ロセッタ回1.2 ―― ヴァリャーギ碑文を追って
───【本話のウォークスルー対象】───
■ Section 01
ロセッタ視点:上屋敷・ヴァリャーグの刻印
■ Section 02
ロセッタ視点:学院・傭兵王の名
■ Section 03
ロセッタ視点:上屋敷・ここにはない何処か
────────────────────
─── ■ Section 01 ──────────
◆ ロセッタ視点:学院・ヴァリャーグの刻印
────────────────────
今日は、ミネルヴァ学院長に用事があったので、翰林学士院まで足を運んだ。無事に午前中の面会と報告を終え、大食堂で手早く昼食を済ませた後、私はナナシノ師匠の姿を探した。
広い学院内を散策することしばし。師匠は中庭の木陰で、シズ、イーダ、モモ、デイジー、そして白い大型犬と一緒に、ちょうど昼食を食べ終えたところであった。以前、師匠が真顔で、「これは『ハーレム』ではありません。」と言っていたことを思い出す。私が観察したうえで感じた「ハーレム」の原義は、「ある場において異性比率が著しく偏り、その中心人物が食事の準備や給仕を担当している構図」であるようだ。
……やはり、まだ解明すべき語彙である。
もっとも、師匠本人が否定している以上、これを確定的な定義とするには、もう少し用例を集める必要がある。言葉の意味は、使用される文脈によって変わるものだからだ。
などと考えているうちに、師匠は食器を片付け始めた。テキパキと後片付けを進めるその手が休まったのを見届けて、私は声をかけた。
「師匠~、ちょっとこれを見てほしいっすヨ! あーし、今度こそ何かが解ったような気がするっす!」
カバンから、読解中の古文書の束を取り出し、師匠の目の前に勢いよく突き出した。
「すみません。私は、ロセッタ様の師匠になったつもりはないのですが。」
「えっ?」
私が首を傾げるより早く、隣にいたモモが、明らかに苛立ちを隠せない様子で師匠との間に割り込んできた。
「なっ、ちょっとロセッタ! それ、まさか恋文じゃないでしょうね。よりによって、こんな開けた場所で堂々と、ゴンべ――ナナシノに渡そうとするなんて、大胆が過ぎるじゃない」
「えっ?」
私は、手元の古文書とモモの顔を交互に見た。
「モモお嬢様、何をおっしゃっているんですか。これが恋文に見えるんですか?」
「だ、だって! わざわざ師匠に見せるために持ってきたんでしょう? しかも、そんなに大事そうに抱えて!」
「そりゃあ、大事っすよ。あーしの研究資料なんですから」
「……研究資料?」
モモの勢いが、目に見えて弱まった。
「はい。これは『ヴァリャーグの刻印』――つまり、各地の『ヴァリャーギ碑文』から採取された、謎の古文字の写しです。言語学者であるロセッタ様が、研究対象としている謎の古文書です。」
「ヴァリャーギ……? なによ、それ」
モモは一瞬、興味なさげな顔をした。
「あっ、それはあーしから。古い言い伝えによれば、海を渡って異郷に赴いた戦士たちにまつわる碑文の総称らしいっす。あーしの祖父も、生涯を懸けて追っていた謎のひとつなんすよ」
「なあんだ。そういうこと……」
モモは、わずかに頬を緩めた。そして、すぐにいつものツンとした表情を取り戻す。
「ふうん、まあいいわ。それじゃ、こんな人の目があるところじゃなんだから、レンヴァッテンの談話室まで今から移動してくれない?」
「えっ、いいんですか?」
「先にゴンべ――ナナシノと、あたくしが翼竜便について打ち合わせをするから。その後、そのままうちの談話室を使っても構わないから」
「ありがとうございます、モモお嬢様!」
私は、ありがたい申し出を素直に受け取ることにした。
「べ、別に、あなたたちのために特別な便宜を図っているわけじゃないんだからね!」
「はい?」
「なんでもないわ!」
モモはそう言い残すと、ぷいと顔を背けた。
……ところで、先ほどのモモの反応は、いったい何だったのだろうか。
師匠に恋文を渡すと思われたこと自体は、まあ、理解できなくもない。師匠は私にとって、知的好奇心を刺激してくれる、得難い研究相手なのだから。師匠を独占する時間を少しでも確保したい、という意図も透けて見える気がする。もっとも、それはそれで好都合だ。静かな研究場所が手に入るのなら、理由など問うまい。
ただ、モモがあそこまで慌てる理由については、まだ仮説を立てるだけの材料が足りない。
言語学者たるもの、根拠のない推測を事実のように扱ってはならないのだ。
―――
モモと師匠の打ち合わせが無事に片付いたので、次は私と師匠の番だ。
モモは、シズと、なぜか当然のようについてきたイーダ、それにデイジーと連れ立って退室した。どうやら、この後はデイジーが給金稼ぎをしている赤鷲亭でお茶をするらしい。談話室には、師匠と私の二人だけが残された。
静かだ。これなら、思う存分に研究へ没頭できる。
私は気を取り直し、談話室のテーブルに『ヴァリャーグの刻印』の写しのひとつを広げた。前回までの成功体験のおかげで、我ながらかなり強気になっている自覚はある。
「師匠、見ていてくださいヨ。あーし、今度は長文に挑戦するっす」
「師匠と違いますが……長文ですか。これまでは短い印章だけでしたよね。まあ、見せてもらいましょう。」
「もう、細かいっすねえ~」
これまでの研究で、古フサルクの文字を用いた解読には、一定の手応えを得ている。以前、石に刻まれた短い文字列を解読したときには、文字の対応関係だけでなく、単語の意味にもたどり着くことができた。文字と音。音と意味。それぞれの対応を仮定し、複数の用例と照らし合わせる。仮説を立て、用例を集め、反証の有無を確かめる。
これこそが言語学の醍醐味だ。
そして今回の資料には、短い単語だけではなく、かなりの長さを持つ文字列が残されている。
「昨日までの解読で、あーしの中ではかなり確信が持ててきてるんすヨ。だったら、この長めの写しだって、同じ要領で読めるはずっす」
「では、まずは冒頭から確認してみましょうか。」
師匠に促され、私は古フサルクの二十四文字を羊皮紙の端に書き出した。一文字ずつ対応を確認しながら、写しの上に指を滑らせていく。最初の数行は、驚くほど順調だった。既知の文字との対応を確認し、音価を当てはめ、候補となる単語を拾い上げる。王の名らしき語。地名らしき語。続いて、人名らしき語。
「ほら、師匠! ここ、王の名前じゃないっすか? で、こっちは地名。こっちは……人物名が来てるっす! よしよし、順調順調!」
「師匠と違いますが。なるほど。少なくとも、その読み方なら、既知の文字列との対応は取れていますね。」
師匠も静かに頷きながら、私の手元を追ってくれている。この時間が、たまらなく心地よい。言語学者としての自分が、正しく機能している。
よし。この調子なら、いける。
そう思った。文書の中盤に差し掛かるまでは。
「……あれ?」
一つひとつの文字を読むことはできる。単語らしきまとまりも拾える。ところが、それらを文章として組み立てると、どうにも意味が通らない。
「王は、港を築いた……うん、ここまではいいっす」
私は次の行を読み進めた。
「次の行……王は、港を……燃やした?」
私は、しばらく黙った。
一度築いた港を、同じ王が、同じ文脈の中で燃やしている。もちろん、王が自ら築いた港を、後年になって焼き払うことも歴史上あり得ない話ではない。だが、その間に何の説明もない。理由もない。時系列を示す表現も見当たらない。
「……おかしいっす」
別の箇所を読む。
「同盟を結んだ……」
次の行。
「……同盟を破った?」
また、前後が繋がらない。
「いや、おかしいっす。順接なのか逆接なのか、接続のしるしすらないヨ」
これでは、まるで正気を失った者の妄言か、酔っ払いの戯言である。
「師匠。これ、どう思います?」
「師匠と違いますが。どれどれ……文字の対応自体は、そこまでおかしくないですね。少なくとも、最初から全部読み違えているようには見えません。」
「ですよね? あーしも、そう思うんすヨ!」
「ただ、文章全体として見ると、話がつながらない。」
「そうなんすヨ! あーし、単語は読める。王の名前も、地名も、人物名も、ちゃんと拾える。でも、文章にすると、前後の意味がつながらないんす! 王が港を築いたと思ったら燃やすし、同盟を結んだと思ったら破るし! これ、いったい何が書いてあるんすか!」
「うーん……可能性はいくつかありますね。文字の対応が部分的に間違っているのかもしれない。単語の切り分け方が違うのかもしれない。そもそも、今の私たちが想定している言語と、実際に刻まれた言語が違う可能性もあります。」
「……つまり?」
「今の段階では、分からないということです。」
「そ、そんなあ……!」
私は頭を抱えた。ここまで来て、分からない。文字は読める。単語も読める。なのに、文章が読めない。言語学者として、これほど悔しいことはない。
もう一度、最初から読み直す。文字の形は間違っていないはずだ。発音も、文脈も、組み立ても、これまで通りの手順を踏んでいる。それなのに、文章全体としては、支離滅裂なまま崩れていく。つまり、一つひとつの部品は、それらしく組み上がっているのに、完成したはずの仕組みが動かないのだ。築いては燃やし、結んでは破る。まるで、誰かが意図的に文意を引き裂いたかのようだ。
目の前にあるのは、解読の成果なのか、それとも、私が自分の仮説に都合よく文字を当てはめているだけなのか……
「あーしの言語学が……通じないっす……!」
両手で頭を抱え込んだ。これまで積み上げてきた手応えが、音を立てて崩れていくのが分かる。
「言語学が通じないというより、今の解読仮説では説明できない、ということじゃないですかね。」
「師匠~、それ、言い換えてるだけじゃないっすか!」
「いや、意味は結構違いますよ。あと、師匠違いますから。」
師匠は、いつもの調子でそう言った。しかし、こういうとき、師匠の言葉は妙に正しいから困る。
短文では機能していた手法が、長文になった途端、まるで役に立たなくなる。これはもう、個々の単語の読み違いという程度の話ではない。もっと根本的な、体系そのものへの疑いだ。
しばらく、羊皮紙を睨みつけたまま、言葉が出てこなかった。
……くっ。
私は、もう一度、最初の行から目を通した。王の名。地名。人物名。港。火。盟約。読めたと思ったものを、もう一度読む。仮説を立て直し、単語を並べ替え、文脈を探す。しかし、何度やっても、最後には同じ場所に戻ってきてしまう。
「……これじゃ、『元の木阿弥』っすね」
ぽつりと呟いてから、はっとする。
「あっ、この言葉、使い方合ってます?師匠~?」
「……はい。それから、師匠違いますから。」
師匠は、短くそう答えただけだった。だが、その「はい」には、いつもの呆れた様子とは、どこか違う響きが混じっていた気がする。合っているかどうかを確認しただけのはずなのに、今は、妙に実感がこもってしまった。一度掴みかけた手応えが、また振り出しに戻る。この言葉の意味を、今の私ほど、身をもって理解している者はいないだろう。
私はようやくルーン文字系統の資料だと気付いて有頂天になっていた自分の姿の滑稽さに今更ながら気付いた。私は、写しの上に並ぶ文字を、もう一度じっと見つめた。
――いったい、何を間違えているのだろう。
─── ■ Section 02 ──────────
◆ ロセッタ視点:学院・傭兵王の名
────────────────────
私がナナシノ師匠に、今日も相談させて頂いていたら、見慣れたハイトーングリーンが現れる。デイジーが図書閲覧室に入ってきた。その姿を見るや否や、まるで私との話題から逃げるかのように、師匠はデイジーへ話しかける。いつもは図書閲覧室では私語厳禁だと言っているくせに……。
「やあ、デイジー。珍しいですね、こんなところで会うだなんて。一体全体、図書閲覧室にどんな用事があるんですか?」
「やだなー、ナナシノはんったら。本を借りに来たに決まっとるやない」
「えっ、本読むんですか?」
「あっ、それきっつー。うちだって……というより……そ、と、友達がね、読みたいって言ってな~。なんか最近、恋物語にはまったって言っていてな~」
「ああ、この前、あーしが帝国の恋物語を差し上げたからっすね。あれ面白かったっすか?」
「そやなー、『面白かった』って言っとったで~」
「また貸しは、利用規約に明記されていませんけれど、ちょっと感心しませんね。」
「(小声で)え、この場合も『また貸し』になってまうんかな……?」
「何か言いました?」
「うそやで~。うちが『面白かった』ってゆーたら、なんかキャラ壊れてまう気がしてなー、勘弁や」
そう言って、デイジーは何冊か恋物語を手に取り、貸出手続きのために受付へ向かった。その背中を見送りながら、私はふと思った。
「あの娘の訛、なんか不自然なんすよねー。帝国でもずっと田舎のあまり知られていない地方の方言のようなんすけど。師匠はどう思うすっか?」
「師匠違います。しかし、そうですね。私の国で例えると、たいていは古都を有する地域の訛に聞こえるんですよ。でも確かに、ごくたまに、その古都の近くにある商人の町の方言も混ざっているような気もするんですよね」
「そっ、それ。そんな感じなんすヨ。たまに、北部と南部のどちらかというと有名ななお国言葉が混ざってくるんすよね~」
私は少し考えてから、例を挙げた。
「ええと、例えば、こっちの言葉だと、普通なら『うち、このパンだいすきやわ』となるところを、『うち、このゼメルだいすきやわ』と言ったり、『うち、このブレーチェンだいすきやわ』と言ったり。それで慌てると『パン』って、ひっくり返ったり……」
「師匠はどう思うっすか?」
「師匠違います。ええと……地理的・歴史的な隔たりは、大きく言葉を変えることがありますからねえ。」
「本当にそれだけなんすかねー……」
私は釈然としないまま、受付へ向かったデイジーの方を見る。
すると、その本人がこちらへ戻ってきた。
「ロセッタはん、ちょっと教えてえな。これ、両方とも『傭兵王』の話っぽいんやけど、なんで書名が微妙に違うん? うち、文字読むの苦手やから教えてーな」
そう言って、デイジーは机の上に2冊の本を並べた。
『傭兵王と氷冠の白百合物語 ―求婚の巻― 富の半分を賭けた求婚』
『傲慢妃を射止めた傭兵王秘話 ―焔の巻― 焼け落ちた七王たちの館』
「二冊とも、恋物語っすか?」
「そう。こっちは最近の本。こっちは古い時代の本やねん」
私は一冊目を手に取った。
「『ヴェーリンガルと氷冠の白百合物語』。自分の財産の半分を持参金にして、エリザヴェータに求婚したんすね」
「それで?」
「成就したっす」
「……恋物語としては、至って平和やなー」
「そうっすね。王道ロマンスっす」
次に、私は二冊目の題名へ目を移した。
「……『傲慢妃を射止めた――ヴェーリングヤル』」
「恋物語……っすね」
「ほんま?」
「少なくとも、作者は恋物語だと思って書いてるっす」
「……求婚者たちの館、焼けてるけど」
「恋は炎っすから」
そこで、私たちは一拍、黙った。デイジーが、二冊の本を見比べる。
「……あれ?」
「何がっすか?」
「今、さっきと同じ人の名前……ちゃう?」
私も二つの書名を見比べた。
「…………」
「…………」
「……同じっす」
今度は、それぞれの本文を開く。
現代の本には、――ヴェーリンガル王とエリザヴェータ――
古い本には、――ストールローザを射止めたヴェーリングヤル――
とある。
「……やっぱり」
「何が?」
「名前だけじゃないっす」
私は目を血走らせ、必死になってページをめくっている自覚が自然と沸き起こってきた。
「うちはこの辺でお暇するわ~。ほな、さいなら」
私の権幕が変わったことを察知したのか、デイジーがこの場を離れた。私のページをめくる手が、ますます速くなる。
「……やっぱり」
「何がです? ロセッタ様。」
「名前だけじゃないっす。こっちの古い本では、同じ系統の言葉が、少しずつ音まで違うっす」
「音、ですか。」
「そうっす。あーし、今まで『文字が違うから読めない』って考えてたっす。でも……逆かもしれないっす。文字が違うから音が違うんじゃなくて――音が変わったから、文字の体系も変わったんじゃないっすか?」
「つまり、時代が下るにつれて音が変化した、と。」
「そうっす」
私は、二冊の題名をもう一度見た。
「同じ人の名前なのに、『ヴェーリンガル』と『ヴェーリングヤル』。同じ名前なのに、時代によって音が違う。音が変化したなら、表記も変化するっす」
「なるほど。そうですね。」
「だったら……」
私の頭の中で、ばらばらだったものが、少しずつ繋がり始めた。
「表記が変化するなら、文字体系そのものが変わっていても、おかしくないっす。師匠。これ、どう思うっすか?」
「師匠とは違いますが、その可能性はありますね。」
私は、思わず立ち上がった。
「あーし、今まで古フサルクの24文字を前提にしてたっす。でも、ルーン文字には、もっと少ない文字数の体系があるっす。……たとえば、16文字から成る『若年文字』っす。あーし、今まで『文字が違うから読めない』って考えてたっす」
「ほう。24文字の古フサルクから、16文字の『若年文字』への移行ですね。」
その言葉を聞いた瞬間、私は固まった。
「……若年文字」
(待つんだヨ。発音が変わる、綴りも変わる、文字体系だって変わるじゃないっすか)
頭の中で、何かが弾けた。
「古フサルク――24文字。そして、若年文字――16文字。もしも、古東ノルド語の時代に向かって音が変化し、表記も変化したのなら。あーし、文字が増えると思い込んでたっす。古い時代の言葉を記録するんだから、時代が下るほど表現も増えて、文字も複雑になるんじゃないかって」
これまで私は、「時代が下る(長い年月が経つ)ほど、文字や表現は増えて複雑になるはずだ」という思い込みに囚われていた。その固定観念に、今初めて気づいた。
「増える?」
「でも……逆かもしれないっす」
「逆?」
「音が変化すれば、それに合わせて表記も整理されることがあるっす。使われなくなった音を区別する必要がなくなれば、文字の種類が減ることだって考えられるヨ」
「時代が下るにつれて、音節が省略されたり音素が変化したりするのはよくあることです。」
「そうすっよね」(音素が減る……? 音律が削ぎ落とされる……!?)
「私の国でもありますよ。長い歴史の中で、使われなくなった音を表す文字が徐々に整理されていく事例は。例えば「ゐ」とか「ゑ」は無くなりましたし、「ぢ」「づ」は連濁などの例外を除き、原則として「じ」「ず」に統合されましたしね。」
「師匠~、なんでそれを早く言ってくんないんすか!(例に挙げてくれた内容はいまいち理解できなかったけど……)」
「聞かれなかったので。それから師匠違います。」
うんうんと唸る私に、師匠がぽつりと付け加えた。
私は、写しの文字列を見つめた。24文字では、どうしても噛み合わなかった。けれど。
「……16文字なら?」
「試してみますか?」
「もちろんっす!」
私は古い写しを机の上に広げ、若年文字の音価を当てはめていく。
一文字。また一文字。
すると、今まで支離滅裂だった長い文章の中に、少しずつ意味のある文節が浮かび上がってきた。
「……読めるっす……!」
文字を追う。音を当てる。単語を区切る。そして、これまで意味の繋がらなかった文章が、少しずつ、一本の物語として姿を現していく。その中で、私は何度も目にした。
――ヴェーリングヤル。
「……これっす」
「何がです?」
「この名前っす」
私は二冊目の本を指差した。
「現代語風の『ヴェーリンガル』じゃない。こっちの古い資料では、『ヴェーリングヤル』なんですヨ。同じ人物なのに、時代によって呼び方が違うっす、師匠」
「そういうことですね。でも師匠違います。」
ふらっと舞い戻ってきたデイジーが横から本を覗き込んだ。
「ヴェーリングヤル? なんや、響きがカッコええなぁ。なんか、お菓子の名前みたいやけど」
「お菓子じゃないっす!」
「そやったん?」
「傭兵王っす!」
「……それは知っとるで」
私は思わずため息をついた。
けれど、次の瞬間には、笑いが込み上げてきた。
「つまり――表記と発音は、ズレることがある」
私は得意げに胸を張った。
「文字・音・意味は、必ずしも一対一で対応するわけじゃない。こういうのは、あーし、得意中の得意なんすヨ」
そして、ふと口にした。
「こういうのは――『十八番』なんすヨ」
言った瞬間、私ははっとした。
「……あっ」
ナナシノ師匠を見る。
「この言葉、使い方、合ってます? 師匠~?」
師匠は、ほんの少しだけ間を置いて答えてくれた。
「……はい。それから、師匠と違いますから。」
短い返事だった。いつもの呆れた調子。いつもの否定。なのに、その「はい」だけは、なぜか妙に実感がこもっているように聞こえた。
私はもう一度、机の上に並ぶ2冊の本を見た。
現代の『ヴェーリンガル』。
古い時代の『ヴェーリングヤル』。
前者は現代の音韻に補正された呼び名で、後者は古東ノルド語本来の発音である。
そして、目の前に広がる、同じルーン文字系統といっても、24文字では意味を結ばなかった文字列。
――古フサルクではない。
――16文字の若年文字なら、読めるかもしれない。
私は、写しの上に並ぶ文字を、もう一度じっと見つめた。ここまで仮説が立ったのなら、次に必要なのは、これを確かめることだ。
――この仮説を検証するには、いったい、どんなやり方が最も効率的であろうか。
─── ■ Section 03 ──────────
◆ ロセッタ視点:上屋敷・ここにはない何処か
────────────────────
【前段:ロセッタ執務室内/トレディン執務室外】
「ルナリアちゃん、トレディンお兄ちゃんが、今日もおやつを持ってきましたよ~。さあ、神速の御業で、この給与支払台帳の消込を片付けてください」
「……ん――」
遠くから、カルトング商会の共同代表者の一人が、蜜菓子とのバーター取引で、たった五歳の幼女に自商会の帳簿を検証させようと躍起になっている声が聞こえてくる。この異常性に、ここ上屋敷の誰も注意を払おうとはしない。常識外れの人間がいると、周囲の人間が迷惑する典型例だ。まったく。
コン、コン、コン。
「どうぞ。」
「師匠ー、これは帝国土産の乾燥果実っす。お口に合えばいいんすけど」
「ありがとうございます。ですが師匠ではありません、ロセッタ様。いい加減に改めてもらいたいものです。本当に、常識外れの人がいると周囲が迷惑するとは、このことですよ、まったく」
「あーし、師匠の執務室、とおっても落ち着きますヨ。なんか居心地良いっすネ」
「師匠と違います。私は、急に居心地が悪くなりましたけどね。」
「それより、師匠~、この前の続きをやりましょう。まだまだ読みたい古文書、『ヴァリャーグの刻印』の写しは山積みなのヨ」
机の上に、新たな写しを広げる。昨日判明した若年文字の読替表を片手に、文字を一つずつ当てはめていく。若年文字――16文字の体系を前提にすると、これまで古フサルクでは意味を結ばなかった文章が、驚くほど素直に読める。
「折角、若年文字でサクサクと読み進めていけているので、このペースで、この古文書全部片づけたいっす。ええと……この王は、港湾の整備を命じた……で、次の一文は……」
七人の王。西の海。盟約。銀貨。港湾税。
指でなぞった先で、手が止まる。若年文字の音価を当てはめても、どうにも文意が組み上がらない一節が現れたのだ。単語の脈絡が唐突に途切れ、脈絡のない名詞の羅列になっている。
「……あれ? ここ、読めないっす。若年文字の読替表、全部当てはめたはずなのに。また別の文字体系っすか? それとも、あーしの解読仮説がどこかで狂ったんすかね……?」
「どれどれ。」
師匠が、私の手元を覗き込む。
「ああ、確かに。この一文だけ、文字の組み方が妙ですね。」
「若年文字仮説、万能じゃなかったんすか……?」
「万能という仮説は、そもそも立てていませんよ。それに、これは別の原因かもしれません。」
「別の原因すっか?」
師匠は写しを覗き込んだ。
「ロセッタ様。この古文書は、そもそも『ヴァリャーグの刻印』の写しなんですよね。」
「そうっす」
「誰が写したんです?」
「……」
「いつ写したんです?」
「……」
「なるほど。だったら、元になった『ヴァリャーギ碑文』そのものに問題がある可能性もあります。」
「元の石碑にですっか?」
「ええ。例えば、石碑の表面が磨滅していて、転写した時点ですでに読み違えていたのかもしれません。」
私は黙って聞いた。
「それに、どこに刻まれていた文字なのかも重要です。台座に刻まれていたのか。正規の文章の横に補注として刻まれていたのか。あるいは、後年になって上から修正されたり、削除されたりした跡が、そのまま写しに残っている可能性もあります。」
「……なるほど」
「極端な話ですが、石碑に刻まれた落書きを、後世の人間が大真面目に転写したという可能性すらありますからね。」
「……」
「ですから、ここから先は、一次資料に当たるのが一番確実だと思います。」
ありがたい助言だった。
そして、同時に、少しばかり身も蓋もない助言でもあった。
私は机の上の写しを見つめた。
「つまり――語源を確認するのが大事。そして、『分かった』と思った瞬間が、一番危険なのだヨ」
「……いやあ」
私は苦笑した。
「とんだ『ぬか喜び』でした」
言った瞬間、はっとする。
「……あっ」
私はナナシノ師匠を見る。
「この言葉、使い方、合ってます? 師匠~?」
師匠は、ほんの少しだけ間を置いた。
「……はい。それから、師匠と違いますから。」
コンコン。
「はい、どうぞ。」
トレディンが、息せき切って師匠の執務室に駆け込んできた。いやあ、その息が切れているのは完全なる演技に違いない。なにしろ、さっきまでルナリアに帳簿を見てもらっていたのだから。師匠も分かっているはずなのに、トレディンの演技について何も指摘しない。本当、ここ上屋敷の誰も注意を払おうとはしない。常識外れの人間がいると、周囲の人間が迷惑する典型例だ、まったく。
「大変です、ナナシノ様。助けてください!」
「どうしたんです、藪からステックに。」
『すてぃっく???』……師匠、その怪しげな語彙はいったい何ですか?
師匠が私に目配せした。私は、師匠の一番弟子なので、師匠の指示は絶対である。すべてを察した私は、目礼をして執務室を辞した。
【中段:ロセッタ執務室外/トレディン執務室内】
師匠の執務室を辞して、上屋敷の回廊を歩きながら、私はこれからのことを考えた。『ヴァリャーギ碑文』の謎解きは、東大陸随一の最重要研究案件だ。若年文字仮説によって、大きな手掛かりを得ることもできた。
けれど――研究には、お金がかかる。
古文書を集めるにも、資料を写すにも、人を動かすにも、当然ながら費用が必要になる。帝国のスポンサーにも、共和国で新たに見つけたスポンサーにも、研究成果を適時に報告しなければならない。
そうしなければ、継続的な研究資金を引き出すことは難しい。何か、手っ取り早く資金援助を引き出せるネタはないものか……。私は考える。そして、ふと思いついた。
そうだ。
『傭兵王』だ。
最近、活発に活動している現代の傭兵王。その人物が、古い時代にはどのような存在だったのか。どこから来て、どのような立場にあり、どんな活躍をしてきたのか。帝国も共和国も、興味を持つに違いない。何より、それは私自身が今まさに研究を進めている題材だ。しかも――つい先ほど、大きなブレイクスルーを得たばかりである。
「これなら、研究成果として報告できるっす」
そうなれば、次に考えるべきは、その研究資金を何に使うかだ。答えは、もう決まっている。
「師匠が言った通り、一次資料に当たるっす」
若年文字仮説が正しいのか。古文書の写しに、どんな転写ミスがあるのか。そして、『ヴァリャーギ碑文』が実際には何を意味しているのか。それを確かめるには、写しではなく、元になった碑文を見るしかない。
「ということは――海の民の領域へ行くのが一番っすね」
私は記憶を辿る。確か、傭兵王は二つの島のうち、グレートプリテン島を統治していたはずだ。
「なら、行き先はグレートプリテン島っす」
ここにはない何処か。
今まで机の上で追いかけていた謎の、その先へ。
「……あの移動手段で、無事にグレートプリテン島へ到着できればいいんすけど」
まあ、現地にさえ着いてしまえば、後は何とかなる。そうこうしているうちに、トレディンが師匠の執務室から出てきた。
「よし」
入れ替わりだ。私は師匠に、今後の予定を告げるため、執務室へ向かった。
【後段:ロセッタ執務室内/トレディン執務室外】
コン、コン、コン。
「どうぞ。」
「師匠ー、失礼します」
「師匠と違います。それで、今度は何用ですか? 貴族の若い女性が一人で男性の部屋に……っ。」
「あーし、師匠の執務室、とっても落ち着きますヨ。なんか居心地いいっすネ」
「師匠と違います。ロセッタ様、用件を先にお願いします。」
「実は、『ヴァリャーギ碑文』の一次資料に当たりたいと思っているっす」
私は少しだけ言葉を選んだ。
「もしよかったら――本当に、もしよかったらなんですけど、師匠もご一緒できないかと思いまして」
「私も?」
「はい。海の民の領内へ向かいたいと考えているっす」
ナナシノは、少し考えてから頷いた。
「ああ、是非行きたいです。私も『現場百回』がモットーですから。」
「じゃあ――!」
「ですが、残念です。」
「えっ?」
「今回はトレディン氏の要件を先に受注してしまったので、そちらを優先しなければならなくなりました。それから、師匠と違いますから。」
「えーっ、残念っす」
私は肩を落とした。
「でも、その案件はどこの現場なんすか? もしかしたら、また水産ギルドだったら、途中までご一緒できるかもですヨ」
「違います。守秘義務がありますので依頼元は明かせませんが、首都フヴドスタードです。しばらく、ここを動けません」
「えーっ、返す返す残念っす」
私は少し考える。そして、まあいいか、と開き直った。
「じゃあ仕方ありません。一人で向かいますヨ」
師匠が何か言おうとするより先に、私は笑って続けた。
「なーに、ビューンとひとっとびしてきますんで。お土産、期待しておいてくださいっす」




