お弁当と存在χ
今日はうれしい学院登校日。それも初弁当の日だ。一日おきの登校の予定で学院滞在時間は午前中だけというのが最初の取り決めだった。しかし大分学生生活にも慣れて来たこと、聴講してみたい授業がいくつか見つかったこと、そうすると読書時間が減ってしまうことから、お弁当持参で午後も学院に滞在できることになった。
お弁当のメニューは何にしようか結構迷った。黒パンにチーズとフルーツというのは簡単だけどちょっと物足りない、というか楽しくない。かといって、夕飯の残りのクロップカーカとかパルトだと冷めてしまうとジャガイモ特有のもっちり感が失われ、生地が硬くなってしまうので美味しくなくなる。せっかくお屋敷の料理人に作ってもらったのに美味しく頂けないのは良くない。
(ちなみに、クロップカーカやパルトはジャガイモでつくるダンプリングのことである。東大陸の北辺に位置する共和国の気候は冷涼なため、主な主食はジャガイモやエン麦・ライ麦等となる。小麦はより南に位置する自治都市で細々と作られているものもあるが帝国からの輸入品が多い)
ということで、ちょっと朝早起きして自分でエスニック風のダンプリングを作ることにした。中に詰める具材は昨日のクロップカーカ用のものが余っていたから、ここでは結構貴重な小麦粉を分けてもらって生地を作った。気軽に手で摘まんで食べられるのもお弁当向きだ。付け合わせに使うアチャールのベースはこの地でよく好まれるリンゴンベリー・ジャムにした。
蒸し器は案の定なかったので、深めのフライパンを用意してもらって蒸し焼きに。底の方にこんがり焼き目をつけて完成。焼き餃子風の食感も同時に楽しめるから、結果的にフライパン調理で正解としておく。
こうして会心の作になった(と思う)お弁当を持ってウキウキしながら図書閲覧室を目指して構内を歩いていたのだが、またしてもピンク髪少女と遭遇。もしもし、エンカウント率がちょっと高すぎやしませんかね。
もしかして、エンカウント率を低下させる指輪とかペンダントのようなアイテムが必要なのだろうか。それとも、学院内のどこかにギミックが仕掛けられていて解除しなければならないとか。
そおーと後ずさりして(決して踵を返して走り出したり、後ろを向いたりしてはいけない)、できるだけ自然を装って方向転換。ちょっと遠回りになるけど仕方がない。図書館の2つ手前の校舎の入り口へ直行する。やれやれだぜ。どうにかピンク髪少女とのエンカウントを回避し、図書閲覧室に避難完了。どうかここがセーフハウスであってほしいと切に願う。
図書閲覧室では至福のひと時を過ごした。あれこれ思考を巡らせながら3冊目を読了した頃、ちょうどランチの時間帯を迎えた。何にも考えずに、前世の学生時代のことを朧気ながら思い出しつつ、習慣化していた「ぼっち飯」の場所を本能的に探し始める。残念ながら衛生管理の問題上、学院での「便所飯」は最初から選択肢にはなかった。
ふらふらと構内を「ぼっち飯」最適場所を求めて歩き回る。お誂え向きに、中庭というには広すぎる校庭?の脇にベンチがいくつか並んでいたので、そのひとつをお借りすることにした。幸い、ここでお弁当を食べようとする学生は自分以外には見当たらなかった。
ここは共和国の首都にある国立の最高学府である。通っている生徒の大半は貴族様であり、後から知ったのだが、上級貴族はそもそもベンチでお弁当を食べたりしない。カフェテリア(学食ともいう)に併設されている個室で使用人が準備したものを頂く。
上級貴族は毒殺を特に警戒するから、赤の他人が作ったものを毒見もなしに口にすることは滅多にない。専用個室に使用人が持ち込んだものか、カフェテリア付属のキッチンで雇った料理人に作らせたものを食べるのが普通だ。
中級貴族から下はカフェテリアを利用することがメインとなるが、そもそも国立学校の学食だから、毒殺のリスクはおろか味も素材も一流のものが提供されて安心安全はしっかり保障されている。
また、翰林学士院はちょうど上屋敷と中屋敷の中間地点に位置していたから、近隣に住む貴族はいったん自宅に戻ってランチを頂くことも多い。だから、学院のカフェテリアはそもそもそれほど広い施設ではなくこじんまりとしている。
ちなみに「上屋敷」「中屋敷」はそれらが建っている地域を指す場合と、そこに立っている建物を指す場合と両方の意味で用いられる。「賢者様のお屋敷は『上屋敷』にある」は前者の意味で使用する場合で、「賢者様は庵から『上屋敷』へ居を移した」は後者の意味で使用した場合である。
町割りとして執政官府など、中央官庁街に近い方から「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」の順に配置されている。おおよそ上屋敷は侯爵以上、中屋敷は辺境伯から伯爵あたり、下屋敷は子爵以下の爵位の貴族という風に住み分けがなされる。
だけど、本当にこの時はそういう事情は知らなかったんだ。屋外のベンチでお弁当を食べるなんて常識外で、最低でもきちんと場所を弁えてカフェテリアの席を借りて食べるのが常識だったなんて。
ようやく探し当てたベンチに座った自分は意気揚々と弁当箱(「タッパ」なんてここにはないから「わっぱ」)の蓋を開けようとした、その瞬間、
「やっと見つけましたわ、何でコソコソ逃げ回るのかしら」
という挑戦的かつ気取った声が聞こえてきた。思わず声の主の方へ目線を上げると、そこには例のピンク髪少女がお供の大型犬を伴ってそこに立っていた。
(まだ、右手で自分のことを指差して左手の甲を腰に当てていなくて助かった。そこまでやられてたら笑わずにはいられなかっただろう。)
ここまで追い詰められたら腹をくくるしかない。弁当箱をそのままベンチにおいて立ち上がり、軽く頭を垂れて、
「失礼しました。私はナナシノ・ゴンベエと申します。大賢者ガイウス様の所で文官見習いをさせて頂いております。研修の一環ということで、本学院では聴講生としてお世話になっております。先日は大変失礼いたしました。その後、アナベルの体調など問題は出ていないでしょうか。心配しておりました。」
「えっ、どうしてアナベルの名前を知って……。いいえ、今それはいいわ。私の名はモモ・レンヴァッテン、翰林学士院中等部に在籍しておりますの。それから魔法師団師団長付き副官、および後方支援連隊隊長付き副官を拝命しておりますわ」
「えっ、そのお年でご立派な。いえ、大変失礼致しました。まだこの町のこともほとんど分からない田舎者でして。お許しください。」
「いいえ、気にしてないわ。それより聞きたいことがあるのだけど」
「私に答えられることでしたら何なりと。ただお答えできることがあるとはちょっと思えませんけれど。」
「聞きたいことなら山ほどあるわ。いえ、その前にこの前の非礼をお詫びさせて。あなたがおじ様のところの人だったなんて知らなかったから」
「(おじ様ねぇ、賢者様のことか。)よくあることです、いいえ、何も気にしていませんからお構いなく。」
「では気を取り直していくつか質問させてもらってもいいかしら?」
「ええ、どうぞ。」
「その前に、そのー、ベンチに座ってお話してもよろしくって?」
「えっ、ちょっとお待ちください。」
昔の映画にあるようなハンカチをベンチの上に置くのは気障すぎるし、ここの貴族に対する礼儀もよく知らないから、ハンカチでさっとベンチの上を払う仕草だけみせて気を配りましたよ、アピールを一応態度で示しておく。
それからクライアントあしらいで覚えたとびっきりの笑顔付きで、「どうぞこちらにお座りください」と言った。
彼女は小さな声で「ありがと」と言って自分の隣に座った。
これが公爵令嬢に対する適切な礼と距離感かどうかなんて分からなかったけど、相手が拒否しなかったから良しとしよう。
「それではどうぞ、何なりとお尋ねください。」
「では遠慮なくいくわね。結構唐突かもしれないけど、どうして初めて会った時、アナベルがあなたのことあんなに警戒したのかしら? この子元々優秀だし、それなりに訓練を重ねてきてるんだけど。意味もなく人に威嚇する子じゃないの。それに、どうして今は平気なのかしら? あなた、なにか隠しているんじゃない?」
ピンク髪お嬢様の距離感の詰め方が半端ない。
「えー、どうしてっすかね。自分にもよくわかりません。」
あっしまった。売り言葉に買い言葉で自分も言葉がぞんざいになってきた。これはやばい、話題を逸らさないと。
「それはそうと話は変わりますが、もうお昼は召し上がりましたか。私は今からお弁当を食べようとしていたのですが、モモ様もおひとついかがですか?」
「えっ、こんなところでお昼食べるの? ここ外じゃない」
「ええ、私はいつもそうですよ(嘘です、新校舎の結構綺麗な便所飯か第2音楽準備室でした。ちなみに屋上とか外階段はカースト上位の縄張りだったので近づくこともできませんでした。ちなみに当時はカーストという比喩はまだ一般的ではありませんでしたが)。」
「(小声で)まっ、ハイキングにでも来たと思えばいっか」
「じゃあ、お友達に連絡するわ」
と言って、カバンから紙片とペンを取り出してさらさらと何か書き始めた。書き終えるとその紙片を丁寧に折り畳み、彼女の傍らに大人しくお座りで控えていた大型犬の首輪に下げられた小さな箱の中に収めた。それから大型犬の顔を両手で挟んで、まるでお互いの額を擦りつけるかのような距離感で、互いの目と目を合わせて無言のまま数秒間……
大型犬は何かを聞き入れたかのような表情を一瞬見せ、そのまますたすたと歩き始めた。歩いて行った先は馬車寄せとか事務棟などがある方向だった。傍目から見たら、まるで伝書鳩ならぬ伝書犬のようだった。そしてそのことを彼女に尋ねたところ、答えはまさにその通りだった。
「今、お友達とのお昼の会食のキャンセルするっていう伝言をアナベルにお願いしたわ。私は行けないけどそのままお食事楽しんでねって」
驚きどころ満載だった。
アナベルは訓練犬で、ああやってじっくり目を見て魔力による思念派を共振させるとある程度の意思疎通が可能なのだそうだ。特に、私信をあの箱に入れると訓練時に記憶した場所・人に完璧に届けることができるそうだ。今回はカフェテリア併設の個室へ、そこが空振りなら自宅へという感じで優先順に総当たりで行動できるように躾られている。
そしてお友達との会食予定。上級貴族は本学院在籍中に、カフェテリア併設の個室を優先的に専有することができる。ランチも立派な貴族としての社交の場なのだそうだ。そして今日は取り巻き、いや失礼しました、お友達とのお約束があったけど自分とのお弁当タイムの方を優先したらしい。後からお友達にこのことがばれて逆恨みされないことを祈る。
それにしても、アナベルは訓練犬ということだが、おそらくお嬢様の護衛の意味もあるのだろう。護衛役が護衛対象の傍を離れていいのかという点に少々引っかかる。まあいいか、ここは共和国の中でも結構安全が保障されている場所だろうし、それにこのお嬢様がそんじょそこらのチンピラにどうにかできる玉とも思えない。
「それでは気を取り直しておひとつどうぞ。」
お弁当箱の蓋を開けておもむろに彼女に先に摘まむよう勧めてみる。
(本当は毒見として自分が先に食べなければならないのだが物は試しだ。)
「これはいったい何かしら?」
「ええと、これは私が作ったのであまり美味しくないかもですが、小麦粉で作ったダンプリングです。焼き蒸したので底の焦げ目の所がアクセントになって結構いけますよ。それから、こちらのディップソース、アチャールというんですが、ベースにはこの辺りで好まれるリンゴンベリー・ジャムを使ってます。」
「えっ、あなたが自分で作ったの? 失礼しました、それではおひとつ頂くわ。あらほんと、美味しい」
「そうでしょう、そうでしょう、これは私の国では『餃子』と呼ぶんですが、こちらには『すじょうゆ』が無いので、これを『モモ』って呼ぶ国もあってそれを思い出してこのディップソースにしてみたんです。」
「えっ、これ『モモ』っていう名前なの?」
「えっ、あっ、そっか失礼しました、そういう意味ではなくて……。えーそれはそうと、お嬢様のお名前は『モモ』でいらっしゃいますよね。こちらでは何て呼ぶかまだ知らないのですが、私の国では『モモ』は春に咲く木の花でとても可愛らしい花を咲かせるんですよ。そして夏には甘く瑞々しく香りの良い果実を実らせるんですよ。みんなから本当に愛されているんですよ。私の国の花言葉は『チャーミング』『気立ての良さ』『あなたに夢中』『純真』と言ったところでしょうか(敢えて一番相応しいと思われる『天下無敵』は外した)。」
「(小声で)可愛らしい……、愛されている……、あなたに夢中……」
彼女は瞬時に頬を染め、俯いてしまった。
やばい、何か気に障ることを言ってしまったか。でもだって仕方がないじゃないか。自分の中では、「園芸」ネタが他人に言っても差し障りのないたったひとつの趣味だったんだから。どうせ高校で園芸部に入っていたネクラだよ自分は、悪かったな。だってここでアニメや漫画の話をしても誰も分からないだろっ。
そうだ。ここは「園芸」ネタを引っ張る、それしか道は残されてない。
「えーと、えーと、そうだ、それとアナベルですが、私の国では紫陽花の一種で、咲き始めは爽やかなライムグリーンなんですが、徐々に純白へと変わっていくのがまた魅力的な花の名前なんですよね。秋が近づくと今度は落ち着いたグリーンに変化するんですよ。花言葉は『ひたむきな愛』『辛抱強い愛情』なんです。忠犬にはぴったりですよね。」
「……」
「どうかされましたか、お嬢様?」
「……勘違いしないでよね!別に アンタのことなんか全然意識してなんかいないんだからね」
そう捨て台詞を残して、彼女は走り去っていってしまった。えーと、そっちはさっきアナベルが向かったのと反対方向なんですけど……。
でも『~いないんだからね』頂きました。本物初めて耳にしました。「ツンデレ成分40%、お嬢様成分60%:自分経験調べ」に再々修正しておきます。
でも、そのくぎゅるよりみやむる寄りの感じ、うん、悪くない。
◆
鮮烈なお弁当デビューを果たした翌日、自分は賢者様とのすり合わせの時間を持った。
「昨日報告させて頂いた通り、学院における学生の日常にいろいろ触れることができたので、私の常識レベルをかなり補完することができました。モモお嬢様には感謝しかありません。ちょっと嫌われてしまったようですが。でもその方が好都合だと思います。『匿名隠密の徹底』は至上命題ですから、あまり交友が深くなることは避けねばなりません。嫌われて丁度です。」
「うむ、順調に一般常識も徐々に身についているようで何よりじゃな。しかし、モモの方は……、まあよい。でもなんだ、ナナシノの最初のレポートが『東大陸のトイレ事情』で次が『ジャガイモの位置づけ』だったからの。この先どうなるかと心配していたのだがのう」
「旦那様、どこかおかしかったのでしょうか?」
「さらに提出されてきたのが『東大陸の企業形態』『暦と時間』『東大陸の政治勢力』『信仰と宗教』だったからの。その辺が出てきたところでほっとしたぞ」
「旦那様、お言葉を返すようですが、私にとって『トイレ事情』は睡眠や食事と並んで生活上の最重要課題でございます。それと、えーと、それからお風呂も忘れてはいけませんね。自分にとってはそうですね、①トイレ、②食事、③お風呂、④睡眠の順に大切なことです。」
「そうか、それ程のことか。では何とする? これからどう改善していくべきかの?」
「そうでございますね、優先順位に従って、まずトイレに限定して検討を進めていきます。ウォシュレット、水洗、トイレットペーパーの改善がポイントになります。」
「うむ、なかなか聞きなれない響きの言葉であったが、其方のレポートを読ませてもらったからの、大体の意味はどうにか理解することができるようになった。ではその3つのうちどれから手を付けるべきか?」
「まずは『紙』です。トイレ事情には紙の問題は避けて通れません。この屋敷に連れてきて頂いた初日に、ドレインソン君にここがトイレだと言われて御虎子が置かれている部屋に案内され、砂やおがくずでお尻をきれいにすると言われたときはどうしようかと焦りました。」
「はっ、はっ、はっ。それは彼にとっては最大限其方のことを考えた末の行動だったと思うぞ。もちろんこの屋敷にももっとましなトイレがあったが、あの部屋からはあそこが一番近かったからな。それに、あれはあれで来客用だぞ」
「えっ、そんな信じられません。」
「御虎子はきれいなままだったのだろう。それは係りの者がきれいに後始末して次の客を迎える準備ができている状態のものだったのだよ。恐らく匂いもきちんと手当されていたはずじゃ。人手による労力をちょっと考えればわかるじゃろ」
「今理解しました。でも私の国では御虎子は完全に赤ちゃんか介護を必要とする病人・老人のものでしたので。それも、紙でできたオムツが広く普及していたので、御虎子のお世話になる人はずいぶんと減っていました。」
「なるほど、ここにも『紙』の技術か」
「はい、さらにというか、ウォシュレットが普及した後も紙でお尻を拭いていました。温風機能でお尻を乾かすのはどうしても時間がかかりますから。」
「うむ、何度聞いてもよくわからぬ。なんとも奇天烈なことをするものじゃな。しかし、ここでもやはり『紙』が大事だということじゃな」
「はい、ですから私は旦那様に大変感謝申し上げているのです。『紙』は文字を書き残す道具なだけでなく、飛躍的にトイレ文化をよくするのにも役立つ技術でもあるからです。東大陸にきて、最初に紹介されたのが紙問屋のトレディン氏で本当に良かったです。」
「うむ、其方の言いたいことは大体理解したつもりじゃ。して、具体策はあるのかの」
「具体策ですか。あの、具体策のお話しする前に一度確認させて頂きたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
「うむ、何なりと申してみよ」
「あの、トイレの具体的な話というのはその、あまり清潔ではない話をするというか、不浄のことですから、口にするのを憚る人もいまして……。高貴なお方とこういうお話を明け透けにするというのに抵抗というものがあると言いますか……。」
「さもありなん。しかしなんだ、その高貴なお方というのは貴族ということじゃな。それで其方少々思い違いをしているというか、忘れておることがあるのではないかの。貴族は高位になればなるほど、魔力量が多くなり、魔力操作にますます長けていくのは理解しておるか」
「はい、その通りに理解してございます。」
「なればじゃ、そうした高位貴族は魔力探知能力もより優れた者となるわけじゃが」
「あ、そこまでご説明頂くと完全に腑に落ちました。より高位の貴族はより多くの、時には醜く、時には残酷で、時にはいたたまれない人の心の内を見てしまうということですね。」
「その通りじゃな。そのうえ儂は人並み以上に年を取ってしまった……。であるから、儂の心はちょっとやそっとじゃ揺るいだりもせんし壊れもせんからの、安心してよいぞ」
「はっ、お心配り感謝の念に堪えません。ですがひとつ重大なことに気付きました。ということは、女神様は相当に醜く残酷で卑劣な感情にさらされているのではないでしょうか。」
「そういうことになるな。しかしだぞ、東大陸に暮らす数多の民の心の内を知悉されているゆえにこそ、神としておわすと考えられるのではないか」
「そうでございますね。」
と相槌したものの、なにかすっきりとしない感覚が残る。後味が悪いとはこのことだ。自分の感覚のどこに何が引っかかっているのだろうか。
「旦那様、だとすると、女神様は私の心の内もよく見えていらっしゃるのではないでしょうか。という仮定が成り立つとしたら、なぜわざわざ私は、旦那様のお手を煩わせてまで、月一回のペースで女神様のお召に従って神域に赴かねばならないのでしょうか。何か特別な修行を経てというか、魔法技術か何かの習得によって、女神様による読心術から逃れる術が身に付くことがあるのでしょうか。同様に旦那様はその技術を既に習得されているのでしょうか?」
「ほっほっほっ、其方にはそう見えるのかの。では問うが、儂が其方に初めて会った時、女神様は儂に何とおっしゃったか覚えておるか」
「えーと、『賢者ガイウスよ、この若者を汝の下で庇護してやってほしい』でしたでしょうか?」
「その通りじゃな。で儂は65年ぶりに女神様のご降臨に立ち会えたのだがじゃの、女神様が65年ぶりに再会した儂のことを『賢者』と呼んだのだが」
「あっ、そういうことですね。65年前ということはまだ旦那様も大変若くあられた、いえ大変幼くあった。その頃に世間から『賢者様』呼びをされるということはちょっと想像しがたいというか無理があるというか……」
「そういうことじゃ、神は常に我々と共にある」
「よく分かりました。ご指導ありがとうございます。」
「うむ、分かればよい。それにしても其方は理解が早くて助かるの」
しばし考え込む。いやまてよ、まだ何か足りない気がする。なんだこの違和感は? あっ、そういうことか。
「旦那様、もうひとつの謎がまだ解けておりませんでした。でしたら、軽々しくこの『全知全能』という言葉は使いたくはないのですが、全知全能である女神様が千里眼をお持ちであるというか、すべては女神様の御手の中ということになるならば、どうして私のようなものをお側にお召しになるのでしょうか。やはりこの一点については考えが及びません。」
「それは私も同じことだ。なぜ女神様が其方をわざわざ神域にお召しになるのか儂にもとんと理由が分からぬ。しかしだぞ、ヒトごとき存在が女神様の神慮・神意を人の身で測ることは叶わないし、そもそも我々が理解するなど烏滸がましいにもほどがあろうよ」
「旦那様、今度こそ本当に理解致しました。」
つまり、こういうことか。
“Only God knows.”
(神のみぞ知る)
(なんだか神兄様が文化祭でボーカルの代役を急遽務めるのを想起させるようなフレーズじゃないか。)
ということなら、分かりました。こちらにもこのセリフを吐く勇気がようやく出るというものです。
『では、仮に私が物語の主人公で、私の行動やら発言やら独白やら、ましてや胸の内まですべてお見通しの読者のような存在χがいるならば、そしてあなたがエンタメとして私のすべてを楽しむつもりなら、私は進んでトゥルーマンを演じ切りましょうぞ』




