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模擬戦イベント ―― [side: イーリス]

───【本話のウォークスルー対象】───────

■ Section 01 イーリス視点:学院・氷華淑女観閲式

■ Section 02 イーリス視点:闘技場・異床同夢模擬戦

■ Section 03 イーリス視点:上屋敷・密室驚愕視線交差

────────────────────────



─── ■ Section 01──────────────

◆ イーリス視点:学院・氷華淑女観閲式

────────────────────────


 昼下がりの学院構内の大通り、午後の魔法実技試験を前に私は学友達と一緒に闘技場までの道を行進している。試験前のウォーミングアップにと闘技場内にある試合場のひとつを借りた。私が試験に落第することは何があっても絶対に許されない。


 制服でもドレスでもない実習用に仕立てられた動きやすい服装に着替えてきた。足元はロングスカートではなく、乗馬ズボンに似た動きやすいスリムなパンツと、しっかりと足首をホールドする編み上げのショートブーツ。上着はウエストを絞った丈の短いジャケットで、両手には魔力による火傷を防ぐための丈夫な革の手袋が嵌められている。


 学友達はそのまま軍での私の部下でもある。完璧な歩幅と「二歩後方」という軍律通りの配置を保って学院内を移動する様は、陰で「『氷華の淑女(サファイア・レディ)』とそのご学友部隊の観閲式」と揶揄されているのも知っている。


 でもそんなことをいちいち気にも留めない。私は御三卿(ドントレフーガ)筆頭、フェルトルン公爵家を継ぐ身。そして軍最高峰の規律たる近衛兵団で部隊を任される指揮官だ。外では「高位貴族としてのイーリス」、軍では「優秀な軍人としてのイーリス」、両親の前では「従順な娘としてのイーリス」の仮面を被り続けること。それが、私の果たすべき役割だ。


 北の領地でカルトング商会が被災地の村民相手に汚い商売をしたという。災害復旧工事の予算から流用した資金で購入した物資を被害に苦しむわが領民に売りつけて暴利を貪ったと聞く。そのような悪事を平気な顔でする商人を絶対に許すことはできない。


 どうやって悪徳商人を懲らしめるかを考えながら歩を前に進めていると、目の前に中等部男子の集団が見えた。いや、真ん中にまだ幼い容貌の平民らしい少年が一人取り残され、その周りを中等部男子の一団が取り囲んでいるようだった。


 周りの男子達はよく見知っている貴族の子弟だった。よくよく注意して見ると、真ん中で皆に取り囲まれているのは、先日モモに絡まれていた少年だった。少年が纏っている魔力があまりに微細すぎて遠目からは識別できなかった。


 学院内の秩序を維持するのもフェルトルン公爵令嬢としての私の務めだ。貴族の子弟が集団で寄ってたかって一人の平民に絡んでいることは見てすぐ分かった。しかし、立場上、その仔細を問い質さねばならない。


「これは何の騒ぎだ」


「このものが学院の秩序を壊しているので、秩序とは何たるかを教育してやろうと思いまして」


「私には貴族の子弟たちがよってたかって一人の平民をいたぶっているように見えるが」


 周囲を取り囲んでいる貴族の子弟らに、多少皮肉を込めて事の仔細を引き出そうと試みていると、


「それでは、体術勝負の模擬戦に致しましょう。残念ながら私は剣などの武器は一切使えませんし、平民ですので魔法は皆様の足元にも遠く及びませんから。」


 突然真ん中にいたあの平民の少年が顔を上げて、顔を強張らせながらもしっかりとした口調で勝負事の中身を提案したようだった。


 両者の間で何かトラブルが生じ、勝負事の勝敗で解決を図ろうとしているのか。当事者同士の合意の元、勝負事でことの解決を図るのは、基本的に私的自治が大きく認められている貴族社会では別段至極当たり前の社会的ルール(問題解決手法)だ。


 よってここで私ができることは、①この勝負による解決が第三者の妨害によって邪魔されないこと、②勝負が従前の決め事に従ってきちんと履行されること、③ついた決着により当初の課題が円滑に解決されること、の3点が滞りなく果たされるようこの場の秩序を保つことに限られる。


 急にどこかに移動しようと体を動かしていた平民の少年と私が同時に言葉を口にする。


「では、今のはなかったことに……」

「この国の貴族にとって2つ大事なものはなんだ」


 んっ? 声がかぶってしまったな。少年は何を言おうとしたのだ? 何はともあれ、この場を落ち着かせ、我が意の通り当面の秩序を回復しなければならない。


「『高貴なる(ノブレス・)者の義務(オブリージュ)』と『忠誠(プレッジ・)(オブ・)誓い(アライアンス)』の2つです。」


「ここに執政官閣下はいらっしゃらない。であれば諸君が絶対の忠誠を誓う相手は誰だ」


「イーリス・フェルトルン公女殿下です」


「ならば諸君にイーリス・フェルトルンの名において命じる。高貴なる身分の者はそれ相応の責任と義務を下の者に負う。正々堂々と下の者が出したルールで競い、決着を得たらそれに従う。それでよいな」


 貴族の子弟共の同意はこれで得た。数でも身分でも圧倒的不利にある平民の少年に幾何(いくばく)かの配慮も必要であるからな。


「この勝負私が預かった。今の時間、闘技場が使える。諸君、そこへ移動だ。この勝負は彼が言う通り体術だけの模擬戦とする。そこのキミ、キミもご同行願おうか」


 そうと決まれば話は早い方がいい。幸いに今闘技場の一角を私の名で押さえている。少年のためにも貴族の子弟共に余計な準備の時間を与えない方が良いだろう。あれこれ疑念を抱く前に間髪入れず勝負事に持ち込んでしまった方が後腐れもないだろうからな。



─── ■ Section 02──────────────

◆ イーリス視点:闘技場・異床同夢模擬戦

────────────────────────


 闘技場に着いた。私は予約済みの試合場まで皆を誘導する。ここでも指揮者としてきちんと役目を果たさねばならない。


 まずは、少年から提案される模擬戦の決まりを確認する。


 ・公正な判定が期待できる私に審判をお願いする

 ・魔法は筋力増強・自動回復など非放出系も禁止する

 ・試合時間は5分とする

 ・審判の信頼性頼みで判定勝ちを勝利条件に追加する

 ・体格が同等の者を選出してもらう

 ・命に係わる・部位欠損につながる緊急時は試合を即時中止とする


 ふん、少年は自分の有利不利、そして自分の立場をよく考えている。


 私もこの場の裁定者として、模擬戦の審判役は断る理由がない。選手が誰であろうと公平に裁くだけだ。


 少年が提示したルールから必要な模擬戦運営陣を即時に編成する。私は刻限番人(タイムキーパー)応急処置員(ヒーラー)搬送班(メディック)危険物・不正監視員員(セーフティ・ガード)会場結界士(フィールド・ガーディアン)の配置を指示した。残念ながら、十分なスキルを有する治癒魔術師が不足しているようだ。


 私も軍での訓練で戦場での応急処置程度なら卒なくこなせる自信はあるが、今は全体を見るべき指揮者の自分が個別の任務を負うことはできない。ここは仕方がない。あまり彼女に負担を賭けたくないのだが、アネリーを呼びに行かせるか。この時間帯なら東の第3棟辺りにいるはずだ。


 一通り指示出しを終えた。ふと少年の方を見る。マスクを外し上着と靴を脱いで準備運動をしているらしい。最初に勝負の方法が組み討ち術(パンクラチオン)と聞いたときは戸惑いを隠すのに苦労した。なにせあの闘技は、通常は布切れ一枚すら身にまとわぬ姿で競い合うのが伝統的な儀礼(ルール)だからな。


 それから少年は準備運動らしきものを始めたようだ。しかしなんだあの動きは? あんな準備運動は見たことが無い。他の者も同じ感想を持ったようだ。囃し立てたり笑ったりしている者が多い。さすがに足裏を地面に滑らせるようにして何度も同じところを往復している様は滑稽に見える。あの動きには何か意味があるのか?


 ほう、やはり貴族側の代表はあの赤毛の四男坊か。体格・実力は大分少年より上か。貴族側も圧倒的に強い相手を出して少年をねじ伏せても目的は果たせないことを知っているようだ。


 二人を試合場の中央へ進むよう促す。私は一瞬息を止め、自分も精神を集中させる。


「始め!」


 まずは赤毛が攻勢か。打撃では少年は手も足も出ないようだ。後ろに下がってばかりで一向に前に出てこようとせぬな。外野もうるさくなってきた。ルールに時間切れ時の判定がある。そんな消極的姿勢だと判定負けとせざるを得んぞ。


 赤毛、どんどん腕の振りが大きくなっているぞ。蹴りも回数だけで相手の動きを捉えていない。何を焦っている? ルールでは逃げてばかりだと負け判定だぞ。お前がそんなに焦る理由は本当はないはずだが。もっと冷静になったらどうだ。


 ほら、だからいわんこっちゃない。少年に腕をとられてそのまま勢いをつけて投げられてしまったな。しかし少年はこれを最初から狙っていたか。ふむ、あの体捌き、地面に足を付けたまま移動するやつは自身の重心を低く保つためか。それにほとんど自分の力を使わず、赤毛の勢いをそのまま利用して投げるとは。


 これは一朝一夕にできる技ではないな。しかし、相手に背を見せるような体捌き、格闘の際の弱点になる自分の目が届かない背を相手にさらす動きというのは戦場では勧められんな。何より相手から目線を外すのはな。危険極まりない。


 赤毛は背中を強く叩きつけられたようだ。あれではすぐに立ち上がれまい。ここで御終いだな。


「それまで!」


 少年の勝ちだな。ほう少年はそのまま勝ち逃げするつもりか。そそくさと帰り支度を始めた。しかしいいのかな。(いくさ)とは戦場で勝つことは大前提だが、本当に大事なのは、その勝利を使って自分に有利な取引(約束)を引き出すことだぞ。


 ほら、何も言わないから貴族から勝負は無効だとクレームが入った。どうでるかな少年。 なぜ私の顔を見る? そうだな、この場の最上位者の私に調停を請うているのか。だがこの試合場の約束の時間にはまだ余裕があるぞ。


「少年、もうひと試合できるか?」


「できなくはないです。」


 ほう、まだ(試合を)やれるか。しかしなんだ、この少年いささか奇妙なところがある。そもそも10歳そこそこにしか見えないのに、一平民が大勢の貴族(の子弟)に囲まれているというのに、(おび)えたり怖気(おじけ)ついたりというところが全く見えない。


 今も、道を歩いていて犬に吠えられ迷惑してるという(てい)の顔だ。それに、平民だからもともと微妙な魔力しか纏っていないとはいえ、魔力の流れに乱れがないようにも見える。外交官のような交渉の手練れでも、交渉中はもう少し魔力の流れに乱れを出してしまうものなのだが。


 おそらく、魔力量が平民の中でも極端に少ない生まれなのだろう。それでも表情にあまり感情を見せない胆力の方は称賛に値する。


 そろそろあやつら(貴族の子弟共)の方も意見をまとめたようだな。なるほど、あそこの次男か。あえて上背があってリーチの長い者を選んだと。なるほど、あえて平民(少年)の戦いのフィールドで勝負をかけるということか。貴族の矜持からはそうせざるを得ないな。しかし、それは同時に少年にも勝機があるということを意味するが。


「二人とも、前へ」


「始め!」


 貴族側としてはここで何とか面目躍如といきたい第2試合が始まった。たしかこの次男坊は去年の組み討ち術(パンクラチオン)の大会でかなりいい線までいっていたのではなかったか。まあ、属性が水で、身体強化は苦手としていたはずだから、まだ少年の力をそれほどとは思っていないことの表れだと思うが。


 次男坊の足が揃った。すかさず投げに行ったか。でもそれは通らんぞ。ほら後ろから抱え込まれた。んっ、これは!


 なるほど、足を内側から掛けて後ろに倒れ込んだか。しかしその体勢は実践では致命的だ。それでは後が続かないぞ。喉を掻き切られて御終いだ。組み討ち術(パンクラチオン)の試合なら意表を突く捨て身技として有効かもしれんが。 ん?


「そこまで、勝負あり!」


「頭を打っているぞ、搬送班(メディック)応急処置員(ヒーラー)、急げ」


 まだ、アネリーはここに着かないか。搬送班(メディック)の判断で重症ならすぐに救護室へ連れていくよう指示をしておく。


 また少年は交渉もせずこの場を離れようとしている。何か考え事をしているようにも見える、興味深いな。このまま貴族が2度も試合で敗れて引き下がれるわけがないだろう。


 やはりな、3試合目を望むか。私は少年の方に向き直る。


「もう1試合()()できるか?」


 何やら一瞬考え込んだように見えたが、少年は即答してきた。


「ええ、インターバル(休憩時間)として30分程度休息を頂けるのでしたら」


 どうやら私の意図も察してくれたようだ。最初からこの場をどう収めるかだけを考えてきた。貴族に引かせるにはそれ相応の代償と名分が必要なのだよ。分かってくれて本当に嬉しいよ。


 ん、今少年と目が合った時、脳内の奥底にピリッと何か感じたような。母上とねえやから昔よく聞いた魔力感知(魔力合わせ)の感覚に似ているような……。ま、気のせいか。


 彼らの方も次の候補が決まったようだ。あの家の次期当主か、去年の組み討ち術(パンクラチオン)大会の準優勝者。


 少年が要求した30分の休憩時間が終わった。


「選手、前へ」


 私は次期当主に手元まで来るよう目線を送る。彼はさも心得ていますという風に近づいてくる。私は彼の耳に小声で囁く。


「分かっているとは思うが、怪我はさせぬように」


「心得ております」


 次期当主は改めて定位置に戻る。それを見届けて私は、


「始め!」


 と試合開始を告げる。


 彼は、私の試合開始の合図が終わるや否や、そのまままっすぐ前に走り寄り少年の目の前まで一気に間を詰める。そしてテイクバックもなくただ右手を前に突き出す。


 掌底。


 結論から言うと、彼は私が試合終了を宣言する前に魔術を使用した。本来なら反則負けだ。


 彼の掌底は厳密(物理的)には少年に当たっていない。尋常でないスピードで放たれた掌底による空気圧だけで少年の脳を揺らしただけだ。彼が使った魔術は地面に倒れようとする少年の体を衝撃から守るためだった。


 少年側から見れば、2勝1敗で勝ち越した。これで貴族側から少年側への圧力は一時的に(かわ)すことができるだろう。


 貴族側から見れば、少年を、少年のフィールドで完全にノックアウトした。しかもその身の安全を気遣うことで度量の広さも示せた。これで貴族側のメンツも保てるだろう。


 そして私はこの場を収めたという実績をまたひとつ獲得することになる。これで全員が納得できる三方好しの着地点が実現された。


 そこにようやくアネリーがここに到着した。早速私から事情を簡単に説明して、たった今倒れた少年の救護をアネリーに任せる。本当はアネリーに手当させるのは心配だ。治癒術士の仕事は、能力を使いすぎると自分の体にダメージとして負担がかかる。


 アネリーはとてもやさしい子だから、自分の限界まで治癒を継続しようとする。この前の実戦さながらの軍事演習のときもやりすぎて、一時的に視力を失い学院を長期間休んだばかりだ。


 治癒行為はそのすべての過程(診療)(診察・診断・治療)において、行為のやりすぎが自身の体にダメージが反射されるのは同じだ。しかし、特に診察行為におけるダメージは深刻になりがちだ。診察は患者の心と体に寄り添い、より深部へ迫っていかねばならない。


 患者に対する共感力がないと診察力が発揮できない。生まれつき優しく情け深いアネリーは患者に対して人一倍強い共感力を示す。それは治癒術士としての適性であるとともに自らの心身を損なう弱点でもある。


 治癒術士のダメージ反射は、多くは患者の病や怪我の部位と同じ個所になることが多いが、時には治癒術士自身の生まれつき弱い部分にダメージが反射されることもある。アネリーの場合はそれが視力に現れる。いつかアネリーが永遠に失明するのではと思うと、心配のあまりアネリーに治癒術士を諦めるよう命令したくなって堪らなくなる。


 本当は私でも軍隊で訓練したから応急処置ぐらいできるから、アネリーに代わってやりたいが、私はこの場では全体指揮を執らねばならない。そう、だから各担当に任務を適切に振らないといけない立場なのだ。


 しかしなんだ、この募るイライラは。これじゃまるで自分が少年の処置をしたがっているみたいじゃないか。違うんだ、ただアネリーのことが心配なだけだ。



─── ■ Section 03──────────────

◆ イーリス視点:上屋敷・密室驚愕視線交差

────────────────────────


 おじ様(大賢者)の上屋敷まで少年を送る。先ぶれを出していたのだが、屋敷の前まで少年を出迎えに出て来たのは4人だけだった。ニーブルン家当主が別の上屋敷を与えられ、ここには引退したおじ様に直接仕える100人そこそこの使用人だけということだが、それでも4人は少なすぎると思った。


 しかし違和感を覚えたのは人数の少なさだけではなかった。4人の内の2人がシズとニコラウス様だったことだ。シズは外孫とはいえこのニーブルン家に連なる主人筋の人間で、ニコラウス様はおじ様の執事だ。その2人が揃いも揃ってただの使用人(しかも年少の見習い)が意識を失ったからと言ってその出迎えに屋敷の表まで来るのは異常な気がした。


 残りの二人はシズの侍女と男の子の方は年恰好から少年の仕事仲間といったところか。二人は余程少年のことが心配なのだろう。私が、


「心配はいらない。脳震盪でただ気を失っているだけだ。治癒術士の診断・応急措置も終わっている。休ませておけばその内目を覚ますだろう」


 といくらいっても、ぐったりして全く動かない少年をみてあたふたしていた。この程度教練では当たり前の光景だが、屋敷の使用人からしたら想像の範囲外なのだろう。


 今回、私の馬車で少年を送ってきたのは、私の馬車なら道を最優先で急ぎここまで連れてこられるという実務的な理由の他に、建前として、あの場を仕切った責任者としての責務を全うしたいと考えたからだ。ただ少しばかりの本音をいえば、少年がこの屋敷でどういう扱いをされているのかちょっぴり興味があったのも否めない。


 しかし私の馬車では棒担架は入らなかったから、布担架で少年を運ぶ必要があった。布担架は棒担架に比べて持ちにくいのでより人数が必要になる。私は従者を馬車において、布担架の運搬を手伝うことにした。


 表向きはシズに布担架の運び手をやらせるわけにはいかないという理由付けだったが、ここまで来たら少年がこの屋敷でどのような生活をしているか俄然興味がわいたからだ。担架で運び入れる先が少年が寝起きする個室だと聞いてしまったからな。


 布担架で、ニーブルン家の出迎え4人組のうち、シズを除いた残り3人と自分の合計4人で少年を運んだ。案内された先の少年の部屋の屋敷内での場所に驚いた。おじ様の執務室と書斎の間にある文官の執務室のひとつが居室に割り当てられていたからだ。


 主人が使用する部屋の近くに使用人の居住スペースを置くことは、セキュリティ上も社会的身分を弁える意味でも通常はあり得ない。それ程少年が主人から信頼されているのか、それともすぐに駆け付けることを強制されるような激務を課せられているかのどちらかだろう。


 自室に利用しているという文官の執務室の一室に入ってまたビックリする。ここで少年は本当に寝起きしているのか。ただでさえ狭い文官用執務室にベッドが入れられてさらに狭くなっており、4人プラス1名も入れば立錐の余地もない位と言って差し支えない。


 部屋の左手の壁は作り付けの書棚以外はびっしり横に倒した木箱が何段にも積み上げられ、高さは私の伸長くらいまで伸びている。木箱の中には書類と本と木札と木簡がきれいに整理整頓されて収まっていた。


 大賢者のお屋敷なのだから木箱ではなく書棚を用意してやればと思った。後でシズの侍女から聞いたのだが、木箱の方が便利でそうしているのだそう。必要になればそのまま運べるし、書庫へしまうのも簡単なのだそうだ。


 反対の右手の壁は、一面に大小さまざまな紙がピン止めか糊付けされていた。その紙にはびっしりと文字が書き込まれているもの、絵図や地図、何かの道具の設計図が描かれたものもあった。


 そこに書かれている文字の半分程度は神聖文字(ヒエログリフ)民衆文字(デモティック)だったから私でも読めた。残り半分は、全く読めない未知の言語で書かれたものだった。最初は癖の強い崩し字かとも思ったが、どう頑張っても読める気がしなかった。これは失われつつある「古東ノルド語」ではないかと推測した。


 恐らく、私がこの少年に感じた異常性はこの部屋のこの光景に集約されているのだと悟った。平民だとしても魔力が異常な位に低すぎるので、そんな程度の少年が大賢者と呼ばれる当代きっての学者の家で見習いをしているのは何かおかしいと思っていた。


 この少年は魔力量の多寡ではなく、失われつつある古語の読み書きができるのを買われてこの屋敷に奉公しているのだと理解した。恐らく、古語の研究を専門にやっている家系に生まれ、幼い頃から家業である古語の研究に没頭してきたのであろう。それをおじ様(大賢者)が何かの縁で拾われたのだろう。ようやく合点(がてん)がいった。


 私は、大貴族の娘として、軍人として、外で表情を崩して感情を表に出すことを厳しく制限されてきた。そんな自分が、少年を出迎えた人々に対する違和感はまだ制御できていたが、この部屋の中の異常さを目にしたときは大きく動揺した。


 シズとその侍女が主従あわせてかいがいしく少年のお世話をする姿にほほえましい家族愛を感じはしたが、この部屋という狭い空間で、この疑似家族的な仲間の輪に自分だけが入っていないことに今更ながらに疎外感を強く覚えた。


 こうした動揺や疎外感による私の感情の揺らぎを敏感に感じ取ったのか、シズが冷たい目でこちらを窺っているのが分かった。


 あのシズが学院で普通に使用人(少年)と連れ立っていると聞いて、すぐに何かおかしいと思った。シズはこの使用人にすぎない少年に対して、主人と使用人の関係性以上の特別な感情をきっと抱いているに違いない。


 沈黙姫と呼ばれ、周囲と壁を作ってきたシズ。幼馴染の私とも一定の距離以上には内に入れてくれなかった。シズがかいがいしく少年の介抱をしている姿を見ていると、これではまるっきり、あのシズがこの少年にまるで身内のように心を開いている様じゃないか。


 自分の少年に対する感情の正体はなにか、シズの少年に対する本当の感情はなにか、シズに対して自分が思っていることの正体はなにか。その3つの問いがどうにも頭から離れない。脳内の思考が堂々巡りのまま、私はおじ様のお屋敷を後にした。

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