ロセッタ回1.0 ―― 風変わりな訪問者
───【本話のウォークスルー対象】───
■ Section 01
ナナシノ視点・上屋敷・ロセッタの訪問
■ Section 02
イーリス視点:学院・古東ノルド語の学者
■ Section 03
ロセッタ視点:上屋敷・一番弟子宣言
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─── ■ Section 01 ──────────
◆ ナナシノ視点・上屋敷・ロセッタの訪問
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コンコンコッ。
あ、またこのノック音。このリズムとテンポは、ニコラウス様から賢者様への暗号通信だ。「来客がいるのは承知の上で、急用をお耳に入れる際の先触れ音」――そんな意味合いだったはずだ。
今度はどんな急報なんだろう。
「入れ」
「失礼します、旦那様。お取り込み中のところ恐縮ですが、至急お目通りを願う来訪者が参っております」
「うむ、それで?」
「はい、なんでも『ガンマル・ゴドヴェン・ステーネン』の縁者を名乗る者で、大賢者にぜひお見せしたいものがあるとのことです」
「うむ、それで?」
「はい。約束もないにもかかわらず、至急の面会を申し込んでくるにしては、些か奇妙な点が三つほどございますゆえ、旦那様に一度ご確認をと思いまして」
「うむ、それで?」
「はい。まず、至急のお目通りを願う割には、『ステーネン』という、その昔共和国を追われた曰く付きの大貴族家の名を、わざわざ自ら語っていること。次に、帝国からやってきたと話していること。そして、大貴族の縁者にしては、身なりが粗末というより乱雑なこと。以上でございます」
「うむ。儂に面会を申し込むのに、物騒な家名を出すのは得策ではない。帝国からということは、国境を越えてきたということ。帝国関係者が共和国内を旅する場合、必ず宿泊先・訪問先の許可申請が事前に必要であること。そして何より、儂に会いに来たのに身なりを整えることもしないということ。なるほど、怪しすぎて、普通なら門前払いもいいところだな」
賢者様はひとしきりニコラウス様の報告を受けると、ひとつひとつを丁寧に吟味した。そして、意味ありげにこちらへ目線を送る。
ああ、これは「お前も何か気の利いたことを言ってみろ」という、いつものサインだ。
「あの~、賢者様。『ステーネン家』の縁者がお家再興のために、力添え・口添えを願い出る程度の陳情でしたら、わざわざ隠棲されている大賢者の許を訪れる前に、もっと適任者の方がいらっしゃるでしょう。ですから、要件そのものが賢者様でなければならない内容である可能性が高いかと。」
賢者様は黙って聞いている。
「通商院発行のビザを持たないのに、わざわざ帝国から来た旨を自己申告しているのは、旦那様に嘘偽りを申すつもりがないことを示そうとしているのではないかと。」
少し言葉を選ぶ。
「もし暗殺等を企んでいるとしたら、『見せたいものがある』などと、暗器を隠し持っていることを連想させるようなことを、わざわざ口にすることもないでしょう。ですから、危険性は低いのではないかと思いますが、如何でしょうか。」
「……うむ」
うーん。
最大限、努力していろいろと推測してみたのだけれど、あからさまにそんな残念な顔をされても困るよ。むしろ、言い淀んだほうが良かったのだろうか、この場合は。
全く意味のない自問自答をしている間に、大賢者が言葉なくニコラウス様に指示を出したのだろう。まもなく、オリーブから深緑のあたりといった髪色の女性が入室してきた。
うん。いくら旅装とはいっても、確かに、かなり乱雑な様子の外套を纏っているね。
その訪問者は物怖じもせず、目だけをきょろきょろと動かして、珍しい獲物でも探すように部屋の中を見回している。見ているだけで、いつ賢者様から退室を命じられるのか、こっちまでハラハラするくらいだ。それでも何とか賢者様の前まで進むと、殊勝にも片膝をついて挨拶を始めた。
「お初にお目にかかります。私は『ガンマル・ゴドヴェン・ステーネン』の孫、ロセッタ・ラピス・ステーネンと申します。この度はご面会をお許しいただき、ありがとうございます。これも大賢者と祖父の友情の賜物と存じます」
あら。意外なほど礼儀正しい。
「まずは、この『白石』をご覧ください。これをお目通しいただければ、私がガンマルの孫だとご納得いただけるものと存じます」
そう言って、ロセッタと名乗る少女が、両手で「白石」と呼んだ、刻印の施された印璽のような玉を捧げ出した。
旅の汚れや乱れた髪で損をしているが、通った鼻筋にきりっとした眉、豊かな睫毛に縁取られた深緑の瞳――身なりさえきちんとしていれば、間違いなく誰もが振り返るレベルの「可憐な乙女」だ。
……ただし、その綺麗な瞳が肉食獣のように爛々とギラついている点を除けば、だが。
ニコラウス様が慎重にそれを受け取る。多分、自分には何も分からないのだろうが、魔法的な何かで鑑定したのだろう。矯めつ眇めつ、手首を返しながら何度か検分した後、それを賢者様に手渡した。
それを受け取った賢者様は、ひとしきり「白石」を眺めてから、こう言った。
「確かに、これは儂がガンマルに託した品で間違いない。あの混乱で紛失したと思って諦めていたが、其方の祖父が大事に持っていてくれていたのか」
「はい。私は帝国の地にて祖父の遺業を継ぎ、言語学者としてその『白石』の謎を追っております。その解明の大きな手掛かりになればと思い、こうして大賢者の元に参上いたしました。帝国語では、この音は『白』ではなく、『古い石』を意味するんです」
(……今の言い換え、妙だな。)
思わず脳内で言語学的な引っかかりを覚えてしまい、口が勝手に滑ってしまった。
「『旧友の面影を遥かに尋ね、
新緑の如き客、遠方より来る。
また嬉しからずや』ですね。」
あっ、発言を求められてもいないのに、思わず口をついて出てしまった……。
「……???」
ほら、深緑の髪をした来客者、いや、ステーネンといったか。ピクッと反応し、首を大きく傾げてこちらを凝視してきた。このままここに居るの、なんだか気まずいな~。こういう時は面倒事に巻き込まれる前に退散するのが一番だ。
そろっと、その場を退席しようとしたところ、
「ナナシノ、お客人を客間までご案内差し上げなさい。アリンナに言って、お客人の身支度をお手伝いせよと。今日の晩餐の席をもうひとつ増やすことも伝えてくれ。それから、晩餐まで、其方がお客人をもてなすように」
「はい、畏まりました。旦那様。」
緊急離脱――失敗してしまった。
賢者様の執務室を出て客間へ向かう廊下を歩き始める。
「ちょっと待って、待ってくださいヨ、あなた!」
猛烈な勢いで、後ろから詰め寄られた。
「はい?」
(ん?……口調、ちょっとオカシクナイカ?)
「さっきの、『面影を遥かに尋ね』ってやつ。あれ、あなたが今その場で作ったにしては、韻律が整いすぎています。あれは一体どこの地方の古典詩っすか!?既に典拠があるやつです?あるなら、どちらの文献から?あーし、気になって気になって夜も眠れないっす!」
「いや、文献というほどのものじゃ……。」
「では、どこで?」
「どこでって言われても……。」
「『遠方より来る、また嬉しからずや』という文末の構造、東大陸のどの現生言語の文法体系にも当てはまらない独特の倒詠法っすヨ。 どこで学ばれたのです? 書脈は? 典拠となった古文書は?」
いや、あの、故郷のちょっとした故事というか、諺のようなものでして。」
「故郷って何処っすか?」
間髪入れずに返ってきた。
「……故事、諺。ふうん。じゃあ『面影』ってどういう字を書くんです? 『旧友』というのは、何を指しているんです? 『客』は普通に来訪者のことでいいんすよね? それならどうして『まろうど』と読ませるんです?」
「それは……。」
「それからそれから『また嬉しからずや』の『嬉し』。あーし、帝国語の教本だと大体この位置には『楽し』が入る用例の方が多いって聞いてるんすヨ。あなたのそれ、わざと変えたりしてます?なんでです?」
……なんでそこ食いつくかな、この人。
「それに、あーし、『新緑の如き』というのも気になるっす。私の知る限り、帝国語にも共和国語にも、客人を新緑に喩える定型句は――」
「いや、その、地域や家によって伝わり方が少しずつ違う、ということも――。」
「あーし、言語学者ですから。そういう異読の話、大好物なんですヨ」
目が輝いている。
「ちょっと、もう一回さっきの詠んでもらっていいっすか? できれば抑揚もつけて」
「いや、あの、それはさすがに客間に着いてから――。」
やっぱりこの人、本物の言語学者だ。
しかも、たぶん相当に面倒くさいタイプの。
「あ、それより先に聞きたいことがひとつ」
「まだあるんですか?」
「あるっす」
即答だった。ロセッタは一歩詰め寄ると、こちらの顔を覗き込むようにして言った。
「その顔のものは、何です?」
待て。
さっきまで、この人が興味を持っていたのは「言葉」だったはずだ。
なのに。
「あなた、さっきからずっとその面布、外さないんですね。屋敷の中なのに」
話が急に変わった。というか、一番聞かれたくない方向に急旋回してきた。
「珍しい装束ですね。宗教上の理由ですか? それとも共和国の風習? あるいは何かの病――呼吸器系の風土病ですか!?」
「違います。」
「それとも何らかの呪術的秘術、あるいは顔面に刻まれた罪人の入れ墨を隠すための秘匿処置という可能性もあるヨ! 言語学的にも、面布越しの異字体発音は音韻解析の大きな障害になるヨ! 見せてください、その下はどうなっているんすか?」
そう言って、ロセッタは長い指を伸ばし、私の面布に直接手をかけようとしてきた。
「いやいやいや! 罪人でも風土病でもありませんから! 触らないでください!」
「では、何のためっすか?」
「これは、あの、まあ、そういう決まりというか、習慣というか。」
「習慣。ふうん。帝国にも仮面文化はありますけど、それは大抵、身分を隠すか、あるいは呪いか呪詛の類を防ぐためのものですヨ。あなたの場合はどちらです?」
「いえ、そのどちらでもなくてですね。」
「じゃあ第三の理由があるってことですね。あーし、知りたいです。3つ目の理由、聞いたことないので」
「あの、本当にただの……体が弱いというか、体質の関係で……そのー。」
「体が弱いのにその露出面積の少なさは説明がつくとして、じゃあ目元だけ隠すのではなく口元まで覆っているのはなぜっすか? 呼吸のしづらさとの損得を考えると、相当強い動機がないと割に合わない選択のはずですヨ」
(なんでこの人、初対面でこんなに詰めが早いんだ。面接官かな。ほんと、『KY』にも程があるヨ。あっ、口調うつっちゃった。)
「……その、諸事情がありまして。」
「諸事情。今日だけで『そういう決まり』『習慣』体が弱い』『諸事情』、もう4つも理由の候補が出てきましたけど、これ全部ほんとうっすか?」
「……。」
「あ、黙りましたヨ。これは、なにかありますね」
面倒くさいロセッタは目をきらきらさせながら、さらに一歩詰め寄ってくる。ああ、もう、この人、「白石」の謎より先に、自分のことを解読対象にする気だ。
「客間、着きましたので、こちらへどうぞ。」
「あ、話逸らしたヨ」
「逸らしてません。ご案内です。アリンナ様ー! お客さまをお連れしました。」
「でも、まだ質問が――」
「アリンナ様、こちらの大賢者様のお客様の着替えと身支度をお願いします。あと、晩餐の席もひとつ増やすようにとのことです。」
「……」
ロセッタが、じっと自分を見る。
自分も、じっとロセッタを見る。
そして思った。この人とは、できるだけ距離を取ろう。できるだけ。絶対に。
そう心に決めた、初対面の日だった。
(なんだその言葉遣いは、言語学者のくせに。これじゃ、『医者の不養生』ならぬ、『言語学者の不調法』だよ、まったく。)
─── ■ Section 02 ──────────
◆イーリス視点:学院・古東ノルド語の学者
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今日は、なぜだか図書閲覧室へ足が向いた。理由は特にない。そう思っていたのだが、部屋に入ってすぐ、その理由が分かった。やはり、この時間帯なら少年はここに居る。早速声をかけようとして――足が止まった。
傍らに、妙齢の女性がいる。
旅装を纏ってはいるが、生地の仕立てからして下級貴族か、相当な富裕層だろう。ただし、どこか妙だ。装いが、この辺りのものではない。帝国風――なるほど、それで違和感があったのか。目鼻立ちは整っている。きちんと身なりを整えていれば、すれ違った十人のうち七、八人くらいは振り返るだろう。それなのに、立ち居振る舞いがどうにも残念なのだ。だが、そんなことよりも、妙齢の女性が少年の傍にいること自体が、やけに気にかかる。
二人の会話が終わるのを待ってから、少年に声をかけることにするか。
私は少年の視野に入らないよう、その背後へ回り、書棚から適当に一冊を抜き取った。本を選んでいるふりをしながら、背表紙を眺める。淑女として、立ち聞きなど褒められたものではない。
……とはいえ、ここは図書閲覧室だ。
私が悪いわけではない。そもそも、この静かな場所で私語を交わしている方が悪いのだ。そんな言い訳をしながら、耳だけは二人の会話に集中していた。
ふと、オリーブから深緑のあたりといった髪色の女性がこちらを見た。一瞬、目が合った気がする。この距離で私の抑制された魔力気配を察知したのなら、やはり貴族家の出身に違いない。それでも彼女は会話をやめない。私に聞かれても構わない内容なのか。それとも、わざと聞かせているのか。まあ、どちらでもいい。
それに引き換え、少年の方は、私の存在に気づく様子がまったくない。背後に回って視界から外れただけで、こうも気にされないものなのか。
……なぜだろう。
一抹の寂しさを覚えた。いや、これは勘違いだ。少年は平民。それも、魔法を一切受け付けない特異体質だ。私の魔力を感じることもできないし、これほど近くにいても、私には少年の魔力を探知できない。
まったく。
あの魔力欠乏症の体質は罪作りだ。
「ナナシノ様、それでですね。昨日の『旧友の面影を遥かに尋ね……』の一節ですが、やっぱり、もう一回詠んでもらっていいっすか? できれば抑揚もつけて! ガハハ!」
「ロセッタ様、だから何度も断っているじゃありませんか。人に聞かせるものじゃないって。」
「だって、あーし、気になって気になって、昨晩は一睡もできなかったっす」
「また、そんなこと言って。ルナリアが起こしに行っても全然起きられなかったじゃないですか。イーダ先輩に起こされて、しぶしぶ起きてきたのは、何処の何方様でしたっけ?」
「うぐっ。あれは、たまたまですよ。たまたま、ベッドの上でちょーっとばかし、気を失っていただけっす」
――うぐっ!?
私は思わず手にしていた本を落としそうになった。昨晩……泊まった? 少年の屋敷に……?
二人は一体、どういうご関係なのだ!?
「私だって、賢者様の賓客だと思って、これでも我慢している方なんです。これ以上付きまとわれると、はっきり言って迷惑なんです。今だって、ここが図書閲覧室だってこと、忘れてませんか? ここ、原則として私語厳禁ですよ。私は静かに本が読みたいんです。」
「(小声で)だって、この『見た目は美人だが中身が残念すぎるお姉さん』ってキャラは、大抵、いや十中八九、関わると間違いなく碌なことにならない、事件に巻き込まれる、と相場が決まっているんだ。」
「やだなー、『美人』だなんて。照れるじゃないっすか。それにここ、今は誰もいませんから大丈夫ですヨ。誰か来て、本を読み始めたら、ちゃんと黙りますから」
女性は、ちらりとこちらを見ながら、少年に会話継続の交渉を続ける。この女、私が聞き耳を立てていることを承知の上で話している。わざとだ。だが、それならこちらとしても都合がいい。暗に、盗み聞きを許可されたも同然なのだから。
「じゃあ、話を変えますヨ。昨日、突然詩を詠み始めたのは、その直前に何かきっかけになることがあったからっすよね。それは何なんです?それくらいは教えてくださいヨ」
「はあ。そこまで気づかれていたんですか。だったら、最初からそれを言ってくださいよ。さっきからの無理難題は、それを聞くための前座だったんですね。」
「ちょっと待ってくださいヨ。今の『ぜんざ』という言葉、文脈から察するに、『本番の前の導入』とか『前置き』という意味で合ってます?」
「はいはい。その通りです。では、その『前置き』はそれくらいにして、本題に入りますね。」
少年の声が少しだけ真面目になった。
「私がおやっと思ったのは、ロセッタ様の『帝国語では、この音は【白】ではなく、【古い石】を意味するんです』という台詞です。一つの文字に違う意味が込められるというのは、地理的な隔たりがそうさせたのか、それとも時代変化がそうさせたのか。そこが知りたいと思ったんです。」
「おっと、なかなか目の付け所がいいじゃないっすか。さすが大賢者の直弟子っすね。半分当たりで、半分外れってところですかね」
「へー、そうなんですか?」
「この石に刻まれている文字は、今では滅多に使われなくなった文字なんすよ」
「こちらでは、文字と言ったら『神聖文字』か『民衆文字』ですよね。それ以外にも、未知の文字があるというわけですか。」
少年の声が弾んだ。
「これは、知的探求者として垂涎ものの新情報ですね。」
「(小声で)ん?『ここ』じゃなくて『こっち』……? まあいいか。ええと、この『白石』には、『神聖文字』でも『民衆文字』でもない、そう簡単には解読できない文字が刻まれているっす。ほらここ! あーしは、この謎の文字で書かれた文書の解読に、言語学者としての時間をほとんど全部注ぎ込んできたヨ」
「ほうほう。これは確かに、そのままでは読めないというか……現在では使われていない言語体系を表しているような、そんな空気感の文字の並びに見えますね。」
なんだ、もう少し艶っぽい話をしているのかと思ったが、どうやら学術的な話題らしい。しかも、少年の専門とする古代言語界隈の話ではないか。なるほど、それなら、この二人があれほど親しげに話しているのも納得できる。同業者というわけか。それで意気投合して、あんなにはしゃいでいるように見えただけなのか。心配して損をした。
……ん?
私は何を心配する必要があったのだ?
「ですです。帝国で読めなくなった、誰も使わなくなった文字や言語はいくつもあるっすからね。あーしも、最初は皆が口を揃えてこれを『コブト文字』だと言うから、そう信じ込んでしまってですね」
「コブト文字?」
「あっ、『コブト文字』というのは帝国での蔑称なんで、共和国の人は知らないと思いますけど。昔、帝国まで海を渡ってやってきた傭兵たちが使ったとされる、粗野で下品な言葉を表す文字だ、なんて話があって」
「なるほど。でしたら、共和国までやってくる前に、『海の民』が住む島へ行って確かめればよかったかもしれませんね。傭兵が海の向こうからやってきたという伝承をそのまま信じるなら、きっと『海の民』が関わっているでしょう。現地に行って一次資料を確認するのが一番手っ取り早いですって。」
「そーなんですけどね。今、あの辺りは治安が悪くなって、海賊もわんさか出るから、異国の旅人が気安く立ち寄れるところじゃないって話なんですヨ。……それに、私の身の上では、国境を越えるだけでも相応の段取りが要る。――あ、いや、そういうことっす、ヨ!」
一瞬、声の調子が別人のように整って聞こえたが、気のせいか。
「海の民」なら確か、海上交通の安全保障を担っている片割れが傭兵王だったか。共和国が専ら通商相手にしている激烈王とはいささか趣が異なり、海の治安を守ると称して、かなり荒っぽいやり方で海上商人から通行税をせしめているという。父上から直接伺った話だから、間違いない。それを海賊行為と呼ばれても、仕方がないだろうな。
「でも、あーしは、この第三の文字はもしかしたら『神官文字』じゃないかとはたと気づいたんですヨ。それで、取るものも取らず、こうして共和国まで飛んできたんですヨ」
「神官文字?」
「古の神殿に仕えた神官たちが使ったとされる文字っす。でもなかなか本物にお目にかかれなくって、実は焦っているんすヨ」
「なるほど、そういう仮説をお持ちなんですね。」
少年は少し考えた。
「でも、それって神官たちが使ったから『神官文字』と通称で呼ばれているだけですよね。だったら、他に固有名があるかもしれませんね。」
「固有名っすか?」
「たとえば、こっちに相応しい、ぞわっとする響きの名前、『ルーン文字』とか。あっ、これは冗談なので聞き捨ててください。」
「ん??? る、ルーン文字? そ、それは盲点だったヨ」
女性が「白石」を取り上げる。
「ということは、これは『古東ノルド語』なんですかね? だったら、この部分だけは何とか意味が通るかもしれないっす。こんな印章じみた小さい品なんで、長文を読んで丁寧に意味を取ることはできないっすけど」
「さあ、私に聞かれても。」
少年は肩をすくめて笑った。謙遜だ。
そして二人は顔を寄せ合い、小さな「白石」を懸命に覗き込んでいる。顔がやけに近すぎではないか?
いや、それよりも。
やはり少年は、古東ノルド語が読めるのだな。私の推理どおり、古東ノルド語研究者の家系に連なる早熟な天才学者なのだ。
─── ■ Section 03 ──────────
◆ ロセッタ視点:上屋敷・一番弟子宣言
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「白石」に刻まれた文字の並びについて思考を巡らせながら、私は向かいに座るナナシノをちらりと見やり、昼間の図書閲覧室での出来事を思い返した。もし、これがルーン文字で刻まれているなら――。
古東ノルド語として読めば、意味を取れる可能性がある。年代を考えれば、まずは古フサルクの24文字体系で記述されているとするのが妥当だ。なるほど。これは、俄然面白くなってきた。
「いやあ、今晩も美味しそうなものばかりですね。あーし、共和国料理、大好きなんすヨ。祖父の家に行ったとき、よく祖母が作ってくれたんです。あっ、これ、祖母が作ってくれた味にちょっと似ていて懐かしいっす!」
年代的な層を考慮すれば、古フサルクを第一候補とするのは自然だ。しかし、この「白石」は小さな印章である。刻印できる文字数には物理的な限界がある。単純に音価を引き当てて単語を構築するだけでは、意味を取り切れない可能性もある。
「今日は、ここの料理人ではなく、いつもなら『庵』でお留守番しているアリンナ様が、特別に用意してくださったものですからね。明日には『庵』に戻られるそうなので、アリンナ様の料理を口にできるのも今日限りというのは寂しいものがありますが。」
向かいに座るナナシノが、相変わらずあの顔面の大部分を覆う面布越しに淡々と応じる。
ならば――。
文字そのものが持つ象意。なぜこの文字が選ばれ、この順番で並べられたのか。その意味を読み解く必要があるのではないか。
「はい、ルナリアちゃん、パンをとってあげますね」
文字そのものに込められた意味……。
そうか。それならば、この「白石」に刻まれた文字が、どの「アッティ」に属するものなのかを調べれば――。
いや、共和国の学術用語なら「アエット」だったか。
「……ん──イーダ、ありがと」
フレイのアエットか。
ヘイムダルのアエットか。
テュールのアエットか。
「でも、このお屋敷ではおもしろい習慣があるんですね。大賢者といえば、辺境伯家じゃないっすか。まさか、そんな高位貴族のお屋敷で主人筋のシズお嬢様と使用人の方々が、こうして一緒に晩餐の席につくだなんて!」
「ロセッタ様、シズお嬢様だけは特別なのです。おひとりでお食事されるのがお寂しいということで、普段『庵』でご一緒している使用人だけは、上屋敷でも、依然と同様、一緒に食事をすることが多いんです。今日は賢者様とニコラウス様が所用で不在ですからね。」
……いや。これらの分類そのものが後世の学者による整理だという説もある。だが、一旦は当てはめてみる価値はあるかもしれぬ。
「ルナリアちゃん、ほおにパンくずがついていますよ。はい、とれました」
「……ん──イーダ、ありがと」
どの「アエット」に属する文字かを特定できれば、この「白石」がどのような用途・儀礼のために作られた遺物であるかが自ずと解明されるはずだ。
……いや、待て。この思考順序は言語学者として不適切だな。
「……」
私は言語学者である。考古学者ではない。まずは文字体系の特定、音価の確定、そして正確な意味の解読が最優先だ。これが何の目的で作られた道具なのかという文化的背景の解明は、後で遺物屋どもに任せればよかろう。
「……」
「あーし、こういう賑やかな雰囲気での晩餐、嫌いじゃないっすヨ! いや、むしろ大歓迎っす! こうやって、ナナシノ様と知的な文字談義に興じながら、美味しい料理まで堪能できるなんて、まさに一石二鳥、いいことづくめっすね! ガハハ!」
まずは、3つの「アエット」からそれぞれの文字に込められた固有の象意を抽出する。次に、古フサルクと現代共和国語の音韻読替表を作成し、文意の復元を試みる。よし、この手順で解析を進めるのが最も論理的かつ効率的であることは疑いようがない。
「ルナリアちゃん、おかわりはいかがですか?」
いや、待てよ。その前に、手元にある古文書を数点、試験的にルーン文字として読んでみるべきだ。既知の資料で仮説の妥当性を検証しておけば、「白石」そのものを読む際の精度も上がる。この方が確実だ。
「……ん──イーダ、いらない」
よし。ならば、この晩餐が終了し次第、直ちにナナシノを巻き込んで文献の解読作業に入るとしよう。
「ナナシノ様、この晩餐が終わったら、少しお時間あるっすか? 昼間に話したあの『ルーン文字』っていう仮説。あの仮説に基づいて、いくつか手許の古文書を解読していきたいんで、よかったら、手伝ってほしいっす」
「えっ……いや、私はこれから明日の準備が――。」
「決定っすね! そうと決まれば、さっさと食べて作業に入るヨ!」
―――
昨日の晩餐後の古文書の読解は、まさに驚天動地の体験であった。ルーン文字と仮定して読み進めていけば、これまで全く歯が立たなかった文章から、まるで泉のように鮮やかな文意が湧き上がってきたのだ。
そして、明けた翌朝の食卓。
「いやあ、朝食もシズお嬢様とご一緒なんですね。朝からにぎやかな食卓、嫌いじゃないっす」
「……」
昨夜の成果の余韻に浸りながら、私は向かいに座るナナシノをまじまじと見つめた。
もちろん、汚損や破損によって読めない箇所も多い。だが、その欠損部分を前後の文脈から補ってみせたナナシノ――いや、ナナシノさんの感覚には驚かされた。
「ルナリアちゃん、はい、ミルクですよ。こぼさず飲んでくださいね」
「……ん──イーダ、ありがと」
本人は「私は言語学者ではありません」と言っていた。だが、あの知識はどう考えても素人のものではない。言語学的な感覚。論理的な推論。大胆な仮説を立てながら、最後には堅実な検証へ戻ってくる思考。そして、欠損した文章を補う際の、あの異様なまでの直観力。
「……」
私はこれまで、多くの言語学者を見てきた。だが、これほど興味深い思考様式を持つ人間は珍しい。ここ共和国の最高学府、翰林学士院まで探したとしても、これほどの逸材に出会えるかどうか。専門分野は違う。それでも、この人の思考を間近で学ぶことには、とてつもない価値がある。
ナナシノさん、いやナナシノ様には、師事するだけの価値がある。間違いない。
「ナナシノ様、いいえ、師匠!あーしを、師匠の一番弟子にしてください!」
「いやです、お断りします。」
「……」
「ロセッタ様、ナナシノの一番弟子はルナリアちゃんです!」
「……ん──ならしの、おかわり」




