紙問屋
これはえらいことになった。もしかするととんでもない一攫千金の好機を引き当てたのかもしれない。これはこのトレディン・カルトングが独り立ちするための、女神が与えてくれた唯一無二の好機と考えても差し支えないのではないか。
俺は鳴り止まない胸のざわめきを無理やり抑え込み、賢者様のお屋敷を辞した。深夜の帳が下り、帰路は完全な闇に包まれていた。
時は遡ること数時間前。
薄暮には間がありまだまだ日も高く、心地よい陽気がいささか不快な暑さに変わりつつある気温の中、俺は至急の呼び出しを受け賢者様のお屋敷に来ていた。共和国の首都フヴドスタードにある本店(それとは別に商館は故郷の町にある)に大貴族相手の商談ができる人材はあいにく俺しか残っていなかった。
一番上の兄貴のエルドステンは、故郷の商館で今この瞬間も額に汗して懸命に働く従業員に睨みを利かせてもっと働くようこき使っているだろうし、二番目の兄貴のアンドレソンは今日もどこかで同業者と腹黒い談合の相談にでも勤しんでいるに違いない。
俺にしてみれば兄貴たちのことは本当にどうでもよかったが、このカルトング商会の行く末がどうにも心配で仕方がないだけだった。兄貴たちは二人とも大賢者はもう引退したんだからもうすっかり過去の人だという認識でいるが、俺には賢者様をとても蔑ろにはできない。だってあの大賢者だぜ。共和国の市民なら大賢者のお屋敷に足を向けて寝ることなどできるわけないじゃないか。
兄貴たちの判断ミスで俺らの商会に致命的な災いが降りかかってこなければいいけど……
こんな風にとりとめもないことをつらつら考えていると、馬車が賢者様のお屋敷に到着した。案内に従って応接室へと進んだ。通された部屋の中にニコラウス様がいらっしゃって心臓が飛び出るくらいに驚いた。だってあの金剛ニコラウスだぜ。
俺たちのような大貴族のお屋敷に出入りを許されている御用商人でも、ニコラウス様のような序列の高い使用人、あっ執事様だった、と商談できる機会なんて滅多にあるもんじゃない。
いつも以上に緊張した面持ち(と自分でもわかる)でニコラウス様と挨拶を交わす。
「ご用命にあずかり、馳せ参じました。カルトング商会のトレディンと申します。お初にお目にかかります。私は先代の三男でございます。本日はいかなるご用向きでございましょうか」
「今日来てもらったのは、こちらのナナシノが希望する品を準備してもらうためです。詳細は彼から聞いてもらいたい」
「初めまして、ナナシノ・ゴンベエと申します。旦那様の文書係として採用されたばかりの新人です。今はニコラウス様の下で研修を受けている最中です。」
部屋に入ったときから奇妙だと思っていた。いるかいないか分からない、やけに存在感が薄い小柄なやつがいるなと思ったら、本当に子供じゃないか。それにしても幼いな。年のころは10歳にも届かない感じか。それにしても、賢者様は何を考えてこんな幼児をお雇いになったのやら。
「かしこまりました。それではナナシノ様、何をお求めでしょうか。わが商会は紙業を祖業としておりますが、貴族様がお使いになる細々とした身の回りの物までご用意できるものと自負してございます」
「これはご丁寧にありがとうございます。ですが見て頂いて既にお分かりかと思いますが、私は見た目通りの若輩者ゆえそれほど畏まって頂かなくてもよろしいですよ。」
「ご配慮痛み入ります。それではナナシノ様、ご入り用の品とはどのようなものでしょう」
この声を聴いていると何か不気味なほどの違和感がじわじわと心臓に来たんだな。本人が言う通り見た目は幼いのだが、口から出る言葉遣いはとても幼児のそれではない。よくよく見れば顔の下半分を大きな布で覆っているじゃないか。怪しいにもほどがある!
これはいくら察しの悪い俺でもわかるぞ。この方はおそらく、どこかの自治都市の評議会議員の係累か、地方領主の子息なんだろうよ。何かの政治的な理由で賢者様がここに匿われているに違いない。しかも使用人の振りまでさせているとは。それほど警戒すべき相手なんだろうな、対立している政敵は。
「好奇心は猫をも殺す」と昔から言う。これ以上の詮索は無用だ。
「実は『ダイガクノート』と『レポート用紙』の製作をお願いしたいと考えています。まず『ダイガクノート』のサンプルはこちらになります。」
といいながら、ナナシノ様が足下に置いていたカーキ色の背負い袋から、まるで薄い書籍のようにひとつにまとめられた用紙の束を取り出す。
「拝見します」
差し出された用紙の束を手に取り、表示と裏表紙を一通り眺めた後、パラパラと中に挟まれた紙片を確認する。ふむふむ、紙質もつるつるして手触りが良く表面は滑らかで色も乳白色で均質でもある。
なる程、ただ半紙を束ねただけではないのか。糸綴じで二つ折りにした紙の背にテープを糊付けして補強してあると。ふむふむ、しっかりと固定してあるから紙片がバラバラにならずひとつによくまとまっている。
中に綴じ込まれている紙片には薄青色で横に何本も線が引かれている。ああ分かったぞ、これは文字を横書きで書き込むとき、文字列が上下に寄らないようにする工夫なんだな。それにしてもこの横線の均整さは美しい。しかもすべての紙片に何本も引かれている。これは相当な熟練の業師がよほど時間をかけて引いているに違いない。
それにしても、表紙と裏表紙に描かれている飾り文字のようなデザインには何の意味があるんだろう? もしかするとどこか異国の文字のようにも見えるが。商人として外国とも少なからず取引経験があるがこんな文字は見たことが無い。
「それからこれが『レポート用紙』になります。『ダイガクノート』と違ってこちらは、用紙が上辺で綴じられています。こちらは二つに紙が折られていないので、ほらっ、このように一枚ずつ簡単に切り離すことができます。これは粘着性の低い糊だけで固着しているからこそできる芸当です。」
なんなんだ、この紙製品は。おそらくこれが最新技術で作られたものだというのは納得できる。がしかしどこの国で作っているんだ。ぜひうちの商会でも取り扱いたい。
「とても素晴らしいお品ですね、あまりの美しさに惚れ惚れしました。それでこれはどこの自治都市、いえどこの国で作られたものなのでしょうか。我々の商会傘下の行商人の手の届くところだといいのですが」
「いいえ、これらを製作して頂きたいと考えております。お聞きした所、こういった紙製品の製造も手掛けていらっしゃるとか。こちらの『ダイガクノート』は一冊丸ごとと『レポート用紙』はこれ一枚をサンプルとしてお持ちください。できればノートの方はお返しいただけると助かるのですが、製品開発に必要でしたら破ろうが溶かそうが構いませんので、実験のために自由にお使いください。」
あまりの衝撃に開いた口が塞がらない、とはこのことだと思い知った。貴族の応接室なのに、道理で足下に無造作に背負い袋が置かれていた訳だ。こんな貴重な品、そうそう他人に預けることはできないよな。
「それから大変厚かましいお願いですが、これらの用紙に合うインクを探してきてもらえますか。この用紙に書きやすく、字が滲んだり染み込んだりしないのがいいです。できるだけ裏移り・裏写り・裏抜けが無い方が嬉しいです。」
もしかして、この子は、いや、この方は同業者のご子息なのか? 紙のことを知りすぎている。ドワーフは鍛冶仕事だけじゃなくて紙製品まで作れるのか。いや、見た目がちょっとドワーフとは違う気がする。
ああ、見た目が子供っぽいのはノームだからに違いない。おそらく共和国ではまだよく知られていない種族が大陸南部にはいるのだな。さすが賢者様。知己がこの東大陸中にいっぱいいるんだろう。それにしてもこれが作られた国に俺も行って現物と現場を是非この目に収めてみたいものだ。
貴族それもあの大賢者の関係者から依頼されて断る程、俺も命知らずではない。ましてや目の前にあの金剛ニコラウス様だぜ。この依頼、断る選択肢は最初から存在しなかった。
貴族に歯向かって無駄に命は落したくはない。しかし、俺にも親父が残したこの商会をもっと立派にしてから子孫に引き継ぐ使命がある。だとすれば、いい加減な仕事はできない。できないことはできないときちんというべきだ。
「この件はうちの商会にとっても大切にすべきご依頼であるのは間違いございません。私も是非お力になりたいと心の底から思っております。しかし、残念ながらカルトング商会ではこの案件をお手伝いすることは能わないかと存じます」
「えっ、そうなんですか。とても残念です。もし可能ならばでいいのですが、理由をお聞かせていただいても宜しいでしょうか。」
俺は率直にできない理由を告げることにした。
◆
俺は、ただただ困惑していた。しかしこの困惑は矛盾しているかもしれないが、むしろ歓迎せざるを得ないものでもあった。結論から言えば、ナナシノ様からの新製品開発の案件と、インク探しの案件を受注することになった。
事の次第はこうだった。俺は、先代当主だった親父が正式な跡取りを決めずに亡くなり、残された三兄弟で跡目争いが起こっていることを打ち明けた。なぜだか、この二人には自分の悩みを打ち明けても大丈夫という安心感があったからだ。
現在は、三兄弟が共同代表ということで一時休戦中だった。しかし、三男である俺が担当している紙業を切り捨てようと上の二人の兄貴たちが画策していた。紙業はカルトング家の祖業で、中興の祖として名高い先代が最も力を入れていた事業で親父の思い入れも強かった。
俺は三男だけど祖業でもあるうちの商会が手掛ける紙業をそのまま丸ごと任された。俺はその任務を全うしたいと考えている。なんなら、紙業だけをのれん分けさせてもらってカルトング商会から独立してもいいとさえ考えていた。
しかし、紙業の売上はだんだんと先細りになり、利益率も落ちてきて、近いうちに挽回しないと兄貴たちにこの紙業を競合他社に売却/譲渡するか廃業しろと迫られていた。兄貴たちが優先するものはあくまで利益だった。祖業に対する思い入れとか親父の思いとかは感傷にすぎない、商売に感傷は不要だと言われた。利益の追求こそが健全な企業運営の礎であり、商売の成否は利益という数字だけが証明できる、とまで言われた。
現に祖業たる紙業を傾きかけさせている俺は何も言い返すことはできなかった。だから俺は、
「こういう事情なので、うちの商会いいえ、紙業部門には新製品開発にかけられる余剰資金は全くありません。先立つものが無ければ研究などできません。でもというわけではないのですが、この一枚の『レポート用紙』さえお譲りいただければ、私の手持資金だけで相応しいインクをお探しできるかもしれません」
俺の言葉を聞いたナナシノ様がおもむろにニコラウス様と視線を合わせた。1,2秒ぐらいの短い間で二人が目だけで何かを語り合ったのだろうか。すぐにニコラウス様がこちらに向き直り、
「では当家が、必要経費として開発費を全て持つということなら問題はありませんか?」
と、とてもありがたい提案をしてくれた。その言葉に俺が嬉しさのあまりすぐ飛びつこうとすると、
「ニコラウス様、それは適切なご判断とはならないと思います。」
とナナシノ様が厳しめの口調ではっきりと言い切った。驚きのあまり俺は直ぐには口をきくことができなかった。
「おそらく、開発費用がどれだけかかってもニープルン家いえ、正確には賢者様個人が青天井で開発資金をご用意されることは想像に難くありません。であればこそ、この新製品開発は必ず失敗するでしょう。」
ナナシノ様の理屈はこうだった。
もし仮に、カルトング商会が青天井で開発資金が使えるようになれば、新製品開発にかかる資金制約が全くない状態になるため、開発担当者の心理的にはいわゆる「締め切り効果」が働かず、①開発タスクの優先順位付けが甘くなる、②開発担当者の責任感と義務感が喪失する、③開発完了へのモチベーションが欠如する、という弊害が必ず発生するそうだ。
「そこで、必要な開発資金は全て賢者様から全額融資してもらいましょう。いくら開発資金を使っても構いませんが、それは借金ですので必ず返済してもらいます。将来の返済義務を課せば、資金の無駄使いと職務怠慢からの開発期間の延長は防ぐことができるでしょう。」
俺がうちの商会には賢者様からの借入金を返済する余力は将来もないだろうと反論すると、
「その点は大丈夫です。新製品開発で無事成功した暁には、この新製品の特許/実用新案の権利を成功報酬として、ニーブルン家、カルトング商会そして私ナナシノが貢献度に応じた比率で保有することにします。」
「もちろん、私も開発作業に加えて頂き、アイデア出しなり検証作業なりのお手伝いを致しますよ。ニーブルン家は資金提供、カルトング商会は研究設備と人員提供、そして私はアイデア提供ということで、三者協議の上で貢献比率は決めてまいりましょう。」
「この新製品を販売した場合に得られる利益から、カルトング商会は借入金をニーブルン家に返済すればよいのです。もちろん、カルトング商会は我々以外の顧客に新製品を販売しても構いませんよ。むしろ大いに拡販してください。その方が結果的にこの知的財産権の配当利益が増えますし、世の中に便利な文房具が普及することは人々の幸福度が高まるしでいいことずくめですから。」
最早ここまでくると、ぐうの音も出なかった。脱帽である。やはりこの子、じゃなかったこの方はヒト族より長命のノームか何かの一族に違いない。普通に考えて年端もいかない子供がこんな手慣れた事業提案なぞできるわけがないじゃないか。
本日の決定事項
・『ダイガクノート』と『レポート用紙』の新製品開発をカルトング商会が受注
・『専用インク』の市場調査をカルトング商会が受注
・新製品開発と市場調査にかかる経費はニーブルン家から融資する
・新製品にかかる知的財産権は、ニーブルン家/カルトング商会/ナナシノで分割所有する
・知的財産権からの配当利益は、三者の貢献比率に応じて分配する
たった一回の商談でこれほど大きな話がまとまったことはこれまでの経験上もなかった。高揚感と疲労感が絶妙なバランスが悪さをしたのだろう。商談がまとまった後、ちょっと一服ということで、高級なお茶とこれまで味わったことのない甘味からの心地よい刺激が心のガードを思いっきり下げてしまった。つい尋ねられるまま自社の事業のお話を第三者に漏らしてしまった。
◆
お茶を飲みながら談笑に耽っていると、ふと紙業について詳細を聞きたいとナナシノ様から請われた。共和国は本当に自然が豊富で、川の水がきれいで森林資源が豊富な山村が多く点在している。
当商会も、そうした山村のいくつかと原紙の取引を行っている。当商会から原材料や道具を前貸しし、必要ならば資金も融資して原紙を製造してもらい、完成した原紙は当商会が一括仕入れさせてもらう。こういう形態をナナシノ様の国では「問屋制家内工業」と呼ぶそうだ。
当商会所有の馬車で各村の原紙を集荷している。俺の故郷の商館近くに加工工場があって、そこで仕入れた原紙を裁断して最終製品に加工し、そのままそこで製品在庫として併設された倉庫に備蓄している。お得意様にはその倉庫から加工品を商会所有の馬車で出荷している。ここの部分はナナシノ様の国では「工場制手工業」と呼ぶそうだ。
ひとしきり、当商会の紙業概要の説明を終えたところで、つい愚痴が口をついてしまった。この会合の冒頭で事情を説明した通り紙業の利益が思わしくなく、二人の兄貴から日々詰められるのが本当にきついと。
ナナシノ様はそれを耳にすると、胸の前で腕を交差させ、静かに瞼を閉じ思案に耽った。
ナナシノ様が再び瞼を上げおもむろにアドバイスがあると口を開いた。「着手が容易ですぐにリターンが得られるカイゼン」を「クイックウィン」と呼ぶそうで、各山村での「原紙の集荷」プロセスにおいて「積載効率の最大化」を図ろうとするのがそれにあたるそうだ。
今は馬車の荷台は空っぽのまま山村まで原紙を集荷しに行っている。そして山村で生産委託した原紙を積み込んで加工工場まで運搬している。つまり、往路の馬車はいつも空っぽで復路の馬車にだけ荷が積まれている。単純計算でも馬車の積載率は最高でも50%を超えることは決してない。荷馬車の空間・重量を無駄なく活用してもっと効率的な輸送を実現すれば利益も増やすことができるとのこと。
各山村に住む住民の生活必需品を往路の馬車に積んで彼らに販売し、帰路は空になった荷台に原紙を積んで加工工場まで戻ってくれば、机上計算では馬車の積載率は必ず現状の50%より大きくできるはずなので、積載量のロスを最小化できる。
積載量が増えれば売上が増える。売上が増えれば利益が増える(※1)。もし、山村の住民が買ってくれるものが無ければ人を運べばいい。村人が十分に現金を所持していないため購買力が無いのならば、原紙の仕入代金を生活必需品の物納で代替してやればいい。空気を運んでも1銭の儲けにもならないと言った。
ナナシノ様は、レポート用紙に何やら見慣れない棒を使ってさらさらと何か書き始めた。(※1)の部分を簡単な計算例を使って補足説明してくれるそうだ。
ナナシノ様が利益計算するにあたってまず大事な前提があるといった。説明は要するに、従来の荷馬車の運送費用や原紙の仕入代金は、往路の馬車に何を積もうが何も積まずに空にしていても変わらないので損得計算から一旦無視する。変わってくるのは、生活必需品の仕入金額と売上金額、そして往路の馬車の追加費用だということ。
往路の馬車に荷物を積み込むと空荷で移動する場合に比べて、馬に食べさせる秣の量が増えたり馬車の修理費が嵩んだりするかもしれない。
であれば、
生活必需品販売額 -(生活必需品仕入額+馬車の追加費用) > 0
となれば、生活必需品を往路に積み込むことで利益増大を実現することができる。
生活必需品販売額:500
生活必需品仕入額:300
馬車の追加費用 :100
と仮定すると、
500 – (300+100) = 100 > 0
となって利益を増やせることが確認できる。ちなみにこの式で計算される利益のことを「限界利益」と呼ぶそうだ。
俺はずっと紙業をどうするかだけに集中して頭を捻っていたから、紙以外の物で紙業の利益をカイゼンしようという発想がすっぽり抜け落ちていた。普通は100で仕入れたものにマージンを乗っけて100以上で販売するから、生活必需品の商売は紙業の利益改善に大いに役立つと思う。
ナナシノ様はここから先はちょっと実践の難易度が上がるけれど、中長期的には手当した方が良いと思うと言って、次のアドバイスもしてくれた。
原紙の委託生産に対して村人へ支払う工賃はできるだけ値切った方が良いとずっと聞かされてきた。だけど、ナナシノ様の見立てによれば、村人の経済状況が上向かないと村人の購買意欲も高まらないし、村人の購買力も大きくなっていかない。村人の生活必需品に対する需要が大きくならないと生活必需品の事業が大きくならない。その事業が大きくならないと商会の利益が増やせない。ここまでは俺でもすぐに納得できた。
ナナシノ様に「フェアトレード」という概念を教えてもらった。村人の働きに対しては適正賃金を支払いましょうという考えらしい。適正賃金を支払うことで中長期には村人たちがどんどん裕福になって購買力が向上すれば、商会のビジネスチャンスも大きくなる。なにせ村人たちと長年にわたって密接に関わり、彼らが本当に欲しいと願う生活必需品がなんであるか、他の商売敵より正確かつ迅速に知れる立場にある。これが商売敵にはない競争優位の源泉になるといわれた。
中長期にわたって物事を考えられるようになれば、万万が一、最初は生活必需品の販売が一時的に赤字になる(限界利益がマイナスになる)としても、村人の購買力が徐々に増えていけば、結果としてトータルで商会の利益は増える方向に行くと言われた。
ナナシノ様からは、この辺りのカイゼンは従来の常識に反する部分が大きいから、商会内外に反対勢力が多数現れるはずと言われた。だからこの辺りのカイゼンは焦りは禁物だとも注意を受けた。
ナナシノ様は「現場・現物を知らないと的確なアドバイスはできないので、実際に山村や加工工場を見学してみたい」と言っていた。その姿勢を窺い知るだけで、なぜかナナシノ様への好感度が若干上がったような気がした。
ナナシノ様に、加工工場で働く工員にも「フェアトレード」の考え方に応じて応分に適切な賃金を支払うことは重要だと言われた。でも工場稼働率を上げる方が優先度は高いと思いそれに反論した。工場経営側としては利益を増やしたい。工員は出来高給だから可能な限り製品を作りたい。作ったら作った分だけ彼らの出来高給が増えるからだ。
でも、ナナシノ様から、そういう仕組みにしているから余剰生産が起きて、結果として不良在庫の山が築かれていくのではと再反論された。経営側も工員側も共に在庫の山が発生しても、生産を止められない動機づけになっていると言われた。
実際にはその指摘通りで、不良在庫が年々増えていっているのが大きな悩みだった。湿気やカビのせいで傷みが出て廃棄するものもだんだん多くなっていたが対処法が見つからなかったのである。
ナナシノ様からは、できるだけ原紙のまま在庫することを提案された。お得意様から最終製品の注文を受けてから注文されたものだけを生産すれば、加工品の在庫を極限まで減らせると言われた。しかし受注してから生産するのでは、お得意様が希望する納品期限に間に合わなくなるリスクが生じるじゃないか。
ナナシノ様からは、『安全在庫』という考え方を導入すればいいと言われた。まず、最終製品ごとにお得意様がいつぐらいまでにいくつ欲しがるかといった『需要予測』を考える。もし仮に、日当たり生産能力が10枚で、明後日に30枚納品しなければならなかったら、10枚だけ先に作って在庫しておく。今日新たに10枚分加工品が生産されて、明日も10枚だけ加工品が生産される予定になっている。在庫10枚+本日生産分10枚+明日生産予定分10枚=30枚を明後日になったら得意先に納品できるという塩梅だ。
もちろん、いつも予定通り毎日10枚分だけ生産できるとは限らない。作業ミスで仕損が出るかもしれない。その分も予め予想して安全在庫に加味しておけばいいそうだ。
再びレポート用紙にすらすらと計算例を書いて説明を補完してくれた。
安全在庫(12枚)+本日生産(10枚)-仕損分(2枚)+明日生産予定(10枚)=納品数(30枚)
うん、レポート用紙って本当に見やすいし使いやすい。ナナシノ様が欲しがるのも無理はない。多分この現品はお国から持ち込んだものなんだろうな。政治亡命かなにかだから、お国にレポート用紙の追加を頼めないわけか。それで共和国で作ろうしているのだな。納得した。
ナナシノ様は、従来の完全見込生産から受注生産への切り替えの過渡期が一番業務運営は難しくなるものだと言っていた。それでも対策は一応あるそうで、過渡期は安全在庫を多めに持っておいて、生産現場が慣れていったら徐々に在庫の余裕分を削っていけばいいそうだ。
何重にも課題対応策が考えられていて「お見事!」と心の中で驚嘆せざるを得なかった。あの鉄面皮のニコラウス様ですら、話がここまで来るとちょっと表情が引きつっていたような気がする。いやほんと、ちょっとだけそんな気がしただけ。
ここまでナナシノ様から、
・荷馬車の積載率向上(生活必需品販売事業)
・フェアトレードによる需要拡大
・加工工場の受注生産へのシフト
といったアドバイスの話を聞けてとても満足した(もう頭は飽和状態だったが)。
「ナナシノ様、長い時間いろいろと相談に乗っていただき大変感謝しております」
「いえいえ、こちらこそ。カルトング商会にはこれからもっといっぱい儲けてもらわねばなりませんから。当たり前のことをしたまでです。」
「ナナシノ様、当商会の儲けが大きくなることは私にとって非常に好ましいと思うのは当たり前だと思うのですが、どうしてここまでナナシノ様が当商会の利益にご協力くださるのでしょうか」
「え、実に簡単なことですよ。『情けは人の為ならず』と昔から言いますよね。カルトング商会の儲けが大きくなった分だけ、従来の知財権の配当分配より多くニーブルン家に借入金を返済できますよね。そうすればその使用人である私の夕食のオカズがもう一品増えるかもしれないじゃないですか。」
ナナシノ様、その言い回しは少なくとも共和国では「可愛い子には旅をさせよ」と同じ含意で、『相手(子供)を甘やかさず、あえて厳しい環境や苦労を経験させた方が成長する』という意味なんですが……
ナナシノ様は商売については博識でも日常生活については非常識なお方だということを思い知った。なるほど、ニコラウス様の苦労がしのばれる。道理でニコラウス様はお茶が始まってから微動だにしないわけだ。




