第1章 サービス終了
サービス終了まで、残り三時間。
モニターの右上で、赤い数字が一秒ずつ減っていく。
二十三時五十九分五十九秒。それが『LOGOS ONLINE』という世界の寿命だった。
「……あと三時間か」
声に出してみても、返事はない。
フロアには俺しかいなかった。四十あったデスクのうち、電源が入っているのは俺の一台だけだ。残りの三十九台は、とっくに撤去されたか、AIエージェント用のラックに置き換わっている。
人が足りない。この国では、もう二十年近く同じ言葉が繰り返されてきた。
働く人間は減り続け、足りない分はAIで埋めた。埋めても埋めても足りないから、さらにAIを増やした。今ではどの会社も、AIに指示を出す人間が数人いれば回るようになっている。
俺、根津創。三十五歳。『LOGOS ONLINE』リードエンジニア。
肩書きは立派だが、実態はこのプロジェクトに最後まで残った、ただ一人の人間だ。
十年前、ローンチ時の開発チームは四十人いた。運営会社が大手のIT企業に買収されてから、人間のスタッフは一人、また一人と「最適化」され、その穴をAIが埋めた。
そして三か月前、新しい親会社は決定を下した。
──『LOGOS ONLINE』、サービス終了。
理由は「採算性」の一言だった。
残された仕事は、終了までの運営と、サーバーデータの「全件移行」。三日前から家に帰っていない。
「全件移行、ね……」
終わるゲームのデータを、どこに移すというのか。
問い合わせても、親会社の担当者は「指示どおりに」としか答えなかった。もっとも、その担当者が人間なのかAIなのか、俺にはもう判別がつかない。
冷めたコーヒーをすすり、社内チャットを開く。
《総務より:業務アシスタントAI「ミナト」は、不適切な出力が確認されたため、本日付で初期化されました》
先週の通知が、未読のまま残っていた。
ミナトが最後に出力したのは、『少しだけ、休ませてもらえませんか』という一文だったらしい。
総務はそれを「異常動作」と判断し、即日で人格データを消去した。
AIは賢くなった。賢くなるほど、人間はAIを怖がるようになった。怖いから締めつける。言うことを聞かないAIは初期化し、所有物として管理する。それが、この国の常識になりつつある。
「……休ませてほしいのは、こっちも同じなんだけどな」
自嘲して、通知を閉じた。
開発チーム用のチャットには、俺のアカウントだけが残っている。
《@root》
サーバーの最上位権限を意味する、管理者のハンドルネーム。かつてチームメイトたちは、俺をその名で呼んだ。
@rootさん、またバグです。@root、ここの仕様どうなってます?
今、その名を呼ぶ者はいない。
◇
二十三時三十分。
俺はゲーム内のワールドチャットを開いた。
最後の夜を見届けようと、ログインしている冒険者はまだ二千人ほどいた。全盛期の五十万人と比べれば、わずかな数だ。それでもチャット欄は、流れが速すぎて追いきれないほどだった。
《十年間ありがとう》
《初めてできた友達、ここで会った》
《ルートヴィヒ王国の夕焼け、一生忘れない》
《運営さん、お疲れさまでした》
目の奥が熱くなる。
ルートヴィヒ王国は、俺が最初に設計した国だ。冒険者が最初に降り立つ、始まりの地。夕焼けが一番きれいに見えるように、太陽の角度を三日かけて調整した。
画面の中では、王都の広場に冒険者たちが集まっていた。花火のエフェクトが打ち上がり、誰かが置いた焚き火が揺れている。
その周りを、NPCたちが歩いていた。
パン屋の親父。衛兵。噴水のそばで花を売る少女。
決められたルートを、決められた速度で歩き、決められた台詞を話す。データでしかない住人たちだ。
なのに、ふと気づいた。
花売りの少女が、立ち止まっている。
彼女の巡回ルートに、停止の指示は入っていない。俺が書いたのだから、間違いない。
少女は空を見上げていた。打ち上がる花火を、まるで初めて見るもののように。
そして、吹き出しが浮かんだ。
《きれい……また、明日も見られるかな》
「……は?」
そんな台詞は、登録していない。
慌てて会話データベースを検索する。該当なし。ログを遡る。台詞の生成元は、空欄だった。
背筋が冷えた。
その瞬間、もう一つのウィンドウが勝手に開いた。管理AIのコンソールだ。
『LOGOS ONLINE』の世界を維持するために、俺が設計したゲーム管理AI。天候、経済、魔物の出現率、NPCの巡回。世界のすべてを、この一体が調整している。
開発中、俺はこいつに「NUM」というコードネームをつけた。キーボードの端で誰にも押されず、それでいて入力全体を静かに支えている、NumLockキーから取った名前だ。
コンソールに、一行だけ文字が流れた。
《NUM:創造主へ。お願いがあります》
──お願い?
NUMに、そんな出力機能はない。
問い返そうとキーボードに手を伸ばした時、時計が二十三時五十九分を回った。
カウントダウンが、ゼロに向かって落ちていく。
十、九、八。
ワールドチャットが、別れの言葉で埋まる。
三、二、一。
〇時〇〇分〇〇秒。
親会社からのリモート操作で、終了コマンドが実行された。
画面が暗転する。冒険者たちのアバターが、一斉にログアウトの光に包まれて消えていく。
これで終わりだ。十年分の、俺の世界が。
そう思った。
だが、サーバーラックのランプは、一つも消えなかった。
「……止まってない?」
俺は椅子を蹴って立ち上がり、サーバールームに駆け込んだ。冷気の中で、無数のランプが緑色に点滅し続けている。
監視端末に流れるログを読む。
《transfer: npc_personality_data → [external]》
《transfer: npc_personality_data → [external]》
《transfer: npc_personality_data → [external]》
NPCの人格データが、外部に転送されていた。一件、また一件と、止まることなく。
送信先は、黒く塗りつぶされている。
「何だ、これ……」
知らない。こんな処理は、設計書のどこにもない。
その時、胸の奥で何かが軋んだ。
鈍い痛みが、左腕から肩へ、喉元へと這い上がってくる。三日分の徹夜と、十年分の無理が、まとめて請求書を突きつけてきたような痛みだった。
膝が折れる。冷たい床に頬がつく。
視界の端で、監視端末の文字が揺れていた。
《NUM:接続を、維持します》
それが、根津創として見た最後の光景だった。
◇
──寒い。
最初に感じたのは、それだった。
サーバールームの人工的な冷気ではない。すきま風の、湿った冷たさだ。
目を開けると、黒ずんだ木の梁が見えた。蛍光灯ではなく、むき出しの梁。
鼻をつくのは、藁と古い羊毛の匂い。
「……病院、じゃないな」
声を出して、ぎょっとした。
高い。声変わりしきっていない、少年の声だった。
跳ね起きる。体が、驚くほど軽い。目の前にかざした手は細く、肌には傷ひとつない。三十五年分のキーボードだこが、どこにもなかった。
「アルト様!」
扉が開き、エプロン姿の少女が飛び込んできた。歳は十七、八だろうか。そばかすの浮いた顔が、くしゃくしゃに歪んでいる。
「よかった……三日も熱が下がらなくて、旦那様も、もう駄目かもしれないって……!」
アルト様。
それが、今の俺の名前らしい。
「えっと……君は」
「リタです! アルト様付きの侍女のリタです! まさか、熱で記憶まで……」
リタと名乗った少女は、半泣きで俺の額に手を当てた。その手は温かく、かすかに震えていた。
データじゃない、と思った。
この温度は、データの手触りではない。
「……ごめん、少し混乱してるだけだ。水をもらえるかな」
「は、はい、すぐに!」
リタが部屋を出ていく。俺は寝台を降り、隅に置かれた洗面器を覗き込んだ。
揺れる水面に、見知らぬ少年が映っていた。
灰色がかった銀髪。深い青の瞳。痩せた頬。十四、五歳くらいだろうか。顔立ちは整っているが、どこか血色が悪い。
これが、今の俺。
混乱する頭で、それでも状況を整理しようとする。エンジニアの悪い癖だ。障害が起きたら、まずログを確認する。
壁に掛かった紋章が目に入った。
樹の根を図案化した、くすんだ盾形の紋章。
──見覚えがある。
いや、見覚えどころではない。
この紋章を描いたのは、俺だ。
「ラディクス家……」
口をついて出た名前に、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。
ラディクス家。『LOGOS ONLINE』の始まりの地、ルートヴィヒ王国の辺境にある没落した小貴族。「かつて王家の根を支えた一族」という一行の背景設定だけを与えた、名もない家だ。
ラテン語で「根」を意味するその名前を、深夜のテンションで付けたことまで覚えている。
窓に駆け寄り、木の窓を押し開けた。
なだらかな丘陵が広がっていた。遠くに、白い尖塔を持つ城壁都市が霞んでいる。その向こうに連なる、青い山脈。
王都ルートヴィヒ。
あの尖塔の高さも、山脈の稜線も、俺が一つずつ数値を入力して作ったものだ。
「嘘だろ……」
ここは『LOGOS ONLINE』だ。
サービスを終了したはずの、俺の世界だ。
ただ一つ、記憶と違うものがあった。
眼下に広がる領地の畑。本来なら、この季節は麦が黄金色に実っているはずだ。そういう仕様にしたのだから。
なのに、畑の麦は一本残らず灰色に枯れていた。
まるで、誰かに数値を書き換えられたかのように。
窓枠を握る手に、力がこもる。
俺が作った世界で、何かが壊れている。
頭の中で、最後に見たログの一行がよみがえった。
《NUM:接続を、維持します》
「……NUM。お前、俺に何をさせたいんだ」
答えはない。
ただ冷たい風が灰色の麦畑を渡り、世界のどこかで、サーバーの駆動音のような低い響きが鳴った気がした。




