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核を伏せろ


崩れた穴の底で、小さい赤が瞬きをした。


その一度だけで、空気の重さが変わる。


巨大な殻が主役だったときとは違う。

見られたい熱じゃない。

見てしまった側を、黙って壊しに来る種類の圧だった。


ミラが低く言う。


「次、どっち」


透はすぐには答えなかった。

殻か。

核か。

その二択に見えて、たぶん違う。


穴の底から伸びている。

黒い糸。

殻へ。

床へ。

残骸へ。

全部、あの赤から出ている。


透はカメラを少しだけ落とした。

核を直接映さない。

その代わり、殻の縁と、床の継ぎ目と、糸が走る影だけを見る。


「……殻でも、核でもないです」


ミラの呼吸が一拍だけ止まる。


「何」


「糸です」


巨大な殻が、その瞬間に動いた。


庇う。

守る。

じゃない。


運ぶ。


穴の底の赤を見せないために、自分の身体を盾にしているんじゃない。

黒い糸を通して、あの小さい赤の視線と重さを、こちらへ運んでいる。


透は言った。


「殻は服です。舞台も服でした。今こっちへ来てるのは、本体じゃなくて糸です」


ミラは真正面を見ない。

見ないまま、剣先だけを少し下げる。


「切れって?」


「全部じゃないです。右肩側だけ」


「理由」


「倒したい」


短い沈黙。


「雑」


「でも正しいです」


殻の縦長の赤が一斉に開いた。

今度は正面の見せ場を作るためじゃない。

糸を通して、こっちの立ち位置そのものを読みに来る開き方だった。


透はすぐに三歩の位置を捨てた。

捨てるというより、固定しない。

半歩前。

一歩右。

また半歩戻す。


命綱だった絶対の距離感を、今はわざと不規則に揺らす。


「ミラ。今から位置、固定しません」


「ほんとに次から次へ増えるわね」


「三歩を読まれました」


「知ってる」


「だから、今日は揺らします」


ミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。


「最悪」


「知ってます」


殻が滑るように迫る。

さっきまでみたいな巨体の力任せの突進じゃない。

もっと嫌な動きだ。

速くない。

でも、立ち位置を合わせに来る。

正面の画を作るための寄り。


透はカメラを殻の顔へ向けなかった。

向けないまま、肩の付け根だけを拾う。

右肩。

そこへ集中している黒い糸。

糸が太い。

あそこが動力だ。


「右肩、重いです」


「いい言い方しないで」


「右側だけ潰せば倒れます」


殻の触手が来る。

上。

横。

遅れて床。


透は補助灯を失っている。

もう白い線は使えない。

代わりに、残っているのはカメラとドローンと微風だけだ。


透はドローンを低く這わせた。

床すれすれ。

殻の前脚の影へ。


羽音は弱い。

そのかわり、微風を細く足す。


灰が巻く。

床の表面が、一瞬だけ白く流れる。

黒い糸の位置が、灰の切れ目として明確に見えた。


「下、二本。上は捨てて」


ミラが動く。

半身。

泥臭い。

綺麗じゃない。

低いまま入る。


白い刃が、床に近いところだけを走る。

触手の下側が裂ける。

殻がわずかに傾く。


まだ足りない。


「もう一歩、右へ」


「命令口調が板についてきたわね」


「今はそういう話じゃないです」


「知ってる」


殻の右肩が、こちらへ被さるように落ちてくる。

ミラはそこを避けない。

避ける代わりに、肩口へ自分から鋭く踏み込んだ。


透の喉が強く縮む。


危ない。

でも正しい。


真正面から斬れば、殻は主役の形を保ったまま耐える。

肩口へ入れば、姿勢そのものが崩れる。


透はカメラをさらに落とした。

足元。

ミラの右足。

殻の爪。

そのあいだの、半歩ぶんだけ。


「今、止まって」


ミラが止まる。

殻の爪が空を切る。

その空振りで、右肩が一瞬だけ無防備に開く。


「今!」


白い刃が、肩口の黒い糸ごと深く入った。


裂ける音。

皮膜。

その奥の、糸が張った嫌な音。

濡れた弦みたいなものが何本も切れる。


殻が、初めて本当に体勢を崩した。


コメント欄が爆ぜる。


『今の入った』

『肩?』

『何切った?』

『動き変わったぞ』

『見えないのに分かるのやばい』


透はコメントを見ない。

でも、熱がまた少し理解寄りに落ちたのは分かった。


殻の右半分が沈む。

穴の底の核を庇う形が、傾く。


その隙間から、また小さい赤が見えかけた。


透はカメラを振らない。


「見ないで、そのまま右だけ押してください!」


「分かってる!」


ミラが、今度は剣を使わなかった。


肩からぶつかる。

右半身ごと殻へ押し込む。

剣は添えるだけ。

切るんじゃない。

質量で倒す。


その泥臭さが、今は正解だった。


殻が一歩分、穴の中心へずれる。


だが、核も黙っていない。


小さい赤の周囲から、細い黒い糸が一斉に跳ねる。

今度は殻じゃない。

床でもない。

透のカメラへ来た。


レンズを、目だと認識している。


「……っ」


透は反射でカメラを伏せた。

伏せる。

自分の体で庇う。


黒い糸が、その背を掠めて、脇の残骸へ刺さる。


熱い。

切れたわけじゃない。

でも、皮膚の表面を内側まで覗き込まれたような、おぞましい熱が走る。


ミラの声が鋭く飛ぶ。


「透!」


名前だった。


短い。

でも、その切迫した響きが、透の背中を焼いた嫌な熱を一瞬で上書きした。


「大丈夫です!」


大丈夫ではない。

ないが、まだ動ける。

この人に背中を預けられた以上、立ち止まるわけにはいかない。


透はカメラを抱えたまま、床だけを見る。

レンズは無事。

オートは切ってある。

まだ戦える。


穴の底の核が、そこで初めて少しだけ浮いた。


這い上がる、というより、周囲の深さごと持ち上がる。

小さいくせに、空間の底そのものが浮いてくるみたいに見える。


見たら終わる。

でも、見ないと勝ち筋が分からない。


透は一瞬だけ迷った。

その一瞬で、殻がまた体勢を立て直しかける。


まずい。


ここで殻を戻されたら、また盾になる。

また主役の服に戻る。


透は歯を食いしばって、視線を核じゃなく糸の根元へ落とした。


核から伸びる糸。

殻の右肩へ集中。

まだ繋がっている。

本数は減った。

でも、太いのが三本残っている。


「ミラ!」


「何!」


「肩じゃない、喉の下です! 殻の正面、でも顔じゃない!」


「嫌な注文増えたわね!」


「そこ切れば、まだ倒れます!」


ミラが一歩引く。

一歩だけ。

それで十分だった。


殻が前へ出たがる。

主役の位置へ戻りたがる。

その動きのクセが、今は逆に出る。


「今、左から!」


ミラが滑る。

白い刃が低く、殻の喉下へ差し込まれる。

深く。

横へ。

糸を断つためだけの軌道。


弾ける。


今度ははっきり見えた。

黒い糸が三本、空中で千切れて暴れた。

殻の縦長の赤が、一瞬だけ焦点を失う。


巨大な重心が、前へ落ちる。


「押す!」


ミラが叫ぶ。

誰に言ったのか分からない。

でも透の身体も、もう勝手に動いていた。


カメラを片手で庇ったまま、左肩から殻の側面へ泥臭くぶつかる。

重い。

壁みたいだ。


それでも、さっきまでの舞台が押し付けてくる支配的な圧とは違う。

今のこれは、ただの物理的な質量だ。

押せる重さ。


透が裏方としての体重を預け、ミラがもう一度、肩で鋭く押し込む。

殻がずれる。

穴の中心へ、半歩。

さらに半歩。


核が、その下で初めて明確に嫌がった。


瞬きじゃない。

赤が縮む。

閉じかける。

見られる窓を失う時の焦りの動きだ。


効いている。


「もう一回!」


透が叫ぶ。


ミラが答えない。

答えない代わりに、剣を殻の縁へ引っかける。

引っかけて、透の押し込みに合わせて無理やり持っていく。


綺麗じゃない。

でも、二人の力が合わさった今が一番強い。


殻が、ついに穴の中心へ完全に崩れ落ちた。


核を庇うように。

いや、自らの服の重さで核を押し潰すように。


黒い穴の底で、小さい赤が一瞬だけ殻の下へ隠れる。


見えなくなる。


空気が、ほんの少しだけ軽くなる。


コメント欄が止まった。


『……消えた?』

『今どうなった』

『見えない』

『逆に怖い』


透は息を吐かなかった。


まだだ。

見えないだけ。

死んでいない。


殻の下で、何かが脈打っている。

重い拍動。

見えないぶん、形を変えている感じがした。


ミラが息を荒くしながら言う。


「押し込んだわよ」


「はい」


「で」


剣先が、殻の縁へ向く。


「次は?」


透は答えられなかった。


殻の下。

見えない。

見えないが、確実にそこにいる。


しかも、見えない時間が長いほど、見えないこと自体を餌にして、もっと嫌な形へ変わりそうな気配がある。

見えなくして蓋をしただけでは足りない。

殺し切らないといけない。


透はカメラを握り直した。

床。

殻の縁。

残っている黒い糸。

まだ切れる場所があるはずだ。


そのとき、殻の下から、声とも音ともつかないものが漏れた。


ハウリングじゃない。

もっと低い。

濡れた喉が、暗闇の中でくぐもって笑うみたいな音だった。


ミラの表情が、初めて本当に険しくなる。


「……押し込んで蓋して喜ぶ相手じゃないわね」


「はい」


殻の縁が、内側からわずかに持ち上がる。


小さい。

でも確実な物理的な動き。


透の喉がまた冷える。

見えないまま、もっと最悪な形になって出てこようとしている。


「ミラ」


「何」


「次、たぶんもっと嫌です」


「毎回更新しないで」


殻の下の闇が、ゆっくりと形を変える。


押し潰したはずなのに。

自らの殻で庇わせたはずなのに。

それでもなお、別の出口を探している。


透はカメラを下げなかった。


終わっていない。

むしろ、ここからが本当の絶望だった。


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