因果律の綻び3.2 ―― 非同期パケット
───【本話のウォークスルー対象】───
■ Section 01
リーマス視点:執務室・副執政官の密やかな野望
■ Section 02
ドロテア・ルイーゼ視点:夏宮・母后の悩み
■ Section 03
皇王視点:王宮・世渡りと夜渡り問題
■ Section 04
兄視点:私邸・グラブラックス兄弟の護民官猟官運動
────────────────────
─── ■ Section 01 ──────────
◆ リーマス視点:執務室・副執政官の密やかな野望
────────────────────
「昔、ある母親に二人の息子がいた。一人は海へ出たきり消息を絶ち、もう一人は副執政官になった。――そして、二人について耳にした者は二度といなかった」
卓上の燭台で、蝋の芯がぽつりと爆ぜた。
重厚なオーク材の扉の向こうには、深夜の執政府が吐き出す冷ややかな静寂が満ちている。こんな冗句が公然と囁かれる執政府の片隅に用意された、静かな棺桶――それが、いま私のいる副執政官執務室だ。
磨き上げられた机も、背もたれの高い椅子も、高位の者の部屋という体裁だけは整っている。それが余計に、空虚さを際立たせていた。インクと古い羊皮紙の匂いの中、署名を待つ束が積み上がり、燭火に長い影を落とし、その隅には、帝国の旧教圏の取引先から届いた書簡が一通、封も切らぬまま置かれている。
正執政官の影に隠れ、形式ばかりの儀礼に出席し、あらかじめ筋書きの決まった書類に署名する。無害な置き物として任期を過ごす。それが、この大共和制における『副執政官』という職の真の定義なのだ。海で遭難した者と同じく、政界という表舞台から永遠に消え去ったも同然。市井の連中が陰で嘲笑うのも、無理はない。
だが――彼らは何も分かっていない。影に潜み続ける者だけが、陽の下では見えない『因果の糸』の結び目を手繰り寄せ、束ねることができるのだということを。
建前の上では、この共和国の行政府は健全な均衡を保っている。権力の集中と腐敗を防ぐため、元老院の推薦を経て民会が二人の執政官を選び、両者の地位は法的に完全に同等、執務は月単位の輪番制だ。完璧な抑制と均衡の美徳――建前の上では、だ。
しかし、実態は、遅効性の毒のように歪んでいる。奇数月の担当を『正執政官』、偶数月を『副執政官』と呼ぶ暗黙の序列がいつしか定着し、国家の屋台骨に関わる重要案件は、決まって奇数月の正執政官の卓上へ上げられるのが慣習となった。
その座は、大公位を戴くデュグドエルヴ家が二百年以上も独占している。二年に一度の選挙で元老院が同家のみを正執政官候補に推す以上、選挙の実態は「誰を副執政官の椅子に座らせるか」を決める茶番にすぎない。名目上は共和国。実態は、恐ろしいほど強固な世襲王朝である。
正副の執政官もまた、建国神話の双子狼になぞらえて双狼と称される。正執政官は代々『ロミュリウス』を、副執政官は『リーマス』を襲名する決まりだ。現在の正執政官はロミュリウス・デュグドエルヴ、すなわちロミュリウス12世。そして、この私の名乗りはリーマス6世、リークヴァサル辺境伯家から選ばれた六人目の弟狼ということになる。
共和国貴族の秩序もまた、厳格に固定されている。頂点に大公家が一つ。公爵家が三つ。その下に、五摂家と御連枝を合わせた侯爵家が七つ。我がリークヴァサル家は、ニーブルン家と並ぶ辺境伯の列に甘んじている。
この階層構造の壁は、容易には動かない。
臣下の身でありながら『リーマス』の名を戴いたことは、我が家にとって大きな名誉だった。だが同時に、それは私自身がこの貴族社会で手にし得る名誉の天井でもあった。この先の人生で、これ以上高い地位を得ることはない。副執政官。それが到達点だ。
しかもこの無用な名誉の椅子を買うために、家職である通商院――外交・貿易・金融を掌る役所の役得で積み上げた財産の、半分近くを元老院と各派閥への裏金として撒き散らした。金回りに関しては、上位の家のどこよりも抜群によい。だからこそ、これほどの出費も可能だったのだ。とはいえ、安い買い物ではなかった。この途方もない損失は、任期中に金融と貿易の差配で何としても回収せねば割に合わない。
――ならば、名誉の頂点に立ち、蓄財の算段もついた今、私という男の人生に何が残されているというのか。ただ指をくわえ、正執政官の影として消えていくための消化試合を演じ続けろというのか。
「……ふ」
自嘲が唇から漏れた。羽根ペンを置くと、乾ききらぬ署名の脇で、指先が微かに震えていた。怒りか、それとも恐れか、自分でも判別がつかない。窓の向こう、暗い夜の街並みの彼方に、正執政官邸のシルエットがそびえている。あちらでは今頃、主人が安らかな眠りについているのだろうか。それとも、私と同じように眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。
現・正執政官ロミュリウス12世。統治能力は可もなく不可もなし。世間は奴を「無気力な昼行燈」と囁くが、陰口を叩かれても、気にする素振りをおくびにも出さない。真の愚鈍か、牙を隠す完璧な怪物か――長年政務の裏側を見てきた私の眼でも、その底はいまだ掴めずにいる。もし後者なら、それは憎むより先に、敬意を払うべき相手なのかもしれない。
しかし、どれほど隙のない巨木にも、根腐れは足元から始まる。奴自身の器量はどうあれ、最大にして致命的な死角が存在した。――後継者問題だ。
ロミュリウス12世の四男、ヘムスタッド・デュグドエルヴ。
あの男は生まれつきの病弱で、国家の荒波の中で舵を取る正執政官の激務に耐えられる体躯など持っていない。それ以上に深刻なのは、その意志の薄弱さだ。己の定見を持たず、周囲の声に流されるだけの青年が、この魑魅魍魎の蠢く貴族社会を統御できるはずがない。優秀な側近が脇を固めれば補えるという見方もあるが、ヘムスタッドの周囲を固めているのは、保身と虚栄に塗れたあの『三寧人』どもだ。結果など目に見えている。
すでに破綻の兆候は表面化しつつあった。
過日、御三卿の三姫が相次いで『次期当主宣言』を発した。一見すれば、輝かしい若き才能の台頭だ。だが見方を変えれば、露骨な「ヘムスタッドへの輿入れ拒否」だ。ヘムスタッドという船が泥船であると見抜き、有力家系が一斉に距離を置き始めた証左ではないのか。
さらに頭の痛いことに、下からも突き上げが来ている。急進民衆派の旗頭を自認するグラブラックス兄弟が、護民官の座を狙って貧民層を煽っているのだ。公有地の強制没収と再分配を謳う『農地法』、そして貧民へ穀物を格安で撒く『穀物法』の法案化を推し進めようと蠢動しているのだ。
名門貴族たちの離反と、下層からの民衆運動の激化。そこへ、後継者の脆弱さが重なる。
さしものロミュリウス12世の治世にも、明確な亀裂が走り始めている。ヘムスタッドが跡を継いだ瞬間、その亀裂は一気に決壊へ向かうだろう。その亀裂を押し広げるのは、三姫の離反とあの兄弟の怒りだ。私が手を下す必要はない。ただ、決壊の瞬間に、どこに立っているかが問題なのだ。
なるほど。ロミュリウス12世の治世にも致命的とも思える死角があったか。
私は机上の書類に目を落とした。
刎ね
この国は、どこへ向かおうとしているのか。そして、その行く末を見届けるだけの人生で、私は本当に満足できるのか。
「……さて」
口に出してみても、答えは返ってこない。
ならば、私には何ができる?
いや――この政変の予兆を前にして、私は何をなすべきなのだろうか。
二人の執政官には、相手の政治決定をその一言で無効にする拒否権が、法的に認められている。だが共和国の歴史で、副執政官が正執政官に対してこれを発動した例は一度もない。「伝家の宝刀は抜かれぬことにこそ価値がある」と、無能で事なかれ主義の学者どもは、事もなげに語る。
しかし、これは飾りではない。正執政官の専横を止めるために建国の祖が残した、「絶対の盾」であり「刃」だ。
私は立ち上がり、壁の古い飾り棚へ歩み寄った。そこには、建国神話のレリーフが刻まれている。兄ロミュリウスと弟リーマスが鳥占いを競い、兄の頭上には十二羽、弟の頭上には六羽の鷲が舞う図だ。十二と六。代数の符合に、遠い昔の人間の悪趣味な洒落を見る思いがした。
神話において、弟は兄の築いた壁を飛び越えたために殺された。
――ならば、歴史の因果が再び巡り、弟が兄を打ち破る日は来ないと、誰が断言できる。
胸の奥で、別の声が囁く。それは共和国のためか、それとも、己の渇きを国家の名で飾りたいだけか、と。答えは出ない。出さぬまま、爪が皮膚に食い込むほど、手のひらを握りしめた。
「……伝家の宝刀、か」
暗がりに、自分の声だけが落ちる。
「抜かれざるはずの宝刀が、いざ抜かれたとき、この歪んだ国がどんな悲鳴を上げるのか。――試してみるのも、悪くはないな」
深夜の執務室に落とされたその言葉は、誰に聞かれることもなく、重い空気の中へ静かに沈んでいった。
─── ■ Section 02 ──────────
◆ ドロテア・ルイーゼ視点:夏宮・母后の悩み
────────────────────
「マルガレーテ皇女殿下のお相手には、どちらの家柄の殿方がお立ちになりますの?」
「殿下のお相手には、いったいどのようなお方が選ばれますのでしょう?」
「まあ、姫様にふさわしい殿方となれば、さぞ素晴らしいお方なのでしょうね」
夏宮の風通しの良いテラス席。白いパラソルの下、上質な磁器の触れ合う軽やかな音に交じって、淑女たちのさざ波のような声援――否、探りの声が届く。
帝国の宮廷は、皇帝陛下の巡幸とともに居所を移す。皇后の私が夏を過ごすこの離宮も、季節が変われば畳まれる仮の宿にすぎない。居所が定まらぬのは社交の場も同じで、観劇、慈善市、観兵式と、行く先々で顔ぶれを変えては私に追いすがり、誰もが同じ話を持ち出すのだ。娘の縁談を。
もっとも、娘の幸福を心配してくださっている方が、いったい何人いらっしゃるのかしら。
どの派閥の息のかかった候補を推したいのか、その浅薄な思惑を舌の上で転がす声を聞き流し、私はただ静かに微笑を返す。
「さあ……どうでしょうか」
儚げに吐息を漏らし、困惑したように遠い目をして見せれば、大抵の者はそれ以上の追及をためらい、私を『政治に疎いおしとやかなお飾り』と勝手に解釈して満足する。羽音を立てぬ梟は、羽虫の群れの中でこそ獲物に事欠かないものだ。
欲望の毒を隠そうともしない者どもをあしらうには、この無害な笑みひとつで足りる。繊細な彫刻が施された銀のティースプーンで、カップの紅茶をひとすじ静かに揺らす。
「ところで、近頃はめっきりマルガレーテ様のお姿を拝見いたしませんけれど……本日の園遊会にも、お見えにならないのかしら?」
扇の陰から探るような視線を投げてきたのは、旧教派の重鎮に連なる伯爵夫人だ。私は磁器のカップを優雅にソーサーへ戻し、困ったような、けれど慈愛に満ちた母の笑みを作る。
「ええ。娘の顔を見たいとおっしゃっていただいて嬉しく存じますけれど……あの子は今、叔父の元で療養させておりますの。こちらの夏宮にはおりませんのよ」
「まあ、どこのお加減が悪くていらっしゃるの?」
「ご心配をいただき、ありがとうございます。ですが、さほど重い病というわけではございませんの。少々咳が抜けないものですから、気分転換を兼ねて、空気の澄んだ北の領地で休ませておりますわ。私が生まれ育った土地ですから、母としても安心ですのよ。弟も、姪のことを実の子以上に可愛がってくれておりますし」
「あら。ノルトデンブルク辺境伯様が姫様のお世話を?」
「あの北の熊公が? 大層姪思いでいらっしゃるのね」
驚きを隠せない夫人たちに、私は穏やかに微笑みかけた。
「ええ。弟には息子しかおりませんでしょう? マルガレーテのことが、目に入れても痛くないほど愛おしいようですの」
「新教のお血筋の姫君には、北の空気が何よりのお薬ですものね」
笑みの奥に棘を忍ばせる伯爵夫人に、私は「ええ、本当に」と、同じ温度の微笑で返した。ただ、弟のジギスムントの元では、あの子も少しは気を許しているらしい。それだけが救いだった。
「まあ、それでは、殿下がお戻りになるのはいつ頃に?」
「さあ……あの子の体調次第ですわ」
口元には優雅な笑みを湛えたまま、私はそっと喉の奥で息を呑む。
――まさか『実母の私より、叔父に懐いて寄り付きもしない』などとは、口が裂けても申せませんわね。一言でも弱みを見せれば、尾ひれどころか尾頭付きの噂話となって尾を引くのだから。
(……それにしても、あの子はいつまで北の城に引き籠もるつもりなのかしら)
紅茶を含むと、胸の奥に冷たいものが広がった。最後に会った日も、あの子は完璧な作法で膝を折り、母と娘のあいだの三歩の距離を、ついに詰めようとしなかった。季節の挨拶も、誕生日の祝辞も、あの子は欠かさず寄越す。けれど礼を尽くした文面は、壁越しに差し出された贈り物のようで、あの子自身の声が聞こえてこない。
「魔力なし」と判じられた引け目が、私を遠ざけるのだろうか。それとも、私という母そのものが、あの子には遠いのか。本心から慕われてはいない――その予感に、私は気づかぬふりを続けてきた。
だが、親としては本気で身の振り方を決めてやらねばならない時期なのだ。皇女という立場でありながら、マルガレーテの立ち位置はあまりに複雑で危うい。私が皇帝陛下の後妻として嫁いだことで、新教派と旧教派、そして帝室の緊張は、表向き急速に緩和された。しかし先妻の産んだ皇子たちのあいだで、後継者はいまだ定まらない。各皇子の背後に控える大貴族派閥の力が拮抗しており、一人を指名すれば、漏れた派閥の離反と帝国の分裂を招くからだ。
陛下は跡継ぎの座をあえて宙吊りにし、各派閥を繋ぎ止めておられる。新教の辺境から旧教の帝室へ嫁がされた私は、政略の駒の行き着く先を、身をもって知っている。この歪な綱渡りの上で踊るつもりも、綱を引く側に回るつもりもない。ただ、娘だけは綱の外へ出してやりたいのだ。
だが、その歪な政治格闘の煽りをまともに喰らっているのが、後妻の娘であり、新教徒の血を引くマルガレーテだった。どの陣営にも属さぬ『宙に浮いた手頃な駒』として、誰もが彼女の政略価値に群がる。居所の定まらぬこの宮廷で、あの子の立ち位置もまた定まらない。
そして母として最も恐ろしいのは政治の思惑などではない。
マルガレーテが「魔力なし」と判定されたという、紛れもない現実だ。
この帝国において、夫婦間の魔力の均衡が崩れれば子宝に恵まれる可能性は絶望的となる。魔力を持たない皇女を娶ろうとする男など、最初から後継者を諦めている冷酷な野心家か、あるいは極めて魔力の薄い下級貴族以下の男くらいのものだ。
前者は考えただけでも胸が潰れそうだ。
跡継ぎという重責から解き放たれた『皇帝の美貌の娘』――それを正妻の座に据え、帝室との縁という看板だけをむさぼりながら、裏では後継者を産ませるための側室を囲い、あの子を都合の良い『贅沢な飾り物』として扱いかねない男たち。高貴な血を引く娘が、男たちの歪んだ虚栄心と身勝手な欲望の犠牲になる未来など、母親として断じて許せるものではない。
さりとて、後者では皇女としての矜持も未来も潰えてしまう。皇女としての身分にふさわしい暮らしを維持するためには、相応の家柄と財力が必要になる。あまりに身分の低い家へ嫁がせれば、それはそれで娘の立場を危うくしかねない。
どちらを選んでも、簡単には答えが出ない。
あの子は私に似て、権謀術数が渦巻き、魑魅魍魎が蠢くこの宮廷政治を心底毛嫌いしている。派閥の思惑に翻弄されるよりも、もっと穏やかな暮らしを望んでいるように見える。
ならば、せめて。
帝国の権力闘争から遠く離れた、清廉で誠実な地方領主の元へ嫁がせてやりたい。皇女という肩書ではなく、一人の女性として大切にしてくれる相手と巡り会えたなら。
(だが、そんな奇跡のような縁談を、この魑魅魍魎の巣窟で、いったい誰に相談できるというの?)
母親でありながら、娘を守るための手立てすら見出せず、遠く離れた場所で見守ることしかできない自分の無力さが、胸を締め付ける。
私は遠く広がる夏宮の眩しい庭園に視線を投げ、小さく、誰にも気づかれないように息を吐いた。
─── ■ Section 03 ──────────
◆ 皇王視点:王宮・世渡りと夜渡り問題
────────────────────
「今宵は風邪を召されて伏せっておられますゆえ、お渡りはお見合わせいただきたいと……」
「そうか、相分かった。無理をさせるな。日を改めると伝えよ」
数日後。
「后妃様は本日はお休みでございます」
「……そうか」
今日もまた、同じ返事だった。侍従の恭しい物腰の裏に、どこか憐れむような響きが混じっている気がして、余はそっと目を伏せる。
「余は、后妃を怒らせるような真似をしたか?」
思い当たる節がないわけではない。だが、だからといって、嫌われるほどのことをした覚えもない。それなのに、夫婦の間には、いつの間にか見えない壁ができてしまったらしい。
独りきりの広大な寝台の上で、余は自嘲の息を吐く。遠くで夜警の拍子木が鳴り、燭火が、絹の帳に余ひとりの影を長く伸ばしている。
どうやら余は、「世渡り」だけでなく「夜渡り」の才にも、絶望的に恵まれていないらしい。
政治の上では、誰の派閥にも完全には取り込まれず、中立を装う「世渡り」。
そして家庭の上では、誰の寝室にも足を踏み入れることのできない「夜渡り」。
我が人生、政治でも家庭でも「深く踏み込まない男」が、余の板についた姿だ。政治の世界では、どの派閥にも深く肩入れせず、敵をつくらないように振る舞う。家庭では、相手の気持ちを慮って無理強いを避ける。どちらも、余なりの気遣いのつもりだった。
だが、気遣いというものは、相手に伝わらなければ、ただの独りよがりなのかもしれない。もっとも、余はそれを認めるよりも、もう少し時間を置いて考える方が得意なのだが。それゆえ、世渡り上手と言えば聞こえはよいが、余のそれは、ただ足を止めているにすぎない。
難問に直面するたび、脳裏に浮かぶ逃げ口上は決まっている。――「もう少し、世の中が落ち着いてから考えるとしよう」。この言葉こそ、余が長年の君主生活で身につけた、唯一にして最大の処世術だった。
今日の昼も、シャルルの使いと高等法院の使いが相次いで謁見を求めたが、余はどちらにも「善処する」とだけ告げて帰した。
いま、この国は二つの風圧に引き裂かれつつある。帝国への「恭順派」と、帝国からの「独立派」だ。
恭順派の頭目は、嫡男のシャルル。国内最大の軍事・地縁勢力である北閥が、司徒と太尉の親子を外戚として背後に控えている。正式な皇太子冊立こそまだだが、宮中ではすでに次代の主として扱われていた。
帝国の威信と軍事力を借り、共和国に北半分を奪われた故地『霜華広野』を取り戻す。それが彼らの悲願だ。失われた領土を取り戻すためなら、帝国への恭順もやむを得ないというわけだ。先月も、主戦のための軍費を催促する書状が、北閥から山のように届いた。
一方、これに対抗するのが、帝国からの独立を目指す勢力である。独立派が旗頭に据えたいのは、西道国出身の后妃ヴェルヴェーヌである。西戎の地から後妻として嫁ぎ、西道国との同君連合をかろうじて繋いでいる存在だ。中央の官僚や法服貴族の一部は、彼女を神輿に担いで独立派が結束すれば、帝国と袂を分かち、我が国の自主独立を実現できると考えている。
彼らは、国号を『皇王国』に戻して名誉の回復を図ろうとしている。同君連合を組む前は西道国の国号こそが『王国』だったが故のこだわりである。「今更『王国』の風下に立てるものか」というわけだ。
とりわけ厄介なのが高等法院だ。勅令の登録を拒む権限を握る法服貴族は過半数が西戎の出で、首座にはあの抜け目のないマラザンが座る。幸いにして、当のヴェルヴェーヌは、その誘いを巧みにかわし続けているようだ。
后妃としての立場を守り、政治的な旗印に祭り上げられることを避けているのである。先日もマザランが謁見を願い出たが、「私は皇王陛下の妻にございます」の一言で退けたという。
ここで頭が痛いのは、皇位継承と国家路線の連動だ。
シャルルを皇太子に冊立すれば、恭順派が勢いづき、対共和国の主戦論が爆発する。ヴェルヴェーヌと独立派を厚遇すれば、帝国との亀裂は決定的になり、国論は割れる。どちらに肩入れしても、国は割れるのだ。両者が消耗し合うのを、帝国の食糧庫にして文化の中心と自負している江南閥が、したたかに眺めている。
ゆえに、不気味な均衡を一日でも長く保つこと。優柔不断と笑われようと、時間を稼げば、どこかで情勢が変わるかもしれない。誰かが譲歩し、誰かが新たな妥協案を持ち出してくる可能性もある。そうやって均衡を保ち続けることこそ、今の余にできる唯一の統治なのだ。……いや、そう信じたいだけなのかもしれないが。
――それにしても。
政治の膠着はともかくとして、余は、あの后妃を嫌ったことなど一度もない。西の草原の風のように気丈で、まっすぐな女だ。遠い故郷から独りで嫁いできた彼女に、余は夫らしいことを何ひとつしてやれていない。それがなぜ、これほど頑なに余の渡りを拒むのか。
彼女が余を嫌っているのなら、まだ分かりやすい。だが、普段のヴェルヴェーヌは、そこまで露骨に余を拒んでいるわけではない。アカンシアを交えた食事の席では、穏やかに会話もするし、母親として娘を気遣う姿も見せている。まあ、余の席とは随分と不自然なほど距離をとられていたが……。
だからこそ、夜になると態度が変わる理由が分からない。
しかし、思い返せば、最後に渡りが叶った夜も、后妃は終始、袖で口元を覆い、顔を背けておられた。昼の謁見でも、扇を口元から離さない。先日の夜会では、余と言葉を交わすあいだ、卓ひとつぶんの距離を決して詰めようとしなかった。近頃は薄荷や丁子の香が、遠くからでも鼻をつくほど強く、宮廷医が足繁く通い、朝夕に薬湯を召されているとも聞く。西戎では、妻は夫に素顔を見せぬのが貞淑なのかと考えたこともある。だが、真意は分からない。問いただす勇気も、余にはなかった。
……もっとも、彼女がこうして頑なに拒んでくれるおかげで、「后妃の体調と夫婦の冷え込み」を理由にして、独立派の背後にいる者たちと深く結ばれずに済んでいるという側面もある。后妃の部屋へ渡れば、法服貴族たちの請願が、枕元まで追いかけてくるだろう。政治的な厄介事を避けられる口実になると考えれば、日和見の君主には、これほど好都合な夫婦不仲もないと言えなくはない。
だが、代償は小さくない。宮中ではすでに、あまりに露骨で「皇王夫妻の不和」が噂の種になっている。愛娘のアカンシアは聡明で優しい娘だ。シアの耳に両親の冷え切った関係が入れば、どれほど心を痛めることか。ヴェルヴェーヌとて、娘を大切にしているはずなのに、もう少し別のやり方がありそうなものを。
とはいえ、余にも一国の君主として、一人の男としての自尊心がある。嫌がる女の部屋へ、盗人のように忍び込む気には、到底なれない。嫌がる相手の寝室へ無理に押しかけるほど、余は厚顔無恥でもないからだ。しかし、渡り廊下の角まで歩いたことなら、何度もある。角を曲がれば、后妃の部屋の灯が見える。そこで足が止まり、余は踵を返すのだ。
お互いを気遣うからなのか、それとも無駄な自尊心が邪魔をしているのか。完全なる意思疎通不全。余の使いと后妃の返事は、いつも行き違う。いわば、夜渡りの行き違いだ。
寝台の脇で、燭火が揺れた。
断られるたび、胸の底で何かがふっと緩むことを、余は知っている。「断られた」という報せを聞いた直後、真っ先に浮かぶのは、今夜は何も決めずに済む、という思いだった。落胆の裏に、確かに安堵が混じっているのだ。その卑小さが、情けない。
……明日こそ、ヴェルヴェーヌときちんと話してみるべきかもしれない。
いや、待て。
今は北閥と独立派の動向を見極める方が先だ。シャルルの冊立問題も、まだ決着がついていない。ここで余が家庭の問題にまで踏み込んで、余計な波風を立てる必要はないだろう。
そうだ。もう少し、世の中が落ち着いてから考えればよい。
だが、明日の夜も、きっと使いを出すことになる。そして、きっと同じ返事が戻ってくるのだろう。
――そうしている限り、余はヴェルヴェーヌに拒絶される理由を知らずに済む。
「……侍従」
「はっ」
「后妃に、蜂蜜漬けの果実を届けよ。西戎の好物だと聞く。それと、明日の使いは、明後日に回す」
「……かしこまりました」
侍従の視線が、一瞬だけ泳いだ。余はそれを、使いの手間を厭うたのだろうと解した。
不器用な優しさを、箱に詰めて送る。これで今夜も、問題は先送りできた。明日になれば、あの妻も機嫌を直すかもしれない。
――もう少し、世の中が落ち着いてから考えるとしよう。
─── ■ Section 04 ──────────
◆兄視点:私邸・グラブラックス兄弟の護民官猟官運動
────────────────────
「農民に土地を返し、国防の盾たる有産市民を増やす。貧民には安い穀物を配り、飢えから救う。――これ以上の『正義』が、この大共和制のどこにあるというのだ?」
「兄者の言う通りです」
向かいに座る弟、ガイユスが、涼しい顔で杯を傾ける。
分厚い絨毯が足音も声も呑み込む、私邸の密室。窓はひとつもなく、燭台の火だけが、卓上に広げた選挙区の地図を赤く舐めていた。地方代表の名を連ねた名簿には、買収の済んだ名に黒、未済の名に赤の印が打たれている。俺は握りしめていた書状を卓に叩きつけ、鼻で嗤った。
「あの老害どもの顔を見たか。コーネリアスの涼しい顔、大賢者の、虫でも見るような目。俺が元老院で『農地法』の理念を説いた間じゅう、奴らは冷笑を隠そうともしなかった。コーネリアスなど、俺の演説の途中で、これ見よがしに席を立ったのだぞ。自分たちの広大な農園と奴隷利権が守れるなら、軍が痩せ細ろうが民が路頭に迷おうが、知ったことではないのだ」
「まったくです、兄者」
杯に葡萄酒を注いでいた弟が低く滑らかに応じる。その目に宿るのは、熱狂する改革者の光ではなく、獲物の急所を測る政治屋の冷たさだ。熱く燃え上がる自分と、凍てついた刃のような弟。二人でひとつの武器だと、俺は昔から思っている。
誰に聞かれる心配もなく、俺たちは共和国の未来について語り合える。
もっとも――未来を語ることと、未来を手に入れることは別の話だが。
「『中小農民が土地を失い、没落している』――これは揺るぎない事実だ。『彼らの生産力を回復させ、有産市民による兵力を増強することこそ国力の根幹である』――これは国家の真実だ。そして――『貧困層を救うため、大貴族の公地を奪って民へ配れ』。これこそが、いま市井を焼き尽くさんとする熱烈な世論なのだよ。人はいつでも耳に心地よい声だけを好んで聞くものだからな」
素晴らしい。実に素晴らしい言葉だ。民衆はあれを聞くだけで歓声を上げる。だが俺は自分でも知っている。俺を本当に突き動かしているものが何なのか。
純粋な愛国心などではない。いや、国家の存続と防衛力の強化という大義名分が偽りだとは言わない。それがあるからこそ、民衆は俺たちの演説に血を滾らせ、熱狂するのだから。
共和国において、大義は人前で語るものだ。
本音はこういう場所で語るに限る。
「奴らにとって『大義』など、ただの綺麗な飾りに過ぎません。――もっとも、それは私たちにとっても同じですが」
否定はしない。国の防衛力を立て直したいという思いは、偽りではない。だからこそ民衆は俺の演説に血を滾らせるのだ。だが、腹の底にある本音の七割は、名誉と権力への飢えだった。元老院の末席に押し込められ、大貴族どもに「成り上がりの兄弟」と見下され続けてきた屈辱。それをひっくり返し、グラブラックスの名を歴史の頂に刻む。夜ごと、民会の広場で己の名が連呼される夢を見るのだ。そのための最も強固な梃子が、この急進的な大義だというだけの話だった。
俺たちが欲しいのは、政策を提案するだけの地位ではない。誰が何を決め、誰が誰に頭を下げるのか――その秩序を決める側の人間になることだ。
「老豚どもを叩き潰し、我らがこの国の真の差配者となる鍵は、次の民会選挙。兄弟そろっての護民官当選だ。話の分かる弟を持って誇らしいよ、ガイユス」
俺は椅子に身を沈め、天井のフレスコ画を見上げた。
「拒否権と民会召集権を二人が同時に握れば、執政官も元老院も、我らの前に膝を屈する。正執政官ロミュリウスも、副執政官リーマスも、気づいた時には手遅れだ」
「問題は、どうやって二人揃って選ばれるか、ですね」
ガイユスが卓上に広げた候補者の名簿を指でなぞる。
「下層の票は、穀物法の約束で八割方こちらにあります。問題は中流層と、元老院派が裏で動かしている買収工作です。奴らは、すでに地方選出の代表者どもへ巨額の賄賂を撒いているとの情報が入っております」
「金で動く豚には、より大きな金か、さもなくば恐怖を与えるまでだ」
俺は平然と言い放った。
「有力ギルドから上納させた資金を使え。寝返りそうな日和見には、属州での不正蓄財の証拠を握らせてある。逆らえば民会で暴露し、暴徒に叩き殺させると匂わせろ。善人ぶった改革など、歴史のゴミ箱に捨てればいい」
農民には土地を、貧民には穀物を。議員には金か恐怖を。人によって差し出すものを変えるだけの話だ。政治とは、相手が何を欲しがり、何を恐れているのかを見極め、それをこちらの目的に結びつける仕事である。
「承知いたしました。脅迫の手配は今夜中に済ませます。……ですが、兄者。もし我々が護民官に就任し、強引に農地法を押し通そうとすれば、守旧派は法の手続きを無視して『物理的な力』を行使してくる恐れがあります。あの守旧派どもは、追い詰められれば平気で私兵や刺客を使う。護民官の身体は不可侵と、法は謳います。ですが、法は刃を止めてはくれません」
ガイユスの言葉に、俺は深く頷いた。
それこそが、歴史上幾人もの改革者が首を刎ねられてきた最大の罠だ。どれほど民会で喝采を浴びようと、最後にものを言うのは、喉元に刃を突きつけられる暴力だ。
「だからこそ、最後の駒を動かす」
俺は卓に、一枚の調査書を滑らせた。
「第一軍団長、ルキウス・マリウス」
ガイユスの眉が、わずかに動く。
「首都フヴドスタード近郊の防衛を担う……異例の抜擢でしたね。大貴族の血筋ではなく、叩き上げの騎士階級の」
「だからこそだ。首都で事が起きれば、真っ先に軍を率いて駆けつけられるのは奴だ。護民官に選ばれた俺たちを、元老院の連中が力ずくで排除しようとしたとき、あの男がどちらにつくか。それで勝負が決まる」
俺は書類の端を爪で弾いた。
「しかも、軍功だけで上り詰めた男が、血統貴族どもに『成り上がり』と陰で蔑まれていないはずがない。胸の内には、マグマのような反感が渦巻いているだろう」
「面識は?」
「ない。だが、間違いない」
根拠のない確信を、俺は疑わなかった。俺たちが味わってきた屈辱と同じ味を、奴も舐めているに決まっている。
「持ちかけるのは、除隊後の農地の優先配分だ。兵の大半は無産階級からの志願兵、あの男には何よりの餌になる。加えて、元老院入りと将軍職への推薦を約束すればいい。今週中に、俺が直接会う。酒と、約束と、それから奴の誇りをくすぐる言葉をひとつ添えてな」
「乗ってきますね。……いえ、乗らないはずがない。ただ、軍人は一度権力の味を覚えれば、次は我々にも牙を剥きかねません」
「飼い犬の首輪は、こちらが握っていればいい。マリウスの軍が我らの背後にあると知れば、老豚どもは恐怖で身動きが取れなくなる。力なき正義は無能で、正義なき力はただの暴力だ。我らは『武力を背にした正義』になる」
俺は弟と顔を見合わせ、声を出さずに笑った。
美辞麗句の裏で、賄賂と脅迫と軍部との野合。市井の者が聞けば吐き捨てる策略を、二人で「効率のよい政治の手順」として、楽しげに処理していく。
「頼もしい限りだな、ガイユス。民衆は我々を『救世主』と仰ぎ、貴族どもは『悪魔』と恐れるだろう。だが、結果として歴史に勝者として名を残すのは我らグラブラックス兄弟だ」
「ええ、兄者。正執政官ロミュリウスも、副執政官リーマスも……我々が護民官の席に座った時、事態の深刻さに気づいても手遅れです」
「その二人の足元も我らの手の内にある。あの三寧人も、昨夜、使いを寄越した。お力添えを惜しまぬ、とな。奴らも我らの側だ」
「ええ。心強いことです」
三寧人は、共和国の政界に深く食い込んだ連中だ。彼らと裏で通じていることは、俺たちにとって大きな強みだった。もちろん、彼らにも彼らの思惑はあるだろう。だが、互いの利益が一致している限り、協力関係は成立する。
「我らの偉大なる名誉と、誇り高き大義に」
ふたつの杯が重なり合い、澄んだ磁器のような音が密室に響いた。弟の杯を持つ手は静かで、俺の手だけが、熱で小さく震えている。
壁の向こう、遠い街角から、昨日こちらが配った麦に湧く民衆の歓声が、風に乗って微かに届く。あの声は、俺たちのものだ。




