第2章 @root
この世界に来て、三日が過ぎた。
熱はすっかり引き、体は驚くほどよく動く。十四歳の体というのは、こんなにも燃費がいいものだったのか。三十五歳の体で三日徹夜した後の、あの鉛のような重さが嘘のようだ。
その三日で、わかったことがいくつかある。
一つ。俺はアルト・ラディクス。ラディクス家の三男で、十四歳。
二つ。長兄のルーカスは王都の騎士団に勤めていて、ほとんど家に戻らない。次兄のフェリクスは、二年前に「冒険者になる」と書き置きを残して出ていったきり、行方が知れない。
三つ。この家は、本当に貧しい。
「……アルト。食べなさい」
食卓の向かいで、父のギルベルトが言った。
木の椀に入っているのは、豆が数粒浮いただけの薄いスープだ。黒パンは石のように硬い。
父の椀は、俺のものよりさらに中身が少なかった。
「父上は」
「私はいい。病み上がりのお前が先だ」
そう言って笑う父の頬は、俺の頬よりもこけていた。四十を少し過ぎたくらいのはずだが、目の下の隈は深い。
ラディクス家の領地は、王国の辺境にある小さな村ひとつと、その周りの畑だけだ。領民は百人足らず。その百人の暮らしを支えているのが、あの麦畑だった。
その麦が、二年続けて実っていない。
「今年も駄目なら、冬を越せない家が出る」
父は、スープの表面を見つめたまま言った。
「隣のヴァイス伯爵家が、領地ごと買い取ってもいいと言ってきている。領民の暮らしは、伯爵家の方が保証できるだろう」
「……それは、家を手放すということですか」
「家名など、民の腹の足しにはならんよ」
父は静かに笑った。
その笑い方に、覚えがあった。
サービス終了の決定を聞かされた夜、鏡の中で俺がしていた顔と同じだ。自分ではどうにもならないものを受け入れようとする、諦めの顔。
──この人は、データじゃない。
俺が書いた背景設定に、ギルベルト・ラディクスという名前はない。ラディクス家に当主がいることすら、決めていなかった。
それでもこの人は、ここで生きて、悩んで、自分の分のスープを息子に回している。
「父上。麦畑を、少し見てきてもいいですか」
「畑を? 見ても何も変わらんぞ」
「ちょっと、気になることがあって」
◇
灰色の麦は、近くで見るとさらに異様だった。
枯れているのではない。穂も茎も形は整っているのに、色だけが抜け落ちている。まるで、テクスチャの読み込みに失敗したオブジェクトのように。
俺は畑の畦に座り込み、膝の上に手帳を広げた。
書斎の引き出しで見つけた、革表紙の小さな手帳だ。三男の勉強用に買い与えられたものらしく、最初の数ページに拙い字で単語の書き取りがしてあるだけだった。
前世の癖で、俺は気になったことを片っ端から書き留めていた。
《作物の色:灰色。形状は正常。テクスチャ異常に類似》
《不作:二年前から。サービス終了との前後関係は不明》
《住人:自律的に会話し、感情を持つ。少なくとも、そう見える》
ペンを止める。
『LOGOS ONLINE』の作物には、成長値というパラメータがある。土壌値と季節係数を掛け合わせて毎朝算出され、一定値を超えると穂が黄金色に変わる。設計したのは俺だ。計算式は、今でもそらで書ける。
問題は、その値を確かめる手段がないことだった。
開発中なら、管理者用のコンソールを開いてオブジェクトの情報を参照するだけで済んだ。だが、ここにはキーボードもモニターもない。
「……コンソール、ね」
ため息まじりに、俺は呟いた。
開発チームのチャットで、何千回と打ち込んだ文字列を。
「@root」
──世界の速度が、落ちた。
風に揺れていた麦が、ひどくゆっくりと傾いていく。舞っていた砂埃が、空中で止まる寸前まで速度を失う。
そして視界いっぱいに、半透明の黒い窓が開いた。
《root shell ── 認証中……》
《認証:根津 創》
《権限:root(残存・一部制限)》
《ようこそ、創造主》
息が止まった。
見慣れた書式。見慣れたフォント。十年間、毎日向き合ってきた管理者コンソールそのものだった。
ふと、指先に熱を感じた。
見下ろすと、両手の指先から手の甲にかけて、細い光の線が走っていた。回路図のように枝分かれし、脈打つように明滅している。
「なんだ、これ……」
痛みはない。ただ、皮膚の下を電流が流れているような、ちりちりとした感覚がある。
考えるのは後だ。コンソールが開いているうちに、確かめるべきことがある。
俺は、目の前の麦に意識を向けた。
「look crop_wheat」
声に出すと、窓に文字が流れた。
《object: crop_wheat(ラディクス領・第三圃場)》
《growth_rate: 0.00(標準値:1.00)》
《soil_value: 0.82》
《season_coef: 1.10》
《lock: growth_rate ── modified_by: [external]》
成長値が、ゼロに固定されている。
しかもロックをかけたのは、外部。サーバーの外からの書き換えだ。
あの夜に見た転送ログが、頭をよぎる。
「set growth_rate 1.00」
《エラー:権限が不足しています》
弾かれた。俺に残っているのは、権限の残骸にすぎないらしい。ロックをかけた何者かのほうが、上位の権限を持っている。
普通なら、ここで手詰まりだ。
だが、俺は知っている。この世界の仕様を、誰よりも。
成長値は、直接入力される値ではない。土壌値と季節係数から毎朝算出される値で、外部の何者かは、その算出結果に蓋をしているだけだ。
なら、蓋ごと作り直させればいい。
開発中、収穫イベントの検証用に作った裏コマンドがある。成長計算をその場で一回だけ強制実行させる、デバッグ専用の命令だ。本番環境では無効化したはずだったが──。
「debug.recalc crop_wheat --force」
一瞬の沈黙。
《警告:本コマンドは開発環境専用です》
《……実行します》
消し忘れていた。
十年前の俺の、雑な仕事に感謝した。
《growth_rate: 再算出 → 1.04》
《lock: 対象値の再生成により無効化されました》
引き延ばされていた時間が、元の速さに戻った。
風が吹く。
灰色だった穂の先に、ぽつりと金色が灯った。それが茎を伝い、隣の株へ、そのまた隣へと、燃え移るように広がっていく。
見渡す限りの畑が波打つ黄金色に変わるまで、十秒もかからなかった。
「……は、はは」
笑いが漏れた。
できた。俺の世界の、俺のコードで。
その時、閉じかけたコンソールの隅に、赤い文字が一行だけ浮かんだ。
《[監視プロセス] 異常な値の変動を検知。照合中……》
背筋が冷えた。
反射的に「exit」と呟く。窓が消え、指先の光の線もすっと引いていった。
照合中。何かが、この世界を見張っている。
◇
「ア、アルト様ああああ!」
畦道の向こうから、リタが転がるように走ってきた。
「む、麦が! 麦が金色に! さっきまで灰色だったのに!」
「……うん。見てた」
「奇跡です! 女神様の奇跡です!」
リタの後ろから、村人たちが次々と畑に集まってくる。老人が穂を手に取り、涙を流していた。子供たちが畦道を駆け回っている。
少し遅れて、父が来た。
父は黄金色の畑の前で立ち尽くし、しばらく何も言わなかった。それから、震える手で麦の穂に触れた。
「……これで、冬を越せる」
かすれた声だった。
俺は、何も言わなかった。言えるはずがない。この畑を枯らしたのも、元に戻したのも、神の奇跡などではないのだから。
ただ、背中に回した両手を、強く握りしめた。
指先には、まだ回路の光の残り火が、かすかに明滅していた。
その夜。
自室の机で手帳を開いていると、扉が叩かれた。
「アルト様、頼まれていたものです」
リタが差し出したのは、黒い革の手袋だった。
「旦那様が若い頃にお使いだった、乗馬用の手袋です。少し大きいかもしれませんけど……でも、どうして急に手袋なんて?」
「手が冷えるんだ。病み上がりだから」
「それならいいんですけど……」
リタは首をかしげながらも、それ以上は聞かずに部屋を出ていった。
手袋をはめる。少し指が余るが、指先の光を隠すには十分だ。
《[監視プロセス] 異常な値の変動を検知》
あの一行が、頭から離れない。
この世界を書き換えている「外部」の何者かは、書き換えを元に戻す者がいれば、それを探そうとするだろう。そしてもし、この光を見られたら。
俺は手帳に書き加えた。
《@root:使用可能。ただし権限は残骸。外部のロックには直接触れない》
《裏コマンド:一部生存。十年前の消し忘れに注意(=感謝)》
《監視プロセス:存在。派手にやれば見つかる》
《詠唱中:体感時間が延びる。指先に回路状の発光。人に見せない》
ペンを置き、窓の外を見る。
月明かりの下、黄金色の麦畑が静かに揺れていた。
俺がこの世界を作った。そして、誰かがこの世界を壊している。
なら、直すのは俺の仕事だ。
ふと、もう一度だけ確かめたくなって、俺は小さく呟いた。
「@root」
窓が開く。新着のログが、一行だけ届いていた。
《NUM:森へ。あなたが忘れた子が、そこにいます》




