第6章 王都へ
「王都へ行かせてください」
エルム村から戻った日の夕食で、俺は父に頭を下げた。
黄金色の麦は、例年の倍の実りをつけていた。冬を越す心配は、ひとまずなくなった。だが、ラディクス家の借金が消えたわけではない。屋敷の屋根は雨漏りし、領民の家の半分は傾いている。
「王都で冒険者として稼ぎます。それに、学びたいこともある。ラディクス家を、立て直したいんです」
嘘ではなかった。本当の目的の、半分しか言っていないだけだ。
父は、しばらく黙って俺を見ていた。
「……麦畑の一件から、お前は変わったな」
どきりとした。
「熱から目を覚ましてからだ。目つきが、まるで大人のようになった」
父は小さく笑い、懐から一通の手紙を取り出した。
「ルーカスへの紹介状だ。王都に着いたら、まずあいつを訪ねなさい。騎士団の宿舎にいる」
「……許してくれるんですか」
「止めても行くのだろう。なら、せめて頼る先を持たせておきたい」
手紙を渡す父の手は、ごつごつと硬かった。俺はもう一度、深く頭を下げた。
三日後の朝。
屋敷の門の前で、リタが泣いていた。
「ナナちゃん、アルト様をお願いしますね。この方、放っておくと夜更かしして、ご飯も抜いちゃうんですから」
「了解しました。アルトの睡眠と食事を監視します」
「監視……ええと、はい、そんな感じで!」
リタはナナを抱きしめ、それから俺の手に包みを押しつけた。焼きたての黒パンと、干し肉と、蜂蜜の小瓶。
「お二人とも、ちゃんと帰ってきてくださいね」
ナナは、リタの腕の中でしばらく固まっていた。それから、ぎこちなく言った。
「……行って、きます」
リタが目を丸くした。それから、ぼろぼろと泣き出した。
「はい……! 行ってらっしゃい……!」
乗合馬車の荷台で、ナナは何度も後ろを振り返った。屋敷が見えなくなるまで。
「行ってきます、はどこで覚えた」
「昨日、リタが屋敷の子供たちに言っていました。出かける時に言う言葉だと」
「そうか」
「帰ってくる時は、ただいま、と言うそうです。……まだ、使ったことがありません」
ナナのフードの中で、なむが小さく喉を鳴らした。
王都ルートヴィヒに着いたのは、二日後の昼だった。
馬車を降りた瞬間、俺は立ち尽くした。
知らない街だった。
いや、知っている。白い城壁。中央にそびえる王城の尖塔。大聖堂の鐘楼。どれも、俺が設計したものだ。
だが、城壁の外側に、俺が作っていない街が広がっていた。
赤い瓦屋根の家々が、丘の斜面を埋め尽くしている。城壁の内側にも、見たことのない建物がいくつも建っていた。三階建ての商館。石造りの橋。広場に立つ、知らない英雄の銅像。
「……住人が、自分たちで街を広げたのか」
「はい」
フードの中から、なむが答えた。
「この世界では、三百年近い時間が流れています。住人たちはその間に家を建て、道を通し、新しい祭りを作りました。あなたが設計していないものの多くは、彼らが自分の手で作ったものです」
胸の奥が、熱くなった。
俺が作ったのは、ただの舞台だった。その舞台の上で、住人たちは三百年分の暮らしを積み上げてきたのだ。
中央広場の噴水に向かった。
サービス終了の夜、花売りの少女が立っていた場所だ。
噴水は、記憶のままだった。だが、そのそばにあったはずの花屋の屋台は布をかけられ、閉まっていた。屋台の柱に、白い花が一輪だけ、手向けるように結ばれている。
嫌な予感がした。だが、確かめるのは後だ。今は、やるべきことがある。
「まずは、金だ」
「資金の確保ですか」
「ああ。宿代も、情報を買う金も、装備も要る。なにより、実家に仕送りがしたい」
俺は手帳を開き、ページの隅に書いておいた数字の列を見た。
《東門外・三本杉・根元から北へ十二歩・深さ一メートル》
未実装のまま終わったクエスト「失われた王冠」。その報酬として、開発初期に配置した宝箱の座標だ。クエスト自体はお蔵入りになったが、宝箱を消した記憶はない。
東門を出て、街道沿いの三本杉を見つけた。根元から北へ、十二歩。
ナナがテスト用の剣を一本取り出し、黙々と地面を掘り始めた。攻撃力ゼロの剣でも、土は掘れるらしい。
一メートルほど掘ったところで、剣先が硬いものに当たった。
苔むした鉄の小箱だった。蓋を開けると、中で深紅の宝石が光っていた。
《王家の紅玉》。クエストの最後に、王へ献上するはずだった宝石だ。
王都の宝石商は、紅玉を見るなり顔色を変え、金貨三百枚を提示してきた。ラディクス領の税収の、五年分だ。
俺はそのうち二百枚を、その日のうちに実家へ送った。手紙には、「冒険者として、最初の仕事がうまくいきました」とだけ書いた。
その夜、俺は旧市街の外れにある、古い時計塔の前に立っていた。
王都の創建当時からある塔だ。今はもう針が止まり、誰も近づかない。
ナナが疑問を呈した。
「アルト。この塔に、入口は見当たりません」
「ああ。普通に入る方法はない」
俺は塔の北東の角に立ち、石壁の継ぎ目を見上げた。
「開発者ルームって、知ってるか」
「該当する知識は、登録されていません」
「ゲームの中に、開発チームがこっそり作る隠し部屋のことだ。スタッフの名前を書いたり、記念品を置いたりする。普通のプレイヤーは、まず入れない」
『LOGOS ONLINE』にも、それがあった。
ローンチ前夜、チーム全員で作った部屋だ。そこへ入る方法は、開発チームしか知らない。
この角の石壁には、当たり判定の隙間がある。壁に向かって斜め四十五度の角度で、歩き続ければいい。
「@rootは使わないのですか」
「使わない。コンソールを開けば、監視に見つかるかもしれない。これはただの壁抜けだ。不具合を知ってさえいれば、誰にでもできる」
俺は壁の継ぎ目に右肩を当て、角度を調整して、ゆっくりと足を踏み出した。
一歩。二歩。
三歩目で、体が石の中に沈んだ。
冷たいゼリーをくぐるような感覚。視界が一瞬、灰色のノイズで埋まり、すぐに晴れた。
俺は、塔の内側に立っていた。
ごん、と背後で鈍い音がした。壁の向こうから、ナナの声が聞こえる。
「衝突を確認しました。……角度の再計算を要求します」
「四十五度だ。右肩から」
二度目の、ごん。
三度目で、ナナはするりと壁を抜けてきた。額が少し赤い。フードの中で、なむがぐったりしていた。
塔の内部には、螺旋階段が上へ続いていた。上りきった先に、一枚の扉があった。
扉には、木の札が掛けられていた。
この世界の文字ではなかった。日本語だ。
《関係者以外立入禁止》
扉を開けた。
埃の匂いがした。
六畳ほどの部屋だった。長机が二つ。椅子が六脚。壁際に、宝箱が一つ。そして奥の壁一面に、白い板が掛けられていた。
ホワイトボードだ。
開発チームの、寄せ書き。
《ローンチおめでとう! ──チーム一同》
《バグは友達。でも今夜だけは出てこないで》
《@rootさん、たまには家に帰ってください》
《このゲームが、誰かの居場所になりますように》
四十人分の下手くそな字が、そこにあった。三百年分の埃をかぶっても、一文字も消えずに。
指先で、最後の一行をなぞった。
書いたのは、俺だ。ローンチ前夜、徹夜明けの頭で、照れくさくて名前も書かずに。
「アルト」
ナナが、俺の顔を覗き込んだ。
「目から、水分が出ています。損傷ですか」
「……違う。埃が目に入っただけだ」
俺は袖で顔を拭い、宝箱を開けた。
中身は、開発チームが悪ふざけで詰め込んだ記念品だった。
まず、金貨の詰まった革袋。デバッグ用に作った金貨で、見た目は本物と区別がつかない。数えると、ちょうど九百九十九枚あった。
それから、真鍮の縁取りをした片眼鏡が一つ。
手に取った瞬間、思い出した。開発中、コンソールを開かずに物の情報を確かめるために作った道具だ。チームでは「ログ・リーダー」と呼んでいた。
かけてみると、視界の中の物や人の頭上に、名前と簡単な情報が浮かび上がった。
《ナナ(test_07)》
《なむ(NUM・管理端末)》
書き換えはできない。見るだけだ。だが、コンソールを開かずに済む。監視の目に引っかかる心配もない。
「この部屋は、外の者たちに見つかっていません」
なむがナナのフードから這い出して、長机の上に降り立った。
「外部の記録から、この部屋の存在は抜け落ちています。開発チームが、どの記録にも残さずに作った場所だからでしょう」
「つまり、ここは」
「はい。王都で唯一、外の者たちの目が届かない場所です」
拠点だ。
俺は、ホワイトボードをもう一度見上げた。
このゲームが、誰かの居場所になりますように。
十一年前の俺たちが残した願いが、今、俺たちの居場所になろうとしている。
「ナナ」
「はい」
「今日から、ここが俺たちの家だ。帰ってきたら、言う言葉があるだろ」
ナナは、少しだけ考えるように首をかしげた。かくり、と、ほんの少しだけ角度が大きすぎる動きで。
「……ただいま」
「おかえり」




