プロット ―― ストーリーテリング生存戦略
───【本話のウォークスルー対象】───────
■ Section 01 ナナシノ視点:庵・物語技法
■ Section 02 ナナシノ視点:首都行馬車中
■ Section 03 ナナシノ視点:首都移行期車窓風景
■ Section 04 ナナシノ視点:大賢者の上屋敷
────────────────────────
─── ■ Section 01──────────────
◆ ナナシノ視点:庵・物語技法
────────────────────────
今晩はすぐに寝付くことは難しそうだった。この庵に到着した日の晩は客室のふかふかのベッドで旅の疲れを癒すことができた。二日目の晩は使用人部屋に移ったが個人部屋だったことと、勤務&語学学習初日の疲れもあってぐっすりと休むことがきた。
今日はミルクレープのレシピを久しぶりに堪能できたし、この庵の皆にも喜んでもらえた。自分で作った経験はなかったけど、ネットで調べておいた知識とイーダの料理の腕前のおかげである。
多分気持ちが高揚してなかなか睡魔が訪れてくれないのは、イーダの最後の台詞が頭から離れないからだろうな。直球どストレートで好意を告げられるとこんなにもドキドキするものだったろうか。久しぶり過ぎて昔のことがよく思い出せない。
イーダの「大好き」は、自分に向けられた好意なのかスイーツが対象なのか、それともああやっておいしいものを一緒につくるその場を指して言っているのかよくわからなかったけれど、とにかく自分がこの庵のコミュニティに受け入れてもらえた感じがしてとても心地よかった。
イーダの「大好き」がもし自分に向けられたものだとしても、恋愛感情からくる「love」なのか親しい仲間に対する親愛の情としての「like」なのかもよくわからない。とっくに忘れていた思春期特有の「俺って結構モテんじゃね?」っていう勘違い野郎の妄想感覚がぼんやり思い出されてきて思わず苦笑してしまう自分がいた。
ああ、この久しぶりの恋愛脳を活動させているという感覚! 使う脳の部位がいつもと全然違うというのは精神へのいい刺激になる。
そもそも14歳って自分の娘より全然年下じゃないか。もし付き合いでもしたら犯罪だよ、という考えがふと頭をよぎった。ああそうか、自分には娘がいたんだったな。こんな風にこの東大陸で生活していく中で折に触れ昔の記憶がだんだん戻ってくるのか……
眠気が来るまで先行きについてしばらく考え事をしようか。明日の昼前にはフヴドスタードに向けてここを出発する。到着まで3日、道中は賢者様といろいろとお話しできる機会も多いだろう。今後の身の振り方についてある程度思考を進めておかねば。
まずはどのようにしてこれからの方針検討を進めていこうか。しばらくの間考え込んでみると、ふと良案が脳内に閃く。よし、今回は「ストーリーテリング」手法を用いるか。
ストーリーテリング手法は、伝えたい事実やメッセージに「物語」を持たせて相手に伝える手法で、ビジネスシーンではプレゼンテーション、マーケティングや広報などでよく用いられる。
今回の自分の立場は、異世界転生(最広義)ものの主人公みたいなものだから、主人公がどのような行動を取ったら最適解となるのかを導き出すのにうってつけだろう。論理的な説明だけでなく感情的な要素もうまく組み合わせることができるから。だって人間だもの。勘定より感情で行動することの方が多いんじゃないかな。
ストーリーテリングの代表的なプロットのうちどれを選択しようか?
①チャレンジプロット:
強者に打ち勝つための偉大なチャレンジで困難を打開するストーリー。
魔王を倒すために、仲間になってくれるパーティメンバーを探し、王様から勇者認定をしてもらい、修業パートで自身のスキルを高め、冒険パートで強力な武器や魔法能力を装備していくといったところか。
②クリエイティビティプロット:
既存の常識を覆す画期的な商品やサービスで社会に新たな基準を打ち立てるストーリー。
発明家や経営者になって、異世界の常識や技術を超える新商品や新サービスを次々と提供して、生活費も稼げてやりがいもある職業を見つけていく。多分商売をしていく中で人助けや課題解決を続けていくと、どんどん人脈が広がって支援者も増えていく。こうすることでますます異世界生活が快適になっていくってやつか。
③コネクションプロット:
人と人(異種族・幻想的存在含む)、人と社会とのつながりを軸に展開するストーリー。
人と人がつながるためのコミュニティを提供することで、セーフティネットを構築して異世界でも安心安全な生活を送りやすくする。社会貢献の取り組みなどで共感・支持を集めてウェルビーイングを実現する感じか。
①チャレンジプロットは、魔法系や戦闘系のチート能力が自分自身に身についていないと完遂は難しいだろう。元の世界で格闘家とか軍人だったというのも含めて。魔法については直接的な攻撃魔法に限らず、防御系魔法でも回復魔法や支援魔法でも同じことが言える。
戦闘技能としては剣槍や飛び道具とまでいかなくてもせめて盾とかの防御系技能の潜在能力でも備わっていればよかったんだが。無い物ねだりをしていても仕方がない。別段、白魔導士として器用貧乏で不遇をかこつでもなく、勇者パーティに恨みを抱いてざまあしたいわけでもなし。そりゃ、もし黒衣の二刀流だったりしたらつい「オラ、ワクワクすっぞ!」ってなるかもだけど。
②クリエイティビティプロットはどうだろう? 魔導具やポーションを作ったりする技術はそもそも魔法技術(魔術)の素養が無いとだめらしい。鍛冶師、薬剤師、錬金術師なんかも現代知識+チート魔法技術の組み合わせが基本だから生産系は押し並べて難しい。建築ブロックのような中間素材を作り出すのが異能ありきなのが痛いな。
それではサービス業ならどうだろう? 洗濯屋、宿屋、温泉を中心としたリゾート施設運営……。規模の大小こそあれ、いずれも初期の設備投資が尋常でなく莫大になりそうだ。まずは資金集めで苦労しそうだ。
サービス業は、その土地の生活習慣や習俗に通じている必要がある。時には法規制や防犯上の観点から、行政機関や警察・軍事組織との連携や協力関係の構築が必要になるだろう。
資金調達とあわせて、現地住民の揚力なバックアップが必須の業態であり、すぐにこれを立ち上げるのはハードルが高いといわざるを得ない。
ここはVRゲーム内世界ではなさそうだから、「無限インベントリ」「職業選択」「経験値によるランクアップとスキルレベル保証」といった機能や仕様の利用も不可能だ。もちろんアルゴリズムの隙を突いた裏技もここには存在しないのだろう。
では商人ならどうだろう? ネット通販への接続方法は分からないし、現実世界と行き来して仕入販売を回す行商人プレーも不可能だ。なにせ、龍神様がどうやって自分を召喚したのかをそもそも理解していないのだから。この線もきっとだめだろうな。
ああ、万能農具でもその辺に落ちていないだろうか?
③コネクションプロットについては、異世界ならではの要素がさらに追加しているから余計にたちが悪い。現代世界なら、人vs人、人vs社会程度の類型でよかったのだが、人間vs異種族、ヒト族(人間と異種族含む)vs被造物(魔族などヒト族と最初から対立している種族、モンスター、妖魔、アンドロイド、ゴーレム、一般的な動物など)、ヒト族vs超常現象、ヒト族vs自然、ヒト族vsテクノロジーという対立構造もあわせて考慮する必要があるようだ。
人間以外を対象とするテイマー、召喚士はほぼ異世界の専門技能頼みだから自分にはスキル的に完全NGだ。さらに技術革新や環境保護、超常現象による自然災害への対策も正直いって大きすぎる課題で自分には荷が重すぎる。
居酒屋、洋食屋、フレンチレストラン、カフェ辺りはどうだろうか? これらも、②の所で見たように、設備投資のための資金調達・法規制・防犯対策などの観点で現地人・現地組織にょるバックアップが必要であることは間違いない。
だけれども、じゃがバターやミルクレープといったささやかな成功体験から、食べ物でここの人たちをハッピーにして自分もハッピーになるというのは結構いい線行くかもしれないと思った。
ここまでストーリーテリング手法によるプロット設計分析で、①チャレンジプロット、②クリエイティビティプロット、③コネクションプロットの順に、自分なりの東大陸での今後の活動方針を検討してみた。
結論が出ずもやもやしたままだったが、眠気に理性が徐々に犯されてきたのを感じ、そのまま眠気に身を任せた。
─── ■ Section 02──────────────
◆ ナナシノ視点:首都行馬車中
────────────────────────
翌日、馬車でフヴドスタードに向けてドキドキしながら出発した。馬車の座席には賢者様と執事のニコラウス様と自分の3人がいた。もちろん乗り込んだ貴人用馬車の御者はクーシュだ。4人で首都まで3日間の旅程である。
現世の電車に比べれば貴人用馬車といえども振動も騒音もそれなりだったので、車中は基本黙って過ごすことになる。そこでこの時間を有効活用しようと、昨晩から宿題になっている今後の活動方針について再度頭を巡らすことにした。
魔法は全く使うことができないけれど魔力は桁違いに持っててなお且つこの東大陸のことを全然知らない初心な転生者の子供がいたら、これ幸いとこの子供の魔力を搾取しようと画策する悪い大人がいても全然おかしくない、というのが活動方針検討の大前提となる。
その補強材料は、他人の魔力を引き出して別の所に蓄積・保存し、ある特定の目的に魔力を活用できる魔法技術がここには存在することである。
但し留保条件として、賢者様だけは全ての事情を知ったうえでそんな自分を庇護し、外敵から自分を守ってくれる。なぜならそれが賢者様が仕える女神様(龍神様)からのご命令だからだ。
もし自分の利用価値が第三者にばれてしまうと、自分の身柄を確保するべく賢者様との間に軋轢や対立が生じることになる。そうなれば賢者様に相当の負担がかかることが予想される。
であるから何を差し置いても自分の利用価値を第三者にばれないよう慎重な行動が求められることになる。もし外国に自分の存在が知られれば、自分の身柄を巡って外国と共和国との間に戦争が勃発するかもしれない。
戦争のコストが高い場合は次に誘拐・拉致が試みられ、それも叶わない場合は暗殺を仕掛けられるだろう。
それと並行して、自分の意思に反して相手方に協力させるために関係者の身の安全をタテに脅迫する、拷問・洗脳を施して強制的に言うことを聞かす、自分にとって悪い噂や不利になるデマを流して賢者様の庇護下から外れざる得ない状況を作る、という工作が行われる可能性についても日頃から備えておかなければならない。
もちろん戦争以外の行為は共和国内部の悪意を持った第三者によって引き起こされる場合も想定しておく必要がある。その第三者の中には賢者様に害意を持つ敵対者もいれは、賢者様の支持者や近縁者もいるかもしれない。
ここまでの思考をいったん整理しよう。
1.匿名隠密の徹底:
自分の身に危害が及ばないように、保護者である賢者様とその関係者に迷惑をかけないために、悪意をもって自分を利用しようと企む者(潜在的脅威者)に対しては自分の利用価値を徹底的に隠蔽する。
2. 庇護者との連携強化
庇護者である賢者様とその信仰・忠節の対象である龍神様(女神様)とは協力関係・互恵関係を強く維持する。賢者様が身内と考える者たちもそれに準ずるものとする。
3.自己強化努力の継続:
自分で自分の身を守れるよう努力を怠らない。その努力は身体的強靭さ、護身用魔術具や隠れ家を準備できる経済的余裕、セキュリティ強化目的の社会的地位・人脈の形成まで及ぶ。
といったところか。
強力な庇護者を持てれば、その影響力の行使によって国内外の悪意ある第三者から守ってもらえる。転生者特典の一部を適切に分配することで協力関係を維持することができる。
関連事項として庇護者の選別と売り込み方の問題がある。今回は龍神様(女神様)の推薦があったので、庇護者として賢者様を無検討で受け入れざるを得なかった。これらは将来的に庇護者を乗り換える/増やす際に改めて問題となる。賢明な庇護者候補なら、有能な人材は優遇した方が働きが良いことを知っており、金の卵を産むガチョウは細く長く育てた方が全体的に見てお得になることを知っている。
つまり長期的な視野を持てる人を庇護者に選ぶことはより防御力の高い人を選ぶことであり、より長く自分を守ってくれる人を選ぶことにつながる。
ひとつ問題があるとすれば、「匿名隠密の徹底」と「経済的余裕」「社会的地位・人脈の形成」が二律背反な性質を有しているところである。経済的余裕は自力で稼ぐ能力を身に着けることだが、稼ぐということは自分が作り出した付加価値を取引相手に評価してもらって、付加価値の提供の対価を頂くということである。
つまり、付加価値の提供先と対価の支払先という経済的取引の相手側の存在が必要不可欠であり、経済的取引の実行が自分の匿名隠密に逆作用を及ぼす懸念があるということだ。
また、セキュリティを高めてくれる協力者との関係構築も同様に、自己の匿名隠密に抵触するリスクが高い。誰も正体を隠した相手と親密になろうとは思わないのが道理だからだ。
現時点では、【ナナシノ】⇒現世の知識⇒【龍神様】⇒現世利益・Enlightenment(悟り)⇒【賢者様】⇒庇護⇒【ナナシノ】という付加価値の提供と対価の支払いが正常循環を成しており、見かけ上貸し借り無しで健全な関係構築に成功していると思う。
ここで隠れ家を購入したいとか、共和国以外の国へ見聞を広めるための旅行がしたいといった追加的要望を自分が出したいと思った時、その対価を自分が相手側に支払わなければ健全な関係性は直ちに損なわれるだろう。それでは長期安定的な関係の維持が不可能になってしまう。そういった追加的要望を出した時、常に賢者様が対応できるとは限らないのである。
賢者様と龍神様に対してとても不遜な言い方になるけれど、我が身を守る術が全てこの二人(厳密には一人と一柱)に掛かっているというのは正直まずいと思う。他に選択肢が無ければぼったくられる可能性が高くなるし、万が一危機的状況に陥った時のために、リスク分散目的で別の手段や予防線をあらかじめ用意しておく、という意味で保険を掛けておきたいからだ。
おそらく今後なにか政治的対立に巻き込まれた時は、高位高官の知遇を得ていた方が有利に働くだろう。また、防犯・治安上の障害に行く手を阻まれた時は、警察・軍事関係者の知己がいた方が何かと頼りがいがあるはずだ。
二人が信頼できない、頼りないということでは全然なくて、思いつくだけ身を守る手段は増やしておきたい、最善を尽くしてからその時を待ちたいという素直な気持ちからである。「人事を尽くして天命を待つ」という方が心の平穏維持につながるというのが現世から持ち続けている信条だからである。
であればこそ匿名隠密に逆行するが、賢者様に相談しながら商人・官僚・貴族・警察/軍部の頼れる関係者とのパイプを太くする努力を必要最低限度進めていくことにした。
3つの基本方針と当座の活動項目が決まったところでふと違和感を覚えて車窓に目を移した。クーシュが手綱を引く馬車が首都フヴドスタードの街区へと差し掛かったところだった。
違和感の正体はすぐに分かった。強烈な悪臭が鼻を突いて鼻が曲がりそうだった。これには正直参ってしまった……
─── ■ Section 03──────────────
◆ ナナシノ視点:首都移行期車窓風景
────────────────────────
賢者様とニコラウス様は平気とも嫌悪とも分からない、至って平常運転の表情しか見せていなかった。さすが感情を隠すのが上手な貴族というべきなのか、それともこの程度は慣れっこだから気にも留めていないのか、どちらとも自分には分からなかった。
顔を顰めながらマスクの上から鼻を押さえていると、おもむろに賢者様が話しかけてきた。
「ナナシノ、顔色が優れないようだが馬車に酔ってしまったのか、それとも体調でも優れないのか」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。匂いがきつくて気分が少々悪くなりました。そのうち慣れてくると思うのでしばらくはこのままでいさせてください。」
街路に入ってもクーシュの操車がよほど巧みなのか、あまり馬車のスピードは落ちずにそのまま滑らかに進んでいく。後から知ったのだが当然賢者様は上級貴族で共和国きっての有名人だから、賢者様が乗車されている馬車の紋章と装飾から賢者様の馬車だということは遠目からも一目瞭然だった。
だから賢者様の馬車が最優先で街路を進み、行き交う馬車も人も皆賢者様の馬車に道を譲っているのであった。
警備上賢者様の乗車が知られていることの方が有利なのか、誰が乗っているのか分からない方が安全なのか、この国の警備事情はよく分からないのでそのまま現状を飲み込むことにした。
もちろん大通りに面したところでは目立ってアレが落ちている感じではなかったが、それでも馬糞は少なからず目についたし、一歩外れた小路はいかにもという感じで足を踏み入れる勇気は全くでないのも当たり前の光景を見せていた。
小学校の低学年時、習字の手ほどきを受けたのは近所のお寺だった。実家とお寺の間にかつて養豚場があり、鼻を押さえながら小走りになってその前を通っていた記憶が軽いノスタルジアと共に蘇ってきた。
馬車はそのまま大路を進み、やがて車窓から見える景色がガラリと良くなり、高級住宅が立ち並ぶようになった。建物と建物の間隔が広くなり建物の波が次第になだらかに低くなっていった。
建物の高さと間隔に反比例するように鼻を突く悪臭が次第に薄まり、高級邸宅が点在する貴族街まで馬車が入り込むとあの匂いは完全に消滅した。
馬車が街路に入ってからは、比較的騒音と振動は穏やかになり会話に支障が無くなったことを幸いにして、賢者者に昨晩から検討してきた例のプロットの話を共有した。
基本的な行動指針として、
1.匿名隠密の徹底
2. 庇護者との連携強化
3. 自己強化努力の継続
当座の具体的な活動項目として、
・活動資金確保のための経済活動
・安全強化のための人脈形成
大筋では賢者様にも賛同してもらえたのでほっとした。
決めた活動方針の内容より、それを導き出したストーリーテリングとプロットを用いた意志決定手法の方に賢者様の興味関心が向いていたのは面白かった。決めた内容の妥当性評価はそっちのけで、知的生産性を上げるための方法論に関する説明に大いに時間をとった。
賢者様はこうした抽象的な話は文字に残して後から何度でも読み返したいと言い出した。そこから話が大いに盛り上がり、自分の書生としての主要タスクは、①現世知識のまとめ、②自分が東大陸で見聞した事物に対する批評、を文書にまとめることになった。いわゆる報告書の提出が日々の課題となったわけだ。
自分も書き物が好きだし、東大陸のことを知るために文献調査や現地調査の機会に恵まれることは願ったり叶ったりだった。旺盛な知的好奇心を満たすことができるし、現地調査を絡めて様々な地域の様々な職種の人たちとの人脈形成は自己の安全確保に役立てることが可能だからだ。
早速レポート用紙の仕様を決定すべく、御用商人を賢者様から紹介してもらえることになった。表現があまり適切ではないかもしれないが、ぴったりくるものが無かったので紹介予定の御用商人のことを心の中で勝手に「紙問屋」と呼ぶことにした。
─── ■ Section 04──────────────
◆ ナナシノ視点:大賢者の上屋敷
────────────────────────
フヴドスタードにある賢者様のお住まいは隠居屋敷たる「庵」と区別して「上屋敷」と呼ばれていた。現在ここには使用人だけで約120人が詰めているそうだ。賢者様が隠居前は、領内の騎士や文官とその家族もここに住んでいたそうだから、総勢で約1,600名がここで暮らしていたらしい。
通常は隠居すれば後継者に屋敷を譲るそうなのだが、賢者様は特別にそれまで居住していた屋敷をそのまま使用することが許され、次期領主には新たに屋敷が与えられたそうだ。
領主は爵位、官僚なら官位に応じて執政府からの相対的距離が変わってくる。つまり執政により近い場所に構えている屋敷がより高い爵位と官位を持つ主人が住む屋敷となっているということだ。もちろん、賢者様のお屋敷は執政府にとっても近い場所に立っている。
使用人の中にも上下関係と指揮命令系統がしっかり整備されていて、ニコラウス様が賢者様に帯同して上屋敷に駐在している間は、この屋敷内における指揮命令権はニコラウス様が最上位と変わるそうだ。
そして元サラリーマンとして最も気になったのは直属の上司が誰になるかであった。最終的には書記官とか秘書官が配される部局に配属予定だそうだが、しばらくは試用期間扱いでニコラウス様付きということになった。
つまり、直属の上司はいきなりCEO(最高経営責任者)という感じだ、期限付きだけど。賢者様はこの際オーナー扱いと考えるのが妥当だから、株主総会議長を兼務する取締役会議長(Chairman)に相当すると理解した。
自分が特例中の特例的な扱いになったのが、そもそも龍神様がごり押しした縁故入社だったこと、東大陸の事物に全くの無知であったことが大きく影響していると推察している。東大陸での生活習慣に対して完全に無知で、しかもまだ完璧には程遠い神聖文字の習熟度で、お国の中でも最優秀の人材である賢者様付の高級官僚の中に無造作に放り込めるわけがない。
お屋敷に到着早々、賢者様は執政官様との面会のために執政府に向かわねばならない。当然ニコラウス様も帯同する。そんなわけで、一人お屋敷に取り残されるわけだが何も知らない自分をこの屋敷に安心して置いておけなかった。賢者様とニコラウス様がお戻りになるまでの間、下男を一人つけて小部屋に軟禁(もちろん本人同意の元)されることになった。
自分に付けられる(面倒を押し付けられる)ことになったのは、ドレインソン君(9歳)。専ら屋敷内の下働きを担当している男の子だった。自分がそれなりの服装(貴族の子弟というほどでもなく、大切にされている使用人という感じのもの)だったから、身分差に配慮したのか当初は終始硬い表情のままだった。
小部屋に二人だけであと何時間も一緒に過ごさなければならなかったから、このままの空気が続くと息が詰まってどうにかなりそうだった。思い切って積極的にドレインソンに話しかることにした。
できる限りフレンドリーに話すようにして、年齢は今年で13歳になること、詳細は言えないが事故の影響で過去の記憶がほとんどないこと、孤児であること、共和国の生まれではなく大陸南部の生まれであること、を伝えると安堵半分同情半分で一気に打ち解けることができた。
ちょっぴり嘘をついている罪悪感から胸がチクチクした。
しばらくして膀胱がサインを出し始めたので、ドレインソン君にトイレはどこかと尋ねた。臨時詰所からトイレまで屋敷内を結構な距離だったが歩かされた。トイレをぎりぎりまで我慢していたら今頃大騒動になっていたことを知って一瞬背筋がゾワリとした。トイレの扉を開けて中を覗くと、御虎子と木箱が2つ。木箱の中には砂と目の粗いおがくずが入っていた。
今は大丈夫だけど大きい方をするときに困るので、ドレインソン君にトイレットペーパーに類するもの(もちろん紙が貴重品なことは承知していたので言い方には注意した)はどこにあるのかを尋ねた。
ドレインソン君は呆れた顔で木箱を指差しただけだった。木箱の中身は芳香剤を染み込ませるためのものという思い込みがあったことをちょっと恥じた。よく考えればトイレ内はちっとも良い香りはしていなかったことはすぐ分かるはずだったのに……
これが賢者様への報告書に書く最初のお題が決まった瞬間だった。




