第104話 ステフ
普段とは違う空気を纏った、屈託のない笑顔。
それに見惚れてしまった私は息を呑み、ほんの少しだけ呆けてからつられるように笑みを浮かべた。
「……そうですね」
残虐で冷酷。
高圧的で傲慢。
警戒心が高いが同時に執着心も強い。
敵対すべき立場であり、要注意人物。
ラガルド殿下がした事や彼の危険性を忘れた訳ではない。
これまで抱いていた彼の認識が誤りだとも思わない。
けれど私が知らない彼の一面を垣間見た私は……ほんの少しだけ、期待を抱いてしまった。
今、私が見ているこの明るさこそが彼の本質であり、彼の中にこれまでの悪事や今も尚企てているであろう『何か』に対する罪悪や躊躇が少しでも存在するのであれば――
(――彼が踏み止まる事も、できるのでは……なんて)
ヴィーやグザヴィエ殿下が知れば甘すぎると苦言を呈されてしまうだろう。
自分の考えの甘さを悟った私は、彼との時間を経て少なからず情が湧いてきてしまっている事を漸く自覚した。
初めは渋々付き合っていたこの時間は存外、私にとっても悪くない時間だったのだと思う。
理性と情がせめぎ合う中、言葉を失った私は、ただラガルド殿下を見つめる。
彼はその視線に気付いて怪訝そうな顔で小首を傾げたが、はたと何かに気付いたように顔を険しくさせる。
そして彼は徐に自分のジャケットを脱ぐと、やや乱暴に私の肩に掛けた。
「え……?」
「婚約者の存在を気にする癖に、何故そんなにも無防備でいられるんだ。……自分の状況くらい誰よりも先に気付け」
ラガルド殿下は行き場を無くしたように視線を泳がせ、顔を背ける。
そんな彼の様子を不思議に思うも、指摘の言葉を聞いて自分の体へ視線を落としたところで、私は漸く自分の濡れた服が肌に貼りついて透けていることに気付いた。
「……っ」
透けた胸元から、服の下に着ているものも僅かに見えているような気がする。
私はラガルド殿下のジャケットで慌てて前を隠した。
「も、申し訳ございません。お目汚しを」
「いい。それはやるから、雨が上がったらそのまま帰れ」
髪を掻き上げる彼の表情は相変わらず険しいが、それは不機嫌というよりは途方に暮れているだとか、呆れているだとか、そういった空気が近しいように思えた。
心なしか、普段の青白い肌も赤みが差しているような気がした。
そして私もまた、前面が彼の視界に留まらないようにと体の向きを変えた事で、私達は自然と互いに視線を逸らすような格好になる。
それから暫くは何とも気まずい沈黙が流れていた。
地面を打ち付ける雨や、屋根から滴り落ちる雫の音を聞きながら私達は天気が落ち着くのをじっと待つ。
やがて、ラガルド殿下が言っていたように雨足は弱まっていき、そのことに気付いた私がラガルド殿下を呼ぶ。
「ラガルド殿下」
しかし彼は返事をしなかった。
不思議に思ってもう一度呼ぶも、やはり反応はなく。
私は姿勢はそのままに、ラガルド殿下の方を見やる。
彼の視線は未だ屋根の外に向けられていて、その青い瞳は何か考えを巡らせているように僅かに細められている。
私の声が聞こえていない訳ではなさそうだった。
「あの……」
私は改めて彼へ声を掛ける。
その時だった。
ラガルド殿下はゆっくりと口を開いた。
「――ステファーヌ」
彼が告げたその名には聞き覚えがあった。
ラガルド・ステファーヌ・レグリアス。
それが彼の名だ。
何故か自身のミドルネームを口にした彼は更に暫しの間考えるようなそぶりを見せてから続けた。
「……ステフでいい」
「ステフ、殿下? ……様?」
殿下、といえば不服そうに睨まれてしまったので慌てて敬称を変えてみる。
しかしそれでも、彼のしかめっ面が解けることはなかった。
「今後の為だ。今日のように何度も正体を明かされそうになっては困るだろう」
「ああ…………え?」
確かに今日の私は何度も彼の事を「殿下」と呼びそうになったし、寧ろ呼んでしまった場面もあった。
故に一瞬は納得しかけてしまったのだが、相槌を打ったところで私はこの会話の流れに違和感を抱く。
「……今後?」
「何だ? 次の機会を考えるに値しない程、今日の時間は意義のないものだったと?」
「い、いえ、そうではなく……私には婚約者がいると既にお伝えしたではありませんか」
今回は半ば脅されるようにして行動を共にしたが、今日のような機会は二度とないだろう。
同じ過ちを繰り返さないよう、私は今後ラガルド殿下の罠により警戒する事になるだろうし、必要があると判断すれば周りの人々も私とラガルド殿下が接触しないよう手を打つはずだ。
確かに今日彼と過ごした時間は楽しいものだった。
だが私と彼が敵対する立場にある以上……次が訪れる事はない。
そう在れるよう私は動かなければならないのだ。
そんな思いから私が首を横に振れば、ラガルド殿下はやはりつまらなさそうな顔をしていたが、すぐに鼻で笑って肩を竦めてみせた。
「わかっているさ。少し試しただけだ。まあ、お前の気が乗らないのであれば、また別の方法で連れ出せばいいだけの事だ」
「お断りします……っ!」
慌てて拒絶すれば、彼がくつくつと笑う。
しかし私を映す瞳がどこか切なげに揺らいでいるような気がして、私の目は彼の美しい青色に吸い込まれた。
彼が何故突然、ミドルネームに因んだ愛称を口にしたのかは分からない。
けれどそれはどうにも、彼の気紛れや、彼自身が述べた理由によるものではないような気がしてならなかった。
確かな事は何も言えない。
しかしある憶測が私の中には生まれていた。
(どのみち、この推測が間違っていようと減るものではないし)
何となく、目の前の彼の、どこか切なげな表情を変えたいと思った私はその名を口にする。
「――ステフ」
私がそう呟いた時。
彼の海のような澄んだ青の双眸が見開かれた。
丸められた両目が私を映し、驚いた顔をしてから――彼は、目元を和らげて酷く穏やかな笑みを浮かべるのだった。




