御用商人の成長 ―― 勝者は商社
───【本話のウォークスルー対象】───
■ Section 01
トレディン視点:上屋敷・オーラルケア製品って何ですか?
■ Section 02
トレディン視点:工房・ものことづくり。職人の矜持の使い方
■ Section 03
トレディン視点:上屋敷・仕様伝言ゲームの終焉
────────────────────
─── ■ Section 01 ──────────
◆ トレディン視点:上屋敷・オーラルケア製品って何ですか?
────────────────────
今日も無事、ルナリアちゃんを餌付けして、蜜菓子と引き換えに月次損益報告書の間違いを直してもらった。ルナリアちゃんに泣きつく前は、月々の採算が分かるまで3か月近くかかっていた。
それでは翌年の商売の計画など立てようがない。そうなると、毎月手間暇をかけて計算する気にもならない。だから以前はサボりがちだった。
ナナシノ様に、
「昔の月毎の実績が分かっていないと、翌年の予算など立てようがありませんよ」
「何の参考値もなき予測を立てるのは、暗闇で矢を射るような至難の業ですからね」
と諭されて以来、ルナリアちゃんに神速計算をお願いして、何とか月次で採算を把握できるようにしている。それでも月末締めから一月半ほど遅れる。だが、以前に比べれば雲泥の差だ。
――商売とは、勘と経験だけでやるものではない。
最近の俺は、少しずつだが、その意味が分かるようになってきた。
しかし今日は、そんな悠長なことを言っていられない。もっと深刻な相談がある。俺は気を引き締め、ナナシノ様の執務室の扉を叩いた。
コンコン。
「どうぞ。」
中から落ち着いた声が返ってくる。
俺は扉を開けるなり、堰を切ったように喋りまくった。
「ナナシノ様、聞いてください! もうどうにもならないんです!実はですね――」
「トレディンさん。まず、落ち着いてください。」
いつものことだった。
俺が思いつくまま問題点やら経緯やら自分の不満やらを喋り立てると、ナナシノ様は慌てることもなく、それらを一つずつ拾い上げて整理してくださる。本当に助かる。
「つまり、こういうことですね。」
1.フェルトルン公爵夫人のサロンで、貴婦人向けのお口のお悩みを解消するための新製品を御用商人やお抱え職人に依頼することになった。
2.ところが、カルトング商会は公爵夫人の御令嬢、イーリス様の御不興をなぜか買っていて、正式な性能競売への参加資格を得られなかった。
3.そこで次兄のアンドレソン兄貴が裏から手を回して、サロンに出入りするロイヤ・セクレテスベラーグダ・ウップジフテル子爵夫人(以後、ウップジフテル子爵夫人と呼称)を通じ、お抱えのベングトソン工房の骨角細工師ベンスニッド・ホルンスニードルさんに「迂回参加」を取り付けた。
4.ただし、ベンスニッドさんは親方の娘との婚約を認めてもらうために、工房の看板を使わず自分の腕だけで性能競売を勝ち抜け、と婚約許諾条件を突きつけられた。
5.ベングトソン工房の偏屈な親方が工務院のお偉方と揉めたせいで、工房から他のギルドへ直接仕事を発注することまで禁止されている。
「なるほど。商品開発の話なのに、恋愛問題と役所とギルドの縄張り争いが全部くっついているわけですね。」
「その通りなんです!」
本当にその通りだった。
「ええ、いつも通りの、完璧な情報の前捌き具合です」
「それにしても、トレディンさん。」
ナナシノ様が、ふと思い出したように俺を見る。
「トレディンさんが持ち込んでくる案件って、どうして必ず誰かしらの甘酸っぱい恋路が絡んでいるんでしょうね。……時にトレディンさんご自身は、そういった浮いた話の噂をちっとも耳にしませんが、他人の恋路ばかり世話を焼いていて大丈夫なんですか?」
「……大きなお世話です。俺はまだまだ商売の道を精進することを今は優先しているだけです」
思わず即答してしまった。
ナナシノ様の外見は、ヒト族から見れば幼い子供にしか見えない。長命種である地精貴族としては年相応なのかもしれないが、見た目だけならまるっきりの子供に恋愛事情を心配されていることになる。
当たっているだけに腹立たしい。
「それよりナナシノ様! 打開策です。いつもの頓智をパパッとお願いします!」
「分かりました。」
ナナシノ様は少し考えてから、首を傾げた。
「ところで、その『貴婦人向けのお口のお悩みを解消する新製品』という依頼、具体的には何を作ればいいんですか。」
「……それが分からないんです」
「トレディンさん、こういうのは発注元のお客様の意図を一度大きく外してしまったら、後から挽回するのは至難の業というか、挽回不能なことが多いんですよ。初期の要件定義を間違えれば、滅多なことじゃ逆転することはできないんです。」
「えっ、『貴婦人向けのお口のお悩みを解消するための新製品』ってだけじゃ、ダメなんですか?」
「ええ、もちろん、『あいまい指示で動けて初めて一人前』という言葉もあるくらいなんで、一流の商人や名人級の職人ならそれだけで十分かもしれませんけれどね。私も過去何度も痛い目に合っているんで、出来るだけ打率は最初から上げておきたいんですよ。」
(過去何度も痛い目だなんて、地精貴族だったナナシノ様に仕事を押し付けて、それに文句をつける人が昔にいただなんて信じられないよ全く)
「えーと、つまり、何です、どういったことが分かっていればいいんです?」
「この場合はですね、『オーラルケア製品』が必要だということですから……」
(「おーらるけあ???」なんだそれ?)
「例えばですね、お客様の直接の不平不満や、何を所望されているかが分かるヒントが分かればいいので、
『最近は、歯の輝きが翳り、磨き粉を使っても隙間の汚れがどうしても取れないの。歯を傷つけずに白さを取り戻せる、東方の珍しい磨き粉や極細の絹布を調達してちょうだい』
『お茶会で恥をかかないための【口臭消しの香薬】を仕入れてほしいの』
『来月、王宮で催される夜会に出席するのだけれど、吐息をバラの香りに変えるような、最高級の香薬や練り膏薬を至急仕入れなさい。お金に糸目はつけないわ』
『金や象牙で作った【最高級の爪楊枝】を作り直させなさい』
みたいに、現場の切実なお言葉が聞けたら都合がいいんですがね。」
「いやいや、ナナシノ様、どれもこれもまるで実際に公爵夫人のサロンに出入りして、貴婦人方の話を盗み聞きしてきたかのような具体性なんですが? 本当はもう答えを知ってるんじゃないですか?」
「やだなー、そんなことないですよ。あくまで想像した範囲内で頭に浮かんだセリフをただ口にしただけです。まあ、お客様のペルソナを想定して顧客ニーズを探るのはマーケティングの鉄則ですからねえ。」
(ぺるそな、にーず、まーけてぃんぐ??? またナナシノ様がおかしなことを言い始めた……)
「そうですね、直接の答えになるかはわかりませんが、なんでも、貴婦人方の御用命を受けたのはいずれも『象牙・骨角細工師』『金属細工師』だということで、ええと、特に『金銀細工師』とか『宝飾細工師』の工房が多いという噂です」
(知り合いの職人たちに何が作れて、俺たちが何が売れるか、それが大事なはずなのに。ナナシノ様はそんな事そっちのけで、お客様が何を欲しがっているかばかりに捉われすぎているような……)
「んーそうですか。コンペチターの情報がそこまで揃っていたなら、ある程度の仮説が成り立ちそうですね。ちょっとお待ちください。」
そういって、ナナシノ様は、両腕を自身の胸の前で組み、首を直角に曲げていつもの長考スタイルに入った。全然知らない人が見たら、ナナシノ様が突然居眠りを始めたと思っても不思議ではない。1,2分経った時分に、急にガバっと顔を上げたナナシノ様が、
「トレディンさん、大体の方針が定まりました。恐らくご夫人方は、歯間に詰まった食べかすを取り除く『爪楊枝』をご所望されているのでしょう。そしてこの性能競売を有利に戦うためには、
①他者を圧倒する品質の爪楊枝を用意する、または、
②圧倒的にご夫人方の悩みを解決する『右斜め上の新発想』を持ち込む、
のいずれかになるかと思います。
つまり、道具ではなく『オーラルケア』というニーズそのものを商品にするんです。」
また、小難しいことを言い出したものだ……
「では、具体的に何を作るんです?」
「それを決めるために、まず依頼元へ直接聞きましょう。」
「え?」
「ベンスニッドさんに、ウップジフテル子爵夫人へもう一度、具体的な依頼内容を確認してもらうんです。」
「え??」
「具体的な作戦を実行する前に、直接の依頼元のウップジフテル子爵夫人に具体的な依頼内容を確認してもらっても構いませんか。ええ、最終確認です、本当に歯間掃除する道具が欲しいかどうかのです。まあ、貴人は下々の者から質問されるを嫌う方が多いのは分かっていますけど。」
「そりゃ、無茶なお願いをこちらがしているのは承知しているので、先方にも多少の無理を聞いてもらうのはやぶさかではありませんが。でも、それ程の事です、これって?」
「ええ、最初が肝心なんですよ。大本の顧客の願いを直接確認する以上の秘訣はないんですよね。だいたい、人伝の言葉ほど信頼できないものは無いんですよ。伝言ゲームは、間に介在する人の認知具合でいかようにも情報が歪んでしまいますからね。」
「分かりました、それでは、ベンスニッドさんにはそのようにお願いしてみます。そういうことでしたら、是非、ウップジフテル子爵夫人へのお目通りの際に、私も同席したいと思います」
「ええ、それがいいと思います。ついでに、子爵夫人から良い人を一人くらい紹介してもらえるといいですね。」
余計なお世話です、ナナシノ様。ヽ(`Д´)ノプンプン
─── ■ Section 02 ──────────
◆ トレディン視点:工房・ものことづくり。職人の矜持の使い方
────────────────────
ブチっ。
「また切れましたね。次の太さのを試してみます。」
どうしてこうなった?
目の前では、ナナシノ様が新しいおもちゃを得た子供のように嬉々として、試作の絹糸を適当な長さに切り、両手の指に巻きつけては自分の歯間を扱いている。二、三度、細かく指を前後させるたび、糸は「ブチっ」と非情な音を立てて千切れ飛んだ。
いや、今にも「ブチっ」と盛大な音を立てて切れそうなのは、糸ではない。その様子を俺と一緒に眺めているベンスニッドさんの、堪忍袋の緒である。
ベンスニッドさんの小刻みに震える手には、彫刻刀のタコが刻まれた指先で丹精込めて削り出し、磨き上げた『最高級象牙の爪楊枝』が収められた桐箱が握られている。寸分の狂いもない見事な透かし彫りが施された、まさに名工の逸品だ。
それをナナシノ様は、一瞥しただけで、
「ああ、これはいい仕事をしていますね。まさに、名工の逸品といっても差し支えないでしょう。しかし、今回の性能競売には出せませんね。」
と言い放った。ベンスニッドさんの癇に障らないわけがない。
俺とベンスニッドさんは、ナナシノ様の指示に従って、ウップジフテル子爵夫人にお目通りを願い、性能競売で本当に所望されているものを、もう一度確認してきた。答えは明快だった。
『歯間の汚れを完全に落とす道具』
それが、サロンのご夫人方の要求仕様だった。
もちろん、面会を申し出るに際して必要な付け届けは、すべてこちらで用立てた。その貸しがあるからこそ、ベンスニッドさんはこの仕打ちに今のところは耐えてくれているのだが、それも、もう限界を超えたらしい。
「……トレディンさん」
地底から響いてくるような、低く濡れた声だった。
「うちの工房は、大公家や公爵家ほどではないにせよ、伯爵家や子爵家の御用を賜ってきた老舗だ。それなりの矜持と自負は備えている」
「ええ」
「……それをなんだ! 顔をおかしな布で隠した年端もいかない小僧に、丹精込めた作品をコケにされて……あまつさえ、あんな安物の絹糸で歯をゴシゴシやって『すぐ切れる』だの何だのと遊ばれて黙っていられるか! もう我慢ならん、帰らせてもらう!」
「ま、まあまあベンスニッドさん! お気持ちは痛いほど分かります、分かりますとも! 私だって最初は同じように頭から湯気を立ててましたから!」
俺は去ろうとするベンスニッドさんの袖を必死で掴み、周りに聞こえないよう小声で耳元に囁きかけた。
「(小声で)これがいくら地精貴族の政治亡命者で、仮に大賢者の愛弟子といわれても、腹に据えかねないのはよく分かりますとも。 でもね、本人には悪気なんて微塵もありませんし、只の世間知らずというか、浮世離れしたお方だから、あとはこっちの慣れの問題なんですよ。そこさえ目を瞑れば、あとはいいことしかありませんから。……! ね?」
「ん? どうかしましたか、トレディンさん。」
「いえ、なにもありません。それでこれはどういうことなんです? きちんと我々にもご説明頂けるんですよね。ウップジフテル子爵夫人の所に伺って、要求仕様をきちんと再確認させてもらったからこそ、ベンスニッドさんも腕によりをかけて、この『最高級象牙の爪楊枝』を試作したんですからね」
「ええ、そうでしたね。」
「それから、私のところへは、至急、糸問屋へ行って、出来るだけ丈夫な絹糸を最低でも10種類は用意してくれ、と。ちょうど今、王国から商人がやってきて、フヴドスタードでも、派手に絹織物やら生糸やらを大量に売り込んでいったところでしたから、助かりましたけど」
(そういえば、あのグラディスとかいう女商人。大層色っぽい『剣蘭商会』の女主人だったな。俺は最終的に、嫌われていたようだが)
「では、最初から説明しますね。」
「はい。お願いします、ナナシノ様」
「(小声で)ベンスニッドさん。ここは落ち着いて、ナナシノ様の説明をちゃんと聞いてくださいね。本当に、ここが勝負時なんですから。一度騙されたと思って、頭の中を真っ白……いや、空っぽでしたっけ。まあ、どちらでもいいです。とにかく、ただ聞いてください。お願いしますね」
「おう。話だけは聞いてやる」
「ありがとうございます」
ナナシノ様は、いつもの調子で話し始めた。
「お二人にご足労いただいたおかげで、サロンのご夫人方が本当に欲しがっているものが分かりました。『歯間の汚れを完全に落とす道具』。ここまでは間違いありませんね?」
「だから、『最高級象牙の爪楊枝』を作ったんだろうが」
「ベンスニッドさん」
「おう。悪かった。続けてくれ」
「はい、続けます。ですから、『糸』なんです。」
「……糸?」
「ご夫人方が欲しいのは、『爪楊枝』というモノではありません。『歯間の汚れを完全に落とす』というコトなんです。」
ベンスニッドさんが眉をひそめる。
「モノではなく、コト?」
「そうです。爪楊枝を作ることが目的なのではありません。歯間の汚れを落とすことが目的なんです。」
ナナシノ様は、自分の指に巻きつけた絹糸を見せた。
「だったら、爪楊枝にこだわる必要はありません。歯間の奥まで入り込ませるなら、爪先より細い糸の方が有利です。」
「……なるほど」
俺は思わず呟いた。
「つまり、俺たちは『爪楊枝を作れ』と言われたと思い込んでいた。でも本当は、『歯間をきれいにする道具を作れ』だった、と」
「その通りです、トレディンさん。」
「しかし、そうだとしても……最高の爪楊枝を作れば、性能競売で勝てる可能性はあるんじゃないでしょうか?」
「もちろん、十分にあります。」
ナナシノ様はあっさり認めた。
「しかし、最後の一品に選ばれる打率はどうなるでしょうね。私はこういった工芸分野の素人ですが、この素人が見てもベンスニッドさんの細工されたものは見事な逸品だと感じました。でも、目の肥えた大貴族のご夫人方の目から見たらどうなんでしょうね。」
「……」
「今回、選定基準は明らかになっていません。装飾の美しさ、素材の珍しさ、持ったときの感触、家格との釣り合い。何を評価されるか分かりません。そうなると、最後は選定者の好みに大きく左右されます。経験者の目から見てどうです? ベンスニッドさん。」
「その通りだ」
ベンスニッドさんが腕を組んだ。
「選者の好みに大きく左右されるだろうことは想像に難くない。なぜなら、わしらは発注者である大貴族様の好みに合うように作るのが常だからな。今回みたいな誰の好みになるか分からない中でのモノづくりの経験はそもそも皆無といってもよいくらいだ」
「そうでしょうね。しかも、今回の攻め方は審美眼的評価に偏っていて、機能美の方はガン無視でしたからね。」
「ナナシノ様、できれば、もう少し穏当な言葉遣いでお願いします」
「ああ、すみませんでした。つまりですね、『装飾美』だけで競っていたら選者の審美眼的なセンスに大きく評価が左右されますが、道具としての目的を達成するという客観的な基準に拠った『機能美』で競っていけば、かなり有利な競争を仕掛けられるということです。」
「ああ、そういうことですか。つまり、『歯間の汚れを完全に落とす道具』としての本領を発揮させればいいんですね」
「その通りです。では私の言いたい要点をまとめてご説明しますね。
1.装飾過多の『爪楊枝』は、装飾部分の溝に汚れがたまって匂いや病気の元になる可能性がある。つまり、清潔にする道具そのものが不衛生になりかねない。
2.『爪楊枝』は、材質選びを間違えて硬い物質でつくると、歯と歯茎を傷めてしまう可能性がある。それを恐れて柔らか材質を選ぶと今度は逆に強度不足で、爪先が破損してしまう可能性が出てくる。
3.そして何より、歯間の汚れを落とすだけなら、爪先より細い糸の方が圧倒的に適している。よって今回の提案は『デンタルフロス』とする。」
「……つまり、わしの技術が要らんという話ではないのか?」
「いいえ、むしろその逆です。説明を続けますね。
4.『デンタルフロス』を持ち手につけて、糸だけ常に清潔なものに交換できるようにする。
5.持ち手の材質や装飾を変えることで、価格帯を広くとることで採算を最大限にする。大貴族には高価な象牙製や金銀細工物を、中級貴族以下には、骨角製や装飾を抑えた品物を用意する。
といった辺りでしょうか。」
「成程、でしたら、ベンスニッドさんの得意な細かい装飾技術も生かすことができますね」
「ええ、その通りです。トレディンさん、私以前に言いましたよね。
①他者を圧倒する品質の爪楊枝を用意する、または、
②圧倒的にご夫人方の悩みを解決する『右斜め上の新発想』を持ち込む、
つまり、道具ではなく『オーラルケア』というニーズそのものを商品にすると。」
「ええ、言っていましたね」
「この持ち手付の『デンタルフロス』が、圧倒的な品質でかつ『右斜め上の新発想』の商品となります。」
俺は、ナナシノ様の言葉を聞いてから、口に出してみた。
「『持ち手付きの歯間糸』というのは、少々言いにくいですね」
ナナシノ様が首を傾げた。
「では、名前を考えましょう。」
「歯間糸。歯の間を掃除する道具。歯間清掃具。絹糸歯磨具……」
俺も口の中で転がしてみる。
「……糸楊枝、というのはどうでしょう?」
「糸楊枝?」
「はい。爪楊枝のように使う。しかし、先端にあるのは爪ではなく糸。糸の楊枝です」
ナナシノ様が少し考えた。
「いいですね、トレディンさん。『糸楊枝』。短くて分かりやすい。」
「圧倒的に口に馴染みます」
ベンスニッドさんまで、ぽつりと呟いた。
「……糸楊枝、か」
三人の間に、ほんの少しだけ空気の変化が生まれた。
「それでは何を作るかという商品の方は決定として、次はどうやって作るかという役割分担の方ですね。」
「わしは『糸』のことなど知らんぞ。それにわしの工房が直接『糸』をどうにかすることも叶わん」
「ええ、それは存じています。自分の専門外の加工をしてはならない、他職種への侵犯禁止というのはギルドの掟ですもんね。ただでさえ、ギルド間の掟が厳しいのに、ベングトソン工房は工務院のお偉方から特に今回はくぎを刺されていますもんね。」
「その通りなんですよ、ナナシノ様。同業者への下請けを禁止されているだけでなく、通常ならお抱え工房に許されている他業種ギルドへの直接発注まで禁止されている。何とかなりませんかね」
「ええ、ですから、そちらはカルトング商会に担当してもらいましょう。つまりこういうことです。ベンスニッドさんは糸楊枝の持ち手の製作と、糸楊枝の固定や張力調整を検分する。カルトング商会は、本来は元請け工房に許されていた他業種ギルドへの発注行為を全て代行する。」
「具体的には?」
「糸問屋には『絹糸』を、製蝋業者には『蜜蝋』の手配と『糸への表面塗布作業』依頼を。必要なら、さらに別の職人にも声をかける。この役割分担でどうですか。」
「それなら問題なさそうですね」
「それなら問題なさそうだな」
─── ■ Section 03 ──────────
◆ トレディン視点:上屋敷・仕様伝言ゲームの終焉
────────────────────
「トレディンさん、こんなことになるなんてまだ信じられない。まるで夢でも見ているようだ」
「ええ、そうですね。ベンスニッドさん。おめでとうございます。『第一品』の栄誉を賜われて」
「ありがとう、本当にここまでありがとうな。トレディンさん。恩に着る。それにしても、あんたはどうしてそんなに落ち着いているんだ? もう少し喜んでくれてもいいものだろう」
「もちろん嬉しいですよ。ですが……まあ、こうなることは、ある程度予想していましたから」
「というと?」
「ナナシノ様が絡んで“上手くいかなかった案件”なんて、これまで一度も無かったので。……ただ、まさか『ここまでやらかす』とは思っていませんでしたが」
「それにしても、『第一品』だぞ! 公爵夫人からも直接ご注文をいただけるんだ。これ以上の結果があるか?」
「そこですよ、そこ。いいですか、普通、こういう正式な性能競売では、規模にもよりますが、第一品、第二品、第三品くらいまでは選ばれるものです。圧倒的大差というか……ほとんど満場一致で、『糸楊枝』が第一品に選ばれてしまったんですよ」
「だからそれの何が問題だというんだ。いい加減にしてくれないと、ちょっとイラついてきたぞ」
「すみません他意はないんです。ええとですね、ベングトソン工房の『糸楊枝』だけが『第一品』に選ばれたということは、これから大貴族様の注文のすべてがベングトソン工房に集中するということを意味します」
「『第一品』の栄誉を賜ったんだぞ。しかも、公爵夫人から発注までいただける。商売繁盛、めでたいことづくめじゃないか!」
「それがそういう訳にはいかないんですよ。いいですか、……ベンスニッドさん」
「なんだ?」
「上は公爵夫人から、下は男爵夫人まで。あのサロンに出入りするご夫人方からの注文が、全部ベングトソン工房に押し寄せたら……」
「押し寄せたら?」
「お客様をお待たせせずに、どうやって全部捌くんです?」
「……」
ようやく、ベンスニッドさんの顔から笑みが消えた。
「ああ、そういうことか。大貴族様のご注文をいたずらに納期を先に延ばしたり、あまつさえお断りなどしたら……」
「ええ、首がいくらあっても足りない、ということです」
「これはわしが迂闊だった。どうすればいい、トレディンさん?」
「ええ、分かっています。だからこれからすぐ向かいます。ナナシノ様の所に」
「応、それが今できる最善だな」
(まったく……完成品を見せた時にナナシノ様が驚いた顔をしてくれたから、たまには一本取れたと思ったんですけどね。……まあ、いいか。次はどんな「びっくり」が飛び出してくるのか。それを見届けるのも、悪くない)
―――
思えば、この『糸楊枝』が第一品にまで漕ぎ着けるまでの道のりも、決して平坦ではなかった。あれは、まだ試作糸の選定に頭を抱えていた頃のことだ。
「糸は細く。ただし切れてはいけない。滑らかであること。濡れても弱くならないこと。歯茎を傷つけないこと、ですか……」
「ええ、それが上手く伝わらないから、こういう結果になるんです。トレディンさん。これがおぞましい伝言ゲームの悪夢と言うやつです。」
俺は、何度目になるか分からない糸の試作品を眺めながら、途方に暮れていた。ナナシノ様は、そんな俺に根気よく付き合ってくれている。
「『細い』『強い』『滑らか』『濡れても平気』『痛くない』。全部、職人からすれば曖昧な注文です。」
「確かに……」
「しかも、ギルドの壁が、さらに意思疎通を難しくします。」
確かに、どの工房へ行っても、決まってこんな調子だった。
細工師:「私は枠を作る。糸のことは知らん」
糸問屋:「私は糸を売る。歯のことは知らん」
製蝋職人:「蜜蝋を売る。糸に塗る方法までは知らん」
箱師:「箱なら作る。中身は知らん」
それぞれが、自分の仕事だけを見ている。注文を受けた俺が、次の職人へ説明し、その職人がまた次の職人へ説明する。そのたびに、少しずつ意味が変わる。そして出来上がった試作品を見て、また最初からやり直す。
(なるほど。これは……伝言ゲームですね)
ナナシノ様が、ぽつりと言った。
「トレンディンさん。これを終わらせましょう。」
「終わらせる?」
「ええ、基本要件である『用途』『構造』『必要な機能』『歯間に入る細い糸という要求』と、『糸そのものの強度』『使用時の摩擦』『表面状態』『湿潤状態』という品質要求がすべての関係者間で情報が共有できる仕掛けを作るんです。」
「ナナシノ様、そんな魔法みたいなこと、平民の私には無理です」
「魔法でもなんでもないですよ。カルトング商会だからできることで、解決してしまいましょう。」
「へ、うちだから出来ること???」
「はい。品物――この場合なら『糸』や組み立て途中の『糸楊枝』に、『現品票』や『指図札』を付けるんです。」
「現品票? 指図札?」
「ええ。仕様書や簡単な図面、試験結果、次の工程への要求事項などを書いて、現物と一緒に回すんです。できるだけ図面や図解も増やした方がいいですね。文字を読めない職人も多いでしょうから。」
「なるほど……そうすれば、言葉の行き違いや仕様漏れも、かなり防げそうですね」
「まあ、それも大事です。でも、もう一つ落とせないものがあります。」
「ナナシノ様、それは何ですか?」
「それは『熱量』です。これは糸を何回か検証していてやっと気づいたというか思い出せたんですが、今回の糸楊枝用の絹糸に『生糸』をまだ試していなかったと。」
「それがどうしたというんです?」
「ええとですね、ただ事務的に、『濡れても丈夫な絹糸が欲しい』と伝えるだけでは、先方も、手許にあるものを出して終わりになりがちですよね。わざわざこちらの要求に合うものを探そうとはしないかもしれない。」
「その通りだと思います。自分の棚になければ、『他所を当たれ』で終わるでしょうね」
「ですから、こっちの試験に通らなかった糸に『現品票』『指図札』を付けて、こちらの要求仕様に合うような糸を手配してくれと。ダメだった現物はこれで、詳細はここに書いてある、とまで示しておけばどうでしょうか?」
「それなら、もっと協力的になって親身に品物を探してくれるかもです。それに、加工業者の方も、自分の工程だけを見るのではなく、最終的な製品の仕様に合わせようと努力しやすくなるかもしれません」
「技術的な検証はベンスニッドさんの役割です。そして、その検証結果を先方へフィードバックする。『骨角製構造』『強度』『表面処理』『糸の固定具合』『張力調整』『収納箱』……それぞれの情報を、現物と一緒に次の工程へ渡していく。」
ナナシノ様は、そこで俺を見た。
「ベングトソン工房は、他の工房との直接交渉を禁じられています。だからこそ、その間に立てるカルトング商会が必要なんですよ。」
「……なるほど」
「ナナシノ様、質問がちょっと前に戻りますが、どうして『生糸』なんです?」
「これは、うろ覚えなんですが、生糸は『セリシン』が繊維を補強しているため、引張強度が高く、歯間に通しやすく、掻き出し力も強い。今回の用途に最適だったはずです。生糸を精練して『セリシン』と呼ばれる物質をきれいに洗い落として、残ったしなやかな繊維が絹糸になるんです。これを試す価値は十分にあるかと。」
(ナナシノ様、早くそれを言って下さい)
こうして俺は、『生糸』を中心に試作品を作り、『現品票』『指図札』を付けて各業者に回し、無事にベンスニッドさんの品質検査を通る糸が出来上がった。
今日は試作最終品をナナシノ様に見てもらう日だ。俺はナナシノ様の目の前で包巾を解いた。さあ、刮目せよ。
「……なんですこれ、トレディンさん。」
布包みから出てきたのは蒔絵が施された重箱。表と側面には仮の紋章がきちんと入っている。その蓋を開けると中には、糸楊枝本体、替え糸、糸を張るための小工具、歯磨き粉、歯磨き用布といった「口腔衛生具一式」。もちろん「使用方法を記した説明書」も忘れてはいない。
「……なんでこんなことになったんです?」
「取れる時に、取れる相手から取れるだけ取る……それが御用商人ですから。」
―――
「かくかくしかじか、という訳だ。ほんとに二人には感謝しかないよ」
「それは良かったです。」
「まただ。どうしてお前さんたちはそんなに嬉しがらないんだ全く。普通なら驚いてくれるもんだかな」
「ええ、これでも十分に驚いていますよ。」
ナナシノ様は、少し笑った。
「でも、ベンスニッドさんの一意専心の業物ですからね。『第一品』になること自体は、最初から分かっていました。」
「そうでしょう? 俺だって、ナナシノ様ならそう言うと思っていましたよ」
「それより、トレディンに完成品を見せてもらった時の方が衝撃でした。だって、『糸楊枝』が完成しましたと言われて、目の前にポンと出されたのが蒔絵が施された重箱でしたから。」
「いつもこっちが驚かされてばかりでしたからね。あの時だけは、ナナシノ様をビックリさせられた。本懐を遂げたとは、このことです」
「それで問題とは何なんです、トレディンさん。」
俺は、できるだけ簡潔に説明した。
通例を破って、ベングトソン工房だけが『第一品』に選ばれたこと。
その結果、大貴族からの注文がベングトソン工房に集中するであろうこと。
そして、その注文を捌き切れなければ、工房の信用どころか命まで危うくなること。
ナナシノ様はうんうんと頷きながら俺の話を黙って聞いて、最後に満面の笑みでこう答えた。
「ああ、そうこうことですか。それならご安心ください。こういったスケーリングは慣れていますから。」
といって、いつもの立て板に水の怒涛の説明が始まった。
1.当面、貴族からの注文はカルトング商会がゼネラルトレーダーとして一手に引き受ける。負荷分散や技術水準を推し量って下請けや専業職人に注文を割り振る。
2.ベングトソン工房だけで捌けない注文は、同業の工房にライセンス生産を委託する。図面使用許諾料を徴収するから、ベングトソン工房の懐も潤う。
3.ベングトソン工房は高級貴族や従来のお得意様向けの高級商品・特注品に特化すれば、ブランド価値を守って、他の工房との差別化も図れる。
4.消耗品である『替え糸』は高いマージンを載せてカルトング商会から各工房に卸すことで、初期の試験研究費を回収する。
5.前金や特急料金など、支払条件の良い貴族様からの注文を優先的に扱う。
これが、即答で朗々と出てくるのだから、ナナシノ様の頭の中は一体どうなっているのだろうか? だけど、さすがに、「5.」の支払条件で納期を変える案だけは取り下げてもらった。いくら何でも大貴族相手にそれはないだろう。こっちの首が何本あっても足りなくなる。
「ところで、わしの所やトレディンさんの所はこの案で構わないが、いや、十分に配慮されていることは承知しているが、これではナナシノさ……、いやナナシノ様の取り分が無いじゃないか」
「ああ、それはご心配には及びません。」
ナナシノ様は、にこりと笑った。
「お客様からの注文にも、各工房や出入り業者への作業指示にも、必ず『注文票』『原票』『設計図』『納品書』を添付してもらいます。」
「……はい?」
「つまり、紙の消費が増えるでしょう?」
「紙の消費が……」
「ええ。紙の消費が増えた分だけ、紙製品開発に伴う知的財産権から、私名義の配当利益が入ってくることになっていますから」




