因果律の綻び2.0 ―― 非同期パケット
───【本話のウォークスルー対象】───
■ Section 01
ロヤレーリット視点:正執政官私宅・満足顔主人の怪
■ Section 02
コーネリアス視点:馬車中・赴任先への帰還
■ Section 03
グラディス視点:緑洲都市にて、一杯の思索
■ Section 04
灰艶憂姫:私室・第二攻撃能力の魔力漏洩
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─── ■ Section 01 ──────────
◆ ロヤレーリット視点:正執政官私宅・満足顔主人の怪
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「それで正執政官閣下の御様子はどうだったのだ、リヴスフレーデ?」
「どうもこうもないわよ、トローゲン。いつもなら、ロミュリウス様はこの時間には仏頂面で、感情の色一つ浮かべなさらないのが常なのに。今日はすこぶるご機嫌みたいだったわ。歩幅もいつもより大きくて、足取りまで軽やかで」
わしは二人の会話を漏れ聞きながら、ひとしきり訝しんだ。わしの手筈通りならば、今日のお忍びで、閣下はあの老いぼれとの対面を果たせず、無駄な鷹狩りの真似事で骨折り損のくたびれ儲けとなり、むっつりと帰宅されるはずだったのだ。
「ロヤレーリット、おぬし、どこかで手落ちがあったのではないか?」
トローゲンが不安そうにこちらを見る。
「正執政官閣下にしては、珍しく上機嫌での御帰宅らしいではないか」
「わしはきちんとなすべきことを成した」
「ならば、なぜだ?」
「知らぬ」
わしは即答した。
「だが、あの老いぼれと面会できなかったことだけは確かだ」
「本当なの?」
リヴスフレーデまで身を乗り出してくる。
あの老いぼれを、近在の代官屋敷の応接間に留め置かせたのだ。事前の使者は出さず、当日直前になって急用と称して呼びつけ、以後の連絡も一切絶っておいた」
「ならば、なぜ閣下はあれほどご機嫌なのだ? まさか……あの老いぼれから、枢密院議長への就任の快諾でも得られたのではあるまいな」
トローゲンが青ざめた顔で身を乗り出すが、わしは即座に首を振った。
「それは考えにくいぞ、トローゲン。特に念を入れて、閣下の応接を手厚くするよう申し入れておいたのでな。おおかたあのメイド長も代官屋敷に伴わせたはずだ。つまり、あの隠居屋には、閣下をおもてなしできる者など一人も残ってはおらんよ。気の利いた言伝すら、できる状態にはなかったはずなのだ」
「では、伝言すらできなかった?」
「その通りだ」
「それなのに上機嫌……?」
「だから、妙なのだ」
わしは腕を組んだ。
「それじゃあますます妙ね。あのご老人とお忍びで語らうこともできず、収穫もなく、まともな接待も受けられなかったはずなのに、あんなにご満悦のまま御帰宅されるだなんて。とても信じられないわ」
わしは予定通りの仕事をやり遂げたはずだった。この取次役を仰せつかって十年余り、閣下へお目見えする人の流れを、わしの思うがままに操ってきた自負がある。我々側近の便宜を図ってくれる者を優先し、そうでない者は、理由をつけて遠ざて。
誰が誰に会うのか。誰の話が閣下の耳に入り、誰の話が届かないのか。そうした細かな積み重ねこそが、政局を左右する。共和国のために働く者には、その働きに見合った取り計らいをする。逆に、余計な騒ぎを起こす者や、閣下を惑わせる者には、少しばかり遠慮してもらう。それだけのことだ。
わしは、その仕事を長年、滞りなく務めてきた。
今度もうまくいったと思っていた。いや、ほとんど思い通りに人を動かせたはずだ。あの老いぼれが隠居屋に戻られたのが、思っていたより一、二時間ほど早かったことだけは、確かに誤算だった。
おおかた、あのニコラウスがそういう小賢しい手配をしたのだろう。あの執事は昔から、そういうところだけは抜け目がない。しかし、それでも閣下が代官屋敷にお戻りになった頃には、既に行き違いで対面は叶わなかった――そのことは既に確認が取れている。ならば、閣下がこれほどご機嫌であるはずがないのだ。何かが、おかしい。
「トローゲン、リヴスフレーデ。閣下はこちらへ戻られる道中で、何ぞ目新しい物か、お気に入りの者でも拾ってきた様子はなかったか。つまりだ――上機嫌の理由は、あの老いぼれとは無縁のところにあるのではないかと、わしは見ておる」
「そういえば」とリヴスフレーデが小首を傾げる。「ロミュリウス様のお手元に、見慣れない金属のグラスのようなものと、葉の形をした小さな細工物があったような。何度もそのグラスを握り直しては、葉の細工をいじって、なにやら小さな、奇妙な音を立てて楽しんでいらしたようだったわ」
「それだ、それよ」わしは思わず膝を叩いた。「鷹狩りの帰りに、どういう経緯でそのような小間物を手に入れられたのかは知らぬが、要はお気に召す拾い物をされたのだろうよ。だからこそのご機嫌だ。あの老いぼれとは、何ら関わりのない話というわけだ」
「それなら、腑に落ちるわね」
「うむ、確かに」
二人が納得したように頷く。
わしも、ようやく胸を撫で下ろした。
わしとしたことが、いささか考えすぎていたようだ。いずれにせよ、あの老いぼれと閣下が直接お言葉を交わす機会は、確かに阻止できた。今はそれで良い。わしらが労を惜しまず、ここまで閣下を正しい方向へお導きしてきた。その積み重ねを、あの老いぼれ一人の思惑で、今更ひっくり返されては困るのだ。
何をとち狂われたか――いや、これは言葉が過ぎた。何をお気迷いになられたものか、この共和国の大法のどこにも定めのない「枢密院」などという、正執政官専属の諮問機関を新たに興そうとし、あまつさえその議長にあの老いぼれを迎えようとなさるとは。老害も甚だしいとは、まさにこのことだ。
この共和国には由緒正しい元老院もあれば、各自治都市には民会もある。何百年と、それで整斉と政は営まれてきたのだ。今さら余計な仕掛けなど、無用の長物に過ぎぬ。この共和国に「令外の官」など、断じて不要なのだ。
それに――今はちょうど、急進民衆派と守旧派の間で、危うい均衡が保たれているところなのだ。もっとも、それはわしらが陰で急進民衆派に肩入れしてきたが故の均衡でしかないのだが。なに、わしらにとっても、私欲の塊の方が御しやすいうえ、実入りまでもたらしてくれるのだから、肩入れするのも悪くないがな。
─── ■ Section 02 ──────────
◆ コーネリアス視点:馬車中・赴任先への帰還
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それにしても、移動がすべて馬車なのは敵わんな。馬の背なら身体が揺れに合わせて動けるが、馬車はどうにも勝手が違う。副官が言うには、俺が任地を離れて、首都で元老院に登院していたことそのものを、王国の連中には知られてはならないらしい。
軍団長が前線を離れている。
それだけ知られれば、王国軍に余計な勘繰りをさせることになる。ならば、俺がどこへ行き、いつ戻るのかも、なるべく隠しておくに越したことはない。理屈は分かる。分かるが、面倒なものは面倒だ。
俺も最初は、なんでそんな面倒なことを、と思っていた。前線にいる俺が、わざわざ首都まで戻って元老院で演説する。これほど俺らしくない仕事もない。しかし、俺の反対演説は、あの狸親父からの直接の依頼だったから、断れる道理が無かった。
表向きの理由は明快だった。
今や民衆の熱狂を背にして急速に勢力を伸ばしている急進民衆派。その中心にいる、あの小うるさいガキ共に真正面から論陣を張れる人材が、ほかに見当たらないという理屈だった。
政治の話は俺にはよく分からん。いや、分からんというより、あまり興味がない。だが、王国との戦争になれば話は別だ。俺が守っているのは共和国で一番脆弱な国境だ。議場で何を言われようが、王国軍が長城を越えてくれば、最後に矢面に立つのは俺たち第四軍団だからな。
だから、国家の方針を決める連中が何を考えているのかについては、最低限知っておく必要がある。
とはいえ、議場で演説をするというのは、やはり性に合わん。
取次役のロヤレーリットの奴が、狸親父からの是非にとの頼みだからと、何度も文を寄こしてきて気忙しかった。あ奴も側近の御多分に漏れず、三寧人のひとりだなんだと悪い噂の絶えない男だが、仕事熱心なところだけは感心する。
あれはあれで、なかなか見所があるぞ。
まあ、何度も口説かれて根負けしたのが本当のところなのだが、国境警備の責任者が任期中に任地を離れて国元に帰れることなど、そうそうあることではないからな。任地に残してきた部下たちのことは相変わらず気がかりだったが、そこは共和国随一の手の長さを持つ正執政官様からの正式な呼び出しだ。
俺の想像も及ばぬ情報網から得たという最新情報とやらで、王国の連中が攻めてこない確証でも掴んでいたのだろうな。この時期を狙っての帰国命令・登壇命令だったのだから。
しかし、共和国の最高指導者が使う諜報網の名前が「王の目王の耳」というのは、いかがなものか。王政時代からの名残だそうだが、時勢に合わせて改名しようとは思わなかったのだろうか。
あの狸親父のことだ、改名の検討会議でも居眠りとだんまりを決め込んで、結局まとまらなかったのだろうな。しかし、親子ほど年の離れた相手を「親父」呼びするのも、考えてみればおかしな話だ。
ならばもう一つのあだ名、「昼行灯」の方はどうか。いや、こちらも本質を捉えているとは言い難く、あだ名としては不合格だな。そういえば、俺が弁論していた時も、議場の一番目立つ席にもかかわらず、堂々と居眠りをぶちかましていたな。こうなればもう、いっそのこと「昼かがり火」とでも呼んでやるか。
……ダメだ。全然ダメだ。何一つ上手く言えていない。こういう理屈と言葉を捏ね繰り回すのは、あいつの得意領域だったな。
そういえば、あいつの姿を議場ではついぞ見かけることはなかったな。今では本当に俗世とは完全に縁を切ったというのは、嘘やデタラメではなかったか。そろそろ元老院へ復帰してもよいだろうに。昔のことをあげつらって文句を言ってくる者も、今ではもう大して残ってはいないはずだ。というより、そもそも真相を知る者自体、片手の指ほども残ってはいないのだが……。
それにしても、わざわざこのタイミングで狸親父が俺を呼び戻したというのは、あいつも含めて何やら密談でもする魂胆があるのではと、ここに来るまでは踏んでいたのだがな。とんだ肩透かしだった。久方ぶりに我が旧友と旧交を温め直す、絶好の機会になるかと期待していたのだが。
あいつの愛妻の近況でも教えてやろうと思っていたのに、会えずじまいだったのは、その点では実に残念でならん。俺には文の返事一つ寄こさぬ薄情な奴だが、俺の愛妹には、ちゃんと夫らしいことをしているのだろうか。文を送ったり、季節の折々に贈り物をしたり。まさか、何もしていないなどということはないだろうな。
しかしなんだ、65年ぶりの女神様のご降臨とやらのせいで、最近のあいつはあちこち駆けずり回って多忙を極めていると小耳に挟んだ。年も年なのだから、あまり無理はしてほしくないが――とはいえ、今の共和国で、女神様に卒なくお仕えできる者が、あいつを置いてほかにいるとも思えん。
仕方がないと言えば、仕方がないか。
それにしても……。
俺も一目でいい。本当に一目でいいから、死ぬ前に一度くらい、女神様のご尊顔を拝してみたいものだ。
女神様相手にこのような想像を巡らせるなど不敬千万かもしれんが、いかほどの美貌でおわすものか、考えるだけでぞくぞくして、期待ばかりが膨らんで仕方がないぞ、まったく。65年前に続けて、今また女神様に伺候できるあいつが、羨ましくて仕方がない。
……いやいや。
これ以上、夢想を続けるのはやめておこう。万一、女神様にこの不敬な想像を察知されて、神罰で処刑でもされたらシャレにならん。
この辺にしておくか。
「軍団長、もうすぐ大門を抜けます。速度を上げますので、揺れにお気を付けください」
「分かった」
副官のおかげで、全く無意味な夢想の時間に終止符を打つことができた。心の中で小さく感謝しておこう。
この大門を抜ければ、再び第四軍団の軍令権が我が手の中に戻ってくる。どうせここからは長旅だ。気を引き締めておかねばなるまいて。
この着慣れぬ紫の縁取りのトガとも、しばらくすればおさらばだ。早く軍装に着替えたいところだが、それまでは我慢だな。
馬車の中でただ漫然と時を過ごしていては、もったいない。ここは、長城の防衛作戦の更新案でも、脳内で練っておくとするか。
追加の補給や人員補充は絶望的だという話だが――なに、時間だけはたっぷりある。ロミュリウス12世閣下から授かったネタをもとに、王国軍の軍備増強計画への対抗手段を、じっくりと立案・準備する余裕だけは十分にあるのだから。
─── ■ Section 03 ──────────
◆ グラディス視点:緑洲都市にて、一杯の思索
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砂漠の風って、どうしてこうも肌にまとわりつくのかしら。
皇王国の蒸すような夏とは違って、乾いた熱気が頬を撫でるだけで、妙に心が落ち着くのよね。
──共和国行商の帰りに、こうして緑洲都市の水鏡亭で一息つけるなんて、贅沢だわ。
それにしても今回の北境商談旅はたったひとつを除いて上出来と言っていいかしらね。やっぱり后妃陛下から賜った特許状入りの通行手形は、効果てきめんだったわ。
皇王国が共和国と幾ら戦時下にあると言っても、あの自治都市群が結んだカンザ同盟の広範な交易網は、商人にとっては生命線だもの。むしろ戦争になったからこそ、こういう網目の価値がよく分かる。
小麦が欲しい土地には小麦を。絹が欲しい土地には絹を。銀が足りなければ銀を。遠く離れた土地同士を結び、必要な品を必要な場所へ流してくれる。
彼らの東大陸全土を縦横無尽に覆う交易網の恩恵から締め出されるなんて……想像しただけで身の毛がよだつわね。
あの下卑た親父を嵌め落とし、小麦の先物相場でちょっとした小遣い稼ぎをしたのはただのおまけ。本命だった共和国の穀物商の大店とは定期取引の話をまとめられたし、皇王国名産の絹織物の販路拡大も、どれも手応え十分。
光沢差で優美な植物柄のダマスク織や、金糸や銀糸をふんだんに使って、浮き織りの技術を駆使したブロケードなんて、東大陸広しといえど、そう簡単には手に入らない皇王国の名産中の名産なんだから。
これでひとまず一安心。
これ程の逸品を扱わせもらえるなんてヴェルヴェーヌ后妃様様よね。
皇王国からの輸出品は、小麦、お茶、絹織物、陶磁器に高品質な生薬。
共和国からの輸入品は琥珀、高級毛皮の黒貂、精密な紙器、書籍、そして決済用の秤量銀。
それから──忘れてはいけないのが、アカンシア様から言付かった顔料。
さすがは共和国屈指のカルトング商会の品揃えといったところかしらね。中興の祖であった先代が並々ならぬ執着を見せていたという紙器・文房具・画材の領域においては、質・量ともに他を完全に圧倒していたわ。
血晶朱の鮮烈な赤、緑洲孔雀緑の息をのむほどの緑、太陽黄砂の黄金色、白銀粉霜の絹肌のような白──どれもアカンシア様が絶対にお気に召す鮮やかさよ。
顔料なんて扱うのは私も初めてだったけれど、あんな鉱石からこれほど見事な発色が得られるなんて、素直に驚いてしまったわ。
……にしても、あのカルトング商会との商談は、一筋縄ではいかなかったわね。特に、三男坊のトレディン。あの生真面目すぎる小僧には、思い出すだけで腹が立つわ。私がアカンシア様への献上品として顔料を探しているのだと口にした瞬間、「この商談はなかったことにしてください。お引き取りを」なんて一蹴して見せたのだから。客を客とも思わない、まったく融通の利かない堅物だわ。
その後は幸運にも次男のアンドレソンが直々に相手をしてきて、腹の探り合いにはなったけれど、商談自体は滞りなく成立させることができて本当によかった。
後から少し裏を取ってみたら、カルトング商会そのものが、なかなか面白い状態になっていたわ。中興の祖である先代が、後継者を指名しないまま急逝。その結果、三兄弟が横一線で共同代表に就いたらしい。もっとも、横一線とはいっても、実際にはそう簡単な話じゃない。皇王国風に言えば、やっぱりあれかしら。やはり実権の多くは長兄が握り、三者三様の思惑で牽制し合っているみたいね。
長兄のエルドステンは、上昇志向の塊で、政商としての腕は一流。黒い噂が私の耳にまで入ってくるくらいで、上とのつながりを積極的に構築中。そのくせ前例踏襲には異様にこだわり、予定変更を嫌う偏屈者。下の者には厳しくて、従業員からの評判は最悪。既婚者、子あり。
なるほど。
いかにも、上には強く、下にはもっと強い男ね。
次男のアンドレソンは、兄とは少し違う。国内外の重要人物との交渉を担当する、いわば渉外屋。専ら腹黒との評判で、何を考えているのか分からない。計算高く、儲けの所在を嗅ぎ分ける鼻だけは相当に利く。今回の顔料の買い付けでも、しぶとい商談相手だったわ。既婚者、子なし。
ああいう男は嫌いじゃない。
もちろん、好きでもないけれど。
そして三男のトレディン。先代が遺した祖業、紙業を中心に相続した男。商売熱心で勉強家。ただし直情径行。真面目すぎて融通が利かない。……今回、それを身をもって味わわせてもらったわけね。一応、未婚者らしいけれど――
……ん。
ないわね。
さて、と。
「ふう……それにしても、素晴らしい眺めね」
冷やし果実酒を飲み干し、私は店内の吹き抜けから「天幕街」の喧噪を見下ろした。往路でも立ち寄ったけれど、「砂漠の民」の緑洲に点在する天幕街なら、やっぱりここが最高ね。この雰囲気がいい。
相変わらず気温は高いけれど、湿度がそれほど高くないから、皇王国の夏ほど蒸し暑くはない。肌を撫でる乾いた熱気が、ちょうどいい刺激なのよ。
こんな旅情に浸れるのも、結局は后妃陛下のおかげね。もっとも、私が今回の共和国への行商を許されたのは、単にヴェルヴェーヌ様のお気に入りの商人だから、という理由だけじゃないけど。
ヴェルヴェーヌ様が口利きをしてくださった交換条件が、六十五年ぶりに現れたという天帝様の垂象――その御様子を探ることだったのよ。
天帝様の垂象が現れたとき、どうやら二つの大きな神力反応があったらしい。
その実態を明らかにせよ。
最初に聞いたときは、まあ、なんて無茶をおっしゃるのかしらと思ったものよ。平民の私に、貴族様のような魔力探知ができるわけでもない。だから最初は、どうなることかと思った。
けれど、案ずるより産むが易し。
商談の合間に情報を集めるのは、思っていた以上に骨が折れた。出費も嵩んだ。でも、苦労した甲斐はあったわね。酒場の給仕や情報屋にちょっとした鼻薬を効かせ、目の前で胸元を覗かせながらしなを作って見せたら、男なんて簡単に口を割るんだから。
貴婦人には欲目、大夫には色目──よく言ったものね。
65年ぶりの天帝様の垂象は紛れもない事実だった。あの大賢者が崑崙――いいえ、あちらでは神山とか神域とか呼ぶらしいけれど――そこへ赴き、天帝様のお側に伺候して天命を伝え聞いているという。しかも、その内容は皇王国にも知らされるべきことは漏らさず伝えられている。
そこまでは本当だったし納得もできる。
ただし、不思議なのは、その先。あそこでは、皆が口を揃えて言うのだから。二つ目の神力反応については、たいした問題とは考えていない、と。
私から見ればなにかおかしな気がするのだけれども、天帝様を、彼らは畏れ多くも女神様として崇拝している。「女神様の後継者が地上に産み落とされたのだ」とか、「女神様の聖なる欠片が分霊されたのだ」なんて言って、むしろ吉兆・僥倖として受け取っているのよね。なんだか呑気というか、信仰心ゆえの妄信というか……変な話だわ。
けれど、私としては、それで構わない。共和国でそう認識されているのなら、そのまま国元へ持ち帰ればいい。私のお役目は、信仰上の真理を説くことでも真相を暴くことでもない。
知ったことを、正しく届けること。お役目だけ果たせればそれでいい。
それだけよ。
できれはこの一杯を、もう少し味わっていたかったのだけれど――。
「……それじゃ、チョックプラットの旦那……あの金持ちの商人の……ガキを誘拐……大丈夫なんですか?」
「なにビビってんだ。お前の……水属性魔法で……分かっているな、フューオクソン……向こうの砂漠案内の連中には……俺から話を通しておいた……」
……あら。
聞こえてしまった。真昼間から、こんな人目のある場所で悪だくみの相談?なんて危機感のない人たちなのかしら。砂漠案内がどうのと聞こえたけれど、隊商稼業の連中もいろいろ抱えているのね。こんなつまらない話を小耳に挟んだだけで、こちらまでとばっちりを受けるなんて、想像しただけで嫌になる。
私は早々に席を立って、我が身を危険から遠ざけることにした。
何も見なかった。
何も聞かなかった。
それでいい。ところが、ごく自然に店を出ようとした私の前に、嫌な小者が立ちはだかった。
「そこの麗しいご麗人。もしお時間があったら、こちらのテーブルでもう少しごゆっくりされたらどうですか?」
麗しいご麗人。
……まあ。
なんて語彙力も魅力も感じられない口説き文句かしら。
「ええ、お声がけはとても光栄なんですけれど。あいにくこれから所用がありまして急ぎますの」
「まあそう言わず、一杯くらい――」
しつこいわね。
剣蘭商会の『真紅の剣舞』と呼ばれる私のような妙齢の女が、意味もなく一人でこんなところにいるわけないでしょうに。
私は、このお店の雰囲気を一人で楽しむために、少し離れた場所に控えさせていた専属護衛へ、左手の指先で小さくサインを送った。
まだ出てこなくていい。
この程度なら、私ひとりで十分。
そして、目の前の男には柔らかく微笑んでみせる。
「ええ、お誘いは本当にうれしいのだけれど、ごめんなさいね。こちらのシャフルバーンに呼ばれておりますの。急いで参りませんと」
ごめんあそばせ。
─── ■ Section 04 ──────────
◆ 灰艶憂姫:私室・第二攻撃能力の魔力漏洩
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我は目を瞑り、意識を集中させる。そうして日中に見聞きした事の仔細を、ひとつひとつ思い出していく。これがここ最近の日課となっている。最近は思い出す記憶にいろいろと感情が乗ってくるから仕分けがいちいち面倒くさい。しかしこれは必要なことだと自分に言い聞かせている。
ふん。今日も大した収穫はないか。
ゆっくりと目を開けると、卓上に置かれた魔導灯が、青白い静謐な明かりをぼうっと放っていた。叔父上に頼み込み、あの忌々しい獣油ランプからこれへ差し替えさせたのは正解だった。獣油の炎は温かみのある蜂蜜色の光を放つゆえ嫌いではないが、パチパチとはぜる不快な音と、ギトギトした黒煙、そして肉が焦げたような悪臭が部屋を満たす。
長時間の思索など、到底耐えられたものではない。使うたびに閉口していたものだ。
さて、日中の記憶から得られるものが無ければ仕方がない。これまでに入手できた断片的な事実を時系列で組み直し、ここからは冷静に考えをまとめることとしよう。
事の発端は、65年ぶりの天主様のご顕現にある。
我は例の如く、宮中での居心地の悪さから、帝都から遠く北辺にある叔父上の館に身を寄せていた。
ノルトデンブルク辺境伯領。
共和国と称する北方自治都市領と直接国境を接している。つまり叔父上の領地は帝国北方における国境防衛の要の土地だ。
だから、この地に身を寄せていた我が、65年ぶりの天主様のご顕現に際して、もう一つの異常な神力をこの身に感じたとしても、不思議ではない。
魔力による探知は、距離とともに減衰する。高位貴族なら誰もが知っている、ごく初歩的な知識だ。ならば共和国の聖地で観察された異常魔力が、遠く離れた帝都の行宮よりも、このノルトデンブルクで強く感じられたとしても道理にかなう。
神力と魔力に質的な違いはない。
ただ、天主様から放たれる神力は、その圧倒的な規模と、何よりも「天主様の御力である」と誰にでも理解できるほど明瞭な特徴を持つ。それもまた、我らが幼少の頃から教え込まれてきたことだ。問題は、その時に観察されたもう一つの魔力だった。
我らの聖地は、共和国を称する北方自治都市領の中にある。だからこそ、帝国の教会も帝室も、聖地の動向について水も漏らさぬ諜報網を築いてきたはずだ。
それなのに。
天主様がご顕現された際に観察された、もう一つの異常魔力。それがほどなく消滅したと聞くや否や、単なる観察誤差として片づけてしまった。信仰の観点からも、政略の観点からも、追究を止めるなど言語道断だ。
そのうえ怪しさに輪をかけるようなことが分かった。その後に共和国から届く報告内容まで変わっていた。第一報では、単なる天主様――向こうでは女神様と呼ぶらしいが――のご顕現であって、何ら異常事態はなかったという話だった。ところが後になって、その報告は一部修正された。
「女神様の後継者が地上に産み落とされた」
「女神様の聖なる欠片が分霊された」
そのような風説が広まり、共和国の民草の間では、むしろ吉兆、僥倖の印として歓迎されているという。
……妙だ。なぜ、この異常性に誰も声を上げないのだ?
あまりにも都合よく、同じ方向へ話が流れている。自然発生した噂なのか。それとも、誰かがそう信じさせようとしているのか。我はまず、第一報をもたらした大賢者を疑った。
共和国では第一線を退いたはずのあの男が、未だに天主様の伺候係を拝命しているという。加えて、あの正執政官も、今回の一件については妙に口が重い。国政の要たる二人が揃って沈黙を守っているというのが、我にはどうにも作為的な符合に思えてならぬ。
ならば、大賢者なら何かを知っていてもおかしくはない。大賢者の近辺にいる者からも情報を得ようとした。だが、今のところ何もおかしなところは見つかっていない。
ただ、気になることが一つある。
あれから大賢者は、頻繁に聖域へ伺候しているという。そして、その移動中に何度か、高出力の魔力が観察されている。どれも一瞬。しかも、毎回、大賢者が聖域へ向かった時だけだ。同行者は、お付きの平民出の若者が一人だけ。こちらも後で調べさせたが、怪しいところは見つからなかった。
……では、あの二つ目の異常魔力はいったい何だったのだ?
本当に観察誤差だったのか。それとも、本当に天主様の御力の欠片か何かなのか。我はそこで考えるのを止めた。性急に推測を重ねても、真相から遠ざかるだけだ。
我は卓上のカップを手に取り、すっかり冷めきったお茶で唇を湿らせた。
……何かを見落としている。
そんな気がする。今度は、共和国ではなく帝国側の動向へ思索を向けてみる。
教会側も、帝室も、共和国には厚い諜報網を築いている。それなのに、表立った動きが何もない。天主様のご顕現があった直後、我は聖地奪還の聖戦が始まるのではないかと身構えた。実際、教会を中心とする旧教側の大司教や領主たちは、聖戦を声高に主張していた時期も確かにあった。
だが、実際には戦にはならなかった。
それどころか、商人や旅行者の往来を通じて、「もう一つの魔力は吉兆、僥倖の印だ」という噂が帝国内にも広まり、今では聖戦よりも聖地巡礼の熱の方が高まっている。
新教側の領邦も同じだ。ここノルトデンブルクもそうだ。旧教徒だろうが新教徒だろうが、聖地を一目見たいという者が増えている。
……それ自体は平和な話だ。
だが、だからこそ気になる。この世論の流れに、本当に誰の作為も介在していないのか?教会も帝室も、これほど大きな変化を前にして何もしていない。それとも――何かをしているからこそ、我々には何も見えないのか。
ふう。
こちらも思案は行き止まりだ。
ここまで八方塞がりだと、思い切って我の秘中の秘を暴露して、誰彼構わず聞き倒し、このもやもやを一気に晴らしたいという衝動すら湧いてくる。
我が人一倍精度の高い魔力探知ができるだけでなく、実はこの器に人並み外れた量の魔力を溜め込んでいることは、決して他人に知られてはならない。父帝の実子。北方軍閥の名門であり、七大選帝侯の一つでもあるノルトデンブルク辺境伯の実姉を母に持ちながら、我は「魔力なし」の忌み子として蔑まれて育った。そして、「魔力なし」であることを理由に、父帝の後継者争いからも早々に外された。
それでよかった。
この頃になってようやく兄皇太子を後継者とする流れが固まりつつある。今更、「実は我にも魔力がありました」などと知られれば、また醜い争いが始まる。再び母上の身にも危険が及ぶかもしれない。それだけは避けねばならぬ。
だが、宮中の政争を避けることと、対共和国の外戦に備えることは別問題だ。我は帝国の姫なのだから。
我は生来の事情から登録は免れておるが、東大陸の高位貴族は、例外なく高位魔法師・魔術師である。ゆえに、皆が『高位魔導登録』に名を連ねている。高出力の魔力は個体差が大きく、識別も容易だ。高位貴族は、東大陸のどこにいようと、同位の魔法師・魔術師が張り巡らせた魔力探知の網から完全に逃れることはできぬ。
それが、この東大陸の安全保障を支えている。もし天変地異を引き起こすほどの高出力魔術を放てば、たちまち所在を知られ、報復攻撃の目標になる。だからこそ、誰も容易には大魔術を撃てない。
それが相互牽制となり、何百年もの間、東大陸では大魔術の撃ち合いから生じる魔力漣漪による大破滅は起きていないとされている。
……だが。
我は、皆が安心しきっているこの仕組みそのものに漠然とした恐れを抱いている。世の高位貴族どもが揃いも揃って自分の魔力を隠そうとはしないという幻想に。
権力を誇示するため。
あるいは、異性へ己の力を見せつけるため。
そんな理由から、誰もが魔力を登録し、誰もが自分の存在を探知されることを受け入れている。
――本当に、そうなのか?
そして、隠されていない魔力だけしか登録できない高位魔導登録の構造的欠陥に。
ならば。
世に潜む第二攻撃能力の存在を、誰が荒唐無稽と笑い飛ばせる?もし、意図的に魔力を隠している者がいたなら。もし、その者が高出力魔術を行使できるほどの力を持っていたなら。既存の抑止網から外れた戦力は、それだけで脅威になる。
そして今、我は――
共和国に存在するかもしれない、その「見えない戦力」の痕跡を掴みかけているのではないか。一瞬だけ現れ、そして消える。探知網に登録されていない、高出力の魔力。
それはまるで――
暗闇の中で、一度だけ点滅した灯火。
我は、あるやもしれない共和国の第二攻撃能力の魔力漏洩のしっぽを掴みかけているのではないか?




