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異世界戦記 -Reboot-  作者: かげ2500
序章

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第一話 死の味

「平和の終わりは、争いの始まり」


 誰が言った言葉だろうか。何処で聞いた言葉だろうか。

 それとも、誰に聞いたでもなく、人間誰しもが、物心ついたときから持ち合わせている、深層意識なのか。


 平和の終わりは、争いの始まり。


 あながちその言葉は、間違ったものではない。そして――争いの終わりは、平和の訪れではないのは確かだ。

 それは、これまでの歴史や国際的に見ても断言できよう。


 人類の歴史は、争いの歴史だ。


 土地を奪い合い、資源を奪い合い、思想をぶつけ合い、時には些細な意見の食い違いからさえ、人間は互いに争ってきた。

 それでも、人類は長い年月をかけて発展を続けてきた。


 科学技術の発展。医療の進歩。交通網の整備。通信技術の革新。かつては夢物語でしかなかったものが次々と現実となり、人々の生活は豊かになっていった。


 世界は、かつてないほど便利になった。


 遠く離れた国の人間と瞬時に言葉を交わし、地球の裏側で作られた食料を翌日には手にすることができる。

 機械が人間の仕事を代わりにこなし、膨大な情報を誰もが手軽に得られるようになった。


 人類は、確かに進歩していた。

 だが、その進歩が永遠に続く保証など、何処にもなかった。


 時代が進むにつれ、世界の人口は増加の一途をたどった。


 人々が長く生きられるようになり、医療が発達し、生活環境が改善されたことで、人口は急激に増えていった。

 人口の増加は労働力を生み出し、経済を発展させる一方で、食料や水、エネルギーといった、人類が生きていくために必要不可欠なものへの需要を増大させていった。


 もちろん、それだけで世界が破綻するわけではない。


 食料を大量に生産し、保存し、世界中へ輸送する技術はすでに確立されていた。

 ある地域で不作が起きたとしても、別の地域から食料を輸入すればいい。資源が不足したなら、代替技術を開発すればいい。


 少なくとも、当時の人類はそう考えていた。

 しかし、世界は人間の想定どおりには動かなかった。


 始まりは、気候の変化だった。


 世界各地で異常気象が頻発するようになった。

 長期間にわたって雨が降らない地域があれば、かつて経験したことのない豪雨に見舞われる地域もあった。

 夏の気温は年々上昇し、冬には異常な寒波が襲来する。季節の巡りは不安定になり、長い年月をかけて築き上げられてきた農業の基盤が、少しずつ崩れていった。


 それでも、人類は対策を講じた。


 灌漑(かんがい)設備を整備し、品種改良を進め、人工環境で作物を育てる技術を発展させた。

 各国は食料の備蓄を増やし、国際的な支援体制を整えようとした。


 だが、異常気象は一つの国だけを襲うものではなかった。


 ある国が不作に陥った年、別の国でも不作が発生する。

 翌年には、さらに別の地域が干ばつに苦しむ。世界の各地で農業生産が不安定になり、食料の供給量は徐々に減少していった。


 問題は、それだけではなかった。

 農業には水が必要だ。機械を動かすための燃料も、肥料を生産するためのエネルギーも必要になる。

 そして、そのエネルギーを支える資源の多くは、限られた地域に集中していた。


 資源を持つ国と、持たない国。

 食料を安定して生産できる国と、輸入に依存する国。


 世界は、以前から存在していた格差を、より鮮明な形で突きつけられることになった。


 エネルギー価格が高騰すれば、工場の稼働に支障が出る。

 輸送費が上昇すれば、食料の価格も上がる。

 肥料が不足すれば、農業生産はさらに落ち込む。


 一つの問題が、別の問題を生み出す。

 そして、別の問題が、最初の問題をさらに深刻化させる。


 そうして世界は、少しずつ余裕を失っていった。


 それでも、まだ人類には解決する手段があったはずだ。

 国同士が協力し、限られた資源を分け合い、技術を共有する。

 そうすれば、被害を抑え、危機を乗り越えることも不可能ではなかっただろう。


 しかし、国家というものは、必ずしも人類全体の幸福を優先するわけではない。


 自国の国民を守るために、食料の輸出を制限する国が現れた。

 自国の経済を守るために、資源の供給を制限する国が現れた。


 そして、それらの措置によって不利益を被った国々は、経済制裁や外交的圧力によって対抗した。

 やがて、世界の貿易は大きく分断されていった。


 以前なら自由に行き来していた食料や資源が、国家間の取り決めや政治的な思惑によって滞るようになった。

 海上輸送の要衝では軍事的な緊張が高まり、重要な航路が封鎖されることもあった。


 世界には、確かに食料が存在していた。資源も、まだ残されていた。

 それなのに、必要としている人々のもとへ、それらが届かなくなっていった。


 金さえ払えば何でも手に入る。そんな時代は、少しずつ終わりを迎えようとしていた。


 国際的な協力体制が崩れ、世界は複数の経済圏へと分裂した。

 それぞれの国々は、自分たちの陣営を守るために資源を囲い込み、他の陣営との関係を悪化させていった。


 かつて世界を結びつけていた経済活動は、今や互いを締めつけるための手段へと変わっていた。

 その影響は、当然ながら人々の暮らしにも及んだ。


 物価は上昇し、失業者は増え、生活に困窮する人々が各地で続出した。

 食料を買えない者が現れた。住む場所を失う者が現れた。

 明日を生きることさえ難しくなった者たちは、政府に救いを求めた。


 しかし、政府にも限界があった。


 財政は悪化し、社会保障は縮小され、国民の不満は日に日に高まっていった。

 各地で抗議活動が発生し、やがて暴動へと発展する。政府が鎮圧に乗り出せば、さらに激しい抵抗が起こった。


 一部の国では政権が崩壊し、別の国では軍部が実権を握った。


 国民を守るため。国家を存続させるため。

 指導者たちは、それぞれの正義を掲げた。


 だが、正義という言葉は、時として残酷なほど便利なものだった。


 自国の利益を守るためなら、他国の利益を犠牲にしても構わない。

 自国民を救うためなら、他国民が苦しむこともやむを得ない。


 そうした考えが、少しずつ、しかし確実に世界へと広がっていった。


 国家間の対立は深まり、各国は軍備を拡張した。

 相手国が軍備を増強すれば、自国も増強する。相手国が新たな兵器を開発すれば、自国も同等以上の兵器を開発する。


 自国を守るための行動が、相手国には脅威と映る。

 相手国を警戒するための行動が、さらなる軍備拡張を招く。


 誰もが戦争を望んでいないと主張しながら、誰もが戦争に備えていた。

 そして、とうとう、その均衡が崩れる日が訪れた。


 一つの地域で発生した軍事衝突。

 当初、それは局地的な紛争にすぎなかった。


 しかし、攻撃を受けた国が報復し、その同盟国が介入し、さらに別の国が参戦する。

 重要な通信網が遮断され、軍事施設が攻撃され、互いの意図を正確に把握することさえ困難になっていった。


 相手が先に動くかもしれない。今、攻撃しなければ手遅れになるかもしれない。

 そうした恐怖と疑心暗鬼が、各国の判断を狂わせていった。


 誰かが引き返すべきだった。誰かが手を差し伸べるべきだった。

 だが、誰もが相手こそ引き返すべきだと考えていた。


 そして、局地的な紛争は、瞬く間に世界を巻き込む戦争へと発展した。


 世界戦争。

 後にそう呼ばれることになる戦争が始まったのだ。


 戦争は、世界をさらに荒廃させた。

 兵器を動かすために膨大な資源が消費され、工場や発電施設が攻撃され、物流網は寸断された。

 農地が戦場となり、都市が破壊され、無数の人々が住む場所を失った。


 食料を得るために始まった争いが、食料を生み出す場所を破壊していく。

 国を守るために始まった戦争が、国そのものを壊していく。


 誰もが生き残るために戦い、戦うほどに、生き残ることが難しくなっていった。

 それでも、戦争はすぐには終わらなかった。


 一度失われた信頼は戻らず、報復は新たな報復を生み出した。

 停戦の機会が訪れても、相手が再び攻めてくるのではないかという恐怖が、各国を戦場へと引き戻した。


 やがて、戦争が終わったとしても、世界を元に戻すことはできないほどの被害が積み重なっていった。


 人々は、かつての暮らしを失った。

 明日も食事ができるという当たり前を失った。

 家族とともに過ごす時間を失った。


 そして、何よりも――平和というものが、どれほど脆く、簡単に失われてしまうものなのかを知ることになった。


 それでも人類は、生き続けた。

 生きるために働き、生きるために奪い、生きるために争い続けた。


 誰もが平和を望んでいるはずなのに、誰もが平和を取り戻す方法を見失っていた。


 そんな世界で、一人の少年が生まれた。

 名前は、黒木京(くろききょう)。


 彼が生まれた頃には、世界はすでに破滅へと向かっていた。

 そして、彼が九歳になった年、京の暮らす国もまた、戦争の渦へと巻き込まれていくことになる。



 ―――。



 戦争が始まった当初、黒木京はまだ九歳だった。


 戦争という言葉の意味は知っていた。

 テレビの中で、遠い国の兵士たちが銃を構えている映像を見たことがあった。大人たちが難しい顔をしてニュースを眺めている姿も覚えていた。


 けれど、それが自分の人生を変えるものだとは思っていなかった。

 少なくとも、両親がいなくなる、その日までは。


「京。お父さんとお母さんは、しばらく家を空けることになった」


 ある日の夕食後、父はそう言った。

 いつもと変わらない食卓だった。母が作った夕食を食べ、父が仕事の話をし、京が学校であった出来事を話す。そんな、どこにでもある家庭の風景。


 ただ、その日の父は、いつもより口数が少なかった。


「どこに行くの?」


「……少し遠いところだ」


「いつ帰ってくるの?」


 京の問いに、父はすぐには答えなかった。

 代わりに、隣に座っていた母が京の頭を撫でた。


「大丈夫よ。すぐに帰ってくるから」


 母は笑っていた。

 だから京も、それ以上は何も聞かなかった。


 両親が家を出る日、京は玄関まで二人を見送った。

 父は何度も振り返り、母はいつものように手を振った。

 その姿が、京の記憶に残る両親の最後の姿となった。


 二人は徴兵されたのだ。

 深刻化する戦況を受け、政府は軍の人員を確保するために徴兵制度を拡大していた。

 対象は若者だけではない。必要な人員を補うため、一定の条件を満たした成人にも招集がかけられていた。


 父も母も、例外ではなかった。

 それを京が知ったのは、両親がいなくなってから何日も経った後だった。


 父からの連絡はなかった。母からの連絡もなかった。

 初めのうち、京は毎日、二人が帰ってくるのを待っていた。


 学校から帰れば玄関を確認し、夕食の時間になれば、いつも二人が座っていた場所を眺めた。

 夜になっても眠れない日には、母が使っていた枕を抱きしめた。


 そうしていれば、いつか二人が帰ってくるような気がした。


 しかし、どれだけ待っても、二人は帰ってこなかった。

 やがて、京の暮らす地域にも戦火が及んだ。


 空襲警報が鳴り響き、人々は地下の避難施設へと逃げ込んだ。

 学校は休校となり、街には軍用車両が行き交うようになった。


 食料の配給は減り、電気や水道が止まることも珍しくなくなった。

 それでも京は、家を離れようとしなかった。

 両親が帰ってきたとき、家に誰もいなければ困るだろう。


 そんなことを、本気で考えていた。


 だが、ある日。


 自宅の扉を叩く者がいた。

 期待に胸を膨らませながら扉を開けた京の前に立っていたのは、見知らぬ軍人だった。


「黒木京君だね?」


 男の表情は硬かった。

 京は黙って頷いた。


「君のご両親について、話がある」


 その後のことを、京はあまり覚えていない。


 男は何かを説明していた。

 作戦中の事故。敵の攻撃。戦死。そんな言葉が、断片的に耳へ入ってきた。


 けれど、それらの言葉が何を意味しているのか、京にはすぐに理解できなかった。


 父と母が死んだ。もう帰ってこない。

 ただ、それだけが、ひどく遠い出来事のように感じられた。


 泣くこともできなかった。

 目の前に立つ軍人が何かを言っている。申し訳なさそうな顔をしている。頭を下げている。


 その姿を見ながら、京はぼんやりと考えていた。


 ――ああ、もう帰ってこないんだ。


 それだけだった。


 悲しみがなかったわけではない。

 ただ、悲しみを理解するには、京はまだ幼すぎた。

 そして、悲しみを理解するための時間さえ、世界は彼に与えてくれなかった。


 両親を失った京には、頼れる親戚もいなかった。

 家は戦災によって住めなくなり、残された財産もほとんどなかった。行政による保護制度は存在していたが、戦争の長期化によって機能不全に陥っていた。


 身寄りのない子供たちは、各地に設けられた児童保護施設へ送られていた。

 京もまた、その一人となった。


 施設は、郊外にあった。

 周囲を高い塀に囲まれ、敷地の入口には頑丈な門が設けられている。建物自体は新しく、敷地内には運動場もあった。


 入口には、児童保護施設と記された看板が掲げられていた。


 職員たちは親切だった。

 少なくとも、最初はそう見えた。


 食事が与えられ、寝床が用意され、衣服も支給された。

 学校に通えなくなった子供たちのために、読み書きや計算を教える時間も設けられていた。


 施設には京と同じように親を失った子供たちが大勢いた。

 年齢も境遇も違う子供たちが、一つ屋根の下で暮らしていた。


 中には、毎晩のように泣いている子供もいた。

 親を探して職員に食ってかかる子供もいた。

 何も話さず、ただ部屋の隅でうずくまっている子供もいた。


 京は、その誰とも積極的に関わろうとはしなかった。

 友達を作る気もなかった。両親を失った悲しみを誰かと分かち合おうとも思わなかった。


 そもそも、自分が何を感じているのかさえ、よく分からなくなっていた。

 ただ、食事を与えられれば食べ、眠る時間になれば眠り、指示されれば従った。


 それで十分だった。

 生きていることに、特別な意味などなかったからだ。


 そんな生活が始まってから、数か月が経過した頃。

 施設の様子に、少しずつ違和感を覚えるようになった。


 最初は、些細なことだった。


 朝早くから行われる体力訓練。

 年齢に見合わないほど厳しい走り込み。

 子供たちの体格や運動能力を細かく記録する職員たち。


 そして、定期的に行われる健康診断の結果を、施設の職員とは別の人間が確認していること。

 それらは、戦争で人手が不足している時代なのだから、特別おかしなことではないのかもしれなかった。


 しかし、次第に訓練の内容は変わっていった。


 木製の棒を使った格闘訓練。

 決められた手順に従うための反復訓練。

 痛みを感じても声を上げない訓練。

 仲間が倒れても、指示があるまで動いてはならないという訓練。


 そして、ある日。


 京たちは、施設の奥にある建物へ連れていかれた。

 そこは、普段の生活区域とは隔離されていた。


 窓には鉄格子が設けられ、廊下には武装した兵士が立っていた。

 案内された部屋には、見たこともない機材が並び、壁には人体の図や武器の構造を示した資料が貼られていた。


 そこにいたのは、いつもの職員ではなかった。


 軍服を着た男たちだった。


「今日から、お前たちには新たな訓練を受けてもらう」


 一人の男が、子供たちを見渡しながら言った。


「この国を守るために必要な訓練だ。お前たちも、いずれは国に貢献する人間になる。そのために、今から必要なことを学んでもらう」


 子供たちは戸惑っていた。

 何人かが手を挙げ、質問しようとした。しかし、男はそれを制した。


「質問は必要ない。指示に従え」


 その日から、訓練は一変した。


 武器の扱い方を教えられた。

 人間の急所を教えられた。

 敵を見つけたとき、どのように接近し、どこを狙い、どうすれば確実に無力化できるのかを教えられた。


 最初は模擬訓練だった。

 しかし、訓練であることを理由に、子供たちが受ける扱いは日に日に厳しくなっていった。


 失敗すれば罰を受けた。

 指示に従わなければ食事を減らされた。

 訓練中に泣き出せば、泣き止むまで立たされた。


 何よりも、職員たちは子供たちの感情を邪魔なものとして扱っていた。


 恐怖は判断を鈍らせる。悲しみは集中を乱す。怒りは命令違反を招く。

 そうした説明を繰り返し聞かされ、子供たちは自分の感情を押し殺すことを求められた。


 泣くな。怯えるな。考えるな。命令に従え。

 それが、彼らに求められた生き方だった。


 そして京は、やがて施設の正体を知ることになる。


 ある夜、消灯後に目を覚ました京は、廊下から聞こえる話し声に気づいた。

 扉の隙間から、職員と軍人が話している姿が見えた。


「今回の候補者はどうだ?」


「身体能力は平均的ですが、精神面では扱いやすい部類です。反抗も少なく、命令への順応性も高い」


「ならば、予定どおり進めろ。戦力の補充は急務だ。成人兵士だけでは、いずれ限界が来る」


「承知しました。適性のある者から順次、実戦投入を想定した訓練へ移行させます」


「いいか。ここにいるのは保護対象であると同時に、将来の戦力だ。無駄にするな」


 京は、息を潜めていた。

 話の意味は、理解できた。


 ここは、孤児を保護するためだけの施設ではない。

 戦争で不足した兵士を補うため、身寄りのない子供たちを集め、兵士として育てる場所だったのだ。


 両親を失った子供たち。帰る家のない子供たち。助けを求める相手さえいない子供たち。

 そんな子供たちを集めて、戦場へ送り込む。


 それが、この施設の本当の役割だった。


 京は、扉から離れた。

 部屋へ戻り、布団に潜り込んだ。


 怖かったのだろうか。怒っていたのだろうか。

 それとも、悲しかったのだろうか。


 自分でも分からなかった。

 ただ、胸の奥に、ひどく冷たいものが沈んでいくのを感じた。


 両親は国のために戦い、帰ってこなかった。

 そして今度は、自分が国のために戦わされようとしている。


 ――何のために?

 ――誰のために?


 そんなことを考えても、答えなど出なかった。


 翌日からも、京はいつもどおり訓練に参加した。

 逃げ出そうと騒ぎ立てることも、職員に反抗することもなかった。


 ただ、命令に従った。言われたとおりに動いた。

 痛みに耐え、失敗を減らし、周囲から目立たないように振る舞った。


 そのほうが、余計なことを考えずに済んだからだ。


 けれど、京は理解していた。

 このままここにいれば、いつか自分は戦場へ送られる。


 人を殺すことを覚えさせられ、命令に従うことだけを教え込まれ、最後には誰かを殺すか、誰かに殺される。

 そんな未来が、すでに決められているのだ。


 ――そんなのは、嫌だ。


 そう思ったのは、いつ以来だっただろう。


 生きたいと思ったわけではなかった。未来に希望を抱いたわけでもなかった。

 ただ、自分の人生を、見知らぬ誰かに決められることが、どうしようもなく嫌だった。


 だから京は、逃げることにした。


 計画を立てた。

 施設の見回りの時間を覚え、職員の動きを観察し、敷地の構造を頭に入れた。


 一度に遠くへ逃げる必要はない。

 まずは塀を越える。次に、追っ手から身を隠す。

 食料と水を確保し、できるだけ人目につかない場所へ移動する。


 九歳の少年が立てた計画にしては、あまりにも無謀だった。

 それでも、何もしなければ、何も変わらない。


 そして、ある夜。

 京は施設を抜け出した。


 暗闇に紛れて敷地の外へ出たとき、胸に込み上げてきたのは、喜びでも達成感でもなかった。

 ただ、これでよかったのだろうか、という疑問だけがあった。


 逃げ出したところで、行く場所などない。

 帰る家もなければ、頼れる人間もいない。


 それでも、あの場所に残るよりはましだと思った。


 京は、歩き続けた。


 最初は、街を目指した。

 人が集まる場所なら、食べ物を手に入れられるかもしれない。誰かに助けてもらえるかもしれない。


 そう考えていた。

 しかし、京が辿り着いた街は、彼の想像とはかけ離れていた。


 建物の多くは損壊し、道路には放置された車両が並んでいた。店の窓は割られ、商品は持ち去られていた。


 遠くから銃声が聞こえた。道端には、荷物を抱えて歩く人々がいた。その中には、京と同じくらいの年齢の子供もいた。


 母親らしき女性に手を引かれている子供。

 泣きながら誰かの名前を呼んでいる子供。

 何も言わず、ただ前を歩いている子供。


 京は、彼らを眺めていた。


 自分と何が違うのだろう。自分には帰る家がない。

 あの子供たちには、まだ帰る場所があるのだろうか。


 そんなことを考えた。

 けれど、答えは出なかった。


 街の外れでは、食料を求める人々が列を作っていた。

 配給所の前には武装した兵士が立ち、列に割り込もうとした男を殴り倒していた。


 誰かが怒鳴った。誰かが泣いた。誰かが助けを求めた。

 それでも、兵士たちは動かなかった。


 列は進まなかった。

 食料は足りていなかった。いや、正確には、食料が存在しないわけではなかったのだろう。

 ただ、そこにいる人々が生きていくために必要なだけの食料が、彼らの手には届かなかった。


 京は、その光景を見ていた。


 自分が逃げ出した施設は、地獄だった。

 けれど、外の世界もまた、地獄だった。


 逃げ出せば何かが変わると思っていた。

 自由になれば、何かが見つかると思っていた。


 しかし、どこへ行っても、目に映るのは同じものばかりだった。


 飢え。暴力。恐怖。絶望。

 人々は生きるために必死だった。


 その一方で、誰かを踏みつけなければ生きられない人間もいた。


 助けを求める声は、誰かの怒鳴り声にかき消された。

 泣いている子供がいても、足を止める大人はほとんどいなかった。


 皆、自分が生き残ることで精一杯だったのだ。


 それを責めることはできなかった。

 自分だって、同じだったから。


 京は、街を離れた。


 何処へ向かうつもりだったのか、自分でも分からなかった。

 歩いて、歩いて、歩き続けた。


 腹が減れば、食べられそうなものを探した。

 喉が渇けば、水を探した。

 眠くなれば、建物の陰や廃屋で眠った。


 誰かに見つからないように。誰かに捕まらないように。誰かに利用されないように。

 ただ、それだけを考えていた。


 生きるために必要なことだけを繰り返す。

 それ以外のことは、何も考えなかった。


 いつしか、京は死を恐れなくなっていた。

 いや、恐れなくなったというよりも、死を特別なものとして考えなくなっていた。


 この世界では、誰もが簡単に死ぬ。


 兵士に撃たれて死ぬ者がいる。

 飢えによって死ぬ者がいる。

 病気になっても薬を手に入れられず、静かに息を引き取る者もいる。

 昨日まで隣にいた人間が、次の日にはいなくなっている。


 そんなことが、当たり前のように繰り返されていた。


 ならば、自分が死んだところで、何が変わるのだろう。

 誰かが悲しんでくれるわけでもない。誰かが困るわけでもない。


 自分が生きていることに、何の意味があるのだろう。

 考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。


 だから、考えることをやめた。

 生きる理由がないのなら、無理に理由を探す必要もない。

 死ぬ理由がないのなら、今すぐ死ぬ必要もない。


 ただ、それだけだった。


 京は、生きていた。

 生きようと努力していたわけではない。未来に希望を抱いていたわけでもない。

 ただ、死ぬこともなく、今日を過ごしていた。


 明日が来れば、明日を過ごす。

 その次の日が来れば、その日も過ごす。

 いつか死ぬ日が来るのなら、その日まで待てばいい。


 それが、黒木京の生き方になっていた。


 そんな日々が、どれほど続いただろう。

 季節が変わったことにも、気づかなくなっていた。


 空が晴れているのか、曇っているのか。風が冷たいのか、暖かいのか。

 そんなことは、どうでもよかった。


 ただ、腹が減る。喉が渇く。眠くなる。

 それを満たすために動く。そして、また眠る。


 世界がどうなろうと、自分には関係がない。

 国が滅びようと、戦争が終わろうと、何も変わらない。


 どちらにせよ、自分の人生には何も残されていないのだから。


 ――早く、終わらないかな。


 いつからか、京はそんなことを考えるようになっていた。


 何が終わるのかは分からない。

 戦争なのか。世界なのか。それとも、自分の人生なのか。


 どれでもよかった。

 ただ、もう何も考えたくなかった。

 もう何も感じたくなかった。


 何かを期待して裏切られることも、誰かを大切にして失うことも。

 そんなことを繰り返すくらいなら、最初から何もいらなかった。


 そうして、京は少しずつ、人間らしい感情を手放していった。

 少なくとも、本人はそう思っていた。


 そんな京の前に、ある日一人の少年が現れた。


 ――白井たかし。

 それが、彼の名前だった。


 初めて会ったとき、京は彼のことを、随分と変わった人間だと思った。


 何しろ、こんな世界で笑っていたのだ。

 周囲には崩れた建物が並び、遠くでは煙が上がっている。

 道端には、誰かが捨てた荷物が散乱していた。


 いつ銃声が聞こえてもおかしくないような場所だった。

 それなのに、白井は目を輝かせていた。

 まるで、これから楽しいことが始まるとでも言いたげに。


「なあ、お前!」


 突然声をかけられ、京は足を止めた。

 声の主は、少し離れた場所に立っていた少年だった。


 自分と同じくらいの年齢だろうか。

 服は汚れていたし、頬には小さな傷があった。決して裕福な暮らしをしているようには見えない。


 それなのに、少年の瞳には、不思議なほどの輝きがあった。


「……何だ、お前?」


 京が答えると、少年は嬉しそうに笑った。


「よかった! 人に会えた!」


 何がそんなに嬉しいのだろう。

 京には理解できなかった。


「俺、白井たかしっていうんだ。お前は?」


「……黒木……黒木京」


「京か! よろしくな!」


 少年は、当たり前のように手を差し出してきた。京は、その手を見つめた。

 握手を求められているのだと理解するまで、少し時間がかかった。


 何故、初対面の人間にそんなことをするのだろう。

 何故、こんな世界で笑っていられるのだろう。

 何故、何も持っていない自分に、そんなに嬉しそうに話しかけてくるのだろう。


 疑問はいくつも浮かんだ。

 けれど、京はそのどれも口にしなかった。


 ただ、差し出された手を、しばらく眺めていた。


「……何をしているんだ?」


「握手だよ! 見て分かんねーか?」


「……それは、分かる」


「じゃあ、なんで握らないんだよ?」


「……必要ないだろ」


 京がそう答えると、白井は一瞬だけきょとんとした。

 それから、なぜか楽しそうに笑った。


「そっか! じゃあ、必要になるまで待つぜ!」


 そう言って、白井は手を引っ込めた。

 普通なら、怒るか、呆れるか、立ち去るか。


 少なくとも、京はそう思っていた。

 しかし、白井は違った。断られたことなど、まるで気にしていない様子だった。


「なあ、京。お前はこれからどこへ行くんだ?」


「……どこでもいい」


「は、なんも目的ないのか?」


「……ない」


「じゃあ、俺と一緒に来ないか?」


 京は、白井の顔を見た。


「……何で?」


「何でって……一人より二人のほうが楽しいだろ?」


 その言葉を聞いたとき、京は初めて、白井のことを理解できない人間だと思った。


 一人でも二人でも、何も変わらない。

 食料が増えるわけでもなければ、安全が保証されるわけでもない。

 誰かと一緒にいたところで、明日を生きられる保証などない。


 それなのに、どうして楽しいなどと言えるのだろう。


「……楽しいだと?」


 思わず、聞き返していた。

 白井は、少しだけ首を傾げた。


「おう。楽しいだろ?」


「……何が」


「え?」


「……何が、楽しいってんだッ!?」


 白井は、しばらく黙っていた。

 その顔を見て、京は、自分が何かおかしなことを聞いたのだろうかと思った。


 けれど、白井はすぐに笑った。


「そりゃあ、いろいろあるだろ!」


「……いろいろ?」


「ああ! うまいものを食べたときとか、知らない場所を見つけたときとか。あと、昨日までできなかったことができるようになったときとか!」


 まるで、世界には楽しいことがいくらでもあるとでも言いたげだった。


「それにさ、明日になったら、今日より面白いことがあるかもしれないだろ?」


 京は、何も答えられなかった。


 明日――そんなものに、何の意味があるのだろう。

 今日と同じように腹を満たし、眠り、また目を覚ます。


 その繰り返しに、何か違いがあるのだろうか。

 明日になったところで、世界は変わらない。


 戦争は続いている。人々は苦しんでいる。

 自分には帰る場所も、家族も、未来もない。


 それなのに、この少年は。


「……お前、馬鹿なのか?」


 京は、思ったままを口にした。

 白井は、目を丸くして、それから声を上げて笑った。


「よく言われる!」


 何故、笑えるのだろう。

 何故、そんなに楽しそうなのだろう。


 京には、どうしても理解できなかった。

 理解できなかったからこそ、目が離せなかった。


 白井たかしという少年は、京がこれまで出会ってきた人間とは違っていた。


 誰かを押しのけて生き残ることだけを考えているわけではない。

 失ったものを嘆き続けているわけでもない。

 ましてや、世界を諦めたような顔もしていなかった。


 彼は、笑っていた。

 この世界に、まだ何かが残されていると信じているかのように。


「なあ、京!」


 白井は、再び歩き出しながら言った。


「とりあえず、飯を探そうぜ! 俺、腹が減ってるんだ!」


「……俺も」


「よし! じゃあ決まりだ!」


 何が決まったのか、京には分からなかった。

 けれど、気がつけば、白井の隣を歩いていた。


 理由はない。目的もない。


 ただ、少しだけ。

 ほんの少しだけ、彼が何をするのか見てみたいと思ったのだ。


 こんな世界でも、目を輝かせて生きている人間がいる。

 こんな世界でも、明日を楽しみにしている人間がいる。


 それが、京には不思議で仕方がなかった。


 そして、このときの京は、まだ知らなかった。

 白井たかしという少年との出会いが、自分の人生を大きく変えることになるのだと。


 世界に絶望し、ただ死を待つだけだった少年が。

 もう一度、自分の人生を歩き始めることになるのだと。



 ―――。



 白井たかしと行動を共にするようになってから、京の日常は少しだけ変わった。


 もっとも、世界が変わったわけではない。

 相変わらず、世界はゆっくりと終わりに向かっていた。


 崩れた建物はそのまま放置され、道路には瓦礫が散乱している。

 かつて人々で賑わっていた商店街も、今では食料を探す人間や、他人の持ち物を奪おうとする者たちが徘徊するだけの場所になっていた。


 空を見上げれば、遠くに煙が立ち上っている。

 時折、遠方から銃声が聞こえることもあった。


 そんな世界で、白井は笑っていた。


 朝、目を覚ましたとき。食料を探しに出かけるとき。運よく食べられるものを見つけたとき。

 そして、何も見つからず空腹のまま一日を終えることになったときでさえ、白井は笑顔を絶やさなかった。


「なあ、京! 今日はすごいものを見つけたぞ!」


 ある日、白井はそう言って、得意げに手のひらを差し出してきた。

 そこにあったのは、ひび割れた袋に入った、わずかな乾燥食品だった。


「……それだけか?」


「それだけって、馬鹿にするなよ! 昨日は何も見つからなかったんだぞ!」


「……昨日も、一昨日も、その前も何も食べていないわけじゃないだろ」


「そうだけどさ! こういうのは、見つけたことに意味があんだよ!」


 白井は、まるで宝物でも見つけたかのように笑っていた。

 京には、その感覚が理解できなかった。


 食料が手に入ったのなら、喜ぶのは当然だろう。

 だが、たった一食分にも満たないものを手に入れたところで、明日の食料が保証されるわけではない。


 それなのに、白井は嬉しそうだった。


 明日も何かが見つかるかもしれない。明日は今日よりも運がいいかもしれない。

 そんな、根拠のない期待を抱いているように見えた。


「……お前、頭がおかしいんじゃないのか?」


「ひどいな! 俺は至って正常だぞ!」


「……そうか。なら、余計におかしいな」


「どういう意味だよ!」


 白井は不満そうに声を上げた。

 けれど、すぐに笑った。


 京は、そんな白井を眺めながら思った。

 やはり、こいつは頭がおかしい。


 こんな世界で、どうしてそこまで笑っていられるのだろう。何がそんなに楽しいのだろう。何を期待しているのだろう。


 疑問は尽きなかった。

 そして、京はいつしか、その答えを知りたいと思うようになっていた。


 白井と行動を共にする生活は、決して安全なものではなかった。

 食料を探すために街を探索すれば、危険な目に遭うことも珍しくない。


 ある日、二人が廃墟となった住宅街を歩いていたときのことだった。


 瓦礫の向こうから、低い唸り声が聞こえてきた。

 京が振り向いた瞬間、一匹の犬が飛び出してきた。


 痩せ細った身体に、汚れた毛並み。口元には泡を浮かべ、血走った目で二人を睨みつけている。

 長いあいだ餌にありつけていないのだろう。その犬は、獲物を見つけた飢えた獣のように、二人へと襲いかかってきた。


「うわあああっ! 京、逃げろ!」


 白井が叫んだ。

 言われるまでもなかった。


 京は即座に走り出した。

 背後から、犬の爪が地面を蹴る音が聞こえる。


 振り返る余裕などなかった。

 二人は瓦礫の間を駆け抜け、倒れたフェンスを乗り越え、崩れかけた建物の隙間へと飛び込んだ。


 しかし、犬はしつこく追いかけてきた。

 牙を剥き出しにし、何度も二人へ飛びかかろうとする。


 京は拾った鉄パイプを振り回し、どうにか犬を遠ざけた。

 その隙に二人は建物の奥へ逃げ込み、重たい金属製の扉を閉めた。


 外から、犬が扉を引っ掻く音が聞こえていた。

 やがて、その音も遠ざかっていった。


「……はあっ、はあっ……死ぬかと思った……!」


 白井は壁に背中を預け、肩で息をしていた。

 その顔には、汗が浮かんでいる。

 当然だ。一歩間違えれば、二人とも犬に食い殺されていたかもしれないのだから。


 京は息を整えながら、白井を見た。


「……お前、さっき笑っていただろ」


「え?」


「……犬に追いかけられているとき、笑っていただろ」


 白井は、少しだけ考えるような顔をした。


「そうだったか?」


「……そうだった」


「うーん……必死だったから、よく覚えてないな」


 そう言って、白井は頭を掻いた。

 そして、また笑った。


「でも、二人とも無事だったんだから、よかったじゃないか!」


「お前……。今、死にかけたんだぞ」


「おう。だから、無事でよかったんだよ」


 京は言葉を失った。

 死にかけたことを、無事だったことへの喜びで上書きしてしまう。

 普通なら、恐怖が残るはずだ。もう二度と同じ目に遭いたくないと考えるはずだ。


 それなのに、白井は違った。

 危険な目に遭ったことよりも、そこから生きて逃げられたことを喜んでいた。


「……本当に、頭がおかしいな」


「だから、正常だって!」


 白井は笑いながら言った。

 京は、それ以上何も言わなかった。ただ、その横顔を見つめていた。


 別の日には、兵士に見つかったこともあった。

 二人が食料を探していた街の一角で、数人の兵士が子供たちを集めていたのだ。

 兵士たちは、身寄りのない子供を保護施設へ収容していると説明していた。


 しかし、京には分かっていた。

 その施設が、何を目的としているのか。


 自分がかつて暮らしていた場所と同じだ。

 子供たちを保護するという名目で集め、兵士として育てる。人員不足を補うために、幼い命を戦場へ送り込む。

 京にとって、それは決して他人事ではなかった。


「おい、そこの二人! 止まれ!」


 兵士の一人が、二人を見つけて声を上げた。


 京は反射的に逃げようとした。

 だが、白井はその場に立ち止まってしまった。


「……おい」


 京が小声で呼びかける。


「……逃げるぞ」


「え? でも、あの人たち、俺たちを呼んでるぞ?」


「……だから何だ」


「いや、何か用があるのかなって」


「……馬鹿か、お前は!」


 京が白井の腕を掴んだ、その瞬間だった。

 兵士たちが駆け寄ってきた。


「身元を確認する! お前たち、保護施設へ来てもらうぞ!」


「保護施設?」


 白井が首を傾げた。

 その言葉を聞いた瞬間、京の脳裏に、あの高い塀と、軍服姿の男たちの姿が蘇った。


「……ふざけるな」


 京は白井の腕を引き、走り出した。

 兵士たちが怒鳴り声を上げる。追いかけてくる足音が聞こえた。

 二人は細い路地へ飛び込み、崩れた塀を乗り越え、廃屋の中へと逃げ込んだ。


 しばらく息を潜めていると、兵士たちの足音は遠ざかっていった。

 京は、白井の腕を離した。


「……お前、何を考えているんだ」


「え?」


「……あいつらに捕まったら、どうなるか分かっていただろ」


 白井は、京の顔を見つめていた。


「……ああ。そういうことか」


 何かを理解したように、白井は頷いた。


「ごめん、京。助かったよ」


「……謝るくらいなら、最初から逃げろ」


「うん。次からは気をつける!」


 白井は、そう言って笑った。

 京は深く息を吐いた。怒る気にもなれなかった。


 この男は、危険を知らないわけではない。恐怖を感じないわけでもない。

 それなのに、何かが根本的に違っている。


 自分なら、危険を避けるために必要なことだけを考える。

 生き残るために、何をすべきか。何を捨て、何を諦めればいいのか。

 そうやって、余計なことを考えずに生きてきた。


 だが、白井は違った。

 危険な目に遭えば恐怖を感じる。失敗すれば悔しがる。食料が見つかれば喜ぶ。

 そして、どんなことがあっても、次の日にはまた笑っている。


 まるで、世界がどれだけ壊れていても、それだけは譲らないと決めているかのようだった。


 京は、そんな白井を頭のおかしい奴だと評価していた。

 けれど、どうしても目を離すことができなかった。


 白井は、自分にないものを持っていた。自分が失ってしまったものを、まだ持っていた。


 それが何なのか、京には分からなかった。

 分からなかったからこそ、知りたかった。


 白井と過ごす時間は、少しずつ増えていった。


 二人で食料を探し、危険を避け、廃墟で眠る。

 ときには些細なことで言い争い、ときには何も話さず、ただ隣に座っていることもあった。


 白井は、よく話す男だった。


 見つけたものの話。昔見た景色の話。いつか行ってみたい場所の話。そして、明日やりたいことの話。

 京は、そのほとんどを聞き流していた。返事をするのも面倒だった。


 それでも、白井が話すのをやめることはなかった。


「なあ、京。いつか、この世界が平和になったら、何をしたい?」


 ある晩、寝床にしていた廃墟の中で、白井が尋ねてきた。

 京は、天井を見つめたまま答えた。


「……別に」


「えー、何かあるだろ?」


「……ない」


「旅行とか、うまいものを食べるとか、そういうの!」


「……興味ない」


「そっかぁ……」


 白井は、少し残念そうに呟いた。

 けれど、すぐに声を弾ませた。


「じゃあ、俺が考えておくよ! 世界が平和になったら、京も連れていってやる!」


 京は、横目で白井を見た。


「……世界が平和になると思っているのか?」


「うん!」


 白井は、迷いなく答えた。


「いつかはなるさ。今すぐじゃなくても、いつかはきっと!」


「……根拠は?」


「ない!」


「……馬鹿か」


「だから、よく言われるって!」


 白井は笑った。

 京は、呆れて目を閉じた。


 世界が平和になる。

 そんな日が、本当に来るのだろうか。


 この世界は、もう終わりに向かっている。

 戦争は続き、街は崩れ、人々は明日を生きることさえ難しくなっている。

 何かを変えようとする人間がいたとしても、世界そのものを変えることなどできるはずがない。


 京は、そう思っていた。

 それでも、隣で笑う白井の声を聞いていると、ほんの少しだけ、その言葉が耳に残った。


 ――いつかはきっと。

 その言葉を信じることはできなかった。


 けれど、否定することも、以前ほど簡単ではなくなっていた。




 ―――。



 少しずつ、時は流れていった。


 京が十九歳になり、白井が十八歳になった年。

 二人は、街の外れにある廃墟ビルを寝床としていた。


 かつては多くの人間が働いていたであろう建物も、今では窓ガラスが割れ、壁の一部が崩れ、階段には瓦礫が散乱している。


 それでも、雨風をしのぐことはできた。

 人目につきにくく、食料を探せる場所にも近い。


 二人が暮らすには、十分な場所だった。

 その日も、いつもと変わらない朝が来るはずだった。


「――京! 起きろ!」


 耳元で、声がした。

 京は眉をひそめた。


「……うるさい」


「京! 起きろって!」


 いつもなら、白井は何度か声をかけ、布団代わりの古い毛布を引っ張り、それでも起きなければ笑いながら文句を言う。


 それが、二人の朝の始まりだった。

 だから京は、今回も同じだと思っていた。


「……あと五分」


「そんなこと言ってる場合じゃねぇ!」


 次の瞬間、頬に強い衝撃が走った。


「痛っ……!」


 京は飛び起きた。


「……何しやがる!」


 頬を押さえながら顔を上げる。

 そこには、白井が立っていた。


 しかし、様子がおかしかった。

 いつもなら、京が怒れば白井は笑う。悪びれもせず、冗談を言って、最後には京を呆れさせる。


 だが、今日の白井は違った。

 笑っていなかった。

 その顔は青ざめ、額には汗が浮かんでいる。呼吸も荒く、何かを必死に伝えようとしているようだった。


「……どうした?」


 京は、思わず尋ねた。

 白井は答える代わりに、京の腕を掴んだ。


「早く、起きてくれ」


 その声には、いつもの明るさがなかった。

 焦りと緊張が滲んでいた。


 京は、ようやく何かがおかしいと気づいた。


「……何があった?」


 白井が口を開こうとした、そのときだった。

 建物の外から、乾いた破裂音が響いた。


 一発ではなかった。

 間を置かず、二発、三発と続けて鳴り響く。


 銃声だった。


 京の表情が変わった。

 白井もまた、音のした方向へ視線を向けた。


 今度は、連続した銃声が響いた。

 遠くで誰かが叫んでいる。何かが激しく崩れる音がした。


 そして、再び銃声。


 京は立ち上がり、割れた窓へと近づいた。


 外の様子を窺うと、街の向こうから黒煙が立ち上っていた。


 道路を走る人影。逃げ惑う人々。武装した兵士たち。

 そして、その先には――見慣れない軍用車両が何台も進んでくる姿があった。


「……何が起きている?」


 京が尋ねると、白井は短く答えた。


「敵だ」


「……敵?」


「敵が攻めてきたんだ!」


 白井の声が震えていた。

 京は、窓の外を見つめた。


 銃声が鳴り響く。人々が逃げていく。

 街が、再び戦場へと変わろうとしていた。


 いや、違う。

 この世界では、戦争など一度も終わっていなかったのだ。

 ただ、二人が身を潜めていた場所にまで、その影が及んでいなかっただけ。


 京は、拳を握りしめた。


 十九歳になっても、世界は何も変わらなかった。

 そして今、二人の運命を大きく変える出来事が、目の前に迫っていた。


「なんでここにまで戦火が!?」


 逃げながら、京は叫んだ。


 つい先ほどまで、二人が暮らしていた街は静まり返っていた。崩れた建物と瓦礫が広がるだけの、いつもと変わらない景色。そこに突然、銃声が響き渡り、爆発音が轟いたのだ。


「分からねぇ! 俺だって何が起きてるのか、さっぱりだ!」


 白井も必死に足を動かしながら叫び返す。


 背後から聞こえる怒号。遠くで立ち上る黒煙。逃げ惑う人々の悲鳴。

 戦争は終わったのではなかったのか。

 いや、そもそも、この世界で戦争が終わったことなどあったのだろうか。


 京は奥歯を噛み締めた。

 どこまで逃げればいい。どこへ向かえばいい。そもそも、逃げ切ったところで何があるというのか。


 考えたところで答えは出ない。

 ならば、今は走るしかなかった。


 そのときだった。


「きゃっ!」


 背後から、小さな悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、白井の後ろを走っていた少女が、瓦礫に足を取られて転んでいた。


 歳は十歳ほどだろうか。

 少女は地面に手をつき、必死に立ち上がろうとしていた。しかし、擦りむいた膝が痛むのか、顔を歪めたまま、うまく力が入らないらしい。


 その背後には、こちらへ迫る人々の波があった。


 誰も少女を気に留めていない。

 助けを求める声を上げる余裕すらないのだろう。誰もが自分の命を守ることで精一杯だった。


 京は足を止めた。


 少女に親らしき人物の姿はない。

 この世界で生まれ、この世界で育った子供なのだろう。彼女は、戦争のない世界を知らないのかもしれない。

 もしかすると、京と同じように養護施設へ入れられ、そこから逃げ出してきたのかもしれなかった。


 だが、それは今、考えるべきことではない。

 京の頭は、瞬時に冷静さを取り戻していた。


 少女を助けるべきか。


 助けた場合、彼女を抱えて走ることになる。速度は落ちる。逃げ遅れる危険性も高まる。

 そもそも、少女が走れるようになったとしても、見知らぬ他人を連れて逃げることに何の利点もない。


 見捨てればいい。

 それが最も合理的な判断だった。


 これまでの生活で、京は何度も生死の境目を歩いてきた。

 食料が尽きれば、次に手に入る場所を考える。危険な人間に遭遇すれば、相手の人数と手持ちの武器、自分が逃げ切れる可能性を計算する。


 情に流されれば死ぬ。

 誰かを助ける余裕があるのなら、その余裕を自分が生き残るために使うべきだ。


 そうやって生きてきた。

 だからこそ、答えは決まっていた。


 京は少女から視線を切り、再び走り出そうとした。


 ――その瞬間。


「おい、大丈夫か!?」


 白井が飛び出した。

 少女のもとへ駆け寄ると、白井は迷うことなく彼女の腕を取った。


「立てるか? ほら、俺につかまれ!」


「で、でも……足が……」


「大丈夫だ! ゆっくりでいいから!」


 白井は少女の身体を支え、立ち上がらせようとする。


 銃声が響いた。

 近い。


 京は反射的に音のした方へ目を向けた。崩れた建物の向こうで、武装した兵士たちがこちらへ向かっている。

 逃げ遅れた人間を追い立てるように、銃を構えながら進んでいた。


 ここに留まれば、三人とも巻き込まれる。


「おい、白井! 何やってんだ! 置いていけ!」


 京は叫んだ。

 白井は顔を上げた。


「置いていけるわけねぇだろ!」


「ふざけんな! 俺たちまで死ぬぞ!」


「だったら、もっと急げばいいだろ!」


「そういう問題じゃねぇ!」


 京の声が荒くなる。


 助ける義理などない。

 この少女が誰なのかも知らない。どこから来たのかも、これからどう生きるつもりなのかも知らない。


 それなのに、なぜ。

 なぜ白井は、こんな状況で他人を助けようとするのか。


 自分が生き残ることさえ難しい世界で、どうしてそこまで他人の命を気にかけられるのか。

 京には理解できなかった。


 いや――理解できないからこそ、苛立っていたのかもしれない。


「ほら、走れるな!?」


 白井は少女の手を引いた。

 少女は痛みに顔を歪めながらも、なんとか一歩を踏み出す。


「うん……!」


「よし! じゃあ、行くぞ!」


 白井が走り出す。


 京は舌打ちした。

 このままでは、逃げ切れないかもしれない。


 そう判断した京は、二人のもとへ駆け戻った。


「貸せ!」


「えっ?」


 京は少女の反対側から腕をつかみ、その身体を支えた。


「走れるところまで走れ! 無理なら俺が引っ張る!」


 少女は驚いたように京を見上げた。

 京はその視線を無視し、前方へ目を向ける。


「白井! あっちだ! 建物の間を抜けるぞ!」


「おう!」


 三人は再び走り出した。


 なぜ戻ったのか。

 京自身にも、よく分からなかった。


 合理的に考えれば、見捨てるべきだった。そうするのが正しいと、ついさっきまで確信していた。


 それなのに、気がつけば身体が動いていた。

 隣では、白井が少女に声をかけ続けている。


「もうちょっとだ! 頑張れ!」


 こんな世界でも、白井は変わらない。


 誰かを見捨てることよりも、助けることを選ぶ。

 明日がどうなるかも分からないのに、目の前の人間を励まし、笑いかける。


 京には、それが理解できない。


 けれど。

 ――だからこそ、目が離せなかった。



 ―――。



 どうにか敵の追撃を振り切り、三人がたどり着いたのは、街の外れにある広場だった。


 そこには、京たちと同じように逃げ延びてきた人々が大勢集まっていた。

 泣き叫ぶ子供。怪我を負った老人。家族の名前を呼びながら、必死に周囲を探し回る者。

 誰もが不安と恐怖に顔を歪め、これからどうすればいいのかも分からずに立ち尽くしていた。


 そんな人混みの中から、一人の女性が少女を見つけ、駆け寄ってきた。


「有紗(ありさ)!」


「ママ!」


 少女は女性に飛びついた。


 女性は少女を強く抱き締めると、何度もその頭を撫でた。涙を流しながら、無事だったことを確かめるように、何度も名前を呼んでいる。

 やがて女性は、少女を助けてくれた二人に気づいた。


「あなたたちが、この子を……!」


 女性は深々と頭を下げた。


「本当にありがとう。あなたたちが助けてくれなかったら、この子は……!」


「い、いやいや! そんな、大したことじゃないですよ!」


 白井は照れくさそうに頭を掻いた。


「無事でよかったです。ほんとに!」


 そう言って笑う白井の顔は、どこか誇らしげだった。

 まるで、自分が何か大きなことを成し遂げたかのように。


 京は、その様子を黙って眺めていた。

 胸の奥が、妙にざわついている。


 別に、少女を助けたこと自体に文句があるわけではない。結果的に三人とも逃げ延びることができたのだから、今さら責めたところで意味はない。

 それでも、京はどうしても居心地の悪さを感じずにはいられなかった。


 ――何を、いい気になっているんだ。

 そんな言葉が、頭の中に浮かんだ。


 いつもなら、白井のお人好しを少し叱るだけで済んだかもしれない。

 お前はもう少し自分の命を大事にしろ。目の前の人間を助けるのもいいが、まずは自分が生き残ることを考えろ。

 そう言って、いつものように小言を並べればよかった。


 けれど、今日は違った。


 あの状況を思い出す。

 銃声が響き、兵士たちが迫り、少しでも判断を誤れば命を落としかねなかった、あの瞬間。


 京は考えた。

 少女を助けるべきか。見捨てるべきか。生き残るためには、どちらが正しいのか。


 必死に計算し、合理的な答えを導き出そうとした。

 対して白井は、何も考えずに飛び出した。


 いや、何も考えていなかったわけではないのだろう。

 ただ、白井にとっては、助けを求める人間を見捨てるという選択肢そのものがなかったのだ。


 だから、迷わなかった。

 だから、恐れなかった。


 そして今も、少女とその母親が無事に再会できたことを、心の底から喜んでいる。


 京には、それができない。

 できないからこそ、分からなかった。


 どうして、そんなふうに笑えるのか。

 どうして、自分の命を危険にさらしてまで、他人のために動けるのか。

 どうして、こんな世界で、まだ人間を信じられるのか。


 考えれば考えるほど、胸の奥から得体の知れない感情が湧き上がってきた。


 それは、苛立ちだった。白井に対する怒り。

 そして――自分自身に対する怒り。


 白井と自分は、何が違うのだろう。

 同じように戦争の中で生き、同じように明日をも知れない日々を送ってきた。それなのに、白井は今も誰かのために笑うことができる。


 自分には、それができない。


 目の前の少女を助けることすら、一度は見捨てようとした。

 それなのに白井は、そんな自分を責めることもなく、当たり前のように手を差し伸べた。


 その事実が、何よりも腹立たしかった。


「……京?」


 白井の声に、京は顔を上げた。

 いつの間にか、少女と母親は人混みの向こうへと去っていた。


「どうしたんだよ。さっきから黙り込んで」


「別に」


「別にって顔じゃねぇだろ」


「うるせぇな。お前には関係ない」


 思わず、突き放すような言葉が口をついて出た。

 白井が目を丸くする。


「……なんだよ、急に」


「なんでもねぇって言ってんだろ」


「おい、京」


「しつこいな!」


 声が大きくなった。

 周囲の人間が、一瞬こちらを振り返る。


 京は舌打ちして、白井から顔を背けた。

 何を怒っているのか、自分でもうまく説明できなかった。


 ただ、今は白井の顔を見ていたくなかった。


 あの、何も疑っていないような顔を。

 あの、こんな世界でも希望を捨てていないような顔を。

 今の京には、それがひどく眩しく、そして腹立たしかった。


 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。

 やがて白井が、ぽつりと口を開いた。


「……なあ、京」


「今度はなんだよ」


「俺たち、これからどうする?」


 その問いに、京は口を閉ざした。

 怒りに任せていた思考が、急速に冷えていく。


 そうだ。

 今は、そんなことをしている場合ではない。

 どれだけ腹が立とうと、白井が何を考えていようと、現実は変わらない。


 街は敵の攻撃を受けている。自分たちは逃げてきた。

 そして、これから先、どこへ向かえばいいのかも分からない。


 京は一度、深く息を吐いた。


「……敵の目的は、たぶんこの国そのものだ」


「この国?」


「ああ」


 京は周囲を見回した。


 広場には、武器を持った人間などほとんどいない。集まっているのは、老人や子供、怪我人といった非戦闘員ばかりだ。


 戦う力も、逃げるための手段も持たない人間たち。

 そんな街に、敵は大挙して押し寄せてきた。


「局地的だった戦争が、どうしてこんな大事になったのかは分からない。だが、少なくとも、ここの人間を片っ端から殺すことだけが目的なら、わざわざこんな大規模な部隊を動かす必要はねぇはずだ」


「じゃあ、何が目的なんだ?」


「……分からない。ただ、こんな非戦闘員しかいない街にまで敵が攻め込んできたってことは……」


 京は、そこで言葉を切った。

 口にするのをためらったわけではない。むしろ、答えはとっくに出ていた。

 ただ、それを言葉にしてしまえば、もう後戻りできないような気がしたのだ。


 京の表情を見つめていた白井は、やがて何かを悟ったように顔を伏せた。


「……そっか」


 声が震えていた。


「俺たちは……終わりなのか?」


 京は、何も答えなかった。

 答えられなかったのではない。


 否定する理由が、どこにもなかったのだ。


 この国が敵に占領されれば、二人が今まで暮らしてきた場所は失われる。逃げ延びたとしても、その先に安全な場所がある保証はない。

 そもそも、敵がこの国を滅ぼすつもりなら、逃げることに何の意味があるのだろう。


 今までだって、そうだった。

 戦火から逃げても、別の場所で争いが起きる。飢えをしのいでも、次の日には食料が手に入るか分からない。

 どれだけ足掻いたところで、世界そのものが自分たちを拒んでいるかのようだった。


 けれど。

 京が本当に驚いたのは、そんな現実ではなかった。


 白井の顔だった。


 いつも笑っていた男。

 どんなにひどい目に遭っても、明日には何かいいことがあるかもしれないと、疑いもなく口にしていた男。


 そんな白井が、今、目の前で絶望していた。

 瞳から光が消え、唇が小さく震えている。

 何かを言おうとしているのに、言葉が出てこない。


 京は、初めて見た。

 白井たかしが、心の底から恐怖している姿を。

 そして、その恐怖を前にして、どうすればいいのか分からずにいる姿を。


 ――ああ。


 京は思った。


 ――こいつも、怖いんだ。


 当たり前のことだった。

 どれだけ笑っていたところで、白井だって人間だ。死にたくないはずだ。明日を生きたいはずだ。


 それでも、白井はこれまで笑っていた。

 こんな世界で、どうして今まで笑えていたんだ。


 京が答えを見つけるよりも先に――。

 不意に、視界が白く染まった。


「……っ!?」


 まばゆい光が、周囲を包み込んだ。

 空から降り注いだのか。それとも、地面から湧き上がったのか。


 分からなかった。


 ただ、瞬きする間もなく、広場にいた人々の姿も、崩れた建物も、立ち上る黒煙も、すべてが白い光の中へと呑み込まれていく。


「な、なんだ……!?」


 白井が声を上げた。


 次の瞬間――轟音。

 耳をつんざくような音が鳴り響いた。


 同時に、嵐のような突風が吹き荒れる。人々の悲鳴がかき消され、瓦礫が宙を舞い、京の身体が大きく揺さぶられた。


「白井――!」


 手を伸ばそうとした。

 だが、風圧に押し戻され、身体が思うように動かない。

 目の前にいるはずの白井の姿さえ、光に遮られて見えなくなっていた。


 何かが起きている。

 これは、敵の攻撃なのか。それとも、まったく別の何かなのか。


 考えようとしても、思考がまとまらない。

 耳鳴りがする。視界が揺れる。身体から力が抜けていく。


「くそっ……!」


 京は必死に意識をつなぎ止めようとした。

 だが、抗うことはできなかった。


 白い光が、すべてを覆い尽くす。


 そして――黒木京の意識は、深い闇の底へと沈んでいった。



 ―――。



 気がつくと、黒木京は白い空間にいた。


 どこまでも白い。


 上も、下も、右も、左も。壁があるのか、床があるのか、それとも天井があるのかすら判然としない。

 視界の果てまで白一色に染まったその場所には、距離や奥行きといった概念さえ存在しないように思えた。


 自分が立っているのか、吊るされているのか、それとも横たわっているのか。

 それすら、分からなかった。


「…………」


 京はゆっくりと視線を下げた。

 そこにあったのは、自分の身体だった。


 衣服は身につけていない。目に映るのは、生身の肌色をした手足と胴体だけ。傷も、汚れも、見慣れた身体の痕跡も、何もかもが曖昧だった。


「なん、だ……これ」


 呟いた声は、どこまでも白い空間に吸い込まれていった。


 京は慌てなかった。

 いや、正確には、慌てるよりも先に考えていた。


 ここはどこなのか。

 自分はなぜ、こんな場所にいるのか。

 そもそも、何が起きたのか。


 状況を把握するため、京は直前の記憶を手繰り寄せた。


 そうだ。自分は先ほどまで、敵兵から逃げていた。

 白井と二人、戦火に追われ、街の外れにある広場へと逃げ延びた。そこには大勢の人間が集まっていて、二人はそこで、転んだ少女を助けた。


 少女を助けた白井を叱責した。

 いつものように、お人好しだと笑って済ませることはできなかった。


 あのとき、自分は腹を立てていた。

 白井の行動に。白井の考え方に。

 そして、自分にはないものを持っている白井自身に。


 その後、これからどうするのかと尋ねられ、京は答えた。


 敵の目的は、おそらくこの国そのものだ。

 そして、敵がこれほどの規模で攻め込んできた以上、自分たちに逃げ場などないのかもしれない。


 そう告げたとき、白井は絶望した。

 いつも笑っていた男が、初めて恐怖を露わにした。


 京は、その顔を見て――。


「……っ!」


 目を見開いた。


 思い出した。

 白井に何かを言おうとした瞬間、突然視界を覆い尽くすほどの白い光が現れたのだ。


 聞いたこともない轟音。嵐のように吹き荒れる風。

 何もかもが光の中へと呑み込まれていく中、京は必死に手を伸ばした。


 白井の腕を掴もうとした。

 だが、届かなかった。


 そこで、記憶は途切れている。


 京はしばらくの間、何も言わずに立ち尽くしていた。

 いや、立ち尽くしているのかどうかさえ分からない。


 ただ、頭の中で一つの可能性が浮かび上がり、それが思考を支配していく。


 あの光は何だったのか。

 あの轟音は。あの風は。


 そして、自分は今、なぜここにいるのか。

 答えは、ひどく単純だった。


「俺は……死んだのか」


 その言葉を口にした瞬間、京の胸の奥から、ふっと力が抜けた。


 ――死んだ。そうか。

 ――俺は、ようやく死ねたのか。


「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。

 不思議だった。


 死んだのだと理解したはずなのに、恐怖はなかった。むしろ、これまでずっと胸の奥に居座っていた重苦しい何かが、少しずつ消えていくような感覚があった。


 もう、逃げなくていい。

 もう、怯えなくていい。

 もう、明日を迎えることに怯えながら、眠りにつかなくてもいいのだ。


「……やっと、終わったんだな」


 京は目を閉じた。

 思えば、随分と長い時間を生きてきた気がする。


 たった十九年。

 普通なら、まだまだこれからだと言われる年齢なのだろう。これから先、楽しいことも、嬉しいことも、きっとたくさんある。そう信じて生きている人間だって、この世界にはいるのかもしれない。


 けれど、京にとっては違った。


 九歳で両親を失った。

 家を失い、居場所を失い、世界が少しずつ壊れていく様子を見てきた。

 食べるものを探し、眠れる場所を探し、襲いかかってくる危険から逃げ続けた。


 何かを手に入れても、いずれ失う。

 誰かと出会っても、いつか別れる。

 明日が今日より良くなる保証など、どこにもない。


 それどころか、明日を迎えられる保証すらなかった。

 そんな日々を繰り返すうちに、京は少しずつ、生きることそのものに意味を見いだせなくなっていた。


 生きたいから生きているわけではない。

 死ぬのが怖いから、死なないようにしているだけ。


 ただ、それだけだった。


 いつからだろうか。

 生き延びることが目的になり、生き延びた先に何があるのかを考えなくなったのは。


 いつからだろうか。

 明日を迎えたいと思うことさえ、なくなってしまったのは。


 京はゆっくりと目を開けた。

 白い空間は、相変わらず何も変わらない。

 それでも、今の京には心地よかった。


 もう、恐怖の中で眠らなくていい。

 明日の食料を探して、街を歩き回らなくていい。

 いつ背後から襲われるかと警戒しながら、他人の顔色を窺わなくてもいい。


 もう、何も考えなくていいのだ。

 そう思ったとき、ふと、一人の男の顔が脳裏をよぎった。


「……白井」


 白井たかし。

 九歳の頃から、ずっと一緒にいた男。


 初めて出会ったときから、あいつは変わっていた。

 何を見ても面白がり、何を食べても喜び、どんな状況でも明るく振る舞う。明日には何かいいことがあるかもしれないと、根拠もなく信じているような男だった。


 京には理解できなかった。

 あんな世界で、どうして笑っていられるのか。どうして生きることを楽しめるのか。


 何度も疑問に思ったし、何度も腹を立てた。

 それでも、白井は京のそばにいた。


 京が何も話さなくても、勝手に話しかけてきた。

 京が機嫌を損ねても、しばらくすれば何事もなかったかのように笑いかけてきた。


 鬱陶しいと思ったことも、一度や二度ではない。

 正直なところ、最近では、白井への興味も薄れていた。


 あいつの考え方が理解できないことは、もう分かりきっていたからだ。

 どれだけ一緒にいたところで、分かり合える気がしなかった。


 だから、そろそろ関係を切ろうと考えていた。

 いつまでも二人でいる必要はない。


 白井は白井で、好きに生きればいい。

 自分も自分で、どこか別の場所へ行けばいい。


 そうすれば、あいつの笑顔に苛立つこともなくなる。

 自分とあいつが違うことを、いちいち意識しなくても済む。


 それでいい。

 そう思っていた。


 なのに。


「……もう、思い出さなくていいんだ」


 呟いた言葉は、ひどく小さかった。


 もう、白井を思い出さなくていい。

 あいつが何を言っていたのかも、どんな顔で笑っていたのかも、どんなときに怒り、どんなときに喜んでいたのかも。


 もう、何も考えなくていい。

 これから先、あいつの考え方に腹を立てることもない。


 あいつの言葉に呆れることもない。

 あいつが勝手に危険なことをして、それを心配させられることもない。


 もう、二度と――。


「……あれ?」


 京は、不意に頬を伝う感触に気づいた。

 指先で触れると、濡れていた。


 涙だった。


「え?」


 京は目を見開いた。


 なぜ、どうして、泣いているのだろう。


 死ねてよかったはずだ。

 もう苦しまなくていい。もう怯えなくていい。もう、生きるために必死にならなくていい。


 望んでいたことではないか。

 なのに、どうして。


 頬を伝った涙が、顎から落ちていく。

 京は慌てて目元を拭った。


 止まらなかった。

 拭っても、拭っても、次から次へと涙が溢れてくる。


「なんだよ……これ」


 声が震えた。

 理由が分からない。


 悲しいことなど、何もないはずだった。

 白井とは、いずれ別れるつもりだった。

 もう関わらなくていいのなら、それはむしろ望んでいたことのはずだ。


 なのに。

 頭の中に、白井の顔が浮かんだ。


 初めて会ったときの、あの笑顔。

 食料を見つけたときの、嬉しそうな声。

 危険な目に遭ったあと、二人とも生きていると分かって笑った顔。


 そして、最後に見た――絶望に染まった、あの表情。


「……っ」


 胸が、痛かった。

 何もないはずの胸の奥が、ひどく痛かった。


 京はその場に立ち尽くし、ただ溢れる涙を拭い続けた。


 どうして泣いているのか。

 どうして、こんなにも苦しいのか。


 自分には、分からなかった。


 しばらくの間、京は泣き続けた。

 声を押し殺すことも、涙を拭うことも忘れて、ただひたすらに泣き続けた。

 まるで、これまで何年もの間、心の奥底に押し込めてきた感情を、すべて吐き出すかのように。


 頭の中は、様々な記憶でいっぱいだった。


 考えないようにしていた両親のこと。

 まだ世界が平和だった頃のこと。

 当たり前のように家に帰り、当たり前のように食卓を囲み、当たり前のように明日が来ると信じていた日々。


 あの頃は、何も特別なことなどなかった。

 それが、どれほど幸せなことだったのか。


 失ってから、初めて気づいた。


 そして――白井たかしと出会った日のこと。

 希望など、どこにも残されていないと思っていた世界で、あいつは笑っていた。


 一人より二人のほうが楽しいだろう。

 そう言って、当たり前のように手を差し伸べてきた。


 京には理解できなかった。

 理解できなかったはずなのに。

 気がつけば、白井と一緒にいる時間が嫌いではなくなっていた。


 くだらない話に呆れ、無茶な行動に腹を立て、何度も小言を並べた。

 それでも、白井が笑っていると、どこか安心していた。


 食べ物が見つかれば、白井は嬉しそうに笑った。

 危険な目に遭えば、白井は生きていることを喜んだ。

 明日がどうなるか分からなくても、白井は明日の話をした。


 京は、そんな白井を眩しいと思っていた。羨ましかった。


 どうして、あいつはあんなふうに笑えるのだろう。

 どうして、自分はあんなふうに笑えないのだろう。


 何度もそう考えた。


 そして、いつしか思うようになっていた。

 自分も、あんなふうになれたらいいのに、と。


 白井のように、真っ直ぐに。

 白井のように、太陽のように。


 どれだけ世界が暗くても、その中で笑っていられる人間になれたら。

 そんな自分になれたら、少しは、この人生にも意味が生まれるのではないか。


 そう思っていた。

 けれど、京は認められなかった。


 白井に憧れていることも。

 白井と一緒にいることが楽しいと思っていることも。

 自分が、あいつの笑顔に救われていたことも。


 全部、認めたくなかった。


 自分と白井は違う。

 そう言い聞かせることでしか、自分の惨めさを誤魔化せなかったからだ。


 だが、もう誤魔化す必要はなかった。


 死んだのだから。

 もう、何も失うものはない。

 誰かに本音を知られることもない。


 だからこそ、今になってようやく、認めることができた。


 全部、本音だった。


 白井と一緒にいるのが楽しかった。

 白井の笑顔が羨ましかった。

 眩しくて、どうしようもなく、憧れていた。


 そして――。


「……会いてぇな」


 掠れた声が、白い空間に響いた。


 最後にもう一度だけでいい。

 もう一度だけ、白井に会いたい。


 今度こそ、素直に話せる気がした。


 いつもみたいに怒鳴るのではなく。

 呆れた顔で突き放すのでもなく。

 ずっと一緒にいてくれてありがとうと、お前と出会えてよかったと。


 そう伝えたかった。

 けれど、それは叶わない。


 京は死んだ。おそらく、白井も死んだ。

 あの謎の光に包まれて、二人とも命を落としたのだ。


 そう考えるのが自然だった。

 もう、会うことはできない。


 そう思ったときだった。

 ふと、誰かに見られているような感覚を覚えた。


「……?」


 京は涙に濡れた顔を上げた。

 そこに、一人の男がいた。


 いつからそこにいたのだろう。

 白い空間の中に、まるで最初から存在していたかのように、男は立っていた。


 年齢は、壮年といったところだろうか。

 無精ひげを生やし、ボロボロになった古びたマントを羽織っている。衣服の袖には、赤黒い何かがこびりついていた。


 血だろうか。

 そう思ったが、確かめることはできなかった。


 男の顔つきは、日本人のそれとは明らかに異なっていた。彫りの深い顔立ちに、どこか遠い異国――ヨーロッパ辺りの人間を思わせる特徴があった。


 男は、じっと京を見つめていた。


 泣いていた京を。

 涙で顔を濡らし、困惑したまま座り込んでいる京を。


 その眼差しには、何の感情も感じられなかった。


 哀れみも、怒りも、興味すらも。

 ただ、真顔で京を見ていた。


「だ、誰……だ」


 京は問いかけた。

 男は答えなかった。


 聞こえていないわけではないだろう。京の声が届いていることは、その視線からも明らかだった。

 それでも、男は何も言わなかった。


 しばらく京を見つめた後、男はゆっくりと背を向けた。


「おい、待て!」


 京は思わず声を上げた。

 男は振り返らない。


 古びたマントを揺らしながら、どこかへ向かって歩いていく。

 だが、そこには何もなかった。


 壁も、扉も、道もない。

 ただ、白い空間が広がっているだけだった。


 それなのに、男の姿は数歩進んだところで、ふっと消えてしまった。


「…………」


 京は呆然と、その場所を見つめていた。


「なんだったんだ……」


 呟いたその瞬間、視界が暗転した。


「――っ!?」


 何が起きたのか。

 考える間もなかった。


 意識が、急速に遠ざかっていく。

 抗おうとする暇もなく、京の意識は途切れた。



 ―――。



 次に目を覚ましたとき、京は地面に倒れていた。


「……ん」


 ぼんやりとした意識の中、京はゆっくりと目を開けた。


 最初に目に入ったのは、空だった。

 白くも、灰色でもない。


 ――青。

 どこまでも青く、透き通るような空だった。


 雲一つない快晴。

 陽光が降り注ぎ、風が頬を撫でていく。

 その光景を、京はしばらく呆然と眺めていた。


 空が、青い。

 それだけのことが、ひどく不思議に思えた。


 世界が滅びかけてからというもの、こんなにも澄み切った空を見た記憶はなかった。

 いつも、空は薄汚れていた。立ち上る煙に覆われ、灰色の雲が垂れ込め、遠くの景色さえ曖昧にしていた。


 それなのに、今は違う。

 まるで、何事もなかったかのような空だった。


 こんな日には、いつも白井が言っていた。


 ――ピクニック日和だな!


 そんな、どうしようもなく呑気な言葉を。

 思い出した京は、ほんの一瞬だけ口元を緩めかけた。


 だが。


「う……っ」


 身体を起こそうとした瞬間、全身に激痛が走った。


「がっ……!」


 思わず、呻き声が漏れる。


 何だ。何が起きている。

 京は歯を食いしばり、どうにか顔を横へ向けた。


 そして。


「…………え?」


 そこに、白井が倒れていた。


 血だらけの姿で。

 地面に横たわり、ぴくりとも動かない。


「し……」


 名前を呼ぼうとした。

 だが、声が出なかった。

 喉が張りつき、呼吸が乱れる。


「白井……?」


 ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。


 返事はない。

 京は身体を動かそうとした。


 白井のもとへ行かなければ。

 何があったのか、確かめなければ。


 けれど、身体に力が入らない。

 それどころか、動こうとするたびに激痛が全身を駆け巡った。


「ぐっ……ああっ!」


 京は呻きながら、自分の身体へと視線を落とした。

 そして、息を呑んだ。


 下半身が、血にまみれていた。

 大量の血が衣服を濡らし、地面にまで広がっている。

 それを認識した途端、遅れて激しい痛みが押し寄せてきた。


「――っ、あああっ!」


 ――何だ、これは。

 ――何が起きた。

 ――どうして、こんなことになっている。


 京は震える手で傷口を押さえようとした。

 だが、どこを押さえればいいのかさえ分からない。


 視界が揺れる。呼吸が乱れる。血の気が引いていくのが、自分でも分かった。

 それでも、京の目は白井から離れなかった。


「おい……白井……!」


 返事はない。


「おい! 聞こえてんのか! おいっ!」


 声を張り上げた瞬間、再び激痛が走った。

 それでも、京は叫ぶのをやめなかった。


 死んだと思っていた。

 もう、何もかも終わったのだと思っていた。


 それなのに。


 どうして、まだ生きている。

 どうして、白井が倒れている。


 そして、ここは――どこなのか。

 青い空の下で、京は初めて、自分が死ぬことよりも恐ろしい何かに直面していた。


「おい……白井……!」


 京は、必死に声を張り上げた。


「聞こえてんのか! おい、起きろよ……!」


 返事はない。

 血にまみれた白井は、地面に倒れたまま動かなかった。


 京は歯を食いしばった。身体を動かそうとするたびに激痛が走る。下半身から流れ出る血は止まる気配がなく、意識も次第に薄れていく。


 このままでは、自分も長くはもたない。

 そんなことは、考えるまでもなく分かっていた。


 それでも。


「……ふざけんなよ」


 声が震えた。


「ふざけんな……! おい、白井……!」


 何度呼びかけても、白井は答えない。


 ついさっきまで、隣にいたはずなのに。

 いつもみたいに、くだらないことを話していたはずなのに。


 どうして、こんなことになった。

 どうして、また失わなければならない。


 京が拳を握り締めた、そのときだった。


「……ん」


 微かな声が聞こえた。


「……っ!」


 京は顔を上げた。

 白井の指先が、わずかに動いていた。


「白井!?」


 呼びかけると、白井の瞼がゆっくりと開いた。

 焦点の定まらない瞳が、ぼんやりと空を映す。何度か瞬きをしたあと、白井はかすかに顔を動かした。


「……あぁ」


 力のない返事だった。


「おい! 大丈夫か!? どこが痛む!? おい、しっかりしろ!」


「……うるせぇな。そんなに……でかい声、出さなくても……聞こえてるよ」


 白井は、かすかに笑おうとした。

 けれど、うまく笑えていなかった。


 顔色はひどく悪く、唇も青白い。呼吸は浅く、言葉を発するだけでも苦しそうだった。


 何より、その目が違った。

 いつもなら、どんなときでも京を真っ直ぐに見つめてくる瞳。

 何か面白いことを見つければ、すぐに輝き出す瞳。


 その瞳に、今はほとんど光がなかった。

 まるで、もうすぐ訪れる結末を、自分自身が理解しているかのように。


「……白井」


 京は、唇を噛んだ。


 助けなければ。何とかして、血を止めなければ。

 誰かを呼んで、治療してもらわなければ。


 考えは次々に浮かんでくる。だが、どれも現実的ではなかった。


 ここがどこなのかも分からない。

 周囲に人影はない。

 自分も、まともに動ける状態ではない。


 それでも、何かしなければ。何かできるはずだ。

 そう考えていた京に、白井が声をかけた。


「……なあ、京」


「なんだ!?」


「……なんか、変わったか?」


「……は?」


 思いもよらない問いに、京は眉をひそめた。


「何言ってんだ、お前……。今はそんなこと言ってる場合じゃねぇだろ」


「いや……そうじゃなくてさ」


 白井は、ぼんやりと京の顔を見つめていた。


「……なんか、変わった気がするんだよな」


「だから、何がだよ!」


「……分かんねぇ。でも……前と、違う」


 白井の声は、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。

 それでも、白井は京を見ていた。

 まるで、ずっと見つけられなかった何かを、ようやく見つけたかのように。


 京は言葉を失った。


 変わった。そうなのかもしれない。

 自分でも、そう思う。


 つい先ほどまで、自分は死んでよかったと考えていた。

 生きることに意味などない。これ以上、苦しみ続ける理由もない。


 そう思っていたはずだった。

 なのに今はどうだ。


 目の前で死にかけている白井を、どうにかして助けたいと思っている。


 死にたくない。いや、違う。

 自分が死にたくないのかどうかさえ、今は分からなかった。


 ただ、白井には死んでほしくなかった。

 もう一度、笑ってほしかった。

 いつもみたいに、くだらないことを言ってほしかった。

 また一緒に、明日の話をしたかった。


 そんなことを、心の底から願っていた。


「……くそっ」


 京は顔を伏せた。

 認めるしかなかった。


 自分は、白井と一緒に生きていたかったのだ。

 生きることに意味がなくても、明日がどれだけ残酷でも、白井が隣にいてくれるのなら、それでよかったのだ。


「……ああ、そうだよ」


 京は、掠れた声で呟いた。


「変わったよ……。変わっちまったんだよ、俺は……」


 言葉にすると、胸の奥がひどく痛んだ。


「お前と一緒にいるのが、楽しかったんだ」


 白井の瞳が、わずかに動いた。


「……京?」


「最初は、お前のことなんか理解できなかった。こんな世界で、何が楽しいんだって思ってた。明日も生きられるか分かんねぇのに、何を呑気に笑ってんだって……ずっと、そう思ってた」


 京は、歯を食いしばった。


「お前が誰かを助けようとするたびに、腹が立った。自分の命も守れねぇくせに、何やってんだって。今日だってそうだ。あの少女を助けようとしたお前に、俺は……本気で腹を立てた」


 言葉が途切れる。

 喉の奥が詰まった。


「……でも、本当は違ったんだ」


 京は、白井を見た。


「羨ましかったんだよ」


 初めて、口にした。


「お前が羨ましかった。どんなにひどいことがあっても笑っていられるお前が。明日なんか分かんねぇのに、明日の話をしてるお前が。誰かを助けて、そいつが喜んでるのを見て、自分のことみたいに嬉しそうにしてるお前が……ずっと、羨ましかったんだ」


 涙が、また頬を伝った。


「俺だって……本当は、そうなりたかった」


 真っ直ぐに生きたかった。

 白井のように、太陽のように。


 絶望しかない世界でも、誰かのために笑える人間になりたかった。

 けれど、自分にはできなかった。

 できない自分を認めるのが嫌で、白井を遠ざけようとした。


「……俺は、お前との関係を切ろうとしてたんだ」


 白井は黙って聞いていた。


「お前と一緒にいると、自分がどれだけ惨めか、嫌でも思い知らされるからだ。お前は何も悪くねぇのに……俺は勝手に腹を立てて、勝手に苛立って……」


 京は、震える息を吐いた。


「……悪かった」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、また溢れそうになった。


「本当は……ずっと、お前と一緒にいたかったんだ」


 白井は、何も言わなかった。

 ただ、静かに京の顔を見つめていた。

 その瞳に、ほんの少しだけ光が戻ったような気がした。


「……そっか」


 白井は、小さく呟いた。


「……そう、だったんだな」


 そして、ゆっくりと息を吸った。


「……俺さ」


「……なんだよ」


「俺にも……夢があったんだ」


 京は顔を上げた。


「……夢?」


「ああ」


 白井は、空を見上げた。


 雲一つない青空。

 まるで、この世界には戦争など存在しなかったかのような、穏やかな空だった。


「……俺、最強になりたかったんだ」


「……は?」


 あまりに唐突な言葉に、京は思わず聞き返した。


「最強って……なんだよ、それ」


「はは……。だよな。お前なら、そう言うと思った」


 白井は、弱々しく笑った。


「別に……喧嘩で一番強くなりたかったとか、誰にも負けない力が欲しかったとか……そういう話じゃねぇんだ」


 白井は一度、言葉を切った。

 息をするだけでも苦しいのだろう。浅い呼吸を繰り返しながら、それでも懸命に言葉を紡いでいた。


「……誰かを助けられる人間になりたかった」


 京は、黙って聞いていた。


「困ってる奴がいたら、手を差し伸べられるような。怖くても、逃げ出したくても……それでも、誰かのために一歩踏み出せるような。そんな人間に、なりたかったんだ」


 白井の声は、少しずつ弱くなっていく。


「それで……誰かに憧れてもらえるような人間になりたかった。あいつみたいになりたいって、誰かに思ってもらえるような……そういう人間に」


 京は、息を呑んだ。

 白井が、そんなことを考えていたなんて知らなかった。


 いつも笑っていた。何も考えていないように見えた。

 ただ目の前のことを楽しみ、思いつくままに行動しているだけなのだと、勝手に思い込んでいた。


 けれど、違ったのだ。


 白井にも、夢があった。

 自分なりに思い描いていた、なりたい自分の姿があったのだ。


「……でもさ」


 白井は、空を見つめたまま続けた。


「この世界じゃ……そんなの、馬鹿みたいな夢だろ?」


「……」


「人を助けようとしたって、自分が死ぬかもしれない。誰かを守りたくても、守れないことだってある。明日には全部なくなってるかもしれない……。そんな世界で、誰かのために生きるなんてさ……」


 白井は、そこで小さく息を吐いた。


「……それでも、俺は……笑っていたかったんだ」


 その声を聞いた瞬間、京の胸が締めつけられた。


「どんなにひどい世界でも、いつか良くなるって……信じていたかった。明日には何かいいことがあるかもしれないって……そう思って、生きていたかったんだ」


 白井の瞳から、一筋の涙が流れた。


「……そういう人間になりたかったんだよ。どんな絶望の中でも、笑っていられるくらい……強い人間に」


 京は、何も言えなかった。

 白井の笑顔は、何も知らない人間の笑顔ではなかった。


 絶望を知らないから笑っていたのではない。

 絶望しかない世界で、それでも笑っていようとしていたのだ。


 怖くなかったわけではない。苦しくなかったわけでもない。

 それでも白井は、自分の夢を信じていた。


 誰かを助け、誰かに憧れられ、どんな世界でも笑っていられる人間になる。

 それが、白井たかしの目指した『最強』だった。


「……でも」


 白井の声が、震えた。


「もう……無理みたいだ」


 その言葉に、京は息を止めた。


「俺……死ぬんだろうな」


「……っ」


「分かるんだよ。なんとなく……もう、身体が動かねぇし。目も……よく見えなくなってきた」


 白井は、かすかに笑った。


「……もっと、生きたかったな」


 その笑顔は、今にも消えてしまいそうだった。


「まだ……やりたいこと、いっぱいあったのにな」


 京は何も言えなかった。


 白井の夢を知った。

 白井が何を願い、何を目指し、どんな思いで笑っていたのか。


 ようやく知ることができた。


 なのに、それを知った今、もう何もできない。


 白井は死ぬ。

 自分も、もう長くはもたないだろう。


 ここで終わるのだ。

 白井の夢も、自分の人生も。

 何もかもが、ここで終わってしまう。


 ――本当に、それでいいのか。


 京は、自分の胸に問いかけた。

 これまで、生きることに意味などないと思っていた。


 何のために生きるのか分からなかった。

 ただ死なないために生きてきた。


 けれど、今は違う。

 白井が死ぬことが、嫌だった。

 白井の夢が、ここで消えてしまうことが、どうしようもなく嫌だった。


 白井が目指していたものを、自分は知っている。

 その夢がどれほど眩しく、どれほど真っ直ぐなものだったのかも、今なら分かる。


 そして、自分がどれほど、その夢に憧れていたのかも。


 京は、血に濡れた手を動かした。

 震える腕を伸ばし、白井の手を握る。


「……京?」


 白井が、ぼんやりとこちらを見た。

 京は、歯を食いしばった。


 涙が止まらなかった。声も震えていた。

 それでも、今度こそ目を逸らさなかった。


「……俺も」


 言葉が、喉につかえた。

 それでも、京は続けた。


「俺も――俺にも、その夢を背負わせてくれ」


 白井の瞳が、わずかに見開かれた。


「……お前が目指してた最強ってやつに、俺もなってやる」


 京は、握った手に力を込めた。


「お前が誰かを助けたかったなら、俺が助ける。お前が誰かに憧れられたかったなら、俺がそういう人間になる。どんな世界でも笑っていられるくらい……強くなってやる」


 言葉にするたび、胸の奥で何かが変わっていく。

 生きる意味など、まだ分からない。

 この先、何が待っているのかも分からない。


 それでも。


「だから……お前の夢を、俺に背負わせてくれ」


 京は、白井を真っ直ぐに見つめた。


「……頼む」


 しばらく、白井は何も言わなかった。

 やがて、その瞳に浮かんでいた絶望が、ほんの少しだけ和らいだ。


「……はは」


 白井は、小さく笑った。

 今にも消えてしまいそうな、弱々しい笑顔だった。

 それでも、京が知っている、白井たかしの笑顔だった。


「……そっか」


 白井は、京の手を握り返そうとした。

 その指先が、かすかに動く。


「……じゃあ」


 白井は、ゆっくりと息を吸った。


「……頼んだぜ、親友」


 その言葉を聞いた瞬間、京は強く頷いた。


「ああ……!」


 涙で顔を濡らしながら、京は答えた。


「……ああ、任せろ」


 白井は、満足そうに目を細めた。


 そして――。

 青い空の下、二人は静かに手を握り合い、意識を手放した。











序章 -完-

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