第二話 新たな人生
京が次に目を覚ました時、最初に目に飛び込んできたのは、木製の天井だった。
新しくも古くもない、少々年季を感じさせる天井。どこかで見たことがある気もするが、見たことがない気もする。
(ここ、は……)
ふと、視線を動かす。
京がいる場所は、どこかの家の部屋の中だった。
光が差し込む窓。古い椅子と机。小棚の上に置かれた、古臭い鏡。
現代風とは思えない、どこか古めかしい印象を受ける。それでいて、不思議と暖かさを感じさせる部屋だった。
(助かった……のか?)
京は記憶を辿る。
力の入らない身体。下半身を埋め尽くす血。全身の感覚が失われていく恐怖。
死を悟った京は、最期に白井の夢を背負うと約束して――意識を手放した。
あの時の自分は、間違いなく死を覚悟していた。
いや、きっと死んだのだろう。
(ここが……死後の世界、ってやつなのか?)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
あんな世界で、こんなにも穏やかな環境が残っているはずがない。
窓の外からは、緩やかな風が吹き込んでくる。小鳥のさえずりまで聞こえてきた。
見ても、聞いても、ここは平和そのものだった。
だが、死後の世界だとしたら、それはそれで疑問が残る。
なぜ、自分には意識があるのだろうか。
死んだあとに何が起こるのかなど、京には分からない。そもそも、死後の世界が存在するのかさえ知らなかった。
それでも、思考できること。周囲の景色を認識できること。
そうした一つ一つが、今の京には不思議でならなかった。
もちろん、死んだあとに自分がどうなるかなど、知る由もない。
ただ、今の状況がおかしいことだけは、なんとなく理解していた。
その時だった。
部屋の扉の向こうから、人の気配がした。
規則的な足音が二つ。
足音の重さから察するに、どちらも大人のものだろう。
(俺以外にも人が……?)
そこまで考えたところで、扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、金色の髪を持つ外国人の女と、黒と白の奇妙な髪色をした外国人の男だった。
(何者だ?)
知り合いではない。見たこともない男女だ。
顔立ちも髪色も、自分の知る日本人とは明らかに異なっている。
そもそも、ここはどこなのか。
疑問が次々と浮かぶ中、部屋に入ってきた二人は、京を見るなり目を見開いた。
まるで、信じられないものを目にしたかのように。
(なん――)
京が考えるよりも早く、金髪の女性の瞳に涙が浮かんだ。
女性は口元を震わせると、急いで京のもとへ駆け寄ってきた。
そして、そっと京の身体を抱き上げる。
(何を――!?)
京は、身体を持ち上げられたことが信じられなかった。
栄養不足で痩せ細っていたとはいえ、二十歳間近の男を、女性がいとも簡単に抱え上げたのだ。
その怪力に、京は心底驚いた。
いや、驚くのはまだ早かった。
女性に抱えられた京は、彼女を押しのけようと手を伸ばした。
その時、自分の視界に入った手に違和感を覚えた。
(……なんだ、これ)
小さい。あまりにも小さかった。
それだけではない。皺一つない、滑らかな肌。細く短い指。指先の感覚もどこか曖昧で、思うように力が入らない。
どう見ても、大人の手ではなかった。
言うなれば――赤ん坊の手。
(……は?)
思考が止まった。
いや、違う。そんなはずはない。
自分はつい先ほどまで、二十歳近い男だった。痩せ細ってはいたが、手足だって自由に動かせた。
なのに、これは何だ。
どうして、自分の手がこんなにも小さい。
どうして、身体が思うように動かない。
京は、女性に抱えられたことで視界に入った小棚へと目を向けた。
その上に置かれた古い鏡。
鏡面には、女性に抱かれた小さな赤ん坊の姿が映っていた。
黒と白。
奇妙な色合いの髪を生やした赤ん坊だった。
(……誰だ、こいつ)
京は恐る恐る手を動かした。
鏡の中の赤ん坊も、同じように手を動かす。
頭を動かせば、赤ん坊も頭を動かした。
視線を逸らせば、鏡の中の赤ん坊も同じ方向を見る。
疑いようがなかった。
鏡に映っているのは、紛れもなく自分自身だった。
(俺は……)
頭の中が真っ白になった。
理解が追いつかない。理解したくもなかった。
だが、目の前の現実は、京の思考などお構いなしに突きつけられていた。
自分の身体が、赤ん坊になっている。
目の前の男女は、知らない人間。
見知らぬ部屋に、見知らぬ景色。
そして、窓の外には、戦争に怯える必要などないかのような、穏やかな世界が広がっている。
まさか、そんなことがあり得るはずがない。
しかし、もしも。
もしも、これが死後の世界などではなく――。
(俺は、やっぱり死んで……)
そこで、京は一つの可能性に行き着いた。
自分は死んだ。
そして、どこかの平和な場所の、別の誰かとして生まれ変わったのだ。
生まれたばかりの赤ん坊の身体に。
前世の記憶を持ったまま。
(これは……転生、ってことか?)
そんな馬鹿げた話があるものか。
そう思う一方で、目の前の現実を否定することもできなかった。
異常な状況を説明するには、それが最も納得できる答えだった。
だが、転生したのだとしても、分からないことだらけだ。
ここはどこなのか。
この男女は何者なのか。
自分は、これからどうなるのか。
そして――白井は。
(白井……)
その名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
最後に見た、白井の顔。
血に染まった身体。
弱々しくも、自分の夢を託してくれた時の笑顔。
あの時、自分は確かに約束した。
白井の夢を背負うと。誰かを助け、誰かに憧れられるような人間になると。
どんな絶望の中でも笑っていられる、本当の強さを手に入れると。
(……俺は、何をしてるんだ)
今の自分には、何もできない。
立ち上がることすらできない。
言葉を発することも、思うように身体を動かすこともできない。
誰かを助けるどころか、自分の身を守ることさえままならない。
そんな自分が、白井の夢を叶える?
笑わせる。
けれど――。
(……いや)
京は、鏡に映る赤ん坊の姿を見つめた。
今の自分には、何もない。
力も、知識も、居場所も。
前の人生で積み重ねてきたものは、何一つ残っていない。
それでも、生きている。
少なくとも、今の自分には意識があり、思考することができる。
ならば、まだ終わってはいない。
白井との約束は、まだ果たされていないのだから。
(……やるしかない、か)
京は小さな手を握ろうとした。
だが、指は思うように動かず、力を込めることすら難しかった。
そのあまりにも頼りない感覚に、思わず苦笑しそうになる。
(まずは……この身体に慣れるところからだな)
焦っても仕方がない。
今は何もできないのなら、できることが増えるまで待てばいい。
前の人生では、生き延びるためだけに毎日を過ごしてきた。
明日を迎えることに、意味などないと思っていた。
けれど、今は違う。
この人生には、目的がある。
白井が見た夢。自分が背負うと決めた夢。
それを叶えるために、京はもう一度、生きていく。
たとえ、何もかもが変わってしまったとしても。
たとえ、今度の世界がどれほど残酷な場所だったとしても。
今度こそ、自分は――。
「……っ、あぅ……」
(……)
声を出そうとした瞬間、口から漏れたのは、意味を成さない幼い声だった。
京は固まった。
鏡の中の赤ん坊も、ぽかんと口を開けている。
(……これ、無理じゃね?)
思わず、心の中で呟いた。
どうやら、新しい人生は、思っていた以上に前途多難らしい。
―――。
転生を確信してから、半年余りの時間が経った。
京はこの半年間、ほとんど自分で動くことを許されなかった。
両親と思われる男女に四六時中付き添われ、子供用の小さなベッドの上で寝かされるか、母親の腕の中で乳を飲むか、排泄の後始末をされるか。
基本的には、その繰り返しだった。
(……いい加減、自由に動きたいんだが)
恥ずかしい思いをするたびに、京は心の中でそう愚痴をこぼした。
しかし、今の自分は赤ん坊だ。自力で歩くことも、まともに言葉を発することもできない。そんな状態で、できることなど限られている。
だからこそ、京は我慢することにした。
焦っても仕方がない。
今は、この家のことを知るのが先だ。
そう考え、京は日々、周囲の環境を観察していた。
まず、両親と思われる男女について。
金色の髪をした女性は、おそらく母親なのだろう。京を抱き上げるたびに嬉しそうな顔をし、泣けばすぐに駆け寄ってくる。
時には、意味の分からない言葉を口にしながら、優しく頭を撫でてくることもあった。
一方、黒と白の髪をした男性も、京のことをよく気にかけていた。
仕事なのか、家を離れることもある。しかし、家にいる時は頻繁に京の様子を見に来るし、抱き上げては何やら嬉しそうに話しかけてくる。
少なくとも、二人が京を大切にしていることは伝わってきた。
もっとも、二人が実の両親なのかどうかは、まだ確信が持てない。
今の京には、それを確かめる術がなかった。
そして、次に分かったこと。
それは――言葉がまるで理解できないということだった。
二人が話す言葉は、日本語ではない。
それどころか、京が知っているどの言語とも違うように聞こえた。
単に聞き慣れていないだけなのか。それとも、まったく知らない言語なのか。
今の段階では判断できない。
何度も聞いているうちに、同じような音の並びが繰り返されていることには気づいたが、それが何を意味するのかまでは分からなかった。
(言葉が分からないのは痛いな……)
情報を得るには、まず会話を理解できなければならない。
しかし、今の京には、そのための知識も手段もなかった。
ならば、せめて周囲にある物から情報を得ようと考えたのだが、こちらもうまくいかなかった。
家の中には、ここがどこの国なのかを判断できるような物が見当たらない。
窓から見える景色も、まだ十分には観察できていなかった。抱き上げられている時なら外を見ることもできるが、母親がいつも窓際にいるわけではない。
それに、何よりも厄介なのが――本だった。
部屋の片隅には本棚があり、そこには様々な本が並べられていた。
京にとって、これほど都合のいい情報源はない。
文字が読めれば、少なくともこの世界の言語や文化について何かしら分かるはずだ。
だが、本棚は高い位置にあり、今の京には手が届かない。
仮に手が届いたところで、別の問題がある。
赤ん坊の視力では、背表紙に書かれた文字がぼんやりとしか見えないのだ。
(……本を読むどころか、文字を判別することすら難しいとはな)
前世では、当たり前のように使っていた目や手。それらが、今は思うように機能しない。
知識があっても、それを活用できる身体がなければ意味がない。
そんな当たり前のことを、京は身をもって思い知らされていた。
(まあ、焦っても仕方ないか)
今は赤ん坊なのだ。
歩けるようになれば、行動範囲も広がる。
言葉を覚えれば、周囲の人間から情報を得ることもできるだろう。
文字が読めるようになれば、本から知識を得ることだってできる。
今できないことも、成長すればできるようになる。
そう考えれば、多少は気が楽になった。
もっとも、それまでの時間をどう過ごすかという問題は残っているのだが。
(……長いな)
京は、ぼんやりと天井を見上げた。
前世では、明日を迎えることに何の希望も抱いていなかった。
ただ生き延びるためだけに食料を探し、危険を避け、眠る時でさえ周囲を警戒する。そんな日々を繰り返していた。
けれど、今は違う。
この場所には、まだ知らないことが山ほどある。
自分がどうしてこの場所に生まれ変わったのかも分からない。
ここがどこなのかも分からない。これから何が待ち受けているのかも分からない。
それでも、知りたいと思えた。
まずは、この世界を知ることから始めよう。
そのためにも、今は成長を待つしかない。
京は小さな身体をベッドに預け、静かに目を閉じた。
新たな人生は、まだ始まったばかりなのだから。
―――。
転生してから、一年が経った。
この頃になれば、足腰もしっかりしてきて、立って歩くことはもちろん、階段を登って二階へ行くことも容易になっていた。
もっとも、一度だけ痛い目を見たことがある。
両親の目を盗み、初めて二階へ登った時のことだ。
自分の足で自由に動けるようになった京は、以前から気になっていた家の中を探索しようと考えた。
これまで何度も目にしてきた階段。その先には何があるのか、ずっと気になっていたのだ。
そして、ついに二階へと足を踏み入れた。
結果から言えば、両親に信じられないくらい怒られた。
いや、正確には、怒られるだけならまだよかった。
問題は、階段を登ったはいいものの、降りることができなくなってしまったことだ。
(……いや、無理だろ、これ)
赤ん坊の目線から見れば、階段の一段一段が信じられないほど高い。
登る時には夢中で気づかなかったが、改めて上から見下ろしてみると、かなりの急斜面だった。
足を踏み外せば、ただでは済まない。
かといって、後ろ向きに降りるにも、身体の小さな今の自分ではバランスを取るのが難しかった。
結局、階段の途中で身動きが取れなくなり、泣き声を上げて両親を呼ぶ羽目になった。
その時の母親の慌てようといったら、今でも忘れられない。
無事に救出された後は、父親にも母親にもこっぴどく叱られた。
そして、京自身も学んだ。
好奇心だけで行動するのは危険だということを。
……もっとも、恐怖のあまりお漏らしまでしてしまったことについては、できれば記憶から消し去りたいところだった。
まあ、それはどうでもいい。
今となっては、笑い話にできる程度には落ち着いた出来事だ。
それよりも、この一年間で京が最も喜んだことがある。
言葉の理解だ。
未だ、両親が話している言葉がどこの国のものなのかは分からない。
しかし、毎日耳にしているうちに、少しずつ意味が分かるようになってきたのだ。
最初は単なる音の連なりにしか聞こえなかった言葉も、今では簡単な会話なら内容を推測できる。
それだけでも、京にとっては大きな進歩だった。
何しろ、これまでは周囲の人間が何を話しているのか、まるで分からなかったのだから。
言葉が理解できるようになれば、得られる情報も増える。
そう考えていた京だったが――。
「今日はスープが美味しくできたの」
「お、本当だな。美味そうだ」
耳に入ってきた両親の会話は、拍子抜けするほど平和なものだった。
(……スープ、ね)
食卓から漂ってくる香りを感じながら、京は心の中で呟いた。
どうやら、今日の夕食はスープらしい。
それ自体は何もおかしくない。
問題は、両親の会話に滲み出る、あまりにも穏やかな日常だった。
今日のスープが美味しくできた。
それを夫に伝え、夫が味を褒める。
ただ、それだけの会話。
誰かが食料を奪いに来る心配もなければ、明日の食事を確保できるかどうか悩む様子もない。
京の知る世界では、そんな暮らしを送れる国など、どこにもなかったはずだ。
世界中で食料が不足し、各国は自国の生存を優先していた。食料の輸出を制限する国もあれば、資源を求めて他国と争う国もあった。
昨日まで食べられていたものが、明日には手に入らなくなる。
そんな状況が当たり前だった。
それなのに、この家では毎日、安定して食事が用意されている。
少なくとも、京の目にはそう映っていた。
(……どうなってるんだ、この国は)
ここが、前世で自分が暮らしていた世界と同じ場所だとは思えなかった。
仮に同じ世界だとしても、あの悲惨な状況から、わずか一年や二年でここまで平和になるとは考えにくい。
そもそも、周囲の人間の容姿も、自分が知る人々とは明らかに違っている。
髪の色もそうだ。
母親は金色。父親は黒と白。
そして、自分の髪もまた、黒と白が混ざった奇妙な色をしている。
単なる染色ではない。生まれつき、この色なのだ。
何もかもが、自分の知っている常識から外れていた。
(……異世界ってやつなのか?)
転生したのだとすれば、そう考えるのが自然なのかもしれない。
しかし、確証はない。
この家の外に出たこともなければ、他の人間と接する機会もほとんどなかった。
今の自分にできるのは、限られた情報から推測することだけだ。
「カイルちゃんはこっちよ~」
ふと、母親が京を抱き上げた。
どうやら、食事の時間らしい。
京は抵抗することなく、母親の腕に身を預けた。
この一年間で、もう何度も経験してきたことだ。
以前なら、自分の身体を自由に動かせないことに苛立ちを覚えていたが、今ではある程度慣れていた。
それに、母親に抱き上げられること自体は嫌ではない。
むしろ、彼女が自分を大切にしてくれていることは、十分に伝わっていた。
京が両親の言葉を理解し始めた頃、最初に知ったことの一つ。
それは、この身体の名前だった。
カイル・ブラックウッド。
どうやら、自分はブラックウッド家の長男らしい。
(カイル・ブラックウッド、か)
自分の新しい名前を、心の中で繰り返す。
黒木京という人間は、もうこの世界には存在しないのかもしれない。
だが、記憶は残っている。
白井との約束も、あの世界で過ごした日々も、何一つ忘れてはいない。
ならば、今の自分は何者なのだろうか。
黒木京なのか。
それとも、カイル・ブラックウッドなのか。
答えは、まだ出ない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
この人生を生きるのは、自分自身だということだ。
(……カイル、ね)
新しい名前を受け入れるように、京は小さく息を吐いた。
いつか、この世界のことを知る日が来るだろう。
自分が生まれた場所も、この家の外に広がる世界も。
その時になれば、きっと分かるはずだ。
この新しい人生で、白井との約束を果たせるのかどうかが。
京――いや、カイルは、母親の腕の中で静かに目を開けた。
今はまだ、何も分からない。
だからこそ、知る必要がある。
自分が生きる、この世界のことを。
―――。
転生してから、六年が経った。
この年になれば、カイルもほとんどの言葉を覚えていた。
日常会話は問題なくこなせるし、本を読むこともできる。
文字を覚え、知識を蓄え、両親との会話を重ねるうちに、カイルは少しずつ、この世界のことを理解していった。
そして、ある一つの結論へと至った。
「この世界は、やっぱり別の世界だ」
そう。カイル――否、黒木京がかつて暮らしていた地球とは、異なる世界なのだ。
なぜ、そう結論づけたのか。
まず、家にある本から学んだ言語体系が、カイルの知るどの言語とも異なっていた。
もちろん、カイルが知らなかっただけという可能性もある。
前世で使われていた言語の全てを知っていたわけではないし、世界には自分の知らない文化や地域がいくらでもあった。
しかし、それだけではなかった。
この世界には、別世界を思わせる決定的な情報が存在していたのだ。
それは――地図だった。
カイルが本棚から引っ張り出した地理の本には、この世界の大陸や国々が記されていた。
そこに描かれていたのは、ただ一つの大陸。
海は存在する。しかし、人類の文明は、その大陸の内側でしか発展していなかった。
川や湖を渡るための小船はあるものの、海を渡るための船は存在しない。少なくとも、カイルが読んだ本には、そのような船についての記述はなかった。
理由についても、ある程度は分かった。
この世界には、長期間の航海に耐えられる船を造るための木材が不足しているらしい。
より正確に言えば、品種改良という概念そのものが、まだ存在していないのだ。
人々は自然に生えている植物を採取し、利用している。だが、人間にとって都合のいい性質を持つ植物を選び、世代を重ねて改良していくという発想は、少なくとも一般的ではないようだった。
そのため、長大な船体を造るのに適した木材も、十分には確保できていないという。
(……なるほどな)
カイルは本の記述を思い返しながら、納得した。
前世の地球では、長い年月をかけて技術が発展し、人類は海を越え、世界中に文明を築いてきた。
だが、この世界では事情が違う。
人類の活動範囲は、一つの大陸に限られている。
海の向こうに何があるのか。それを知る者は、少なくともカイルが読んだ本の中にはいなかった。
もちろん、単に航海技術が未発達なだけという可能性もある。
それでも、カイルが知る地球とは、あまりにも異なる世界だった。
そして、大陸の内部には、数多くの国々が存在していた。
地図によれば、大国と呼ばれる国が四つ。
それ以外にも、小国が各地に点在している。
国境線は山脈や河川、森林などに沿って引かれている場所が多く、国によって地形や気候も大きく異なっていた。
その中で、カイルが暮らしているのは、おそらくノワラ王国と呼ばれる国だった。
なぜ、そう考えたのか。
決め手となったのは、地理の本に記された王国の特徴と、毎日の食卓に並ぶ料理だった。
ノワラ王国の領土は、比較的草原に覆われている。
広大な平原が広がり、農業に適した土地も多い。そこで栽培された野菜は、国内各地へと流通しているらしい。
ブラックウッド家の食卓には、毎日のように野菜のスープが並んでいた。
もちろん、それだけで居住地を断定することはできない。
しかし、地図に記された情報と、実際の生活環境を照らし合わせれば、ノワラ王国に住んでいると考えるのが自然だった。
(食料が安定して手に入るのも、土地が豊かだからか……?)
カイルは、そう考えた。
前世では、食料不足が世界各国の対立を深刻化させていた。
農地が荒廃し、流通網が寸断され、食料を確保するために国家同士が争う。そんな状況を、京は嫌というほど見てきた。
だからこそ、毎日当たり前のように食事が用意される今の生活には、違和感を覚えていたのだ。
しかし、この世界では、少なくともブラックウッド家の暮らしを見る限り、食料に困っている様子はない。
それが土地の豊かさによるものなのか。それとも、別の理由があるのか。
今のカイルには、まだ判断できなかった。
ただ、一つだけ確信できることがある。
ここは、前世の地球ではない。
知っている歴史も、知っている言語も、知っている常識も通用しない。
自分は、本当に別の世界へと生まれ変わったのだ。
(……なら、これからどうするかだな)
カイルは本を閉じ、窓の外へと目を向けた。
穏やかな風が吹き、草木が揺れている。
前世では、こんな景色をゆっくり眺める余裕などなかった。
いつ敵が襲ってくるか分からない。いつ食料が尽きるか分からない。明日を生きて迎えられる保証さえない。
そんな世界だった。
だが、今は違う。
少なくとも、この家には平穏な日常がある。
父親がいて、母親がいて、食事があり、眠る場所がある。
それは、前世の京が失い、そして最後まで手に入れられなかったものだった。
だからこそ、この人生を無駄にはしたくない。
白井との約束を果たすためにも。
誰かを助け、誰かに憧れられ、どんな絶望の中でも笑っていられるような強さを手に入れるためにも。
まずは、この世界について学ぶ必要がある。
どんな国があり、どんな人々が暮らし、どんな技術が発展しているのか。
そして――。
(次はこれだな……)
地理の本とは別に、カイルの頭には、もう一つ気になっているものがあった。
それは、この世界について書かれた本の中で、時折見かける不思議な記述だった。
――『魔の者を退けるための超常的な力』
まだ詳しく調べられてはいない。
しかし、もしもその記述が本当ならば、この世界には前世の地球には存在しなかった力があるのかもしれない。
それが何なのか、どうすれば使えるのか。
今は、まだ分からない。
けれど、もし本当にそんな力が存在するのなら――。
(……俺にも、何かできるかもしれない)
カイルは、再び本を開いた。
白井の夢を叶えるために。
そのために必要なものを、一つずつ学んでいこう。
この新しい世界で生きていくために。
そして、いつか本当の意味で強くなるために。




