輪郭だけ寄越せ
殻の下の闇が、音もなく持ち上がる。
ゆっくり。
なのに、見ている側の内臓だけを先に持ち上げてくるみたいな嫌な出方だった。
見えない。
見えないのに、そこにいる気配だけが濃くなる。
透はカメラを殻の縁へ向けたまま、喉の奥を噛み締めた。
まずい。
見えないまま出てこられるのが、一番まずい。
さっきまでは、顔を見せないことが勝ち筋だった。
でも今は違う。
あれは、見えないことそのものを餌にしている。
視聴者の想像。
自分たちの予測。
何がいるのか分からない、という空白。
その空白が長いほど、殻の下の重さがじわじわ増している。
コメント欄が変わっていた。
『見えないのやめろ』
『何がいるんだよ』
『逆に無理』
『音だけで嫌』
『早く映せ』
『見たくないけど見えないのもしんどい』
透の背中が冷える。
熱狂じゃない。
嫌悪でもない。
想像そのものだ。
これが一番、あの核の餌になる。
「ミラ」
「何」
「このまま隠すの、駄目です」
ミラの返事は速かった。
「で?」
問い返す音が、もう完全に戦闘の音になっている。
感情じゃない。次の手を出せ、という音だ。
透は殻の下を見ない。
見ないまま、床だけを見る。
殻の縁。
隙間。
持ち上がる高さ。
黒い糸の揺れ。
そして、コメントの流速。
「見せます」
一拍。
「でも、顔じゃない」
ミラが小さく息を吐く。
「また面倒なこと言い出した」
「輪郭だけです」
「輪郭」
「何がいるか分からないのが、一番駄目です。中身は見せない。代わりに、形だけ渡します」
短い沈黙。
その沈黙のあいだにも、殻の下の隙間が指一本ぶん広がる。
見えていない。
でも、暗さの濃さだけで広がったのが分かる。
ミラが言う。
「出来るの」
透は答えた。
「やります」
輪郭。
顔じゃない。
中身でもない。
外側だけ。
透は一瞬だけ、壊れた補助灯の残骸を見た。
白い粉塵。
割れたレンズ。
微風。
ドローン。
そして、自分の空間把握。
やるしかない。
透はカメラを胸の高さまで下げた。
レンズはまだ生きている。
オートは切ってある。
露光も固定。
なら、次に使うのは光じゃない。
「ミラ、五秒ください」
「多い」
「三秒」
「二秒」
「それでやります」
ミラが殻の前へ半歩出る。
半身のまま。
刃を低く。
殻が上がるのを真正面で止める構えじゃない。
上がった瞬間に斬り込める位置を取る構えだ。
透はドローンを二機だけ起こした。
一機は低く。
床すれすれ。
もう一機も高くしない。
殻の真横。
どちらもカメラじゃない。
風を通すための口だ。
「何するの」
ミラが聞く。
聞きながら、目は殻から外さない。
「見えないままの中身に、形だけ付けます」
「雑」
「今は雑でいいです」
透は微風を細く流した。
壊れた補助灯の白い粉塵。
砕けた観測盤の灰。
床にこびりついた皮膜の薄い屑。
それを、ドローンの羽音に乗せて、殻の下へ滑らせる。
吹き上げるんじゃない。
這わせる。
隙間へ入れて、そこにいる何かの表面だけを撫でさせる。
一秒。
二秒。
殻の下の闇が、わずかに白く浮いた。
いや、闇が白くなったんじゃない。
白い粉が、そこにいる何かの表面に沿って流れた。
コメント欄が止まる。
『え』
『何今』
『輪郭?』
『何かいる』
『顔じゃない』
『うわ無理』
透はすぐにカメラを上げた。
でも狙うのは中身じゃない。
粉塵が貼りついた外縁だけ。
見えた。
丸い。
小さい。
けれど球じゃない。
表面が脈打っている。
ぬるい拍動に合わせて、白い粉が少しずつずれる。
しかも、その外側に薄い透明の膜がある。
殻とも皮膜とも違う。
見ようとする視線そのものを滑らせるみたいな膜だ。
直接見たら持っていかれる理由が、少しだけ分かった。
視線が、赤に届く前にそこで一度曲がる。
「……膜」
透の口から漏れた。
ミラが短く返す。
「何」
「核の外に、もう一枚あります。殻の中の殻みたいなの」
「面倒」
「知ってます」
殻の下から、急に黒い糸が跳ねた。
早い。
さっきまでみたいに、レンズや床じゃない。
今度は、白い粉の流れそのものを散らしに来る。
輪郭を与えられたのが気に入らないらしい。
「右!」
ミラが動く。
綺麗じゃない。
肩から入る。
殻の縁へ剣を叩き込んで、その角度を少しだけ変える。
隙間の向きが変わる。
糸の一本が床へ逸れる。
「透、続けて!」
名前だった。
はっきり、こちらを使う声だった。
透はドローンの羽音をさらに上げた。
微風を強める。
粉塵の帯が、もう一度だけ殻の下へ入る。
今度はさっきより、はっきり形が出た。
丸い核。
その外を覆う薄膜。
薄膜の表面に、ごく小さい窪みがいくつもある。
目だ。
核そのものは一つ。
でも、その膜の表面に、見えかける小さい視点がいくつも散っている。
ぞっとする。
本体は一つなのに、見られるための穴だけ無数にある。
「うわ……」
思わず喉の奥で出た声は、自分でも嫌になるくらい薄かった。
コメント欄がまた乱れる。
『今の何』
『殻の下にもう一枚ある』
『丸いやつの周りキモい』
『直視じゃないのに頭痛い』
『これ以上見せるな』
透はそこで確信した。
正面を見せると育つ。
見えないままだと想像で育つ。
だから必要なのは、答えを少しだけ渡して、想像を止めることだ。
全部じゃない。
輪郭だけ。
「ミラ」
「何」
「見せ場、もう一段削ります」
「まだ削れるの?」
「今度は、殻じゃなくて膜を潰します」
ミラが初めて、ほんの少しだけ黙った。
「見えてるの」
「外側だけ」
「それで十分?」
「十分じゃないです。でも足ります」
殻の下で、核がわずかに持ち上がる。
殻を押し返している。
このままだと、また出てくる。
しかも次は、見えないままじゃない。
輪郭を与えられたぶん、逆にこちらの認識を取ってくる可能性がある。
急がないといけない。
「ミラ、殻はそのまま重しに使います」
「はいはい」
「喉下じゃないです。もっと下。地面すれすれ。そこを切ると、殻の重さが片側に落ちます」
「また嫌な注文増えた」
「今さらです」
ミラが息を一つ吐いた。
次の一歩の前の、短い呼吸。
「透」
今度は、名前だった。
「何ですか」
「外したら殺す」
「それはいつも通りです」
ミラの口元が、ほんの少しだけ動いた。
その一瞬で十分だった。
まだいける。
透はカメラをさらに落とした。
核を撮らない。
白い粉が流れる膜の外縁だけ。
殻の重さが乗っている位置だけ。
そこだけを拾う。
ミラが滑る。
低い。
半身。
顔を出さない。
剣も高く振らない。
今までで一番、映えない動き。
でも、今までで一番、殺しに寄っている。
核の黒い糸が伸びる。
ミラじゃない。
透のドローンへ行く。
輪郭を奪い返す気だ。
透は片方のドローンを捨てた。
上げない。
逃がさない。
その場で意図的に失速させて、糸へ食わせる。
小さな機体が糸に絡まって落ちる。
その一拍ぶんだけ、核の意識が逸れる。
「今!」
ミラの剣が、地面すれすれを払う。
殻の底の支点が切れる。
重さが片側へ流れる。
ぐらりと傾く。
そして、殻の全重量が膜の片側へ落ちた。
鈍い、嫌な音。
膜が裂ける。
音は小さい。
でも、その小ささが逆に嫌だった。
生き物の皮じゃない。
もっと薄い。
もっと直接こちらの認識に触ってくるものが破れた音だ。
コメントが完全に止まる。
一秒。
二秒。
その無音の中で、殻の下から初めて、核そのものの赤が少しだけ歪んだ。
痛がっている。
効いた。
「入った!」
透が叫ぶ。
ミラが返す。
「見れば分かる!」
でも、その声には間違いなく熱が乗っていた。
殻の下の核が、初めて明確に縮む。
視線を集める側じゃなく、傷ついた生き物として縮む。
勝てる。
そう思った瞬間だった。
裂けた膜の隙間から、黒いものが一斉に噴き出した。
糸じゃない。
もっと細かい。
霧に近い。
でも霧より重い。
視線の残滓みたいな黒だ。
透の背中が冷える。
「……ミラ」
「何」
「次、もっと嫌です」
「もう聞いた」
黒いものは殻の下から這い広がり、床じゃなく画面の暗いところへ寄ってくる。
明るい場所じゃない。
見えていない場所。
画角の端。
意図的に露光を落とした暗部。
ファインダーの中で、黒がノイズみたいに増えていく。
今度の相手は、輪郭を与えたことで終わらない。
見せていない暗がりそのものを餌にし始めたのだ。
透はカメラを握る手に力を込めた。
答えを少し渡した。
だから次は、余白ごと食いに来る。
終わらない。
むしろ、今ので本体の本当の癖が見えた。
そしてそれは、たぶん今までで一番最悪だった。




