リハビリ
「ナナシノっ、久しぶり、元気してた?」
お屋敷の廊下を歩いているときに急に名前を呼ばれたのでビックリして振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべたイーダ先輩が立っていた。
「(ナナシノの作ったお菓子が早く食べたかったから)ナナシノに会いたくて会いたくてしょうがなかったよ。だから会いに来ちゃった」
(えっえー、なんですとー。もしかして震えるくらいに会いたかったとか。)
「なーんてね、ほんとはシズお嬢様と一緒なんだ。というよりシズお嬢様がこっちに来ることになったからあたしがついてきちゃったというわけ。だってあたしシズお嬢様付きのメイドだもの」
「あっ、そういうことでしたか。もう、あまり紛らわしいこと言わないでください。でも賢者様もお人が悪い。シズお嬢様がいらっしゃるならいらっしゃると教えてくださればよかったのに。」
「ふふっ。ああ見えて、結構お茶目なところがあるからね、賢者様は。ナナシノに隠しておいてびっくりさせようと思っていらっしゃったんじゃないかな」
「賢者様に失礼ですよ。そうれはそうと、シズお嬢様は今どちらに?」
「シズお嬢様は賢者様の書斎に行かれているわ」
「あーなんとなく事情が分かりました。でしたらちょっと心の準備が必要ですね。」
「どうして、何が必要なの?」
「えーそれはですね、いま私は賢者様に書斎まで呼ばれておりましてですね……」
「ふんふん、それで?」
「多分というか、恐らくというか、私が書斎に入るとそこにはシズお嬢様もいらっしゃってですね……」
「ふんふん、で、それの何がそんなに問題なの?」
「えーと、このままだと賢者様とシズお嬢様のお二人が私を驚かせようと書斎で手ぐすね引いて待っていらっしゃるけれど、私は先にセーパイからシズお嬢様のことを聞いて知っているわけでして。お部屋に入ってシズお嬢様のお顔を見たとき自然体でびっくりした顔ができるかどうか不安でして……。」
「あっ、それは……。大変、大事な用事思い出したからあたしは行くね、ナナシノ、後はよろしく」
そういってイーダ先輩は急いでその場を立ち去った。仕方がない。台無しになったサプライズを成立させられるかどうかは自分の演技力にかかっている。
ドアをノックし、書斎に入る。当然そこにはシズお嬢様が恥ずかしそうに、でも上目遣いで自分の表情をしっかり見届けようと視線を送ってくる……。そして、「あっ、びっくりして心臓が喉から出るかと思いました。どうしてシズお嬢様がこちらにいらっしゃるんですか」という何度も頭の中でリハーサルして準備した台詞を口にした。
結果から言えば、シズお嬢様を満足させられたが、大賢者の落ち着いた顔に苦い笑みが広がっていた。さすが亀の甲より年の功。賢者様にはすっかりお見通しだったみたいだね。
一連のミニドッキリのイベントを消化したあと、賢者様からシズお嬢様来訪の目的を知らされる。
「さて、其方にお願いしたいことがあるのだがの。この子が学院に通いたいと言いだしての、出来たら其方に付き添いをお願いしたいのじゃが。この子が学院に自分で通えるようになるまででよい。出来たらその後も朝夕の送迎の際、馬車回しから校舎まで身辺を警護してもらえると儂としても安心できる」
「旦那様、是非そのお役目、シズお嬢様のためになるならお引き受けしたいのですが。いくつか確認させて頂いても宜しいでしょうか。」
「うむ、其方のことだ、初めから二つ返事で引き受けるとは思わんでおったからよいぞ。案ずるな、思うところを何なりと申してみよ」
「ありがとうございます。まずは人目につく場所に出ることは今のシズ様のお心にかなりご負担となると思うのですが本当によろしいのでしょうか。次に、私は一日おきの通学を許されている身でございますので、毎日シズお嬢様の付き添いは出来かねるかと。」
「うむ、想定の範囲内だ。ひとつめの疑念は、それがこの子のたっての望だからだ。儂としてはかわいい孫の希望はできるだけかなえてやりたい。もちろんこの子にとっても生半可なことでないことは承知しておる。であればこそ其方の力添えを所望する」
「そこまで買っていただいているのは大変うれしいのですが……。」
「ふたつめの方は簡単じゃ、この子が大丈夫というまで毎日通学に付き合ってやってほしい。その代わり、屋敷に戻ってからの仕事はそのままお願いすることになるがの」
「万事承りました。」
きたよきた、またブラック職場の沼に足を踏み入れる瞬間がとうとうやってきたよ。自分はどこに行ってもこうなる運命だったんだね。だけど運命論者的発想は自分の理性を否定する感じにつながるから、自分のスタイルとしてはあまり好ましいとは思わない。
諦観とともに頭の中はどうやって時間をやり繰りをするか思考がフル回転し始めた。うん、とりあえずクライアントからワークショップのカウンターパートの指定を受けたのと同じ感じだね。
シズお嬢様の方に向き直り、
「シズお嬢様、それでは明日よりお供させて頂きますのでよろしくお願いします。」
と軽く依頼受諾の挨拶をすると、可愛くコクリ、と頷いて返事をしてくれた。それとほぼ同時にドアがノックされ、一連の誰何の手続きを経て一人の側仕え的な中年男性が手に封筒を携えて入室してきた。
賢者様の側に控えていたニコラウス様がそれを受け取り、封蝋の紋章に目を留めて中年男性を窘める。
「大事な打ち合わせだからと人払いしたはずですが。たとえ双子の狼からの知らせであっても邪魔させないように事前に申し伝えておいたはずです」
ニコラウス様がここまでいうのはとても珍しい。というのは、ニコラウス様が機嫌の悪さを顔に出した方ではなくて、規律厳しく統制されているニコラウス様配下の部下が上司の意に反することをしでかすなんてとても珍しいということ。
「大変申し訳ありませんでした。わたくしの対応がまずく先方の使いの者にどうしてもと押し切られてしまいまして」
と弁明を始めた。ニコラウス様はそれ以上咎めるでもなく、手にした封筒を珍しく黙って賢者様に封蝋がよく見えるようにして差し出す。それを受け取った賢者様はその封蝋の紋章を見るや否や、
「あ奴の戯言などどうでもよい、捨て置け。今はこっちの方が大事だ」
とおっしゃって、そのまま手にした封筒を机の引き出しに無造作に投げ入れた。御二方ともこれほど感情を露にすることはあまりなかったのに珍しいこともあるものだ。相手側はよっぽどの人物なんだろう。二人の感情にたった一通の封筒だけでこれ程影響を及ぼしまくるなんて。差出人は本当にどんな人なんだろうね。
そんなやり取りを眺めながら思考の回転を止めずにいたら、やっぱり気になることが出てきた。
「旦那様、少々立て込んでいるみたいなのですがひとつよろしいでしょうか。」
「なんだ、ナナシノ、言ってみよ」
「シズお嬢様に学院で付き添うにあたって、昼食はいかがいたしましょうか。カフェテリアの個室の手配などいささか私には荷が重いかもしれません(というより誰にどうやって依頼するかそもそも知らないし)。」
賢者様はしばらく右手で顎髭をしごきつつ考え事するような表情を見せた。やがて、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべ、何かを企む子供のような目をしながらその後すぐこうおっしゃった。
「うむ、ナナシノの差配にすべて任せる。なあーに、一人も二人もそんなに手間は変わらないだろうて」
◆
次の日の朝、自分は賢者様、ニコラウス様、そしてシズお嬢様と一緒に馬車で学院まで行くことになった。もちろん、シズお嬢様が学院に復学することを学院長に挨拶がてら改めて報告し、お力添えを請うためである。学院長からすれば実の姪で、義理の姪孫でもある。是非、身内可愛さに依怙贔屓を思う存分してもらいたいものだ。
にしても、この馬車の5人(御者のクーシュを含む)に上屋敷でお留守番をしているイーダを含めて6人もあの「庵」関係者が集まっている。現在、「庵」に残っているのは営繕係のホウェツゼンとメイド長のアリンナの二人だけだ。
自分だったらあのメイド長と二人っきりで「庵」でお留守番をしていると想像しただけでも、緊張で背筋がぞくぞくする。でもあの飄々としているホウェツゼンならなんとも感じないで平気なんだろうとも思う。
なんて無益でくだらないことを考えつつ、皆の後をついて学院長室までの道のりを歩いて行った。しかし、意識は当然にシズお嬢様ファーストだ。先頭を賢者様が歩いて、シズお嬢様がそれに続く。シズお嬢様は下をうつ向きつつ、なにかに怯えるような、それでも必死に耐えているような様子で歩幅小さく足を速く動かして賢者様のスピードについていく。
ニコラウス様は角を曲がるときとか、他の通行人の姿が目に入ったときとか、絶妙に立ち位置を変えてシズお嬢様への視線を全部カットしていた。本当にああいう部下力の高いポジショニングをさり気にできる人に自分はなりたい。
自分はそんな3人を観察する程度の心の余裕は持ち合わせつつ、最後尾を守る形で3人についていった。でも、学院長室にはあまりいい思い出が無かったので、あの赤褐色を帯びた無垢材の扉を見た瞬間少々気分が鬱に入ったのは仕方がないことだった。
学院長室に入ると、学院長が正面の執務机の向こうからこちらを睥睨していた。傍らには初老の秘書っぽい人が控えていた。身内相手にそんなにガンを飛ばさなくてもいいのにな、なんて感じたのもつかの間、学院長はすぐに形相を崩し、
「まあ、シズ、学院にようこそ。また通ってくれるよう決意してくれて嬉しいわ。何か困ったことがあったら何でも相談してね。それにしても大きくなったわね。」
これがあの面接のときと同じ女だとは信じられなかった。でも、シズお嬢様に優しい(甘い)感じなのはよい。自分の中の学院長に対する好感度がやや改善した。
シズお嬢様は、相変わらず口を開かなかったが、緊張していた面持ちが幾分か和らぎ、笑顔まで見せるようになったのはとても喜ばしかった。
その後、賢者様と学院長との間で事務的な話が延々続いた。中には帝国から留学生を受け入れる話もあった。初等部にも一時編入される生徒がいるそうだ。そして自分がシズお嬢様のアテンドをする旨、賢者様から説明されるや否や、自分の方に厳しい学院長の目線が送られる。えっ、自分に対しては心の警戒態勢がまだ解かれていなかったのか。
「ナナシノ、くれぐれもシズの身に危険が及ばないよう気を付けて頂戴。何かあったら分かっているわね」
「はい、確かに承りました。」
学院長室での用件は全て終わったので、自分に対する当たりは強いまま、その場はお開きになった。この日はこのまま自分は図書閲覧室へ直行し、他の3人は初等部事務棟へ移動することになったので、自分はこの3人と別れた。
気を取り直して、明日からはシズお嬢様のアテンドに最善を尽くそう。
図書閲覧室で読書を堪能し、この日の読書ノートにひと段落着いたところでちょうどお弁当の時間になった。いや、正確にはお弁当時間の30分前だ。自分はそそくさと荷物をまとめ、いつもの校庭脇のベンチに急いだ。そう急いだのだよ。
お目当てのベンチには先客が既に座っていた。
「ナナシノ、ちょっと今日は遅いんじゃなくて」
「申し訳ありません。今日は朝からバタバタしておりまして(決して嘘ではない)。」
「今日はいったい何かしら。早く準備しなさい」
もうこのやり取りからお分かりだろうか? なぜかいつの間にかピンク髪少女に弁当をたかられるようになってしまっていた。
「モモお嬢様、今日は冷めてもいける『チキン南蛮』です。タルタルソースはこちらでもよくサーモンやニシンに合わせられているものです。実は時間が無かったのでタルタルソースはうちの屋敷の料理人製ですが。」
パンはピンク髪少女の好みが分からなかったので、クネッケブロードとトゥンブロードの両方を準備した(当然、料理人に焼いてもらってきている)。パリパリとした食感の薄焼きクラッカー状のライ麦パンであるクネッケブロードと、タコスのように具材を巻いて食べるトゥンブロードだ。
もちろん、自分はタコス風に巻き巻きを堪能するつもりである。自分が先にトゥンブロードにチキン南蛮を載せ、その上にタルタルソースをたっぷりかけ、巻き巻きしてから口いっぱいに頬張る。
ピンク髪少女は、見様見真似で自分がやって見せた通りにチキン南蛮巻き巻きを作ってみせ、満足そうに自分の方を見やり、同じく口いっぱいに頬張る。公爵令嬢としての嗜みはどこ行った?
偶然が何度か重なった。あれからお弁当を食べている現場を何度も目撃されてしまった。結構な頻度出くわしてしまうとその都度非常に気まずい思いをするので、最初の方はお弁当を食べる場所を毎回変えていた。それでも遭遇率はそう簡単に変わらなかった。その内、場所探しが面倒臭くなってこの辺のベンチで食べるようになり、やがてピンク髪少女もなぜか一緒に食べることになった。解せぬ。
「それはそうと、今日はお友達の方はよろしかったのですか。いつもこちらの方にばかり来ていては、そのー、社交の方も滞ったりしないのでしょうか?」
「それは大丈夫よ。お友達には、私が約束の時間までに現れなかったら、私抜きでお食事楽しんでねって言ってあるから。それに今日はちゃんと念のためにあの子にも伝言を頼んであるから心配いらないわ」
なるほど、それで理解しました。どうして今現在、ボディーガードがお嬢様のお側に控えていないのかという理由を。しかしお嬢様、言葉遣いがやけにブロークンになってやいませんかね? そりゃ身分差が相当あるのは承知しているのですが、自分はニーブルン家の使用人であって、レンヴァッテン家から何のお金ももらっていないんですけど。
「それにしても、もっと早くこうしたかったわ。だってあなたって、どうやって探しても1日おきにしか見つからなかったのですもの。見つけ出すのに苦労したわ。あっ、今の忘れて頂戴! あなたに会いたかったわけじゃないんだからね。あの子のこと、早く謝りかっただけなんだからね」
はい、「な(い)んだからね」、ダブルで頂きました。
「それで思い出しました。実は明日からはお弁当をご一緒できなくなると思います。」
「えっ、どうしてなの。あっ、分かった。だから言っているじゃない、きちんとお礼はするって」
「それは本当に結構なんです。いえいえ、そういうことじゃないんです。実は、明日からは毎日学院に登校することになったんですけど……」
「じゃあ何も問題ないじゃない。むしろ毎日会え、じゃなかった、毎日お弁当頂けるようになるんじゃなくって?」
「毎日登校することになるのは間違いないのですが、初等部の方になるのです。それにお昼時間まで学院にいるとは限らないというか、『早退』って言葉分かります? 午前だけっていうか、場合によると朝来て直ぐに帰ってしまうことになると思いますので。」
「ど、どうしてかしら。お仕事が忙しくなるから? いいえ、それじゃ初等部に通うということとつながらないわ」
まあ、賢者様のことを「おじ様」呼びだからね。身内というか同じ派閥内というか、公爵家で味方にしておくと心強いというか……
「実はですね、お仕えしているニーブルン家でやんごとなきお嬢様をお預かりしておりまして、その方が明日から初等部へお通いになるので、その身辺警護というか、付き添いみたいなお役目を拝領いたしまして。」
「ニーブルン家……??? あっ、もしかすると、ピニャプラート家のシズのことかしら?」
「はい、その通りです。モモお嬢様はシズ様をご存知なんでしょうか?」
「ご存知も何もシズと私とは幼馴染よ。あなたと会うよりずっと前から彼女を知っているわ。だってピニャプラート家は侯爵家で、正執政官のデュグドエルヴ家の御連枝よ。レンヴァッテン家は御三卿のひとつなんだから、私たちが小さい頃から知り合いなのは当たり前じゃない」
あまりの情報量に脳がパンクしそうだ。こちらの事情を話す前に共和国の上層部のお家事情について、先に教えを請うことにした。
掻い摘んでまとめるとこうだ。デュグドエルヴ家は代々、正執政官を輩出する大公家だ。執政官は選挙で選ばれるのが共和国としての建前になっているが、実態は正執政官の地位はデュグドエルヴ家の世襲になっている。
デュグドエルヴ家の血統を絶やさないように、公爵家の御三卿が存在し、それぞれ子女をデュグドエルヴ家と縁づかせたり、デュグドエルヴ家へ男子を養子に出したりする。御三卿はモモお嬢様のお家であるレンヴァッテン家の他は、フェルトルン家とエンブロ家である。ちなみに、モモお嬢様と初対面したあの時、仲裁に入ってくれた風紀委員長がフェルトルン家のお姉さまことイーリス様ということになる。
『御連枝』というのは簡単に言うと血のつながりがある親戚ということで、ピニャプラート家はデュグドエルヴ家の一門扱いで、侯爵に叙されている。シズお嬢様、とてもご立派なお血筋のお貴族様だったんですね。
ついでに(といったら当家の主に非常に失礼になるのだが)ニーブルン家は辺境伯に叙されている。辺境伯は侯爵と伯爵の間だ。なかなかに広い領土に封じられており、地方防衛の要である。ニーブルン家はフヴドスタード直轄領の南に位置し、自分がこの東大陸で最初にお邪魔した神山を含む一帯の神域(行政的には保護区)を治めている。ついでのついでに、もうひとつ有力な辺境伯に叙されているのがリークヴァサル家で、現当主は副執政官の職に就いている。
知らない内に、自分は共和国のかなり上層部の人達と知り合いになっていたみたい。恐ろしや。
モモお嬢様から共和国の支配者層についてのレクチャーをこの辺で一旦終わらせておく。いやあ、お弁当を何回かごちそうするだけで、ものすごい情報を得てしまった。これだけでお弁当代の元が取れてお釣りまで十二分に来ると言っても過言ではなかった。
モモお嬢様に何度も丁寧に説明のお礼を言っていたら、次はシズお嬢様の話の番になった。ピンク髪少女も、シズお嬢様の昔の出来事に関しては奥歯にものが挟まった言い方で、敢えて明瞭に何があったとは言及してくれなかった。でも、その言い方だけで、普通は口に出せない何か(事件/事故?)に巻き込まれたということ、それが原因で口がきけなくなり、人前にも出られなくなったことは十分に理解できた。
事態はピンク髪少女にも十分に理解してもらったので、明日からの行動指針は次のように話し合いで決めた。
1.明日からナナシノはシズお嬢様の初等部通学のアテンドを優先する
2.ナナシノは引き続き、毎日お弁当の準備は続ける
3.シズお嬢様がお昼まで学院に居られるようになったら……
◆
「それでは参りましょうか。」
今日からシズお嬢様は、翰林学士院初等部へ復学し、通学を再開し始めた。しかし、初日からそううまくはいかなかった。ご自身の部屋から馬車に自分と二人だけで乗り込むまでだけで1時間を要した。学院まで行ったけど、馬車から降りることはできなかった。この事態はある程度予想がついていたので特に混乱することはなかった。長い目で見て、徐々に慣れていけばいい。無理は禁物だ。
カルトング商会のトレディンとは、シズお嬢様のリハビリ中に何度か打ち合わせを持った。大学ノートとレポート用紙の開発は順調に進み、試作品の品質の徐々に上がってきた。試作品のなかからかなりの枚数を試供品としてもらったので、シズお嬢様にもおすそ分けした。シズお嬢様との意思疎通のために、その紙を何枚か束ねて常に携行してもらい、自分と必要な時にはいつでも筆談できるようにした。
自分はイーダ先輩のように的確にシズお嬢様の意を汲むことができなかった故の苦肉の策だった。そして、その方法はシズお嬢様にも快く受け入れて頂けた。書き心地が良いとシズお嬢様にも好評だった。そのことを聞いた時のトレディンの喜びようと言ったら! 自分事のように嬉しくなった。
シズお嬢様は毎日苦しい思いをしながら航続距離を次第に延ばされていった。しかし、リーチできる先が、事務棟、大通路、中等部校舎群、専門棟群の順にだんだんと延び、そして初等部棟群に差し掛かった時にその成長がピタッと止まってしまった。
どうも、同世代の子供たちの声がすると途端にダメになるらしい。そこでの停滞が1日、また1日と重ねられていった。それまで唇を噛み締めながらという比喩通りの頑張りを見せていたシズお嬢様のお顔が苦悶の表情にだんだん変わり、涙まで滲ませるようになった。
自分は何もできず、ただ側について差し上げるしかできなかった。今朝も初等部棟の入り口で固まっているシズお嬢様のお姿があまりに痛々しかったので、なにかお声がけして励まして差し上げたいという熱が胸の底から湧き上がってきた。
シズお嬢様の頑張りをお側でお支えしてきたここ数日で、自分が元の世界でメンタルダウンをやらかした記憶が蘇ってきたのをだんだんと自覚するようになった。3回目の転職でグローバルファームに入社し、勝手が分からないコンサル業務に四苦八苦しうつ病を発症、3か月の休職を余儀なくされた実体験を。
その時、職務に復帰するまで自分を支えてくれたのは当時の妻ではなく母だった。その母から受けとった言葉を自分なりに咀嚼したものをどうしてもシズお嬢様に伝えたいと思った。
「私は一緒に隣を歩くことしかできません。歩くスピードを決めるのも、どこへ向かうかを決めるのも、すべてあなた自身です。だけど、あなたが諦めずに前を向いている限り、私はどこまでも一緒に歩き続けます。」
初等部棟の入り口前で固まっているシズお嬢様へ、自分の口からこういう言葉が思わず漏れてしまった。
「小さな成功体験を積み重ねることが、根拠なき自信となってやがて自分を支える足になるのです。そしてその足でしっかりと前に進んでください。」
自分の言葉を聞いたシズお嬢様は、その後自身の中に去来する何かがあったのか、しばし深く考え込まれたご様子だった。
やがて、意を決したのか、口をきりりと結び、歩を前に進める。その次の日、とうとうシズお嬢様は、最終目的地である初等部の教室に足を踏み入れることができた。
それから2日後、シズお嬢様はとうとう午前中の座学をすべて終え、お昼まで学院に居ることができた。自分は、座学を終えたシズお嬢様がとても誇らしく思えた。それと同時に何かご褒美が無いとシズお嬢様がかわいそうと思い至り、シズお嬢様を初等部棟の先の開けた校庭まで案内することにした。シズお嬢様は何がこの先に待ち構えているのか分からず不安な表情をお見せになっていた。
やがて目線の先に、1頭の大型犬とベンチに座っているピンク髪少女が現れた。
「シズ、遅かったじゃない。もうお腹がペコペコよ。ナナシノ、今日のお弁当は何かしら」




