沈黙姫
賢者様と歩きながら夢中になってあれこれと話し込んでいるうちに、気がつけば目の前に馬車が一台停車していることに気付いた。そばにはクーシュという名の御者が控えていて、名を交わす程度の軽い挨拶だけして、そそくさと馬車に乗り込んだ。
馬車の揺れは想像以上に激しかった。とてもじゃないが、優雅に馬車に揺られながら車窓を眺めて流れる景色を楽しむどころではなかった。これにあと6日も揺られ続けなくてはいけないのかと思うと辟易した。
異世界転生あるあるで、馬車にサスペンションを取り付ければこの揺れも劇的に改善するのではと思い、馬車を止めて休憩している中、車台の下をのぞき込み車軸の構造を観察した。
案の定、車軸が車台に固定されており、サスペンションが付随しているようには見受けられなかった。その旨を賢者様とターシュに身振り手振りを交えながら丁寧に伝え、馬車の構造を改良して揺れを少なくする技術の普及具合について尋ねてみた。
結果からいうと、上から目線で会話しなかったのが幸いした。今回の旅程は、神様に関わることだから、不測の事態に備えるためにあれこれと運搬すべきアイテムの重量が嵩んだので、できるだけ積載量が大きい荷馬車を選んだとのこと。貴人を運ぶコーチ (coach)のような馬車は、紐や鎖で座席を吊り下げる懸架式の馬車が既に主流となっているそうだ。
さらに、馬車の揺れが激しかったのは、馬車の構造そのものに問題があるというより、道路整備の問題の方が影響が大きいからだそうだ。落ち着いて考えてみれば当然だ。65年ぶりのご降臨なのだから、その間、人(馬車)の往来が多いはずもなく、当然交通量の少ない道路の整備は後回しになるのは道理だからだ。
むしろ、神域への参道扱いだから、ニーブルン家の私費だけでこの参道をずっと維持管理してきたのだから、これでも一般道よりかなりましだそうだ。神域を抜け、庵に近づくにつれて次第に整備状況も改善していき、揺れもだんだんと収まっていった。
ついでに共和国内の道路事情も尋ねてみた。街路はその都市の領主が担う公費でメンテナンスされるのが一般的らしかった。主要都市間に張り巡らされている幹線道路もまた同様に公費負担だが、こちらは国費負担ということになる。
それ以外の支道・脇道に至っては千差万別で、街道筋にある村の共同出資で維持管理している所もあれば、隊商を保有する大店や富商、ギルド等が個別に整備する場合も多いそうだ。競合他社より早く安全に荷運びするだけで競争優位を築けるということだろう。
この道路事情については、市内は市道、幹線道路は国道、脇街道は県道・市町村道、私道が入り乱れている状態という風に理解した。私道や村道を走る際に通行料(通行税)を徴収されることもあるらしく、有料道路まであるのかと感心した。
会話の中に「ギルド」というワクワクするような単語まで登場したのは聞き逃さなかった。話の流れ上、ギルトの詳細は聞き出せなかったが、これは後日改めて情報収集しようと心に決めた。
作務所を出て6日後、ようやく賢者様がそう呼ぶ庵に到着した。しかし、庵とは名ばかりだった。外観だけでも相当立派な邸宅であることが分かったが、中を見せてもらって2度ビックリで、ゲストルームが4つと、ちょっとしたダンスパーティーでも開けるのではと思うほどの大広間を持つ本棟に、別棟で馬小屋や物置小屋、従業員宿舎が併設されているという驚愕の充実ぶりだった。
庵という呼称と実際の造りとのギャップに驚き、ああ、もしかして、「apartment」と「mansion」の類の話かと思い、ここではこれくらいの規模の建物も「庵」と呼ぶのかと尋ねた。その答えは、「隠居した老人や俗世から隠れて静かに過ごしたい者が住まう静かで落ち着いていて、かつ隠れ家的な質素な建物が庵である」というものだった。
字義的な意味は、説明に合うには合っている、そこに間違いはない。しかし「質素」という基準がかけ離れている。自分のイメージでは、「庵」といえば「草庵」で、茅やススキなどを使った草葺ないし草壁だと思い込んでいた。
彼我の富貴の圧倒的な差と、一般的と考える建築様式に対する認識の差なのだと理解することにした。
しかし、今後もこのような思い違いが頻発すると困るので、言葉が持つイメージの違いと、より適切な用語法について、賢者様に2,3確認させてもらった。
それで分かったことだが、結論から言えば、「この翻訳ツールは“神“」ということだった。これまでの龍神様・賢者様との会話を振り返ると、「時間跳躍」「並行宇宙」「霊気」「二死」「精神感応」「水準」「賢者」「翰林学士院」「規則」「個人の秘密」などは、いとも簡単に単語だけでも意思疎通できていた。
一方で、「GPS機能」「うそ発見器」「ウェアラブル端末」など、その概念を表すものが全くイメージできない場合、文字の形態に関わらず、意思疎通が困難だった。
そこで実験的に、賢者様にどこまでの単語が通用するか試させて頂くことにした。この話題は、賢者様の興味関心をずいぶん惹いたようで、むしろ食い気味に協力してくれた。
その結果、「意見の一致」「法令順守」程度なら大丈夫だったが、「目標必達」「多様性」辺りから怪しくなり始め、「実現可能性」「包摂的な」辺りまで来ると理解が難しくなった。
逆に、「ドンマイ」「テンション」「ナイーブ」「スキンシップ」はそのままでも十分にいけたのがとても可笑しかった。なるほど、母国語へのこなれ具合で理解度が変わるということなのね。
「ファーストステップは、インタラクティブにオピニオンをブレストして、イシューを全て洗い出してから、パーセプション・ギャップを埋めるために、見解をコンバージェンスする目的でディスカッションをリピートして、ウィン・ウィンが達成できるソリューションを導けるように、お互いのチーム同士でコラボしながら進めていきましょう」
なんて言い出したら、こっちの人には「寿限無寿限無……」レベルの意味不明な単なる呪文に聞こえることが分かった。
それにしても、おそらく龍神様から授けられた(?)チート能力なのだろうこの会話補助機能、本っ当~に使える。マジ神! 敬意をこめて、この万能自動翻訳機能に「ワールド・トーカー」の名称を与えることにしよう。
◆
庵に到着した際の「庵」から受けるインパクトがあまりに大きすぎて、「ワールド・トーカー」の話題で賢者様と勝手に盛り上がってしまったため、出迎えのために屋敷(庵)の前に整列してくれていた使用人たちを、しばらくの間放置してしまった、反省反省。
改めて気を引き締めつつ、馬車を総出で出迎えて頂いた使用人たちへの挨拶を続けることにした。
執事のニコラウス
メイド長のアリンナ・フースフォレスタ
メイドのイーダ
営繕係のホウェツゼン
そしてずっとお世話になっていた御者のクーシュ
総勢5名。たった5名でこの「庵」の名には相応しくないほど立派な隠居屋敷を回しているのは実に驚きだ。今日からは自分も入れて6名になる。
まあ、しばらくは教育実習期間となるから、その分だけ先任者の足を引っ張ることになり、かえって作業効率が落ちるのは目に見えているのだが。そこは鋭意努力して一日でも早く戦力になりたいと考えている。
ご主人様が65年ぶりに女神様のもとを訪れて、見知らぬ童子を連れてきたのに全く動揺を見せない使用人たち。教育の徹底ぶりは実に見事なものである。自分など最初からそこにいないかのように通常運転の主従関係が始まる。
「おかえりなさいませ、旦那様。旅のお疲れなどはございませんでしょうか。」
「うむ、大丈夫だ。儂の留守中、何か変わったことはなかったか。」
「特に何もございません。執政官様と学院長様より、至急の面会依頼が届いているだけです。」
「うむ、まずはゲミヌス・ルプスに参上した後、学院に赴こうか。執政官には6日後に伺うと返事を頼む。学院へはその翌日で頼む。ここを発つのは3日後だ。」
「かしこまりました。」
「ところで、あの子の姿が見えないようだが……」
「お嬢様でしたら自室にお戻りになられました。先ほどまでお出迎えのため、我々と同じく表に出ていたのですが、いつもとは気配が違うのを察知したのでしょう。慌てて屋敷の中へお戻りになられました。」
「そうか。では後ほど、書斎まで来るように伝えてくれ。この子を紹介したい。」
「かしこまりました。」
一連のやり取りを終えて、執事のニコラウスが面会依頼の返事を準備するために屋敷の中に戻った。それを合図にしてか、クーシュが馬車の仕舞い支度に取り掛かる。残された3名に、引き続き賢者様から用事が伝えられる。
「アリンナ、この子に合う服を見繕ってくれ。フヴドスタードに連れて行くから、貴族の子弟というほどでもなく、大切にされている使用人という感じで頼む。それから『マスク』をいくつか製ってもらいたい。仕様は後からこの子に聞いてくれ。」
「かしこまりました。」
「あの子に会わせる前に身綺麗にしてやってくれ。荷物は一旦客室に運んでおくように。一晩だけそこでゆっくり体を休めてもらう。明日からは使用人部屋を使わせてやってくれ。」
「かしこまりました。」
メイド長のアリンナが目配せすると、イーダが自分の荷物 ――といっても白の通学用カバンと、カーキ色のバックパックの2つだけだったが―― を手に取り、これまた屋敷の中へ入っていった。おそらく、先行して客室も準備もする段取りになっているのだろう。
賢者様は、営繕係のホウェツゼンの方に向き直り、
「作業部屋へ素材を運び込んでおいてくれ、まず……」
おそらく、魔力探知を阻害するための魔術具の製作のための素材なのであろう。いくつか素材の名が挙がっていたが、どれひとつ理解することはできなかった。それにしても営繕係なのに、素材の準備まで任されているのね。若い時分は、腕の良い魔法職人だったのかも。
即興で思いつくまま「魔法職人」と頭の中でつぶやいたとき、ホウェツゼンと一瞬目が合ったような気がした。
用件を聞き終えたホウェツゼンも屋敷の中に戻り、この場には自分を含め3人だけ残った。賢者様は荷解きもせず、作業部屋へ直行するらしい。自分は、アリンナに今晩あてがわれる客室まで案内してもらうことになった。
客室には既に清拭の準備が整っており、身体の汚れを蒸しタオルで丹念に落としていった。身体の大事な部分を隠せる湯着のようなものも準備されていたので、アリンナの介助でもあまり恥ずかしい思いをしないで助かった。なんせ、こっちは「見た目は子供、頭脳は大人」だからね(笑)。
アリンナの手際の良さから、あくまで想像の範囲だが、以前は自分の子供たちの世話をよく焼いていたのではと肌で感じた。いつか思い出話を聞きたいものである。
その後、アリンナから身体のあちこちを採寸され、何やらアリンナが見たこともない魔術具(それとも魔法道具というべきなのか、正式名称は不明)で、学生服の汚れをさっと落とし、とりあえず就寝までは学生服を着ているよう指示された。
(就寝前に、寝間着と明日から着用するよう指示された作業着がぴったりのサイズで準備されていたのにも驚いた。こんな短時間でしかも子供サイズのものを用意できるなんて。ここの使用人はプロフェッショナルの鏡である)
次に、マスク製作の準備に取り掛かった。採寸と使用目的と使用状況の説明を行った。日常会話をする際に、相手側に警戒心を起こさせないために口元を隠したいこと、いつ会話する機会が訪れるか分からないので、少なくとも日中はつけっぱなしにしておきたいこと、毎日継続して使用するため、こまめに洗濯できて清潔さを保ち、替えも複数用意してほしいことなどを伝えた。
洗濯の所で、アリンナの表情がちょっと曇ったが、すぐに了解してくれて、矢継ぎ早に、色、素材、形状、機能などを尋ねられた。衛生の観点から白色が好ましく、素材はガーゼかできたら不織布で、形状は、平型・プリーツ型・立体型のそれぞれを試作して、一番フィットするものを選びたいとダメ元で希望を言ってみた。
それにしても、マスクで口元を隠したい動機の方より洗濯の方に食いつくとか、予想もしていなかった。それくらい、口元の動きと言葉がずれているのって結構悪目立ちするんだと再確認した。想像するに、大層出来の悪い洋画の吹替え版を見ている感じなんだろう。
(後日譚:やたらリクエストを詳細に出したら、どうやらアリンナの製作意欲をこの上なく刺激してしまったらしい。10を超える試作品が直ちに用意され、吟味に吟味を重ねた結果、「白色の洗えるガーゼプリーツマスク」に結局落ち着いた)
マスクの仕様打ち合わせの後、この庵(いや邸宅だろ)での使用人としての生活する上での注意点をいくつか説明してもらった。そうそう、新生活前にはこのような、ブリーフィングとかオリエンテーションのようなものは必要不可欠である。知らないうちに、開かずの扉を知らずに開けてしまい、妖怪に襲われるとかマジ勘弁だからね。
当面の行動指針:
自分は3日後に、執政官と学院長に面会するために、上京(フヴドスタードは共和国の首都だとここで判明)する賢者様に帯同することが決まっている。そのため、使用人として教育はフヴドスタードから再びこの庵に戻ってから本格的にスタートするらしい。
とりあえず、上京までの間は賢者様の傍に控えて、いろいろ見て盗めということらしい(冗談:賢者様の行動をお手本に作法・所作を学びつつ、賢者様のご下問に答えるのが当面のミッションだそうだ)。
特に重要な注意事項:
①使用人以外でこの庵に近づく者がいたら、大抵敵だから排除して構わないこと、②使用人同士の過去の詮索はしないこと、③この庵で見聞きしたことは原則部外秘として取り扱うこと、の3つだそうだ。
①に関してはそもそも攻撃魔法が使用できないため、実践することはなかなかに難しいが、発見次第、使用人仲間に知らせることはできる。
②に関しては、心がけ次第だから大して問題にならない。そんなに短期間で、こんな海千山千の同僚にすぐに心を許してもらえると考えるほど、自分は「人たらし」な性格はしていない自負がある。
③に関しては、元サラリーマンとして、機密文書とか情報セキュリティの研修やe-Learningをさんざん受けさせられたから基本は身についている(と信じたい)。
そうこうしているうちに、賢者様の書斎に参集する時間になった。
◆
アリンナの案内で書斎の前まで赴き、アリンナが軽くノックすると、誰何の言葉もなく「入れ」との声が聞こえたのでそれに従い部屋に入ると、部屋の中には既に先客があった。
部屋中央に鎮座していた応接セットには、一人の少女が腰かけていた。髪色はブルネットでよりダークヘアーに近い感じ。髪型はワンレンボブというんだったろうか、おそらく貴族女性としてはかなり短い方ではなかろうか。
肌の色は透き通るほどというより白妙という雰囲気がぴったりで、伏し目がちで不安げな様子から、庇護欲をそそられる感じのいかにも薄幸の少女という感じがする。
「これは、儂の末の孫娘で、名を『ヒトリシズカ・ピニャプラート』という。今は故あって、儂が引き取ってここで面倒を見ている。本人はこの名前があまり気に入っていないらしく、できれば『シズ』と呼んでやってほしい。」
ここまでで、爺の孫娘に対する愛情の深さが、その表情や声の抑揚から簡単に見て取れた。加えて、彼女は訳ありでここで匿われており、先程のアリンナからの注意事項の背景にこの娘が大きに関係していることも察することができた。
第一印象はとても大事。
「お初にお目にかかります、シズお嬢様。私は『七篠権兵衛』と申します。東大陸の南の端、異種族の村出身の者でございますゆえ、共和国のことは、先日初めてお会いしたそちらのお爺様以外は全く存じ上げません。ですから、なにか無作法なことがあるやもしれませんが、なにとぞ大目に見て頂ければと存じます。」
「ナナシノはこう見えて、今年で13歳になるそうだ。シズとは2歳違いじゃの」
ああ、これから使用人になるから、ナナシノ呼びに変わったのね、了解しました。意外に年齢が近くて驚いた。てっきり、10歳にもなっていないと思っていた。名前の響きといい、見た目が実年齢よりかなり幼く見えることといい、相当の訳ありなんだろうな。
いろいろと彼女に関する感想をいささか強い気持ちで考えたのがまずかった。こちら側の思念がどうやら彼女に届いてしまったらしく、彼女の顔が見る見る間に硬直していくのが手に取るように分かった。
思わず、賢者様の顔色を窺ってみたものの、一向に助け舟を出す気配は感じられなかった。にやにやするばかりで、自分がこの難局をどうやってやり過ごすか、高みの見物を決めているのだろう。困ったお人だ、全く……。
「失礼しました。不躾な思念をお伝えしてしまったようです、改めてお詫びさせてください。実は『ヒトリシズカ』というのは、私の祖国でははかなげで可憐な白い花の名前と同じなのです。」
ちらっと賢者様の表情を盗み見ると、顔にそのまま続けよと書いてあった。
「実にお嬢様の楚々とした美しさに通じるものを感じ、驚いておりました。『ヒトリシズカ』の名は、人知れずひっそりと咲き、人知れず散ってゆく風情から生まれたものです。」
これはアウトらしい。今度は彼女の顔が見る見る間にこわばっていった、ああ、この辺は地雷なのね。
「私の国では、『ヒトリシズカ』の花言葉は、『隠された美』『愛にこたえて』そして『静謐』でございます。人里離れた庵にて、お爺様にとても大切に育てられており、まさに花言葉にぴったりな方だと思いました。」
「はっはっはっ。ナナシノはすべてお見通しなのじゃな。シズは極端に無口での。儂でも時々シズの声が懐かしくなって、たまには聞かせてくれとねだることもあるくらいじゃ」
今度は恐る恐る彼女の表情を窺うと、頬を赤く染め、俯きの角度がますます下方修正されていった。まあ、このリカバリーショットで何とか首の皮一枚でつながったか。やれやれだぜ。
お嬢様への顔見世興行はどうやら無事に終えられたらしく、この後は専ら首都行き前に、自分の語学学習のカリキュラムの話になった。明日からの3日間、タイムスケジュールは次のようになる。
05:00 起床
06:00 ご主人様の朝食準備
07:00 ご主人様の朝食(おめざ/軽食)
08:00 東大陸語の習得(with シズお嬢様)
12:00 ご主人様の昼食準備
13:00 ご主人様の昼食
14:00 書斎待機
18:00 ご主人様の夕食準備
19:00 ご主人様の夕食
22:00 自習
24:00 就寝
この3日間は、シズお嬢様の従来の勉強時間を全て割いてもらって、シズお嬢様から東大陸語を習いなさいというご下命を頂戴した。彼女の貴重な勉強時間を自分の語学学習に充ててもらうという幸運に恵まれた、有り難い(と思えと言われた……)。
まだ少女だといえ、貴族のお嬢様と思春期真っただ中の平民(?)の少年を部屋で二人っきりにするのは、いろいろと風紀上問題があるのではなかろうか? と困惑していると、
「其方に教えるのはシズにすべて任せるが、いつもは先生役を務めているニコラウスを同席させるから、何か困ったらすぐに相談するように」ということらしい、それ先に言ってよ~。
当初、シズお嬢様から東大陸語(の文字)を教わるのは困難を極めた。なぜなら、彼女はただの一言も口から言葉を発してくれなかったからである。試行錯誤をしばらく続けた後、ぱっと閃いた。自分が求めているのは、会話ではなく、文字の読み方なのであると。
それに思い当たると、まるで、一筋の光明が差し込んだように思えた。思い付きをすぐに実践してみた。こちらの話す言葉は通じているのだから。
「シズお嬢様、お手数ですが、これから私が話す言葉を、この紙に書いて私に見せて頂けないでしょうか?」
彼女は簡単に了承し、ペンを取った。そこからは早かった。自分が話した台詞を用紙に書いてもらい、自分が台詞を思い出しながら、文字をひとつひとつ指差しながら声にも出して辿っていく。もし間違った箇所がでてきたら、彼女にペンでトントンと机をたたいてもらうことにした。
最初はたどたどしく、遅々として進まなかったが、いくつかの法則を見つけると途端に解読のスピードは加速していった。東大陸語は、書き言葉としては書き方が非常に柔軟だった。縦書きも横書きも可能だった。なんなら、右から左、左から右に読む書物も多数存在した。
また、文字の種類は2つあり、神聖文字は基本的に表意文字であり、複数の読み方を有していた。ここが最難関だったが、一度突破してしまえば母国語と同じなので、後はパターンを覚えていくだけの流れ作業になった。
もうひとつは民衆文字で、神聖文字を崩してより手早く筆記することに特化したもので、こちらは表音文字だった。神聖文字を借りてまるで表音文字のように音を表すために使うパターンまで母国語と似た構造を持っていたので、共通点を持っていたことの発見それ自体がとても嬉しかった。
そして一度規則を覚えてしまえば、応用も早かった。深夜の限られた自習時間は、比較的簡単な書物を何冊か見繕ってもらい、読書に勤しんだ。
共和国の公文書や法典、契約書面など、わざと難しく記述することで習熟した専門家しか読めないように工夫することで悪用を防ぐ目的から、神聖文字と民衆文字を混在した文章を書くことが一般的であることを後から知った。
(後日、この難読化が東大陸において、共和国の経済的優位性を確立する大きな要因のひとつであることを思い知ることにもなる)
閑話休題。
語学学習最終日、幼い師弟コンビのやり取りを見守ってもらってニコラウスに、自習用の書物を何冊か貸してもらったことも含めてお礼を伝えていると、気持ちが緩んだのか思わず本心まで口をついてしまった。
「シズお嬢様が私にどうしたら東大陸語の文字を教えられるのか、シズお嬢様にとってもこれが旦那様からの課題だったのですね。」
「さすがですねナナシノ、そこまで気づきましたか。あわよくば、シズお嬢様のお声を久しぶりに聞けるかと思っていたのですが、それは叶いませんでした、とても残念です」
「それほど、シズお嬢様は無口でいらっしゃるのですね。ますますシズお嬢様のお声を聴いてみたいものですね。他の方も同じ思いなのでしょうか?」
「ええ、そう思いますよ。共和国の年頃の男子は、誰が最初にシズお嬢様のお声を拝聴できるか、一時期大いに盛り上がり賭けの対象になったこともございましたから。口さがない者たちからはこう呼ばれております、『沈黙姫』と」




