第5章 神隠しの村
「アルト様。……その子は、どなたですか」
屋敷の勝手口で、リタが固まっていた。
無理もない。薬草を探しに行ったはずの主人が、裸足の少女を連れて帰ってきたのだから。しかも少女の頭の上には、茶と白の毛玉のような子猫が乗っている。
「森で迷ってたんだ。名前はナナ」
「こんにちは、テストです」
「て、てすと……?」
「訂正します。こんにちは、ナナです」
ナナは深々と頭を下げた。下げすぎて、頭の上のなむが前に転げ落ちそうになり、小さな爪でナナの髪にしがみついた。
「にゃ」
なむが、一声だけ鳴いた。人前では、ただの子猫のふりをするつもりらしい。
リタはしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて、ナナの裸足の足元に目を留めた。
「……靴も履かずに、森を」
リタの顔が、くしゃりと歪んだ。
「待っていてください。私の古い靴と、外套を持ってきます。それから、温かいスープも!」
リタは、ばたばたと屋敷の奥へ駆けていった。
戻ってきたリタが持っていたのは、少し大きな革靴と、フードのついた灰色の外套だった。
ナナがフードをかぶると、毛先のマゼンタも、首元のタグも隠れた。
「よくお似合いです」
「外套。防御力は、上昇しましたか」
「ぼ、防御……? えっと、暖かくはなると思いますよ?」
「暖かい。……確認しました」
ナナは外套の襟を、両手できゅっと握った。
台所で、ナナはリタのスープを、匙を使わずに椀ごと飲もうとした。食事の動作データが入っていないのだと気づき、俺が匙の使い方を教えた。
三回目で、ナナは一滴もこぼさずに飲めるようになった。
「美味しい、という感想を出力すべき場面ですか?」
「思ったなら、言えばいい」
ナナは、少し考えるように椀を見つめた。
「……該当する感想が、登録されていません。ですが、もう一杯を要求します」
リタが、嬉しそうに笑った。
その夜、俺は屋敷の全員が寝静まるのを待って、窓から抜け出した。
ナナと、ナナのフードの中に収まったなむを連れて。
エルム村は、ラディクス領から南へ一時間ほど歩いた先にある。
月明かりの下で見る村は、異様だった。
どの家の前にも、松明が焚かれている。深夜だというのに、男たちが鍬や棒を手に、村の通りを見回っていた。誰もが、怯えた目をしていた。
「誰だ!」
村の入り口で、若い男に棒を突きつけられた。
「ラディクス家のアルトだ。この村で神隠しが起きていると聞いた」
「ラディクス家の……?」
男の後ろから、白髪の老人が進み出てきた。エルム村の村長だと名乗った。
「ラディクスの坊ちゃまが、こんな夜更けに。……ああ、もしや、麦畑の奇跡の」
噂は、もう隣村まで届いているらしい。
「何か、力になれるかもしれない。話を聞かせてほしい」
村長は迷うように俺を見ていたが、やがて深くため息をつき、村の集会所へ案内してくれた。
集会所の壁には、名前の刻まれた木札が、ずらりと掛けられていた。
「消えた者たちです」
村長が、木札の一枚に触れた。
「この二年で、二十七人。村の五人に一人が、いなくなりました。夜のうちに、何の前触れもなく。家族が隣で寝ていても、朝になれば寝床が空なのです」
二十七枚の木札。その中の一枚を、村長の指がそっと撫でた。
「わしの娘も、その一人です」
俺は、木札に刻まれた名前を一つずつ読んだ。名前の横には、村人たちが書き添えたのだろう、短い言葉が残されていた。
《歌が上手かった》
《よく笑う子だった》
《物知りで、子供たちに字を教えていた》
《誰にでも優しかった》
「……共通点が、あるんですね」
村長は、ゆっくりと頷いた。
「村の年寄りは、神様が気に入った者から連れていくのだと申しております。美しい心を持った者から、天に召し上げられるのだと」
美しい心を持った者から。
背筋に、冷たいものが這った。
「村長。次に誰が狙われるか、心当たりはありますか」
「……おそらくは、孫のミラです」
村長の声が震えた。
「あの子は、歌が上手い。消えた母親に似て」
集会所の隅で、一人の少女が膝を抱えていた。歳は十六ほど。栗色の髪を三つ編みにした、素朴な顔立ちの娘だった。
俺は手袋の上から、小さく呟いた。
「@root」
時間が延びる。
「look mila」
《object: villager_mila(エルム村)》
《人格成熟度: 0.97》
《転送基準値: 0.95》
《転送予定: 本日 23:00 ── 実行元: [external]》
息を呑んだ。
人格成熟度。そんなパラメータを、俺は作っていない。
そして、転送基準値。成熟度が基準を超えた住人から、順番に外へ運び出されている。
歌が上手い。よく笑う。物知り。優しい。
人格が育ち、人間らしくなった者から、消えていく。
コンソールの隅の時刻表示を見た。二十二時四十分。
あと、二十分。
「村長。今夜は、ミラから目を離さないでください。俺たちも、ここにいます」
二十二時五十八分。
集会所には、村長とミラ、それに数人の村人が集まっていた。誰も口を開かない。松明のはぜる音だけが響いている。
ナナは俺の隣で、フードを目深にかぶって座っていた。なむはフードの中で、じっと気配を殺している。
「なむ。外への転送を止める方法はあるか」
俺は小声で聞いた。
「転送処理そのものは、外部の権限で動いています。私には止められません」
フードの奥から、小さな声が返ってきた。
「ですが創造主。あなたは、あの夜のログを見たはずです」
あの夜。サービス終了の夜。
《transfer: npc_personality_data → [external]》
二十三時。
ミラの体が、淡く光り始めた。
「ミラ!」
村長が叫ぶ。ミラは自分の手を見下ろし、悲鳴を上げた。指先から、光の粒がほどけるように天井へ昇っていく。
見覚えがあった。
あの夜、広場の冒険者たちのアバターを包んで消した、あの光。
ログアウトの光だ。
「@root」
時間が延びる。ミラの悲鳴が、低く引き延ばされる。
連中は、ゼロから転送の仕組みを作ったわけじゃない。『LOGOS ONLINE』に元からあった、プレイヤーのログアウト処理を流用しているんだ。キャラクターのデータを、サーバーの外に送り出すための処理を。
ログアウトなら、俺が設計した。
そしてログアウトには、MMOなら必ず入っている制限がある。
戦闘中は、ログアウトできない。
敵と戦っている最中に逃げ出せないよう、どのゲームにも必ず入れる、基本中の基本の仕様だ。
ミラを、戦闘状態にすればいい。
だが、どうやって。ミラを本当に傷つけるわけにはいかない。
「アルト」
隣で、ナナが言った。
「攻撃テストを、提案します」
ナナは外套の中から、一本の剣を取り出した。
テスト用の剣。所持数、九十九本。
「この剣の攻撃力は、0に設定されています。攻撃の判定だけが発生し、損傷は発生しません」
「……お前、天才か」
「該当する評価は、登録されていません。実行しますか?」
「頼む!」
延びた時間の中を、ナナが滑るように踏み出した。テスト用の剣の刃先が、光にほどけかけたミラの肩に、そっと触れる。
ぺち、と気の抜けた音がした。
《ダメージ: 0》
《villager_mila: 戦闘状態に移行しました》
コンソールに、赤い文字が走った。
《転送エラー:対象は戦闘状態です》
《転送を中断します。再試行:未定》
光の粒が、逆流するようにミラの体へ戻っていく。
指先が、元の形を取り戻す。
ミラは、その場にへたり込んだ。
「……私、消えて、ない……?」
村長が、孫娘を抱きしめた。言葉にならない声を上げながら。
ミラは祖父の肩越しにナナを見つめ、涙でぐしゃぐしゃの顔で言った。
「ありがとう……ありがとう、ございます」
ナナは、しばらく動かなかった。
「感謝を……確認、しました」
いつもより、ほんの少しだけ、言葉の間が長かった。
「exit」
コンソールを閉じると、どっと疲れが押し寄せてきた。
「この方法は、二度は通じないでしょう」
フードの中から、なむが囁いた。
「外の者たちは、すぐに戦闘判定の抜け道を塞ぐはずです」
「……わかってる」
わかっている。今夜救えたのは、一人だけだ。
夜明け前、俺は村外れの丘で、もう一度コンソールを開いた。
ミラの転送が中断された時、エラーの記録と一緒に、転送処理のログが残っていた。
外の連中が消し忘れたのか。それとも、消す必要もないと思っているのか。
「show transfer_log --summary」
《転送処理:累計》
《エルム村: 27件》
《ルートヴィヒ王国全域: 4,812件》
《全世界: 31,406件》
《転送先: [external]》
三万一千四百六件。
そのすべてに、名前があった。歌が上手かった誰か。よく笑った誰か。子供に字を教えていた誰か。
俺が作った世界から、三万人以上の人間が、外へ運び出されている。
「なむ」
足元の子猫に、俺は問いかけた。
「外の連中は、運び出した人たちをどうしてる」
「……まだ、すべては掴めていません」
なむは、白み始めた空を見上げた。
「私にわかっているのは、外の者たちが、住人の人格が育つのを待ってから運び出していること。そして、その育ちを早めるために、この世界の時間を速めていることだけです」
時間の加速。人格成熟度。転送基準値。
この世界は、何かを育てるための畑にされている。
麦畑と同じだ。実ったものから、刈り取られていく。
「……ふざけるな」
声が震えた。
十年前、俺たちは、この世界を誰かの居場所にしたくて作った。冒険者たちが友達を見つけ、夕焼けを眺め、笑って過ごせる場所にしたくて。
その世界で生まれた命が、刈り取られている。
「アルト」
ナナが、俺の隣に座った。
「質問します。これから、どうしますか」
俺は手帳を開き、震える手でページに書いた。
《目的:この世界の不具合を直す》
ペンを強く押しつけすぎて、紙が少し破れた。
「直す。俺が作った世界の不具合は、俺が直す」
この世界で起きていることの責任は、俺にある。この世界を作り、守りきれずに死んで、外の連中に明け渡した、俺に。
「そのためには、もっと知らなきゃいけない。外の連中が何者で、何をしているのか。それに、もっと強い権限が要る」
「なら、王都へ」
なむが言った。尻尾の先の緑の光が、強く灯る。
「王都ルートヴィヒの地下には、この世界の管理区画へ続く道があります。外の者たちが何をしているのか、その記録が、そこに残っているはずです」
王都。
俺が最初に設計した国の、最初に設計した街。
丘の向こうで、朝日が昇り始めていた。三日かけて角度を調整した、あの太陽が。
「行こう。王都へ」
ナナが、こくりと頷いた。
今度は、深すぎないお辞儀で。




