第128話 すれ違う想い
ヴィーは暫くの間何も言わなかった。
ただ、美しい翡翠色の瞳が静かに私を映し続けている。
窓の外には見慣れた景色――リヴァロル侯爵家のタウンハウスの近くが広がっている。
「……ニコル」
長い睫毛が伏せられた後、ヴィーは自分の頬に触れていた手を引いて、私を抱き寄せた。
私に顔を摺り寄せた彼は、背に回した腕に力を込めた後に小さく呟く。
「ほっせぇー……」
「もう。急に何?」
苦笑交じりの声を私は怪訝に思う。
確かに女性の中でも私は細身の方だろう。
だがそれは今に始まった事ではないし、何故今になって突然そんな事を言い出したのか、私にはよくわからなかった。
「飯を食え、飯を~!」
「食べてるわよ。付かないだけだもの」
「世の女性を敵に回すような事を……」
そもそもが小食なのだとかなんだとか。
そんな小言を言い出す彼の言葉に対して、私は「貴方は大きくなり過ぎよ」などと言い返した。
普段のような軽口を返すような口調を心掛けたけれど、ヴィーと言葉を交わす度、いつもとは異なる空気感をひしひしと感じ、何だか不安を覚えた。
しかしその会話も長くは続かず、速度を落とす馬車の中に沈黙が訪れる。
そしてやがて。
「別に、身を引いたっていいんだよ」
……彼は、そんな事を言い出した。
想定外の言葉に驚き、すぐに返事が出来ない私を置いて、ヴィーは更に続ける。
「君は俺とは違って、ただの一令嬢だ。殿下との直接的な繋がりや柵がある訳でもない」
馬車が緩やかに動きを止める。
車輪が軋む音が暗い馬車の中に響いた。
「この先は、これまで以上にきっと危険になる。だから、君が望んでくれるなら」
彼の紡ぐ言葉に、胸がざわつく。
ヴィーの声はとても優しく、悪意なんて微塵も感じないのに、それでも何故かその言葉の続きを聞きたくないと強く思った。
「ヴィー」
私は彼の言葉を遮る。
「その危険に貴方は当然のように身を投じる癖、まさか婚約者の私に引き下がれなんて言わないわよね」
「ニコル」
ヴィーは否定しなかった。
それがどうしてだか悲しくて、悔しい。
少しだけ目頭が熱くなるのを感じ、溢れそうな感情を抑えながら、私は平静を装った。
「私は長い付き合いの中で貴方の婚約者として相応しく在る為に手を組み、振る舞ってきた。その関係はこれからだって変わらないわ」
心の内を明かす事はなく、彼の真意の全てを汲めるわけでもない。
それでも私達はずっと、互いの為に手を組み、協力し合ってきた。
私は彼のように器用ではないけれど、それでも少しでも力になれるようにと。
彼の隣に並び続けられるようにと。
そして少なからず、そのように振る舞えていたはずだという自負もあった。
(それなのに、どうして今更……)
私達の短い人生の中で最も重要な事態に差し掛かったこの瞬間に、私を突き放そうとするこの空気が私には耐え難かったのだ。
私では彼の力にはなれないと言われているようで……もう役には立てないと言われているようで、それを否定したかった。
「ニコル、俺はただ――」
(……嫌。今は、聞きたくない――)
この話を続けたくはなくて、私は体を強張らせる。
そんな折だった。
バンッ! と馬車の扉が強く叩かれる。
私達は驚きから同時に肩を跳ね上げ、慌てて馬車の外を見やる。
馬車の窓からは、黒髪の壮年の男性と二十代前半程度の青年の姿があった。
二人は恐ろしい形相で馬車の中を睨みつけている。
「おい、何をしている……クソガキが……」
「娘を夜中まで連れ出しておきながら、あまつさえ我が家の前でわざわざ淫行に走ろうとするとは……」
怨霊か怪異か。
そう見紛う程に禍々しい圧を纏った彼らの声が扉を隔てた先から僅かに聞こえてくる。
「お……お義兄さん、お義父さん……」
ヴィーは引き攣った笑みと共に顔を青くさせ、分かりやすく狼狽える。
……認めたくはないが、あれは私の父と兄だ。
ヴィーはすぐに私から離れると、慌てて馬車の扉を開ける。
瞬間、扉という障害を失って飛び込んで来たのは、鼓膜をつんざかんとする程の大声だった。
「君にお義父さんと呼ばれる筋合いはないッ!!」
「お前にお義兄さんと呼ばれる筋合いはないッ!!」
「……俺、一応婚約者…………あ、スミマセン、なんでもないデス」
珍しく正論を言おうとしたヴィーに父の紫の瞳と、兄の青い瞳が鋭く向けられる。
すっかり委縮してしまった憐れな婚約者を放っておくわけにもいかず、私は深い溜息と共に口を挟んだ。
「帰りが遅くなる事とその理由は事前に遣いを送って報せていたはずです。そもそも……お父様とお兄様は何故王都にいるのですか。あと淫行とか、人聞きが悪すぎる言いがかりはやめてください」
父は侯爵、兄はその父から仕事を引き継いでいる最中の次期侯爵だ。
二人とも最近は王都ではなく領地の屋敷にいる事が殆どであった。
事前にタウンハウスを訪れるような話も聞いていなかった為に、二人がこうして私を待ち構えている事は想定外の事態でもあったのだ。
「可愛い娘に会いに来るのにそれ以上の理由がいるのかい?」
「不埒な男に毒されていないか心配で様子を見に来たんだ」
「ああ、はい。……お兄様はヴィーを何だと思ってるんですか」
この残念な男衆は、私に対して驚く程に過保護なのだ。
それ自体は今に始まった事ではないので、私は兄のヴィーに対する誤った、または誇張した評価を指摘する事だけに留めた。
すっかり調子を崩された私は深々と溜息を吐いてから席を立つ。
タウンハウスには到着しているし、父と兄は騒がしい。
今日はこの辺りで解散するのが良き頃合いだろうと踏んだのだ。
「じゃあ、ヴィー」
「……ん。また学園で」
「ええ。気を付けてね」
「おう。……お義父さんとお義兄さんも」
「だから君に――」
「だからお前に――」
「二人とも、降りるのでさっさと離れてください」
未だにヴィーへ噛み付こうとする二人を追いやり、私は馬車を降りる。
扉はすぐに閉められ、私とヴィーは窓ガラスを経て視線を交わす事となった。
やがて王宮へ向かって動き出した馬車に、私は手を振る。
同じようにこちらへ手を振る婚約者の姿はあっという間に遠ざかっていき、その馬車が小さくなっていくのを見送りながら、私は父と兄の乱入直前の事を想い返していた。
「ヴィー……」
締め付ける胸の痛みに耐えるように、胸元の服を握り締める。
彼が言い掛けた言葉が気掛かりではあったが、それを深く考える余裕がない程に、私の周りでは父と兄が煩く騒いでいて、私はそれを窘めながら、彼らと共に屋内へと向かうのだった。
***
一人分、ぽっかりと空いた隣。
薄暗い馬車の中を包み込む静寂。
壁に寄り掛かり、細かな車の揺れに身を委ねていたヴィクトルは胸から掛けているネックレスを片手で掬い上げ、ぼんやりと眺めていた。
彼の脳裏を過るのは、先程の自分の言葉に傷ついたような顔をしていたニコレットの表情だ。
彼女自身は上手く取り繕っているつもりだったのだろうが、その心の内をヴィクトルは的確に見抜いていた。
「……ニコル」
自分よりもずっと細くて、すぐにでも壊れてしまいそうな体。
落ち着いた、心地よい声音と、自分を包み込んでくれる温もり。
彼女という存在の眩さ。
(……守りたい。失いたくない)
己の使命から反するような強い想いに掻き立てられて、翡翠色の瞳は大きく揺らいでいた。
彼女の美しい瞳を彷彿とさせる宝石。
それにそっと口づけを落としながら、彼は思い悩むように顔を歪めるのだった。
***
それぞれが苦悩と葛藤を抱え、その晩は過ぎていく。
互いの想いや信念が交錯した先に待ち受ける運命は――まだ、誰も知る由がない。




