表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

58/59

画を殺せ


白い空間のあちこちで、黒い点が増えていた。


白膜の上。

白い灰の中。

床の継ぎ目の脇。

保守橋のひびの縁。


そこにあるのか。

レンズの汚れなのか。

視聴者の画面の欠けなのか。


もう、区別がつかない。


それが一番まずかった。


透はカメラを握ったまま、右目を一度だけ閉じた。

開ける。

痛い。

だが、まだ見える。


見えるが、追えない。


点になった時点で、もう勝負の土俵が変わっていた。

影なら落とせた。

線なら集められた。

でも点は違う。


数える前に増える。

追う前に散る。

しかも、ただのノイズと見分けがつかない。


コメント欄が荒れている。


『無理』

『どれが敵だよ』

『画面が気持ち悪い』

『点増えてる』

『終わった?』

『いや終わってないのが一番嫌』


透はそこで、逆に深く息を吐いた。


終わってない。

そうだ。

終わってないから、まだ選べる。


「ミラ」


「何」


「次で終わらせます」


ミラの返事は短かった。


「どうやって」


透は答えた。


「画を殺します」


一拍。


「……今なんて?」


「映像を、やめます」


ミラはすぐには返さなかった。

返さなかったが、動きは止めない。

白い刃の先だけが、床に増えた黒点を踏まないように低く揺れる。


「配信者に言う台詞じゃないわよ」


「今日はそれで勝ちます」


「画がなければ、あんたも見えないでしょ」


透は右目の奥の痛みを噛み殺した。


「見なくても、勝てるところまで来ました」


ミラの呼吸が、ほんの少しだけ変わった。

笑ったわけじゃない。

でも、信じる時の沈黙だった。


「早くやりなさい」


---


透はファインダーから完全に目を外した。


右目の奥の圧が、少しだけ軽くなる。

やっぱりそうだ。

覗くこと自体が入口になっている。


こいつは、映像の中で形を変えてきた。


余白。

輪郭。

影。

線。

点。


だったら最後は、映像そのものを奪えばいい。


透はカメラを胸の高さまで下げた。

レンズを白膜へ向ける。

敵へ向けない。

白だけを見る。


露光を上げる。

さらに上げる。

白飛び寸前まで。

でも完全には飛ばさない。


そこへ、残った一機のドローンを真上へ近づけた。

照明を白膜へ返す。

逃げ場のない白。


画面が、少しずつ白に潰れていく。


コメントが跳ねた。


『何してる』

『真っ白』

『見えねえ』

『配信落ちた?』

『いや音はある』

『画面消した?』


透は、その反応を見なかった。

もう画面は見ない。

聞く。


呼吸。

靴底。

布が擦れる音。

殻の奥で脈打つ赤の重さ。

空間把握に引っかかる、わずかな歪み。


見えなくても分かる。


白く潰れた画面の中で、黒い点は一瞬だけ濃くなった。

そして――揺れた。


居場所を失った。


「効いてる」


透の声は、自分でも驚くほど低かった。


ミラが短く返す。


「どっち」


「全部です。点が戻ってる」


点は、真っ白な画の中ではもう恐怖の形を保てない。

ただの異物だ。

観客はそこに何かを見ようとしても、もう見られない。


想像の逃げ場がない。


透はさらに一段、画面を白へ寄せた。


真っ白。

でも完全な白じゃない。

微かに揺れる曇り。

それだけ。


そこへ黒い点が残る。


点たちは、初めて迷いを失ったように見えた。

散らばらない。

跳ねない。

増えながら、逆に一箇所へ寄る。


「……戻る」


透の喉が冷える。


こいつは逃げているんじゃない。

還る場所を探している。


本体へだ。


殻の下。

赤い核。


見えない。

だが、空間の奥の重さだけが、今はっきりひとつに集まっていく。


「ミラ」


「何」


「点、全部、核に戻ります」


「今なら切れる?」


透は即答した。


「切れます」


ミラが鋭く息を吐いた。


「じゃあ、言いなさい」


透は右目を閉じたまま、空間把握を深く開いた。


床。

殻。

裂けた白膜。

残った糸。

その奥にある、赤の拍動。


今までみたいに“見える”わけじゃない。

でも、位置は分かる。


いや、位置じゃない。

間違えたら死ぬ場所だけが分かる。


そこから逆算する。


「一歩右」


ミラが動く。


「半歩前」


白い靴音。


「そこで止まって」


静止。


殻の下で、赤が脈打つ。

点が戻る。

黒いもの全部が、そこへ集まり直している。


「下じゃない。少し上」


ミラが白刃を持ち上げる。

ほんの少しだけ。


透は息を止めた。


「……今」


ミラは一切躊躇しなかった。


白い刃が、白い画面の向こうへ消える。


見えない。


だが、音だけがあった。


硬いものを割る音じゃない。

柔らかいものを断つ音でもない。

もっと芯の音。

空間の中心に触れたみたいな、短く、深い音だった。


次の瞬間、殻の奥から赤い圧が一度だけ膨らんだ。


透の喉が勝手に鳴る。


「……入った」


ミラは返さない。

返さず、さらに半歩だけ踏み込んだ。


追い打ちだ。


「下げないで!」


透が叫ぶ。


「そのまま、捻って!」


ミラの手首が動く。

見えていなくても分かる。

刃の角度が変わる。

核の中で、白が回る。


そして、赤が潰れた。


今度こそ、はっきりと分かった。


白い画面の上に残っていた黒い点が、一斉に止まる。

跳ねていたものも。

隅で増えかけていたものも。

全部が、その場で意味を失う。


コメント欄が止まった。


本当に、止まった。


一秒。

二秒。


それから、遅れて流れ出す。


『え?』

『消えた?』

『点止まった』

『今の何』

『刺さった?』

『終わった?』


透はまだ答えなかった。

答えられなかった。


右目の痛みが、急に戻ってきた。

さっきまで張っていたものが切れて、どっと疲労だけが押し寄せる。


白の向こうで、殻が遅れて崩れる。

重い。

だが、もう“演出”の重さじゃない。

ただの死んだ重さだ。


ミラの声が、そこで初めて落ちた。


「……佐久間」


名前だった。

低くて、少しだけ掠れていた。


透は、ようやく息を吐いた。


「はい」


「終わった?」


透は白膜の向こうを見る。

いや、見ていない。

白の濃さの変化と、空間の重さの抜け方だけを感じる。


あの嫌な拍動は、もうない。

点も動かない。

線も伸びない。

余白も食ってこない。


「終わりました」


ミラが、そこでようやく剣を引き抜いた。


短い、濡れた音。


それから、白い膜の向こうが少しだけ揺れる。

ミラが一歩引いたのだと、透には分かった。


コメント欄が、今度は遅れて爆発した。


『終わったあああ』

『何やったの今』

『真っ白で分かんねえのに終わったのは分かる』

『頭痛いの消えた』

『MIRA生きてる?』

『カメラマン返事してくれ』


透は、そこで初めて少しだけ笑いそうになった。


返事をする前に、膝が抜けた。


「あ」


情けない声が出た。


カメラを落としそうになる。

でも落ちなかった。

落とす前に、白い膜の向こうから黒い手袋が伸びて、カメラの底を支えたからだ。


ミラだった。


白い画面のせいで顔は見えない。

でも、その手の重さだけで十分だった。


「落とさないで」


短い声だった。

いつもの命令みたいな調子。

でも、前とは少し違った。


透はカメラを抱え直した。


「……はい」


「遅い」


「すみません」


「あとで」


一拍。


「その“画を殺す”って発想、死ぬほどむかつくくらい正しかったわ」


透は、返事をする前に目を瞬いた。

右目が痛い。

でも、さっきまでの嫌な痛さじゃない。

ただの疲労だ。


「ありがとうございます」


「褒めてない」


「知ってます」


白い画面の向こうで、ミラが少しだけ笑った気がした。


---


少しして、透はようやく露光を落とした。


真っ白だった画面に、ゆっくりと形が戻る。


白膜。

裂けた殻。

灰。

崩れた床。

その中央に立つ、黒いジャケットの女。


そして、その足元には、もう何もなかった。


赤も。

黒い点も。

影も。

線も。


ただ、割れた核の薄い灰だけが残っている。


コメント欄がまた跳ねる。


『戻った』

『うわ本当に何もない』

『勝ってる』

『神回っていうか事故だろこれ』

『カメラマン頭おかしい』

『MIRAも頭おかしい』

『最高』


透はその最後の一行だけ見て、少しだけ肩を落とした。


もう、どうでもよかった。


勝った。

落とさずに勝たせた。

それで十分だった。


ミラがこちらへ歩いてくる。


遅い。

でも、まっすぐだ。

いつものように、疲れているときほど姿勢が崩れない。


透はカメラを抱えたまま、その歩幅を見た。

この人は生きている。

それが、いちばん遅れて胸へ落ちてきた。


ミラが目の前で止まる。


「佐久間」


「はい」


「帰るわよ」


短い。

でも、それで十分だった。


透は頷いた。


「はい」


歩き出そうとしたところで、端末が一度だけ震えた。

運営の通知か、玲奈か、白石か。

確かめる気にはなれなかった。


でも、画面の端に一瞬だけ映った文字だけは見えた。


【正式調査対象:本件映像解析保留】


透はそれを見て、ほんの少しだけ鼻で笑った。


遅い。

本当に、遅い。


白い空間の奥で、砕けた殻が最後にひとつだけ崩れる。


それを背中で聞きながら、透はミラの三歩後ろを歩いた。


もう、落とさない距離だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ