線を一本にしろ
白い空間のあちこちで、細い黒が走っていた。
床の継ぎ目。
幕の裂け目。
保守橋のひび。
壁材の合わせ目。
さっきまで、ただの線だったところが、今は全部少しだけ生きて見える。
ぞっとするのは、速さじゃなかった。
静かさだった。
黒は慌てない。
一本ずつ。
確実に。
こちらが「ただの線だ」と思って見落としそうな場所だけを選んで、増えていく。
コメント欄が荒れていた。
『どこにいるのか分からん』
『線が全部敵に見える』
『床見たくない』
『端だけじゃなくなってる』
『これ無理』
『気持ち悪い』
透はカメラを下げなかった。
でも、もう敵を追ってはいない。
床の線。
幕の線。
光が当たっている線。
当たっていない線。
それだけを見る。
「……追えない」
ミラが低く言った。
白い刃は構えたまま。
でも、どこへ振るかが定まらない。
当然だった。
今の相手は、一本じゃない。
線のふりをして、空間そのものへ混ざっている。
透は短く言った。
「追いません」
「は?」
「一本にします」
ミラの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「何を」
「線をです」
床の黒が、また一筋だけ増えた。
ミラの右足の前、白い灰の下を這うように。
ミラが半歩だけ位置を変える。
その動きは、もう迷いがなかった。
透が何か考えているなら、その間は死なない位置を取る。
そういう動きだ。
透は喉の奥を一度だけ鳴らした。
「こいつ、どこにでも居られるわけじゃないです」
「今、どこにでもいるように見えるけど」
「見えるだけです」
透は床の白い灰を見た。
同じ白。
同じ曇り。
なのに、黒が濃く出る線と、そうでもない線がある。
「線が線として見えるには、両側が違わないと駄目です。白と黒。明るい面と暗い面。段差。継ぎ目。そういう差があるところにしか、こいつは居着けない」
ミラが返す。
「今日は理屈の日?」
「今さらです」
透は続けた。
「だから、差を消して、一本だけ残します」
ミラが息を吐いた。
「ほんとに次から次へ増えるわね」
「知ってます」
---
透は周囲を見た。
落ちた白膜。
ぶら下がった白膜。
砕けた観測盤の灰。
裂けた殻。
保守橋の影。
残った照明。
足りる。
「ミラ」
「何」
「床の裂け目、隠します」
「どうやって」
「白で埋めます」
ミラの口元が、ほんの少しだけ歪んだ。
「清掃員でも雇う?」
「今はあなたです」
「最悪」
「知ってます」
透は微風を細く流した。
高く舞わせない。
白い灰を床すれすれに這わせる。
そこへ落ちた白膜の切れ端を寄せる。
継ぎ目の上へ。
裂け目の上へ。
細い黒を、白で覆う。
でも、それだけじゃ足りない。
灰は剥がれる。
白膜は浮く。
押さえる手がいる。
「右の裂け目、踏んでください」
「剣士に頼むことじゃない」
「でも、出来るでしょ」
「腹立つけど出来る」
ミラが低く動く。
刃を振らない。
右足で白膜を踏み、床の継ぎ目へ押し込む。
そのまま滑るように左へ動いて、別の裂け目も潰す。
綺麗じゃない。
でも、今までのどの剣より正しかった。
透はすぐに次を言う。
「上の幕、もう一枚落としてください。細い裂け目の上だけ」
「切る?」
「落とすだけで」
ミラの白い刃が短く走る。
上の白膜が一枚、床へ落ちる。
透が微風でそれを引き、黒い線の多い場所へ被せる。
白。
白。
灰。
膜。
空間の細い線が、少しずつ死んでいく。
コメント欄の流れが変わる。
『あれ』
『床の黒減ってない?』
『埋めてる?』
『線が消えてる』
『いや一本だけ濃いのある』
『どこだ』
最後の一行で、透の目が細くなる。
見つかった。
奥。
ぶら下げた二枚の白膜のあいだ。
ほんの少しだけ開けた縦の隙間。
そこだけは、わざと残してある。
白と白のあいだにある、細い黒。
今この空間で、一番きれいで、一番分かりやすい線。
「そこです」
ミラが視線だけを走らせる。
「……一本だけ残したの」
「はい」
「趣味が悪い」
「今さらです」
透は照明を少しだけ動かした。
直じゃない。
白膜の面だけを薄く明るくする。
だから、あいだの隙間だけが余計に黒く見える。
見せ場だ。
線としては完璧な一本。
今まで床や壁に散っていた黒が、そこで初めて迷いを失った。
細い黒たちが、じわじわとそこへ寄る。
床から。
幕の端から。
保守橋のひびから。
壁の合わせ目から。
吸い寄せられるんじゃない。
自分から選んで、一本へ集まっていく。
「……うわ」
透の喉から、薄い声が漏れた。
気持ち悪い。
線が集まる。
一本の継ぎ目へ、黒いものが染み込むみたいに集約されていく。
コメント欄が息を呑んだように遅くなる。
『集まってる』
『一本だけ太くなってる』
『そこにいる』
『気持ち悪い』
『分かるのに見たくない』
理解だ。
熱狂じゃない。
それならまだましだった。
ミラが低く言う。
「まだ?」
「まだです」
黒い線が、さらに濃くなる。
ただの隙間じゃない。
その奥に何かが詰まっている黒さになる。
透はそこだけを見た。
線。
いや、もう線じゃない。
線の形をした“集まり”だ。
「……まだ」
ミラの声は短い。
「早く」
「全部乗るまで駄目です」
「今日も待つのが長い」
「知ってます」
その直後、黒い隙間が一度だけ脈打った。
来た。
全部じゃないにせよ、核から逃げた線のほとんどがそこへ集まった。
今なら、逃げ道が一本しかない。
透は低く言った。
「今です。右の吊りだけ」
「落とすのね」
「はい。閉じます」
ミラが動く。
綺麗じゃない。
でも、これ以上ないくらい正確だった。
白い刃が、二枚の白膜を吊っていた右端の紐だけを断つ。
一枚が、片側から落ちる。
白と白のあいだにあった黒い隙間が、そこで一気に潰れた。
閉じる。
線が、消える。
その瞬間だった。
黒い筋が、逃げようとした。
でも遅い。
隙間を失った黒は、一拍だけ空中に細く浮いて――次の瞬間、ただの汚れみたいに白膜の表面へ叩きつけられた。
『うわ』
『落ちた』
『今の線だったろ』
『潰れた』
『やば』
コメント欄が跳ねる。
透は息を止めた。
まだだ。
黒は白膜の上で細く暴れている。
一本の線ではいられない。
でも、まだ消えない。
逃げ場を探して、白の上を滑る。
「もう一枚、上から!」
透が叫ぶ。
ミラは言い返さなかった。
もう呼吸だけで動いている。
上に残していた白膜を、今度は真横に払う。
落ちる。
被さる。
白の上に白。
そのあいだに黒。
線だったものが、そこで初めて形を失った。
細い。
でも、もう一本じゃない。
押し潰されて、ぶつぶつと切れかける。
「左下、まだ薄い!」
「見えてる!」
ミラの刃が低く走る。
白膜の端ごと、床へ押さえつける。
黒がそこで弾けた。
音は小さい。
でも嫌だった。
糸が切れる音でも、膜が裂ける音でもない。
細いものが無理やり太さを失うみたいな、乾いた音だった。
透の背中を冷たいものが走る。
効いた。
本体の殻の下で、赤が一度だけ大きく歪む。
連動している。
やっぱりそうだ。
「……入った」
透の声は掠れていた。
ミラが短く返す。
「見れば分かる」
でも、その声の底にも熱があった。
白膜のあいだで、黒い線が痩せる。
さっきまで明確だった一本が、今はもう均一に保てない。
太くなったり、薄くなったり、切れかけたりしている。
コメント欄が爆発する。
『今の切れた?』
『線が保ててない』
『本体も痛がってる』
『すご』
『これ本当に配信か?』
最後の一行に、透は少しだけ息を吐きかけて――やめた。
まだ終わっていない。
白膜の上で痩せた黒が、次の瞬間、一斉に丸くなった。
丸い。
小さい。
点だ。
一本だった黒が、ぷつ、ぷつ、と切れていく。
切れた先から、粒みたいな黒い点が白膜の上へ散る。
透の目が見開く。
「……嘘だろ」
ミラが低く返す。
「何」
透は答えるまでに、一拍かかった。
「線を捨てました」
白膜の上の黒い点が、一つだけ小さく跳ねる。
次に二つ。
三つ。
数えきれない。
点だった。
立たない。
影にもならない。
線にもならない。
ただ、白の上に落ちたノイズみたいな黒い点。
でも、その一つ一つが、静かに脈打っている。
コメント欄がざわついた。
『増えた』
『点になった』
『最悪』
『無理』
『これどこまで行くんだよ』
透は答えられなかった。
こいつは負けるたびに、形を細かくしていく。
余白。
輪郭。
影。
線。
そして今度は、点になる。
白膜の上で、黒い点がまた一つ跳ねた。
二つ目が、少しだけ離れた場所で呼応する。
三つ目が、白い灰の中へ沈む。
透の喉が冷たく詰まる。
今度の相手は、追えない。
一本に集めることも、幕に落とすことも、立たせて潰すことも出来ない。
白い空間のあちこちで、黒い点が静かに増え始める。
ミラが、今度は笑わなかった。
「……次、もっと嫌ね」
透は、頷くことも出来なかった。
白膜の上で、黒い点が、ノイズみたいに生き始める。




