第105話 雨上がりの別れ
毒気を感じさせない、柔らかな微笑。
それはもしかしたら見間違いだったのかもしれない。
そう思う程一瞬の事で、私が気が付いた頃にはラガルド殿下は普段と変わらない、不敵さの溢れる笑みを浮かべていた。
「悪くないな」
「そうですか?」
「ああ。今後二人の時はそれでいい」
「ではこれが最初で最後になりますね」
「おい」
軽い口調での会話を交え、小さな笑い声が二つ上がる。
(……ステファーヌ)
――ラガルド。
その言葉が我が国で名前として使われる事はない。
本来姓として使われるはずのその言葉が第二王子に当てがわれた時、一部の貴族の間では話題になったという。
今の王妃ブリュンヒルデ様はソニストゥセ王国から我が国に嫁いだお方。
大陸全土で使われる公用語は存在するものの、母語が異なる国で生まれ育った彼女がレグリアスの言葉をあまり知らない中で名付けたのではないか……当時はそんな憶測が飛び交ったとか。
大して調べられないままに名付けられた名前なのではないか。
違和感に気付くはずの国王がその名を認めた事から、子供にはあまり関心がなかったのではないか。
そんな噂が広まったそうだが、真相は分かっていない。
ただ、敢えてこの場でミドルネームを口にした彼の言動を鑑みるに……どうやら彼自身も己に与えられた名にあまりよい印象を抱いていないらしい事は事実なのかもしれない、と思った。
この考えすらただの憶測であり、実際に彼が何を思って私にこの愛称を示したのかは、結局本人にしか分からないが。
「ニコレット」
ラガルド殿下がふと、ある方角へ視線を向ける。
そちらには慌てた様子で私達の下へと走る護衛の姿があった。
「やはり、僕と来ないか」
いつの間にか雨は完全に止んでいる。
ラガルド殿下は雲の隙間から覗く赤い空を見上げたまま、私にそう言った。
その声は普段より真剣でありながらも、何かを悟っているような静かな色を孕んでいた。
こちらを見ようとはしないラガルド殿下の横顔。
それを見つめてから、私は目を閉じる。
瞼を閉じれば、いつだって思い浮かぶのはたった一人の姿だ。
どれだけ情が湧こうと、新たな想いが生まれようと、私の根幹が揺らぐことはない。
「ステフ」
彼から向けられる好意に対し、警戒や恐怖といった感情は今や殆どが薄れている。
加えて、彼が極悪人でないという事も理解している。
だからこそ私は今の私が考え得る誠意で答えを返した。
「私、心に決めた人がいるの。死ぬまで、最も近い場所で彼を支え続けたいと思ってる。……家の都合とか、そういったものを抜きにして、私自身がそう在りたいの。だから――ごめんなさい」
僅かな沈黙の後、ラガルド殿下は目を伏せて微笑んだ。
「そうか」
彼は青い瞳に私の姿を映し、数度瞬きを繰り返した。
苛立ちや不満を滲ませることはない。
ただ落ち着いた様子で私の顔を観察した彼は、やがて僅かに口を開いて小さく呟いた。
「一つ、尋ねたい事がある。ニコレット、僕が――」
彼の手が私の顔へと伸ばされる。
投げかけられた言葉の続きや、彼のどこか縋るような動きや声音が気になって、私は動きを止めた。
ただ、彼の言葉を待つ。
その時の事だった。
「――ニコレット様」
突如、私達の死角から声がした。
私とラガルド殿下が驚いてそちらを見やれば、髪に雫を滴らせたカミーユが微笑みを浮かべて立っている。
「お迎えに上がりましたぁ。皆さん、心配していますよ~」
「……カミーユ」
ラガルド殿下は伸ばし掛けた手を下ろし、怪訝そうにカミーユを見ている。
「お前の護衛か?」
「……はい。探しに来てくれたようで」
「お楽しみのところ申し訳ございません、ラガルド殿下。ニコレット様を連れ帰るようにと命を受けておりまして」
本当はジュリエンヌ様の護衛であり、より正確に言うならば王宮の騎士なのだが、そこまで詳細に説明する必要はないだろう。
カミーユが私に手を差し出し、私はそれを取る。
その場には更にラガルド殿下の護衛も駆け付け、随分と人が集まった。
ラガルド殿下は少し不満げではあったが、この場に留まってまで会話を続けたり、私をさらに連れまわすつもりはないようであった。
彼は溜息を一つ吐くと私とカミーユを追い払うような仕草をする。
「興が醒めた。さっさと連れ帰ればいい」
「ありがとうございます。さ、ニコレット様」
「ええ。……今日は、ありがとうございました。失礼いたします」
カミーユに促され、私はラガルド殿下へ一礼をする。
彼は鼻を鳴らすだけで、それに言葉を返す事はない。
私はカミーユに手を引かれるがまま、その場を後にした。
後ろ髪を引かれるような心地がしたのは、この時の彼の言葉を最後まで聞くことが出来なかったからだろう。
彼の言葉を最後まで聞けていたのなら。
いや、そもそも彼の誘いを断る時に、別の言葉を選んでいたのなら。
貴方が歩みを止めてこちらに寄ればよいと、そんな可能性を提示できていたのならば。
何かは変わっていたのだろうか。
そんな考えに至るのは――もっと先の事であった。
***
遠ざかっていくニコレットの背中をラガルドは静かに眺める。
徐に持ち上げた手は彼女の姿を追って、空を切る。
「……僕が」
周りの護衛にも聞こえない程微かな声で呟かれる。
「僕がここに在る理由は、何だと思う?」
何も掴めない手を握りしめる。
彼は自嘲気味に笑ってその手を眺めた。
「…………なんてな」
「殿下?」
「何でもない」
彼が何かを呟いたことに気付いてか、周囲の観察やこの後の予定について話していた護衛が怪訝そうな顔をする。
それに対してラガルドは首を横に振り、ニコレットが去っていった方とは別の方角へと歩き出す。
護衛達の前に出た彼は口元を押さえて何度か咳き込んだ。
顔色一つ変えず、普段通り不敵に笑う彼のその手が赤く汚れている事に気が付いたのは、本人を除いて誰もいなかった。




