最終話:帰る場所
Aゲートへ戻る通路は、来るときより狭く感じた。
実際に狭くなったわけじゃない。
透の肩が上がっている。
右目の奥がまだ熱い。
腕の中のカメラが、今さら鉛みたいに重い。
前を歩く黒いジャケットの背中だけが、妙にはっきり見えた。
ミラは止まらない。
止まらないが、速すぎもしない。
こちらが落ちないぎりぎりの歩幅で歩いている。
それが分かるくらいには、透の頭も戻っていた。
白い通路の先で、ゲートが開く。
光が広がる。
現場の白じゃない。
外へ戻る白だった。
Aゲートの向こうには、人がいた。
医療班。
運営。
回収班。
玲奈。
白石。
それから、遠巻きにこちらを見る、まだ名前のない大勢。
誰も、最初の一秒は声を出さなかった。
ミラが出る。
透が続く。
透の靴底が、ゲートの外の床に乗る。
そこで初めて、空気が動いた。
「医療!」
誰かが叫ぶ。
台車の車輪が鳴る。
白衣が寄る。
玲奈がまっすぐ来る。
白石は少し後ろから歩いてくる。
玲奈の顔は綺麗だった。
綺麗だが、今日はさすがに目の下が薄く崩れている。
それでも一番最初に見たのは、透の顔ではなく、彼が抱えるカメラだった。
「生きてます?」
「一応」
「どっちがですか」
「両方」
玲奈がそこで、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ってはいない。
でも、張っていたものが一つだけ床へ下りたみたいな息だった。
白石が横へ来る。
「遅かったな」
「勝ってました」
「見りゃ分かる」
短い会話だった。
でも、それで十分だった。
その直後、運営側の男が一人、早足で近づいてきた。
スーツ。
IDカード。
口元だけ丁寧な顔。
「まず映像データの回収を――」
最後まで言わせなかったのは、玲奈だった。
「順番を間違えないでください」
声は静かだった。
静かなのに、男の足が止まる。
「医療が先です。回収物の封緘が次。責任の整理と映像の処理はそのあとです」
「しかし本件は公式枠で――」
「だからこそです」
玲奈は一歩も引かなかった。
引かないまま、手元の端末を男にだけ見せる。
「配信ログは多重保存済みです。現場カメラ、バックアップ、運営側ミラー、視聴者側録画、全部残っています。今さら“先に回収すれば何とかなる”段階ではありません」
男の喉が、小さく止まる。
その横で、ミラが短く言った。
「邪魔」
たった二文字だった。
でもその二文字に、深層帰りの血と疲労と勝利がそのまま乗っていた。
男は何も返せなかった。
白石がようやく口を開く。
「聞こえただろ。順番だ」
それで終わった。
運営側は、それ以上前に出なかった。
医療班が透の右目を見ようとして、透は少しだけ顔を背けた。
反射だった。
その動きの前に、ミラの声が落ちる。
「診せなさい」
低い。
短い。
でも、深層の中で何度も聞いた“従った方が生きる声”だった。
透は抵抗をやめた。
ペンライト。
眩しい。
痛い。
けれど、あの嫌な侵食の痛みじゃない。
ただの酷使の痛みだと分かって、逆に少しだけ安心した。
「角膜表面に軽い負荷。休めば戻ります」
医療班が言う。
透は頷いた。
頷いたが、そこで横の気配が少しだけ変わったのに気づいた。
ミラだ。
横顔は見なかった。
でも、肩の線だけで分かった。
ほんの少しだけ、力が抜けた。
玲奈がそのタイミングで、小さな回収ケースを差し出した。
銀色の、封緘済みのケース。
「深層崩落後、回収班が拾いました」
誰に渡すか確認する時間はなかった。
玲奈はまっすぐミラへ差し出す。
「核片です。完全体ではありませんが、医療側の照合条件は満たしています」
透は何も言わなかった。
言わなくても分かった。
ミラの右手のグローブが、一度だけ止まる。
それから、ケースを受け取る。
受け取る動きはいつも通り正確だった。
なのに、正確すぎて逆に危うかった。
「車、出します」
玲奈が言う。
ミラは短く頷く。
それだけだった。
でも、その一回の頷きに、今日ずっと追っていたものの重さが全部乗っていた。
---
病院の白は、Aゲートの白とは違った。
柔らかい。
だが、柔らかいからこそ誤魔化しが利かない白だった。
廊下。
自動扉。
消毒液。
壁の時計。
深夜とも朝ともつかない時間の病院には、妙に平らな静けさがある。
透は廊下の長椅子に座っていた。
右目の上に冷たいシート。
カメラは隣。
手は、まだストラップを離せていない。
少し離れたところに白石が立っている。
壁にもたれて、缶コーヒーを持ったまま、ほとんど飲んでいない。
玲奈は端末で何かを捌いていた。
通知の波が、画面の明滅だけで分かる。
誰も無駄に喋らなかった。
しばらくして、奥の処置室の扉が開いた。
ミラが出てくる。
黒いジャケットの上から、まだ病院の白が薄く乗っているみたいに見えた。
表情は変わらない。
変わらないが、透には分かった。
深層の最後にあった、あの張り詰めた一本の糸が、少しだけ緩んでいる。
透は立ち上がりかけて、少しふらついた。
ミラが一瞬だけ眉を寄せる。
「座ってなさい」
「大丈夫です」
「大丈夫な人間は今、壁に手をつかない」
図星だった。
透は素直に座り直した。
ミラは二秒だけ黙ってから、言った。
「間に合った」
短い。
それだけ。
でも、十分だった。
玲奈がそこで初めて、はっきりと息を吐いた。
白石は何も言わず、缶コーヒーを一口だけ飲んだ。
透は、胸の奥のどこかがやっと地面に着いた気がした。
「よかったです」
言うと、ミラはこっちを見た。
「ええ」
いつもの即答じゃなかった。
少しだけ遅れて、でもまっすぐ返ってきた。
それだけで、今日はもう十分だった。
夜が明ける頃には、通知が異常なことになっていた。
玲奈がまとめて切ったタブレットの画面を、透とミラは並んで覗いた。
切り抜き。
まとめ。
考察。
比較動画。
ミーム。
賛否。
大騒ぎ。
タイトルだけでも、もう十分ひどい。
『画を殺した回』
『真っ白なのに神回』
『MIRA深層生還』
『カメラマン正気じゃない』
『運営公式枠、またやらかす』
『白飛びの向こうで核を殺した女』
玲奈が無表情で言う。
「運営は今、会見文を三回書き直しています」
白石が鼻で笑う。
「四回に増えるな」
「増えそうです」
透は、そこで初めて端末の別タブに気づいた。
未読メール。
差出人はGENESIS。
件名だけ見えた。
【今後のお話について】
透は開かなかった。
そのまま削除した。
ミラが横目で見る。
「もったいない」
「もういいです」
「高いわよ」
「知ってます」
「安全だったんでしょ」
透は少しだけ黙ってから、言った。
「息がしづらかったので」
ミラは何も返さなかった。
返さなかったが、ほんの少しだけ口元が動いた。
玲奈がそこでタブレットを一度閉じる。
「では、ここから先の実務です」
その言い方で、逆に少しだけ笑いそうになった。
この人は本当に最後までこの人だ。
「運営対応、スポンサー整理、回収物処理、医療側書類、配信アーカイブ管理。全部あります」
白石が言う。
「地獄だな」
玲奈が頷く。
「はい。ですが」
そこで、こっちを見る。
「今回は、こちらが勝っています」
言い切った。
透は、その一言が少し好きだった。
---
病院を出たとき、朝の光はまだ低かった。
眩しい。
でも、深層の白でも、運営卓の白でもない。
ただの朝の光だった。
ミラが先に歩く。
透がその後ろに続く。
三歩。
そこで、ミラが止まった。
透も止まる。
振り返ったミラは、疲れているときの鋭さを少しだけ残したまま、でも今日はそれだけじゃない顔をしていた。
「佐久間」
「はい」
「契約、変える」
透は瞬いた。
「契約」
「ええ」
ミラはいつものように、余計を削って言う。
「専属とか、スタッフとか、そういうのじゃもう足りない」
風が薄く通る。
病院前の植え込みが少しだけ鳴る。
「あなたは撮るだけじゃない。勝ち筋を作る。生かす。勝たせる。だったら、もう名前を変えるしかないでしょ」
透は、少しだけ喉が詰まった。
返事が遅れる。
ミラが眉を寄せる。
「遅い」
「すみません」
「それで?」
透は右目の奥の鈍い痛みと、腕の中のカメラの重さと、この人がちゃんと生きていることを一緒に抱えたまま、言った。
「受けます」
「当然ね」
「ただ、条件があります」
ミラの目が少しだけ細くなる。
玲奈が、少し離れたところで笑いを堪えている気配がした。
白石は露骨に面倒そうな顔をした。
透は言う。
「危険線は、これからも俺が切ります」
ミラは即答した。
「許可する」
「機材権限もください」
「もうあるでしょ」
「正式に」
「面倒」
「でも必要です」
ミラは一秒だけ黙って、それから頷いた。
「許可する」
透は最後に言った。
「あと、現場の外では」
「何」
「三歩後ろじゃなくてもいいです」
そこで初めて、ミラがはっきり止まった。
玲奈が顔を逸らす。
白石が缶コーヒーを持ったまま空を見る。
数秒の沈黙のあと、ミラは本当にわずかに笑った。
「そうね」
それだけ言って、今度は自分から一歩だけ横へずれた。
隣が空く。
「現場では三歩後ろ」
「はい」
「画の外では」
ミラは前を向いたまま言う。
「隣にいなさい」
透は、返事をする前に少しだけ息を止めた。
それから、頷く。
「はい」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
二人は並んで歩き出す。
白石と玲奈が、少し後ろからついてくる。
朝の光の中には、もう深層の黒はなかった。
でも、これから先の面倒は山ほどある。
運営も。
スポンサーも。
解析も。
世間も。
それでも今日は、それでよかった。
勝った。
生きて帰った。
落とさなかった。
そのうえで、隣が空いた。
透は一度だけ、腕の中のカメラを抱え直す。
重い。
けれど、前よりずっと馴染んでいた。
病院前の自動扉が、背中で静かに閉まる。
その音を聞きながら、透は隣を歩く黒いジャケットの揺れを見た。
もう、悪魔の面接は終わっていた。
ここからは、相棒として続く仕事の時間だった。
完




