があるはずの場所には、赤い光の点が二つ、不規則に明滅している。
一体、三体、十体。
悲鳴が上がった。露店がひっくり返り、人々が逃げ惑う。
俺は片眼鏡越しに、獣を見た。
《unregistered_entity(名称未登録)》
《HP: ∞(無敵フラグ)》
《生成元: [external]》
《目的: 刺激イベント(成熟促進)》
──成熟促進。
頭の中に、エルム村の木札が並んだ。歌が上手かった。よく笑った。誰にでも優しかった。
人格は、何で育つ。喜びで。悲しみで。
そして、恐怖と喪失で。
危機に直面した人間は、誰かを守ろうとし、誰かを失い、そうして心を育てる。
外の連中は、それを知っている。だから、魔物を放った。住人たちの心を、早く実らせるために。
「ふざけるな……!」
「騎士団だ! 市民は下がれ!」
青い制服の一団が、広場に駆け込んできた。先頭にいるのは、ルーカスだった。
騎士たちが剣を振るう。刃は確かに獣を捉えた。だが、灰色の板が火花を散らすだけで、傷一つつかない。
獣の牙が、騎士の一人の盾を噛み砕いた。
「下がれ! 隊列を崩すな!」
ルーカスの声が響く。だが、無敵の相手に、隊列も戦術も意味をなさない。騎士たちはじりじりと後退していく。その背後には、逃げ遅れた市民たちがいた。
「@root」
時間が延びる。
「kill unregistered_entity」
《エラー:権限が不足しています》
やはり、外部の権限で作られたものには、直接は手が出せない。
なら、考えろ。仕様を思い出せ。
そもそも、なぜ王都に魔物が出る。
『LOGOS ONLINE』の王都は、安全地帯だった。街の中では、魔物は出現できない。プレイヤーが安心して休めるように、どのMMOにも必ずある仕様だ。
「look zone.ludwig_capital」
《zone: 王都ルートヴィヒ》
《safe_zone: false(変更元: [external])》
《lock: なし》
──ロックが、かかっていない。
外の連中は、安全地帯の設定を切っただけで、鍵をかけていなかった。住人には触れられない場所だと、高をくくっているのだろう。
だが、俺の権限で直接書き換えれば、それこそ監視に捕捉される。
別の道がある。
開発の終盤、俺はある隠しイベントを仕込んでいた。
「聖域の鐘」。王都が魔物に襲われた時、大聖堂の鐘を決まった順番で鳴らすと、街の結界が再起動し、安全地帯が戻る。いつか大型アップデートで使うつもりで、誰にも教えずに埋めておいたイベントだ。
鳴らし方の手がかりだけは、王都の子供たちが歌う数え唄に紛れ込ませておいた。
三つ鳴らして、二つ待て。もう一つ鳴らせば、門は閉じる。
イベントは、世界の正規の仕組みとして動く。俺の権限は、使わずに済む。
「exit」
延びていた時間が戻る。
「ナナ、大聖堂の鐘楼に行く!」
「了解しました」
大聖堂の鐘楼は、広場の北の端にそびえていた。
だが、扉には太い鎖が巻かれていた。もう何年も、誰も鐘を鳴らしていないのだ。外壁には足場もない。
「登る手段がない……!」
「提案します」
ナナが、外套の内側から剣を取り出した。テスト用の剣。一本、二本、三本──。
ナナは、それを鐘楼の石壁の継ぎ目に、次々と突き立てていった。
攻撃力はゼロでも、剣としての当たり判定はある。刃は石の隙間に深々と刺さり、ぴたりと止まった。
九十九本の剣が、鐘楼の壁を斜めに這い上がる、銀色の階段になった。
「……お前、本当に天才だな」
「該当する評価は、登録されていません。急いでください」
剣の階段を駆け上がる。背後の広場で、獣の咆哮と騎士たちの怒号が響いている。
鐘楼の頂上に着いた。巨大な青銅の鐘が、埃をかぶって吊り下がっていた。
鐘を突く撞木の綱を、両手で握る。手袋越しにも、綱のざらつきが伝わった。
三つ鳴らして。
ごおん。ごおん。ごおん。
王都中に、鐘の音が響き渡った。
二つ待て。
一。二。
広場から、獣の咆哮が聞こえる。誰かの悲鳴。
焦るな。仕様どおりに。
もう一つ、鳴らせば。
ごおおん。
最後の一打が、空に溶けていった。
次の瞬間、王都を囲む白い城壁が、内側から淡く光り始めた。光は城壁を伝って広がり、王都の空を、薄い硝子のような半球で覆っていく。
広場の獣たちが、動きを止めた。
灰色の板が、端から崩れていく。亀裂から這い出してきた時とは逆に、白いノイズになってほどけ、宙に消えていく。
鐘楼の上から、それを見届けた。
広場で、騎士たちが呆然と立ち尽くしている。逃げ遅れた市民たちが、互いに抱き合っている。
ルーカスが、鐘楼を見上げていた。
片眼鏡の視界の隅に、一行だけ文字が浮かんでいた。
《[監視プロセス] 想定外のイベント起動を検知。発生源を照合中……照合不能》
照合不能。俺の権限は使っていない。連中には、誰が鐘を鳴らしたのかわからないのだ。
──知識だけで、連中の目をかいくぐれる。
剣の階段を降りると、鐘楼の下に人だかりができていた。
その中心に、一人の少女が立っていた。
歳は十七ほど。蜂蜜色の髪を後ろで一つに束ね、乗馬服に細身の剣を佩いている。背後には、白銀の鎧をまとった近衛騎士たちが控えていた。
ルーカスが、その少女の前で片膝をついた。
「セシリア殿下」
殿下。
片眼鏡越しに、頭上の文字が見えた。
《セシリア・ルートヴィヒ(第二王女)》
王女は、俺をまっすぐに見た。翡翠色の、よく光る目だった。
「あなたが、鐘を鳴らしたの?」
「……はい」
「三つ鳴らして、二つ待ち、もう一つ」
王女は、ゆっくりと言った。
「王家に伝わる古い数え唄と、まったく同じ鳴らし方ね。あの唄が鐘のことを歌っているなんて、王宮の学者は誰も気づかなかった。私だって、ただの子守唄だと思っていた」
その目が、細められた。値踏みするように。それでいて、どこか楽しげに。
「あなた、名前は」
「アルト・ラディクスです」
「ラディクス。……ルーカスの弟ね」
王女はくすりと笑い、俺に手を差し出した。
「私は、この国の古い伝承と遺跡を調べているの。あなたの知っていることを、もっと聞かせてほしい。その代わり、あなたの後ろ盾になってあげる。王都で何かをするには、後ろ盾が要るでしょう?」
俺は、差し出された手を見つめた。
王女の後ろ盾。王都の書庫。遺跡を調べる許可。
管理区画への道を探すのに、これ以上の味方はいない。
「……よろしくお願いします、殿下」
俺はその手を取った。手袋越しに、王女の手のひらの温かさが伝わってきた。
その夜、王都の酒場は、鐘を鳴らした少年の噂で持ちきりだったという。




