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北領地防疫戦2.0 ―― side[ひだまり聖女, 揺り籠]

───【本話のウォークスルー対象】───────

■ Section 01 聖女視点:馬車内・暗黒再訪魔力氾濫

■ Section 02 揺籃視点:夜山・献身探索泥濘排他

■ Section 03 聖女視点:陣幕・異人邂逅強制終了

────────────────────────



─── ■ Section 01──────────────

◆ 聖女視点:馬車内・暗黒再訪魔力氾濫

────────────────────────


「お嬢様、お嬢様、アネリーお嬢様。大丈夫ですか?」


「……え?どうかしたの、クリュティエ」


「いえ。お嬢様がぼうっとされて、心ここにあらず、といったご様子に見えましたので、つい」


「大丈夫よ、心配いらないわ。ちょっと、考え事をしていただけ」


私は今、馬車に揺られて北領地へ向かっている。先日の土砂災害の後、現地で致命的な疫病バグが蔓延しているという。そのため、フェルトルン公爵家の強い要請プッシュによって、神殿傘下の聖救治癒院から、巡回治癒団が派遣されることになった。


私はその一団へ、公爵家クライアント側からのお目付け役として同行している。お父様がご尽力されて今回の派遣が決まったのだけれど。私みたいな子供がお目付け役だなんて、あまりに荷が重い。所詮はお飾り。公爵家《上層部》の人間なら、誰でもよかったのだ。


最初、この話が出た時、お父様は私の北領地行きに猛反対されたそうだけれど。お父様が『ある用事』があって席を外した、わずかな隙に。序列二位のイーリスお姉様のお母様が、私の北領地行きを強引に承認フィックスしてしまったのだそうだ。


お父様は必死に、その決定の取り消し《ロールバック》を試みてくださったらしいけれど。もう、正式な書類ログとして処理されてしまった後。変更は間に合わなかったという。


でも。私もせっかく治癒術プログラムが使えるのだから。こういう機会に、少しでも公爵家のお役に立ちたいと思っている。せっかく、失っていたこの両のシステムも、奇跡的に回復リカバリしたのだから。だから、ちっとも嫌じゃない。


……でも。治癒術ちゆじゅつのことを考えると。どうしても、あの不可解な出来事エラーを、また思い出してしまう。


―――


あの日の午後。ちょうど、魔法実技の試験の順番を待っている時だった。長期でお休みをいただいていたので、あの日の実技試験を逃すと、次は3週間後になってしまう。


どうしても、あの日に実技試験テストは受けておきたかった。お姉様から連絡があって闘技場で模擬戦を行うから、応急処置員ヒーラーとして運営の手伝いをしてほしい、というお願いだった。お姉様からの依頼オファーだから、何を差し置いてもすぐに駆けつけたかった。


けれど、実技試験テストも大事だった。普通なら、運営係に声がかかってから試合開始キックオフまで時間がかかる。試合もすぐに終わることはないだろうから。順番を見て、ぎりぎり間に合うと高をくくっていた。


すぐに実技試験の番が来て、決められた手順で何度も練習した流儀フォーマットだったから簡単に課題はこなせた。試験が終わって、着替えもせず、どうせ、動きやすい格好シェルで、応急処置のお仕事をしなければならないからと考えてすぐに闘技場へ向かった。


会場に着くと、ちょうど勝負がついて、男の子が倒れていた。お姉様の指示で、すぐに男の子の容態ステータスを診ることにした。この子は、平民ゲストなんだろう。年は、10歳くらい? でも、とても魔力が小さいことに、ちょっと驚いた。普通の、平民ゲストの子でもこれほど小さいことは滅多にない。生まれたばかりの赤ちゃんだってもう少しあるかも、というくらい。


診察のために、魔力で診断波をつくって、男の子の身体デバイスに、軽くぶつけたのだけれども、魔力の反響エコーがまったく返ってこなかった。普通なら、魔力の跳ね返りが鈍いか、または強すぎることで、悪い所がすぐに判別デバッグできるはずなのだけれど。


診断波は、吸い込まれるでもなく、跳ね返されるのでもない。ただ受け流されるだけで、まったく手応えが感じられなかった。ほんとうに、不思議な子――。


「本当に、おかしいわ。魔力波が、身体に定着インポートしない……?」手応えはあった。だが、まるで油を塗った床の上を滑るように、私の魔術が外側へ逃げていってしまう。


魔術の網が、男の子の身体に掠りもせずに滑り落ちていく。当初は私の魔力制御コントロールが乱れているのかと思い。自分の指先を見つめて、幾度も魔力を練り直した。だが、何度波を放っても、結果は同様だった。


目に見えない何かが、私の診断波を完璧に、そして滑らかに『いなして』いる感覚。この子の身体の表面で、するりと遊ばれているかのような。


怪我をした瞬間は目撃していないが、周囲の説明によれば、強い衝撃を受けて脳震盪を起こしているらしい。「物理的な反響エコーが通じないというのであれば、少し荒っぽい手法をとらせていただきますね」「私の意識を、この子の精神ウェーブに直接、繋がせていただきます」「直接、同調シンクロさせるしかありません」


今度は精神同調ディープ・シンクロの魔力波を形成し、この子に当てる。患者の意識の深層へ滑り込み、脳が感じている悲鳴――痛みや衰弱を直接知覚する、いわば禁じ手だ。だが、結果はまた同じ。魔術的なアプローチは、身体的にも精神的にも、すべて『無抵抗のまま、ただ受け流される』。


こうなれば、最終手段。「精神共感魔法ディープ・エンパシー」にて、無理やりにでもこじ開けて、中に入り込むしかない。落ち着いて、後から顧みれば。なぜ私が、このような場所で、この子にこれほど躍起ムキになっているのか。平常心でなかったことは十分に理解できるのだけれど。


その時は焦燥感に駆られ、そうする以外の選択肢が、まったく頭に浮かばなかったのだ。私は奥歯を噛み締め、禁忌に近い最大出力の「精神共感魔法」を展開した。自身の精神を限界まで削り、牙のように研ぎ澄まして。


この子の精神領域サーバーへと深く突き立てる。悪い所《患部》はどこ……? なにもみえない、何も視えない! えっ、今度は何?音と、光と、意味不明な文字列が……。頭の中に、直接、氾濫バーストしている……! 


ダムが決壊したかのように、加工も制御もされていない。生の、膨大な情報ノイズが、一気に脳内へなだれ込む。それは、五感を狂わせる、とてつもない情報量のメガ・ノイズ。視界が数千、数万の極彩色の断片に裂け、耳元で同時に何百人もの絶叫と、機械的な駆動音が鳴り響く。意味をなさない数字、反転した視界、幾何学的な模様、他人の記憶。そして、濁流のような魔力のうねり。


この子の様子を探るどころではない。私が今、何を視させられているのだろう。何を聞かされているのかすら、ちっとも理解できない。この状態が継続すれば、主治医から、いつも聞かされてきた。反射ダメージ《エラー》の数々の記憶が、不意に蘇る。


――痛みの過剰同調シンパシー・ショック。重症患者の劇痛をそのまま脳で受け止め。術士自身がショック死しかけたり、気絶したりする。


――精神の汚染インフェクション。患者の狂気、恐怖、あるいは「死への誘惑」に術士の心が引きずられ、自我が崩壊しかける。


――偽傷現象シャドウ・ペイン。患者の骨折や内臓の損傷と、同調しすぎた結果。術士の健康な身体にも、同じ痣や痛みが一時的に現れる。私の場合はそれに加え、視力を失うことが多い。


もう駄目だ、脳が壊れる……。私は思考を諦め、カクンと意識を手放しかけた。自我の境界線が消え、深い闇に落ちるその刹那。嵐のように渦巻いていた無意味な情報が、ふっと嘘のように形を消した。意識の死に際にだけ訪れる、奇妙なほどに冴え渡った視界。


そこに、ただ一つの事実パケットだけが、ぽつんと浮かんできた。


……あ、そこ、か……よかった、典型的な軽い脳震盪みたい。しばらく頭痛と目眩めまいは残りそうだけど。傷が塞がっていく生命の息吹が戻ってくるのが分かった。


でもどうして最後、意識を失いかけて、共感を解除しようとした瞬間にだけ一度凪のような状態になって、患部のことが分かったんだろう? 


診断に思いの外時間がかかったので、お姉様は患者のこの子より私の身体の方をやたらと心配してきた。お姉様はお優しいのか気にしすぎいなのか、ほんと妹を大事にしすぎですよ。今は私のことよりこの子のことを労わるべきではないでしょうか。


「もう、お姉様ったら……。お優しいのは嬉しいですけれど、妹を大事にされすぎですわ!」「今は私よりも、このお気の毒な男の子のことを、心配して差し上げてくださいまし」


そういったら、お姉様もいくらか落ち着きを取り戻したのが、後はてきぱきと現場に指示出しを始めた。私がこの子に付き添いましょうかと言ったけれど、お姉様がこの子を家まで送っていくと言い出して自分の馬車の手配をしてしまった。


私はこんな不思議な体験をして、その原因が知りたかったけれど、誰にも相談することはできなかった。だって相談したらもう二度と治癒士の仕事をさせてもらえなくなりそうだから。特にお姉様には絶対に相談できない。


―――


「お嬢様、お嬢様、アネリーお嬢様。大丈夫ですか?」


「……え?どうかしたの、クリュティエ」


「いえ。お嬢様がぼうっとされて、心ここにあらず、といったご様子に見えましたので、つい」


「大丈夫よ、心配いらないわ。ちょっと、考え事をしていただけ」


その後はクリティエとのとりとめもない会話で思いの外時間が早く過ぎて退屈をしのぐことができた。ようやく北領地の集落の入り口が見えてきた。



─── ■ Section 02──────────────

◆ 揺籃視点:夜山・献身探索泥濘排他

────────────────────────


「団長様……あなた方は、我が主を便利で尽きぬ魔力の泉だとでもお思いですか? あの方は、あなた方の都合で壊していい人形ではありません。……私が、あの方が揺り籠の中にいらした頃から、どれほどの想いでお側でお守りしてきたと思っているのですか!」


私は今とても憤慨しています。


アネリーお嬢様は『ひだまり』のように、ただ周囲を救いたい一心でご自身の身をいつもたやすく捧げられるのです。ですが、その献身を、ここの聖救治癒院からきた巡回治癒団の方々は当然の権利のように貪り食っているだけなんです。あの方が光を失ってまで施した治癒の重さを、団員の方々は一体、何だと思っているのでしょうか……!


北領地のこの村の現状は、言葉を失うほどの生き地獄でした……。土砂に圧し折られた建屋、泥で完全に埋まった命の井戸。それだけでも絶望的ですのに、今の領民たちは汚水と嘔吐物の入り混じった異臭のなか、ただ力なく泥濘(ぬかるみ)の上に倒れ伏しています。皆、激しい水様便と嘔吐に襲われ、身体中の水分を容赦なく搾り取られて……。頬は削げ、目は不気味なほど落ち窪み、まるで生ける屍のよう。ただ生きるだけの気力さえ、病魔に擦り切れているのです。


食料も、衣服も、まともな雨風をしのぐ場所すら奪い去った土砂災害。その上に重なる、このおぞましい疫病バグ。どこまでこの村に呪いが降りかかるというのでしょう。


……ああ、お労しや、アネリーお嬢様。治癒団の者たちに貪り食われ、その『ひだまり』のような光を失いかけてまで、お嬢様はどれほど癒やしの光を注がれたことか。……それなのに、お嬢様が命を削って灯した光さえ、濁流のように溢れる汚物と病魔の泥に、すべてが掻き消されてしまう……。


治癒団への怒りで胸が張り裂けそうです。ですが……これほどの地獄を前にして、お嬢様が施しを止めるはずがないことも、私は痛いほど分かっているのです。ならば、私は聖女アネリーの侍女。この腕がどれほど震えようとも、お側を離れはいたしません。


あの方が『揺り籠』の中にいらした頃から捧げてきた我が身です。この地獄の底のような泥の中で、お嬢様の光が完全に消えてしまわぬよう、今度は私が人々の『揺り籠』となって、この命の限り看病を続けます。……ですが女神様、本当に、本当にこの地をお見捨てになったのですか……


―――


 冷たく(くら)い夜の山林を進みながらも、私の脳裏には昼間の光景が焼き付いて離れなかった。悪臭と汚物に塗れ、生ける屍のように泥濘へ倒れ伏す領民たち。何より私の心を引き裂いたのは、あの地獄を前にご自身の身を削り続け、またしても両の眼の光を失ってしまわれた我が主、アネリーお嬢様の姿だった。


 探しているのは、この山間部に自生するという紫色の小さな花――ヘリオトロープだ。 光を失い、暗闇の恐怖のなかで横たわるお嬢様の枕元に、せめてあの甘く、優しい香りを届けたかった。あのお姿を思い出すだけで胸が締め付けられるからこそ、せめて香りだけでも、お嬢様が『揺り籠』の中にいた幼き頃の、あの幸福な記憶で満たして差し上げたい。


突然、小さな谷川の向こうから、松明に照らされた男たちの苛立った声が聞こえてきた。


「南側斜面の木の方が太くて扱いやすいんだ! 復旧資材としてそっちを伐採させろ!」 


声の主は、災害対応で派遣された土魔法師たち。彼らに囲まれていたのは、中学生ほどにしか見えない小さな少年だった。少年は怯える風もなく、むしろ物腰柔らかに頭を下げて微笑んでいる。


「お疲れのところ恐縮ですが、どうか私のプラン(計画)も聞いてください。南側は斜面が急峻すぎます。今ここで木を切って山の保水能力を落としたら、次の雨でまた大崩落を起こして村が完全に圧し潰されてしまいますよ。」


「な、何だと……?」


「それに、太陽が昇る位置を考えてみてください。」


「ここは北領地ですから、日陰になりやすい北側斜面の方が、雪解け水で地面が緩んでいるんです。まずは北側の木を優先して間引き、斜面を軽量化させつつ、その木材で防疫施設を建てましょう。資材の『質』ではなく、村民の『生存率』の最大化ですよ。この方が皆さんも村民から喜ばれますって。」 


(……一体、何事かしら) 私は谷川の遠くから、その奇妙な光景を冷めた目で一瞥した。


小さな子供が大人たちを相手に、何やら一生懸命に熱弁している。土魔法師たちが気圧されたように黙り込んでいた。


(……でも、あの子の言葉、変ね。なんだか一言ごとに、奇妙な『点』で打ち切られているみたいに聞こえるわ)


けれど、今の私にはそんな雑音に耳を傾ける余裕などない。アネリーお嬢様は暗闇の中で私の帰りを待っているのだ。 私は彼らから視線を外し、さらに昏い森の奥へと足を進めた。


―――


土砂崩れの瓦礫から拾い上げてきた、縁の欠けた素焼きの水瓶。谷川の澄んだ水を満たし、私は手にしたヘリオトロープをそっと挿し込んだ。コト、と不格好な水瓶が古びた本部庁舎の床板を鳴らした次の瞬間、


閉ざされた廃屋の木壁に囲まれた空気が一瞬で変わる。水に触れた小さな紫の花々から、爆発するように甘く濃密な香りの刺激が弾け飛び、暗い部屋を満たしていった。


「……ふふ。甘くて、どこか懐かしい匂い。クリュティエ、ヘリオトロープでしょう?」


ベッドのシーツが擦れる音と共に、光を失ったはずの瞳をこちらへ向け、お嬢様がひだまりのように優しく微笑まれた。その強い香りの刺激に、浅い眠りから呼び覚まされたらしい。


「お嬢様……! 起こしてしまいましたか」


「いいえ。あなたが私を置いて、どこか遠くへ行ってしまう夢を見ていたの。でも、この香りが私を連れ戻してくれたわ。……ふふ、やっぱり。私が『揺り籠』にいた頃、お部屋にいつも飾ってあった、あのお花ね」


目が見えずとも、お嬢様は正確に私の手元へと細い御手を伸ばされる。一時的に光を失ったあの方の御手は、それでも私の凍えた心を溶かすほどに温かい。


「ありがとう、私の可愛いクリュティエ。世界がどれほど暗闇に包まれても、あなたがいるだけで、私はいつだって『揺り籠』の中にいるみたいに安心できるわ」


お嬢様は愛おしそうに花の香りを胸いっぱいに吸い込むと、満足したように再びそっと枕に頭を預け、穏やかな寝息を立て始められた。 


その寝顔を見届けた私は、自分の袖口やスカートにべたりと付着した、夜山の泥の匂いに気がついた。私自身が瘴気の源になって、お嬢様にこれ以上の苦しみを与えるわけにはいかない。それに、先ほど谷川の向こうで、あの小さな少年が土魔法師たちに警告していた言葉が、なぜだか胸に冷たく引っかかっていた。


『北側斜面の方が、雪解け水で地面が緩んでいる』


もしあの奇妙な言葉が真実なら、この仮本部庁舎のすぐ裏手にある北側の斜面は、今すぐにでも補強しなければ危険なはずだ。お嬢様が再び深く眠りにつかれた、今のうちに。


せめて外の魔法師たちを捕まえ、地盤の再確認を催促してこよう。衣服を清めるのは、その後だ。ヘリオトロープの残香が優しく満ちる部屋の中に、お嬢様を一人残し、私は急ぎ足で外へと扉を開けた。夜の隙間風が、私の火照った肌を冷たく撫でていく。



─── ■ Section 03──────────────

◆ 聖女視点:聖女視点:陣幕・異人邂逅強制終了了

────────────────────────


クリュティエが部屋に来てくれてから、どれほどの時間が経ったのだろう。彼女が残してくれたヘリオトロープの甘い香りが、古い仮本部庁舎の木壁に閉じ込められ、暗闇のなかで濃密に満ちている。その優しさに包まれながら、私は再び、浅いうたた寝の海へと沈みかけていた。ギィ……と、古びたドアが軋む音が、私の耳に届く。 


足音は小さく、ひどくふらついている。クリュティエではない。視覚を一時的に失った私の鼻腔が、新しく部屋に滑り込んできた匂いを感じ取る。ひどい泥の匂い。鼻を突く薬品の匂い。



そして、限界まで擦り切れた大人のように疲弊した、でも子供のような足取りがする気配。


「はぁ……。最悪だな。現実のタイムライン(進捗予測)を見誤った。コンサル失格だな、こりゃ……。」


暗闇の向こうで漏れた、小さなつぶやき――(……っ!?)


 私の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。布に遮られ、低くくぐもったその独特な音声の周波数。間違えるはずがない。あの時、暗闇の中で、父親の愛を疑う私を『今のわたしという存在そのものがお父様の愛情が本物だった証拠』と、救ってくれた……あのひと……の声だ。


でもなぜ、どうしてここに? 私の思考がその矛盾を解決しきるよりも早く、バリバリバリ!!! と、建物の背後でトウヒの巨木たちが一斉に圧し折れる、おぞましい地鳴りが辺りを震わせた。


「しまっ――崩落が始まったか……!」


「きゃあ……っ!」


 次の瞬間、私の時間感覚が、おかしな不連続を起こした。ドサ、とベッドに誰かが飛び込んできた――その手触りの最中、時間が一秒、カチリと静止する。私の身体が細い腕に抱きすくめられたところで、また一秒、静止する。


頭上から迫る梁の軋み、崩落する瓦礫の風圧。それらの「死の気配」が私の肌を刺すたびに、私を抱きしめるその小さな存在が、まるで一瞬ごとにすべての時間を止めて。


(…………)


なんだか身体の配置を微調整されている感じ。


(…………)


一秒、静止。あのひとのくぐもった息遣いが、私の首筋に触れる。一秒、静止。私と同じぐらいの子供の体重しかないような小柄な身体が、私の全方位を覆い尽くす。まるでその小さな肉体を盾に戦っているかのようだった。落下してくる瓦礫らしい塊の気配は感じるけれど、私の身体には何も衝撃が無い。


「大丈夫だ……っ、絶対に、ロスト(死なせ)やしない……!」


くぐもった布の向こうから放たれた、悲壮なまでの執念。その瞬間、辺りを埋め尽くす崩落の轟音が、引き延ばされた(とき)の、不自然な衝撃音へと変わる。


……バキッ。


(静止)


……ゴンッ!


(静止)


激しい鈍い衝撃の破片がこのひとの背中を打つ。くぐもった短い悲鳴。


最後の一秒の静止のあと、建物が完全に圧し潰される大音響と共に、私を包む世界の時間が、唐突に動きを止めた。


激しい崩落の轟音が遠のき、世界に静寂が戻る。鼻腔を満たすのは、ヘリオトロープの残香を完全に掻き消した、立ち込める土埃の匂いだ。


……冷たい。


ふいに、私の頬へ、ぽつりと大粒の水滴が落ちてきた。雨かしら、と思った次の瞬間、鋭敏な私の嗅覚が、その水滴から立ち上る特有の匂いを捉える。――鉄さびのような、生々しい血の匂い。


「……あ、う……」


その匂いに意識を覚醒させられた私は、自分の身体を押し潰すようにのしかかっている、圧倒的な重みの正体に気がついた。私を瓦礫から護り、いま、頭上で完全に動かなくなっている存在。くぐもった声で私に『ロストさせない』と告げた、あのひとだ。


けれど、触れる衣服の手触りも、私を覆う身体の質量も、私の記憶にある『大人の男性』のそれにしては、あまりにも小さく、細すぎるように思えた。


(どうして……? でも、そんなことはどうでもいいわ!)


このひとの身体から、絶え間なく私の顔へと血が滴り落ちてくる。早くしなければ、このひとは死んでしまう。私を護るために、命を落としてしまう。暗闇の中で、私は迷うことなく、自分を抱きしめたままのこのひとの身体へ、ゼロ距離で両手を回した。


自分の身に迫る疫病の恐怖も、暗闇の恐怖もすべて忘れて、私は胸の奥の魔力を一気に解放する。


「……『癒やせ(ヒール)』……!」


私の魔力が溢れ出し、密着したこのひとの身体へと流れ込んでいく。 その瞬間、私は無意識に、このひとの傷の深さを測るために深く、深く精神を繋いでしまった。


あの模擬戦の後、気絶した少年…………を治療したときと同じ――禁忌の『精神共感魔法(ディープ・エンパシー)』の領域へと。カチリ、と脳内で何かが異常同期を起こす。このひと精神深部へと感覚が触れた刹那、私の意識は、人間一人のものとは思えない『膨大な記憶の氾濫』に狂おしいほどに飲み込まれそうになった。


人の感情こころではない、これは、恐ろしいほどに冷徹な数理の冷気と、論理の奔流。異質な記憶。


(……おかしな感覚。このひとの心の中、まるで――) 


馬車の中で思い起こした、あの少年の精神に触れたときの、恐ろしいほどの違和感が脳裏をよぎる。


脳が焼け付くように熱い。ぷつりと、世界が深い闇へと落ちていくのが分かった。けれど、このひとの身体が不意に大きく跳ね上がり、私の魔力を拒絶するように、同調はそこで唐突に強制終了(シャットダウン)された。


はっ、と我に返る。腕の中の身体に、確かな脈動と、傷が塞がっていく生命の息吹が戻ってくるのが分かった。――ああ、よかった。間に合ったのね。安堵が胸を満たした瞬間、限界を超えて魔力を絞り出した私の意識へ、なぜか、見たこともない奇妙な『幾何学の紋様』が、呪詛のように激しく明滅した。


『plot_isekai_rec_v1.1.O_fixed.avi.001』


それは、この東大陸のいかなる聖印や、神聖文字の規約ルールにも存在しない。ただ、不自然なほど等間隔に、冷たく並んだ『線の羅列』。


このひとの精神深部に触れた名残なのか、それとも、私の魂が何かおぞましい禁忌の領域(ソースコード)に触れてしまったのか。


疑問を口にすることさえ許されず、限界を超えて魔力を絞り出した私の意識は、暗黒の底へと落ちていった。


それと同時に、急激な過負荷(エラー)によって、ぷつりと深い闇が広がる。


完全に意識の電源が落ちる、最後の最後の刹那。 光を失ったはずの私の脳裏に、


(……えっ、これ……一体、なに……?) 




【Error: Execution suspended by administrative shadow-IT.】


[readme_ver1.O.X.txt: 警告 - 閲覧権限が変更されました。以降のセグメントは別サーバーへデプロイされます。現在、データ転送の遅延(レイテンシ)が発生中。次セグメントの完全同期まで、あと〇日]



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