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影だけ落とせ


白い幕の上で、黒い丸がこちらを向いていた。


本体じゃない。

影の方が先に振り向く。


気味が悪い、では足りなかった。

理屈が一歩遅れて、身体だけが先に異常だと理解する嫌さだった。


透は幕を見たまま言った。


「本体は下です。影だけが先に来てる」


ミラの声は低い。


「で」


「幕から落とします」


「どうやって」


透は呼吸を一つだけ浅くした。


空中に並べた白い幕。

後ろから返している光。

殻の位置。

本体の位置。

そして、影の遅れ。


遅れている。

そこが答えだった。


「こいつ、もう本体じゃなくて、幕の方に重心を寄せてます」


「嫌な言い方ね」


「知ってます」


幕の上の黒い丸が、また一度だけ瞬いた。

本体の赤は、まだ殻の下にある。なのに、幕の上に映った方だけが、先に生き物みたいに動く。


だったら、そっちを本体扱いして殺せばいい。


透は低く言った。


「ミラ。真ん中の幕、落とせますか」


ミラはすぐに答えない。

その代わり、白い刃の角度だけが少し上がる。


「切れば落ちる」


「でも今は駄目です」


「でしょうね」


幕を落とすだけなら簡単だ。

だが、今落とせばただ影が消えるだけだ。消えた影はまた暗がりへ逃げて、本体へ戻る。それじゃ意味がない。


必要なのは、影が移った瞬間に、足場ごと抜くことだった。


透はもう一枚の白い膜を見る。


左。

少し低い。

反射が弱い。

でも足りる。


「次、左の幕を一段明るくします」


「何を見てるのかは聞かないでおく」


「助かります」


透はドローンを左へ振った。

残った一機だけ。

高くない。

膜の横へ。

微風を足す。


白い灰が薄く舞う。

左の幕の面が少しだけ明るくなる。中央の幕より、ほんの少しだけ目立つ。


コメント欄がざわついた。


『影、増えた?』

『左にも丸いの出た』

『分身?』

『いや移ろうとしてる』

『やめろそれ』


透は息を止めた。


来る。


幕の上の黒い丸が、中央から左へにじむ。

歩くんじゃない。

にじむ。

染みが紙へ移るみたいに、境目なく。


「今じゃないです」


「分かってる」


ミラの足が、床を一度だけ探る。


低い位置。

斬るための位置じゃない。

幕の支えを抜くための位置だ。


透はさらに左の幕へ光を返した。

強くしない。

ほんの少しだけ。


黒い丸が、もう半分以上、左の幕へ乗る。


本体の赤は、まだ殻の下で遅れていた。

だから分かる。今、影だけが先に左へ移っている。


「次です」


「どっち」


「左の吊りだけ。上じゃなく、右端」


「雑」


「でも正しいです」


幕の上の黒い丸が、ぴたりと止まった。


乗った。

完全に左の幕へ、影の重心が移った。


「今!」


ミラが動く。


綺麗じゃない。

見せ場のための一閃じゃない。

白い刃が、幕そのものじゃなく、空中に幕を留めていた右端の吊りだけを正確に断つ。


左の幕が、片側から落ちた。


支えを失った白い膜が、ねじれて沈む。

その上に乗って受肉しかけていた黒い丸も、一拍遅れて滑る。


落ちる。


影が、光の枠から床へ物理的に落ちる。


コメントが止まった。


『は?』

『影が落ちた』

『今の何』

『おかしいだろ』

『影って落ちるのかよ』


白い膜が床へ叩きつけられる。

黒い丸は、その上で一度だけ形を保とうとして、失敗した。丸のままではいられず、ただの黒い液体の染みみたいに広がる。


「もう一枚、被せます!」


透は叫んだ。


ドローンを中央の幕へ当てる。

微風で強引に引く。

中央の白膜を、落ちた左の幕の上へ滑らせて落とす。


白の上に白。

そのあいだに黒。


物理的に挟み込んだ。


黒い影が、そこで初めて明確に暴れた。

本体じゃない。

でも、ただの影でもない。

白と白に挟まれた黒い染みの中に、瞬きみたいな激しい脈動がいくつも走る。


「気持ち悪っ……」


透の喉から、勝手に声が漏れた。


ミラは一歩も引かない。


「どこ」


透はカメラを見ない。

もうファインダーは覗かない。

白膜の上を走る黒のゆがみだけを肉眼で見る。


右へ逃げる。

違う。

真ん中へ寄る。

いや、重なっていない薄いところへ逃げたがっている。


「左下、薄いです!」


ミラの刃が真っ直ぐ落ちる。

白膜ごと、中の影を床へ縫いつけるみたいに突き立てる。


黒が跳ねた。


本体の殻の下から、同時に低い声が漏れる。

笑いとも、苦鳴ともつかない湿った音。


繋がっている。


影だけを落として突き刺しても、核との線はまだ切れていない。


透はそこを見た。


床の白膜のあいだから、細い黒い糸が一本だけ伸びている。

殻の下へ。

本体の核へ。


「一本あります!」


「見えてる!」


ミラが今度は迷わなかった。

剣を引き抜き、白い刃が低く走る。

床すれすれ。

白膜の外へ逃げようとした黒い糸だけを断つ。


切れた。


その瞬間、床に落ちていた黒い染みが、初めて声にならない声で激しく軋んだ。

本体の殻の下でも、赤い核が一度だけ大きく歪む。


効いた。


「……入った」


透の声は掠れていた。


ミラは短く返す。


「見れば分かる」


でも、その声も少しだけ荒い。

きついのは向こうも同じだった。


白膜のあいだで、黒い影が完全に痩せる。

さっきまで生き物みたいに丸かったものが、光を失ったただの汚れに近づいていく。


コメント欄が爆発した。


『今の切れた?』

『影が薄くなった』

『本体も痛がってる』

『繋がってたのか』

『これ攻略だろ』


攻略。

その言葉が、少しだけ空気を変えた。


熱狂じゃない。

理解だ。

ギミックへの理解は、まだ敵の餌になりにくい。


透は息を吐きかけて、やめた。


まだ終わっていない。


殻の下の本体は、そこで初めて大きく脈打った。

赤い核が、今までより深く縮み――次の瞬間、逆に広がる。


嫌な予感がした。


「ミラ」


「何」


「離れて」


「遅い」


もう遅かった。


床の白膜のあいだで痩せて消えかけていた黒い影が、急に消えた。


消えたんじゃない。

白膜の裏へ回った。


見えている側から、見えていない側へ。


「まず――」


言い切る前に、床に落ちていた白い膜が、内側からぼこりと浮き出た。


黒い手みたいな形が、白膜をテントみたいに押し上げる。


影の手だ。


本体じゃない。

幕に落として殺したはずの影が、死なずに裏側へ回って立ち上がった。


ぞっとする。


安全のために使った白膜。

影を落として殺すために使った白膜。

それ自体が、今は影の新しい皮になっていた。


ミラの刃が、即座に走る。

だが、黒い手は切られる直前に引っ込む。

裏へ。

白の向こうの暗がりへ。


コメント欄が悲鳴みたいに流れた。


『裏いった』

『は?』

『スクリーンの裏にいる』

『やめろそれ』

『見えてないのにいるの最悪』


透の喉が冷たく詰まる。


影だけ落とした。

糸も一本切った。

効いた。

でも、殺し切れていない。


しかも今度は、本体じゃない方が動き始めた。


白膜の表面が、内側からずるりと持ち上がる。

黒い丸じゃない。

手でもない。

もっと形のない、何かになろうとしている膨らみ。


ミラが低く吐き捨てる。


「……次、もっと最悪じゃない」


透は、答えられなかった。


白い膜の裏で、影がゆっくりと立ち上がる。


今度の相手は、本体でも影でもない。

自分たちが用意した幕そのものを着た何かになろうとしていた。


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