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メタデータで異世界ウォークスルー  作者: 大森敵幽
1.0.0|第1章 ミクロ編 ―― 生存戦略遂行中
33/42

因果律の綻び3.1 ―― 非同期パケット

 ───【本話のウォークスルー対象】───

 ■ Section 01

 ジギスムント視点・ノルトデンブルク辺境伯邸・姪至上主義(マルガレーティスト)と聖書至上主義(スクリプチュリスト)

 ■ Section 02

 アルブレヒト視点:離宮(ルストシュロス)・後継者問題その1

 ■ Section 03

 シャルル・ド・コ・レーニュ視点:東宮御所・後継者問題その2

 ────────────────────



 ─── ■ Section 01 ──────────

 ◆ ジギスムント視点・ノルトデンブルク辺境伯邸・姪至上主義(マルガレーティスト)と聖書至上主義(スクリプチュリスト)

 ────────────────────


 陽が射せば聖書を繙(ひもと)く。それが私の日課だった。


 朝の静かな時間に聖書を読み、神の言葉を自らの胸に刻む。朝の光は神の恩寵であり、理性の始まりでもある。教皇の言葉でも、聖職者の説教でもない。聖書そのものと向き合い、自らの信仰を確かめる。それが私の信仰だ。だからこそ、神と人との間に教会の権威を置き、教皇が神の代理人を称して皇帝にまで口を挟む旧教のやり方(権威主義)には、どうにも馴染めない。


 神と人との間に、これほど多くの階層と手数料を挟む必要がどこにあるのか。教皇庁への上納金が、また一段と重くなったという。中央の浮世離れした財務官どもは、「聖地奪還」などという時代遅れの虚栄のために、領民から絞り上げた血税を砂漠に注ぎ込んで恥じないらしい。


 正気の沙汰ではない。兵を動かせば金が要る。金を使えば国境が薄くなる。国境が薄くなれば、交易も帝国内の秩序も揺らぐ。北辺自治都市が「共和国」を僭称しているだけと中央の官僚どもは言う。だが、共和国と正面から戦うということは、単にその軍兵と刃を交えることを意味しない。かの地との商取引によって莫大な利潤を得ている帝国内の豪商、都市、世俗諸侯、果ては巨大金融家に至るまで、経済の動脈ごと敵に回すということなのだ。なぜその程度の計算すら立てられんのか。


 ……割に合わん。


 聖書を閉じ、私は次の書類に手を伸ばした。姪からではない。姪につけた手の者(通信員)からの定期報告書だ。姪本人からの便りは、もう久しく途絶えている。私は小さく息を吐いた。倅どもは皆、逞しく育った。だが、娘はいない。だから、あの子は私にとって唯一の姪であり、娘も同然だった。「魔力なし」と宮廷の無知な連中から蔑まれながらも、誰よりも冷徹に時代の先を見通す澄んだ眼を持つ子。この乱世において、混迷を極める帝国の行く末を託せる者がいるとするならば、それは古臭い血統の威光に縋る者ではなく、本質を射抜く眼力を持つ者でなくてはならぬ。


 ――あの子こそ、帝国の未来だ。


 そう確信している。


 だからこそ、慣れぬ異国での暮らしが気に掛かる。風邪はひいていないだろうか。何か生活に支障はないか。なにせ、生まれ落ちてからずっと離宮の深奥で、大勢の侍女にかしづかれて育った姫君なのだ。不便、不自由、不具合、不調、不快、不備、不足、不順、不手際……。とにもかくにも心配でならん。身を隠すための特製の魔術具も、うまく機能しているだろうか。最後に届いた便りは、「『小エビのブレートヒェン』の美味しい季節になりましたね」という、何気ない一文だった。私はその返事の代わりに、帝国の「小エビ」を少しばかり送ってやった。堪能してくれたであろうか。


 ……それ以来、手紙が来なくなった。解せぬ。


 いかん。気を取り直そう。


 私は報告書を机の端へ置き、領地の財務報告書を開いた。共和国との交易――表向きは禁じられた道――が生む富は、その相当部分が兵站と軍備に回っていく。共和国との北の国境を守るには、金も兵も必要なのだ。我が辺境伯領が帝国の「北方の盾」を務める。その代わりに、共和国との交易は半ば黙認されている。現実とは、そういうものだ。共和国との商人とのつながりがあるからこそ、姪をかの地に匿うこともできている。許される範囲で、おのが利を追求する。それが我が辺境伯家の伝統たるモットー(現実主義)だ。


 だからこそ、海の道を制する自由都市(ゼンブルク)とは、根深い部分でことごとく利害が衝突する。我らは陸路で稼ぐ。奴らは海路で稼ぐ。国際交易からの利を最大化しようとする我らに対し、奴らは共和国資本を受け入れて、帝国経済を牛耳ろうとしている。同じ新教徒といえども、商人どもは利潤最大化のみを金科玉条とするから、度し難い。


 ゼンブルクは皇帝から免税特権を与えられ、帝国随一の国際貿易都市として栄えている。アルビス川の河港は海路へと直結し、海の民、フヴドスタード外港、ローレシア大陸とゴンドワク大陸の間に位置する地峡に穿たれたスズエ運河とパマナ運河にも通じている。


「ゼンブルクは世界の半分」


 そう嘯く守銭奴ども(ゼンブルク商人)を掣肘するには、やはり、毒を以て毒を制すのが近道か。同じく新教を奉じるザインファルツ宮中伯との誼を、さらに一段と深めておくか。皇帝選挙でも、我らの票の傾け方は長年にわたって似通っている。あちらは今のところ、河川交易の要衝である商業都市ブメーレンを傘下に収めている。ならば、ゼンブルクに対抗するための経済的な楔(くさび)になろう。悪くない。


 悪くない。


 次に手に取ったのは、皇帝名義の帝国勅令だった。読む前から、舌打ちが出る。「帝国平和令(ラントフリーデ)」の名の下に、辺境の兵団まで解体せよとは。机上の空論もいいところだ。国境の守りを解いて、共和国の牙にどう応えるというのか。歴代皇帝から「北方の盾」と呼ばれてきた我が辺境伯軍。陰では「北方の熊公」とまで呼ばれているらしい。結構なことだ。熊には熊の役目がある。


 帝国最強の寒冷地戦闘部隊を保有し、山岳戦・森林戦・冬季戦に特化した我が辺境伯軍は、共和国との国境紛争で常に前線に立ち、練度も士気も高い。それを解体せよとは、愚の骨頂である。中央の頭でっかちども(高級官僚気取り)に好きにさせて堪るものか。


「帝国追放刑(アハト)」で放逐された者たちが、この地へ流れ着く数も増えている。追い返せば、行き場を失った者たちは共和国へ流れる。いずれ帝国に仇なす者を増やすだけのことだ。それならば、ここで受け入れて国境の開墾や軍の末端へ組み込む方がまだましだ。功か罪か。いずれ歴史が答えを出す。東方の宮廷儀礼を真似ただけの現場を知らぬ中央官僚どもには、その程度のことも分からぬらしい。


 そして最後に、皇太子(アルブレヒト)からの親書(くず紙)。私は封を切り、数行だけ読んで、机の上へ放り捨てた。


 ……あいつとは、昔からそりが合わん。


 父帝への当てつけがましい振る舞いは、帝国をいたずらに揺らすだけだ。そんなことも分からぬのか。全く嘆かわしい。


 私は椅子に深く身を預け、窓の外へ目を向けた。教皇党《ゲルフ》。皇帝党《ギベリン》。我ら新教派の世俗諸侯。そして自由都市。帝国は今、四つの力が互いに牽制し合う、四すくみの盤上にある。誰もが相手を利用しようとし、誰もが相手に利用されまいとしている。だが、盤上とは、動けぬからこそ次の一手が重要なのだ。急ぐ必要はない。


 あの子(マルガレーテ)の未来のためにも。ノルトデンブルクの未来のためにも。


 誰と手を結び、誰と距離を置くべきか――。


 執務を始める前の静かな朝、私は今日も一人、考え続けていた。



 ─── ■ Section 02 ──────────

 ◆ アルブレヒト視点:離宮(ルストシュロス)・後継者問題その1

 ────────────────────


 視線の先には、夜空に並び立つ双月がある。その光が落とす城壁の影は、幾何学的な精密さで中庭の石畳を切り裂いていた。石造りの壁は夜気を吸い、静寂を深めている。遠くで夜警の足音だけが、規則正しく石畳を打っていた。


 ペンダコとも剣ダコともつかぬ、ごつごつした指先で、精密にカットされた玻璃の輪郭をなぞる。ブランデーの琥珀色を月光に透かしながら、余は微かに目を細めた。


「熱を帯びた身体を冷ますため、双月を眺めながら、積み重ねてきた積往(こしかた)を顧み、来たるべき将来(ゆくすえ)にでも想いを巡らせるとしようか」


 ――下々の者の間では、東国風(オリエンタル)を気取って、余に「皇太子」と呼び掛けてくる風潮が強くなった。だが、帝室内において、余は専制公(デスポテス)という第一人者の地位にあるに過ぎない。いまだ共同統治帝(シンバシレウス)の称号を得てはいない。つまり、父帝(マクシミリアン)から正式な後継指名を受けてもいなければ、戴冠もしていない。


 それが実態だ。


 数多の異母兄弟には、それぞれ有力な諸侯(外戚)の後ろ盾がある。対して、長子たる余の亡き生母は帝室傍系の出に過ぎない。余に与えられた生来の武器は、嫡出として生まれたという事実だけだ。それも、当時の帝室が今よりはるかに強かった祖父帝(カール)の判断によるものだ。あの頃は、南部ゴンドワク皇帝領の植民地経営が軌道に乗っていた。パマナ運河の通行税と関税収入が帝室財政を支え、帝室は諸侯の機嫌を取らずとも、自らの財力で軍を養うことができた。つまり同族の家格だけで妃を迎えても、帝室は十分に立っていられたのだ。


 だが、それも過去の栄光だ。


 今や現地異民族の反乱や過酷な労働環境によって運河の浚渫工事は滞り、北辺自治都市――帝国から離反し共和国を僭称する輩の資本によってスズエ運河まで北に掘削された。皇帝領の植民地経営は、すっかり持ち出しの方が多くなっている。帝室の独自財源が細れば、当然、諸侯への依存は深まる。父帝が諸侯から妃を迎え、余の同母弟や異母弟たちにも有力諸侯の娘を娶らせているのは、そのためでもある。


 父帝は鼻から抜ける秀才というより、老練で権謀術数に長けた政治家である。


 一人の後継者に賭けるのではなく、諸侯同士を互いに牽制させ、その均衡の上に帝室の権威を保ってきた。だからこそ、父帝は早々に後継者を定められない。誰か一人を指名すれば、指名されなかった兄弟の外戚たる諸侯が反旗を翻す。七大選帝侯をはじめとする諸侯が、それぞれ己の推す候補を通じて帝室に働き掛けている間だけは、帝室の安全もまた保たれている。


 なんという歪んだ皮肉だろうか。


 余の妃(エヴァリーネ)は、父帝の末妹の忘れ形見だ。叔母が産後の肥立ちが悪く主の御許へ召された後、母の離宮に引き取られて以来、余とは幼馴染として育った。彼女には有力諸侯の後ろ盾など皆無だ。有力諸侯、ことに七大選帝侯とは、選挙協約(カピトゥラツィオーン)を巡って、いくつもの駆け引きが必要になる。己に有利な結果を得ようとすれば、強力な閨閥を利用するのが最も手っ取り早い。その意味では、余は最も皇位に遠いとも言える。


 だが――余は、この結婚を後悔したことがない。これまでの人生で、最良の判断の一つだったと誇ってすらいる。


 閨閥を持たぬ不利益を自覚しているからこそ、余はあれ(マルガレーテ)を警戒している。「魔力なし」と宮中で蔑まれながらも、ノルトデンブルク(ジギスムント)辺境伯(熊公)という強力な後ろ盾を持つ異母妹。あれは、余にとって明確な「構造的脅威」だ。政略結婚で帝室の外へ放逐するか。あるいは――思い切って排除した方が、後顧の憂いはなくなるか。


 七大選帝侯をはじめとする諸侯を掣肘する大きな力は、もはや帝室には残っていない。このままでは、次の皇帝選挙を通じて帝国が荒れるのは必定だ。選帝侯を動かすには、金の力と宗教的権威が要る。莫大な資金。そして教皇のお墨付き(次代皇帝の正統性)。


 ならば――皇帝領(クロンラント)の建て直しから始めねばならぬ。


 三百の諸侯の上に立ち、教皇の力を抑え、皇帝の大権を振るうには、まず皇帝領を治め、「剣の力」を取り戻すことが先決だ。歴代の父祖たちは、目先の戦費や婚資を工面するため、皇帝直轄の関税徴収権や鋳造権、土地を次々と諸侯へ質入れ(担保化)してきた。形の上では、買い戻しを条件とした貸与。だが、買い戻す金がなければ、実態は割譲と変わらない。


 プロノイア制(恩給地制)などと言葉を飾り、世襲や譲渡を禁じた徴税権の代わりに軍役を課す仕組みを作ったところで、地方の縛りなど形骸化して有名無実化するのは火を見るより明らかだ。軍役を担う者が土地に根を張れば、やがて制度そのものが形骸化する。これでは、いくら帝国管区(ライヒスクライス)から税を集めても、穴の空いた革袋に水を注ぐようなものだ。まずは質入れや恩給によって帝室の手を離れた皇帝領を、一つずつ買い戻さねばならぬ。


 次に、皇帝領の統治機構を正す。テマ制(軍管区制)による地方行政と屯田兵制は、皇帝が直接兵を掌握するための不可欠な基盤だ。地方官の任期を厳格に守らせ、土地と軍を一族の私物にさせない。任期を延長し続ければ、土地はやがて「その家の物」となり、兵も皇帝ではなく地方官に忠誠を誓うようになる。これでは皇帝直轄領の内部に、新たな諸侯を再生産しているのと同義ではないか。


 テマ制が腐れば、軍は土地に縛られる。

 プロノイア制が腐れば、軍は皇帝ではなく土地主に縛られる。

 地方に軍を預ければ、いずれその軍は預けた主の手を離れて私兵化するのだ。


 皇帝領の財政を立て直し、テマ制と屯田兵制を正しく維持しながら、プロノイア化による軍役の空洞化を力ずくで巻き戻す。諸侯の封建的な召集をあてにせず、皇帝の金で直接給与を支払って雇う「常備軍」を持つこと。土地ではなく現金で兵を養う仕組みこそが、諸侯から軍事権そのものを剥奪する唯一の道である。


 次いで、諸侯領の統制強化だ。この順序を間違えてはならぬ。


 永久ラント平和令(ランドフリーデン)に反して私闘――フェーデ(私戦)を行う諸侯には、皇帝権の絶対的威光を後ろ盾として苛烈な制裁を加える。剣を抜いた者が正しいのではない。法に従った者が正しい。その原則を、帝国に根付かせる。諸侯を力だけで抑えるのは難しい。ならば、制度という不可視の檻で縛ればよい。


 力ではなく、法によって支配するのだ。


 帝国最高法院《ライヒスカンマーゲリヒト》によって諸侯同士の争いを強制的に法廷へ持ち込ませ、帝国管区の枠組みを通じて金と兵を拠出させる。さらに帝国都市(ライヒスシュタット)や帝国騎士(ライヒスリッター)を手厚く庇護する。皇帝にのみ仕える者を増やせば、諸侯の相対的な力は、自ずと目減りしていく。彼らを一人ずつ切り崩す必要はない。彼らの外側に、彼らを飲み込む網を少しずつ広げていけばよい。


 相続の分割もまた、帝国にとっては好機だ。長子相続を奨励すれば、諸侯の家一つ一つは、いずれ御しやすくなる。


 土地を諸侯に握らせたままではなく、現金で兵を養う。かつて父帝が試みた共通貨幣税《ゲマイナー・プフェニヒ》のような仕組みを、もっと徹底する必要もあるだろう。現金を出す者に兵は従う。極めて単純明快な真理だ。


 教会についても同じだ。


 ヴォルムシュタット(叙任権の)協約(分割)によって、司教職の精神的権能は教皇に譲った。ならば、世俗的な権能――すなわち封土の授与と領地支配権は皇帝の手に残る。司教座が空くたびに生じるあの空位期間の収益を皇帝が接収するレガーレ(王権大権)を最大限に活用するのだ。聖界諸侯の領地とて、無尽蔵の聖域として扱う必要などどこにもない。


 そして、南部植民地の立て直しだ。


 ゴンドワク直轄植民地を再編し、皇帝領を皇帝の財政・軍事基盤として再建する。異民族の強制労働に依存した運河運営の綻びは、反乱、労働力不足、税収の不安定化を招いた。収奪だけに頼る統治は、結局、帝室自身の首を絞める。期限付きの勅許制や委任制による間接統治を導入し、現地の混乱を抑えながら、皇室の収益を確保する。必要とあれば諸侯への分与と自治も組み合わせればよい。そうして帝室の負担を減らしながら、なお皇帝領としての利益を確保する。そして頃合いを見て、皇室の直轄支配へ再び組み込む。こうすれば帝国の負担を減らしながら、なお帝室の利にかなうやり方が描けるはずだ。


 ――ここまで考えて、ふと気付く。


 諸侯、教会、自由都市(フライシュタット)、中央官僚――ばらばらな思惑を持つ者たちを一つにまとめるには、共通の敵が要る。共和国を僭称する北辺自治都市か。諸侯には新しい土地を、教会には彼の地への布教と聖地奪還を、自由都市には共和国資本の接収と経済特権を、中央官僚には公債の破棄と知財権収奪という餌を与えれば、誰もがこちらの思惑に乗ってくるだろう。


 だが――これだけの絵図を描いたところで、誰がこの絵図に賛同してくれるというのか。


 余は自らに厳しい。功を上げぬ者には冷たく、規律を破る者には容赦しない。それが正しいと、今でも信じている。だが、正しさだけで人はついてこぬ。だからこそ、余自身が軍功を立てる必要がある。帝国兵学寮(ストラテギア)で軍学を修め、軍務を経験したのも、そのためだ。圧倒的な実力差を示す。余の正しさと強さを、この身一つで証明し続ける。それが、閨閥を持たぬ余に残された道だ。


 帝国は、諸侯の連合体ではない。

 皇帝の下に、諸侯と都市と教会が並ぶ“秩序”だ。

 その秩序が崩れれば、帝国は必ず割れる。

 皇帝領を立て直し、軍を再建し、

 諸侯を掣肘し、教皇を抑え、植民地を整える。

 それができるのは――

 余しかおるまい。


 しかし――それだけでは足りぬ。事が事だけに、余一人では手に余る。もっと知恵が欲しい。手足となる者も足りない。


 そういえば、参謀本部が管理する軍書庫に、風変わりな管理官がいたな。技術将校でもないくせに、火薬銃だったか――そんな武器の投入によって戦場が一変すると力説していた。一度、改めて話を聞いてみるか。


 教皇とは、こちらが直轄領の改革を終え、実力を十分に蓄えるまで、秘密協定を結びつつ面従腹背でいく。その方針で間違いない。今度、向こうから話を詰めるために聴罪司祭《ゲイストリッヒャー・ラート》がこちらへ来ると聞いた。これも優秀な男なら、どう取り込むか。今から考えを巡らせておくとしよう。


 頭の中の構想が一通り収まり、人繰りに意識が向いた頃、不意に心地よい柔声が耳を過ぎった。


「殿下、また難しい顔をなさっておりますよ。もう夜更けなのですから、どうかお体をお労りください」


 妻が、私を部屋へ戻そうと露台(バルコニー)まで出てきたようだ。


「今宵は夜風が冷たい。体を冷やすのは良くない」


 私は妻の肩にそっとショールをかける。双月の淡い光が、エヴァの横顔を静かに照らしていた。


「ありがとう。……何をお考えになっていたの?」


「なに、つまらんことだ。エヴァに話すまでもないことだよ」


 エヴァは少しだけ視線を落とした。その仕草が、私の胸にわずかな痛みを走らせる。


「あの、お世継ぎのこともあるし、前からお話のあるヴルタニアから第2夫人をお迎えした方が……何なら第1夫人でも……」


「その話はもうするなと言っておいたはずだが……」


 声は静かに抑えたが、拒絶は揺るがない。エヴァはそれでも、健気に言葉を続けようとした。


「ええ……でも……」


 私はブランデーを一口だけ含んだ。琥珀色の液体には、政治の重さを思わせる苦味があった。


「もう時間も遅い。中に入ろう」


 私は妻の肩を抱き寄せた。夜風は冷たい。それでも、妻の安らぎ(ぬくもり)だけは確かだった。中へ戻る前の、ほんの短い時間。


 私は、この静かな至福を胸の奥で噛みしめた。



 ─── ■ Section 03 ──────────

 ◆ シャルル・ド・コ・レーニュ視点:東宮御所・後継者問題その2

 ────────────────────


「えー、ですから、殿下には、基本に戻って、建国神話からおさらいを――」


「もういい」


 俺は手を振って、小煩い羽虫どもを追い払った。


 ――くそったれ。くそ爺共(東宮侍読)は、今日も今日とて、埃を被った使い道のないガラクタ知識ばかり、いい年をしたこの俺(皇太子)に教え込もうとする。東宮御所に住み、群臣からは当然のように「殿下」と呼ばれ、控えの女官どもでさえ、俺の姿を見れば畏まって道を空ける。それが、この十年ずっと当たり前の景色だった。なのに、いつまでこんな児戯じみた講義に付き合わねばならぬ。馬鹿馬鹿しい。


 建国神話に出てくる国名など、もう今ではどこにもないんだ。そんなものを覚えて、いったい何になる?


 北平国(Le Royaume de la Plaine du Nord)

 西道国( Le Royaume de la Voie de l'Ouest)

 南水国(Le Royaume des Eaux du Sud)

 東海国(Le Royaume de la Mer de l'Est)

 東島国( Le Royaume des Îles de l'Est)

 そして中央皇国(L'Empire du Milieu)


 ――どうして東だけ国が二つもあるんだ。誰に聞いても「古文書にそう記されておりますれば」の一点張りだ。ふん、虫唾が走る。古書に「太陽は西から昇って東に沈む」と書いてあれば、現実の方がそれに合わせて、日が西から昇るとでもいうのか。


 笑わせるな。


 あんなものは、


 北狄(les Barbares du Nord)

 西戎(les Barbares de l'Ouest)

 南蛮(les Barbares du Sud)

 東夷(les Barbares de l'Est)


 それで十分だ。こっちだって別の古書にそう書いてあるだろう。


 とりわけ、あの手長婆(ヴェルヴェーヌ后妃)の故地など、西道国(Le Pays de la Voie de l'Ouest)などという大層な名は要らぬ。ただの西へ通じる一本道(Une simple voie qui mène à l'Ouest)で十分だ。あの女が輿入れしてきてからというもの、儀典の席次一つで、何度こちらと角突き合わせてきたことか。


「もういい。余(俺)はこれから司徒(爺様)と太尉(伯父貴)と大事な会議(宴会)がある。今日の侍講(くそ爺共の勤め)はこれで終いだ」


「殿下、そのような予定はこの爺、聞いておりませぬ」


 当たり前だ。事前に教えてしまったら、何かと理由を付けて俺を行かせないようにするだろう。


 ―――


 香が焚かれた奥座敷。俺は爺様の膝元、伯父貴の傍らに腰を下ろす。この二人は、俺の母方の外戚だ。皇王国の政界でも別格の存在である。爺様は三公の一角、司徒。伯父貴は太尉。都を失った国難の時代に一族で南へ遷ったものの、北閥の名門としての地位を守り、江南にも地縁と血縁を張り巡らせてきた。


 俺が正式な冊立を受けていないにもかかわらず、皇太子として扱われている政治的基盤も、この二人の力によるところが大きい。門閥貴族どもが陰でどれだけ歯噛みしていようと、三公の二席を俺の外戚が押さえている限り、王宮における俺の発言力は揺るがない。


「爺様(じじさま)、伯父貴(おじき)、今宵は大いに飲もうや」


 俺は杯を掲げた。


「ところで、手長婆(ヴェルヴェーヌ后妃)のところをどうする?」


 伯父貴が杯を置く。


「そろそろ駒が足りなくなってきたな」


 俺も考える。


 ヴェルヴェーヌ后妃(父皇王の後妻)。


 西戎から皇王家へ輿入れしてきた、あの女。中央の官僚や宦官の一部は、あの女を独立派の旗頭に担ぎ上げようとしている。本人は本人で、そんな連中に担がれることを巧みにかわしているようだが――だからこそ厄介だ。


「そういえば、手長婆のところのアカンシアはどうだ?」


 俺が言った。


「帝国の皇太子アルブレヒトのところは、まだ跡継ぎに恵まれていないそうだ。第二夫人どころか、愛妾すら置いていないらしいぞ」


 俺はにやりと笑った。


「そこへアカンシアをねじ込むのはどうだ? うまくいけば、帝国皇帝と縁続きになれる。それに、西戎の煩い奴らを黙らせる絶好の機会だ。奴らのお姫様が、いずれ帝国皇帝の国母になるのだからな」


「ならば、お前(シャルル)の娘をやればどうだ?」


 爺様が言った。


「いや、まだまだ手元に置いておきたい」


 俺は即座に首を振る。俺の娘は、片手の指では足りぬほどいる。


「俺の娘は、それより江南貴族のどこかに縁付かせたい。皇王国の食糧庫を懐柔するのは大事なことだからな」


 俺は江南閥を思い浮かべる。


「あいつらは昔は南蛮だったくせに、今ではこの国の主面をしている。増長も甚だしい」


「そういうな。俺たちも江南貴族だ」


 と、伯父貴が応える。


「いや、違うだろ」


 俺は笑った。


 爺様が苦笑しながら言葉を継ぐ。


「元々は北閥だ。たまたま国難の時期に南遷していただけだ。しかし向こうでも地縁血縁を拡充したからこそ、今の地位がある」


『北大平原』。


 いや――。


『霜華広野《レテンドゥ・オ・フルール・ジュレ》』。共和国に奪われた、皇王国の故地。ただの「北大平原」などという無味乾燥な呼び方より、こっちの方がずっといい。


「北大平原を取り戻すためには、江南貴族を味方につける必要がある。江南貴族にだったら、うちの可愛い孫娘たちをやるかいがあるというものだ」


 爺様が言った。


 俺は、自分の血を分けた子供たちの顔を思い浮かべる。男も女も、正妻の子も妾腹の子も合わせれば、両手両足の指でも足りぬほどいる。跡継ぎに窮しているアルブレヒトを、俺は心の底から哀れんでいる。

 あちらには、使える駒が一枚もない。こちらには、盤上にいくらでも打てる石がある。それだけでも、あの帝国の世間知らずな皇太子より、俺の方がよほど為政者の器だろう。


「そういえば」爺様が声を落とす。「今度の帝国への使節の往来に先立って、向こうから調整のために使者が来るそうだが?」


「いつも通り、酒と女を用意しておけ。それだけでこちらの言い分も通りやすくなる」


 伯父貴がしたり顔で言い放つ。


「ああ。そういえば、今、俺のところにあの月下(げっか)の双咲(そうしょう)がいる」


 俺は杯を傾けた。


「ちょうど具合がいい。使者を労う宴に向かわせよう」


「もう飽きたのか?」伯父貴が問う。


「俺は飽きるのが早いんだ」


 俺たちは笑った。


 その程度の女なら、いくらでも替えが利く。帝国の使者を酒と女でもてなし、必要なものを引き出す。それが外交というものだ。


「しかし、向こうから何やら細かいことを手紙でほざいていたな」


 伯父貴が言った。


「この前、火薬銃の技術を売ったら、それが大層気に入った奴がいたらしい。今度も技術を買いたいそうだ。今回は羅針盤と紙の製法だとか」


「技術なんて不確かなものを欲しがるとはな」


 俺は鼻で笑った。


「銀や陶磁器ならまだ分かる。技術なんて、雲を掴むようなものだ。しかも転売できない」


 俺は肩をすくめる。


「向こうから欲しいものを名指しで指定してきたのなら、これ以上好都合なことはない。可能な限り値を釣り上げて、恩着せがましく売りつければいい。そんなものに大金をつぎ込む奴の気が知れんが」


「向こうから指定してくるくらいだ。どうしても欲しいのだろう」


 伯父貴が笑った。


「それもそうだな。だったら、伯父貴が言う通り、可能な限り値を釣り上げてから恩着せがましく売りつけてやるさ。恩を売って大層感謝された上に大金までせしめることができる。こんなおいしいことはないからな。うちの金食い虫ども(開発担当技官)もたまには役に立つ」


 淫靡な香煙が立ち込める後苑(こうえん)。


 俺は伯父貴の肩を抱き、傍らの艶肌(あだはだ)を寄せる女の胸元にずっしりと重い大銀貨をねじ込みながら嘲笑う。


「帝国の世間知らずの皇太子など、女と金(かね)でいくらでも釣れるわ」


 しかし――と俺は杯を置く。本題はここからだ。


「俺の正式な冊立を、意志薄弱な父皇王に認めさせるには、もう一押しが要る」


「そうだな」爺様が頷く。「門下省、いや今は『高等法院(パルルマン)』といった方が早いか。奴らの承認が最大の難関だ」


 皇王国の高等法院。西戎から中央へ持ち込まれた制度であり、三省の門下省にも似た役割を担っている。勅令に異議を唱え、登録を拒否する権限を持つ法服貴族たちの牙城。そして現在、その過半を西戎閥が占めている。


「高等法院に巣食っている法服貴族どもを、どうすればこちらの味方に付けられる?」


 俺は挑戦的な笑いを浮かべて、伯父貴の方へ顔を向ける。


 伯父貴は一瞬考えこむそぶりを見せ、やがて口を開く。


「一番声の大きいマラザンをどうにかするのが先決だろう」


「ああ、あの西戎の狐(マラザン)か」俺は吐き捨てる。「あれも赤い心臓(リュシュリー)の引き立てが無ければ、今ほど大きな顔をすることもなかっただろうに」


「大鴻臚を務めていたあの爺(リュシュリー)か。あれが若い頃に画策して、帝国に降った。その結果、この国が皇王国から王国に成り下がった。死んでせいせいしたわ。生きていれば、うるさい奴が二人になるところだった」


 爺様が昔の嫌な記憶を思い出しもしたのか、思いっきり苦虫をかみつぶしたかのような顔をして吐き出すように言った。


「で、話を戻そう」俺は身を乗り出す。「俺が正式な冊立を得るには、高等法院を黙らせるほかない。そのためには、大きな軍功を立てるのが一番だ」


「具体的には」と伯父貴が続ける。


「策はもう立ててある。忌々しい長城(リメス)を抜き、『霜華広野《レテンドゥ・オ・フルール・ジュレ》』の北半分をこの手で奪い返す」


「大義名分と兵は?」


 と爺様が俺の先を促す。


「大義名分は帝国を使う。今度の使節の往来(朝貢貿易)にかこつけて、向こうの有力者に鼻薬を思い切り効かせる。そして共和国の犬どもへの討伐令を出してもらう。ついでに兵も出してもらうさ」


「それで足りるか」と伯父貴。


「南蛮共(江南閥)の矜持をちょいと擽(くすぐ)ってやれば、兵糧はたんまり手に入る。『江南閥のおかげで今の皇王国がある。ここはもう一肌脱いでもらいたい』――それだけで奴らには十分だ」


「それだけで水蟲(江南閥)が動くか?」


 伯父貴が疑わしそうに問う。


「いや、水蟲じゃない。あれは蛙蟲(江南閥)だ。井戸の底に沈んで、外の景色など何一つ見えておらん。西戎の奴らと相食ませ、高等法院の首席頭取の椅子でも餌にちらつかせておけばいい。あるいは――今の『尚書僕射』の職名を、正式に『尚書令』へ戻してやると言うのも効くだろうな」


「その手があったか」爺様が膝を打つ。「先々代の皇王が皇太子であった折に一度『尚書令』に就いたゆえ、以来慣例で『尚書僕射』と名乗らせているだけで、実権はそのままだ。名を戻したところで、こちらの実害は一切ない」


「そうだ」俺は杯を干す。「蛙蟲(江南閥)なんぞ、それだけで釣れる。入れ食いというやつだ」


 帝国の使者と蛙蟲(江南閥)をあざ笑う爺様と伯父貴の会話を聞きながら、俺は別のことに思いを馳せていた。


 名分か。


 俺にはその価値が分からぬ。だが、後生大事に抱えている奴にとっては、この上なく大事なものらしい。であれば「皇王国」という国号には、一体誰がどれだけの値を付けるか――これはこの俺の頭を使うだけの価値がありそうだ。



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