見てはいけない赤
崩れた舞台の底で、赤が開いた。
小さい。
丸い。
なのに、さっきまでの巨大な縦長の赤より、圧倒的に重かった。
重い、というのがいちばん近い。
光を返さない。
むしろ、周囲の白を少しずつ吸っている。
穴の底にあるのに、落ちている感じがしない。そこだけ、空間の深さの向きが狂っているみたいだった。
透は喉の奥で息を止めた。
「見るな」
先に出たのは、その一言だった。
ミラが半身のまま言う。
「もう見た」
「直で見ないでください。次から絶対に」
小さい赤は、まだ完全には開いていない。
だが、開き切る前の薄い隙間だけで分かる。
あれは、見られて育つ側じゃない。
見た側に、何かを残す。
さっき、ほんの一瞬だけ目に入った。
その瞬間、視界の焦点が一度だけ強引に持っていかれた。ピントが合う、とは違う。こっちの意識の中心を、勝手に向こうの底へ揃えられるような嫌な感覚だった。
カメラの手元が、わずかに震える。
機械であるはずのオートフォーカスが、まるで生き物みたいに勝手に穴の底へ吸われかけていた。
透はすぐにマニュアルへ切り替えた。
露光を落とす。
フォーカスを足元に固定する。
さっきまで親玉だと思っていた巨大な殻の方を画面の手前に置いて、底の赤を直接フレームに入れない。
コメント欄が乱れている。
『今の何』
『ぞわっとした』
『画面おかしくなった?』
『親玉まだ下にいる?』
『頭痛いんだけど』
最後の一行だけが、透の背筋を氷みたいに冷やした。
やっぱりだ。
「ミラ」
「何」
「今から、あれは映しません」
「配信者に対する侮辱、また更新した?」
「冗談じゃなく」
透は穴の底を見ない。見ないまま言う。
「今の赤、直で拾ったら駄目です。視聴者側にも毒が行ってる」
ミラがそこで初めて黙った。
黙ったまま、剣先だけがわずかに下がる。
冗談で済まない時の、短い沈黙だった。
崩れた巨大な殻が、そこで身を起こした。
さっきまで主役だった方。
縦長の赤を抱えていた皮膜の塊。
舞台を失って縮んだはずのそれが、今は明らかに別の役目をしている。
庇っている。
穴の底の小さい赤を、外から包むみたいに身を丸め、こちらへ背中を向ける。
主役じゃない。
ただの巨大な盾だ。
透はそこで、やっと構造を理解した。
あれは親玉じゃなかった。
見られるための殻。
底にある本物から目を逸らさせるためだけに、大きく、派手に、育っていたもの。
本当にまずいのは、あの底の赤だ。
「外の方は盾です」
透が言う。
「本物は下」
「見れば分かる」
ミラの声は低い。
だが、いつもの冷たさではない。直視してはいけないものを前にした時の、極度に乾いた集中だった。
巨大な殻が、低く軋んだ。
皮膜の裏の赤たちが、一斉に開く。
今度は見られたい動きじゃない。見せないための動きだ。
外殻がこちらへ倒れ込んでくる。
「右!」
ミラが飛ぶ。
綺麗じゃない。転がるような泥臭い回避。
黒いジャケットの裾が灰を払う。
倒れ込んできた皮膜の縁が、さっきまで立っていた床を重く叩く。砕けた観測盤が跳ねる。
透はカメラを落とした。
殻の顔も撮らない。
拾うのは床の滑りだけ。ミラの右足。着地の角度。次に踏める割れていない板。
「二歩先、残骸の白線」
ミラが一切の躊躇なくそこへ入る。
透の言葉だけを信じて剣を返す。
殻の皮膜が裂ける。
だが、深くは入らない。
硬い。
さっきまでより、明らかに硬度が上がっていた。
見られる主役としての機能を失ったぶん、純粋な盾として分厚くなっている。
「面倒」
ミラが吐き捨てる。
「知ってます」
穴の底の赤は、まだ完全には開かない。
その代わり、周囲の床に小さい影が走った。
視線を落とす。
黒い。
丸い。
小指の先くらいの、赤を埋めた粒。
目だ。
小さい本物から、さらに小さい子機みたいなものが無数に這い出してきている。しかもそいつらは、殻の陰に隠れながら、割れた観測盤の鏡面へ向かっている。
「反射、潰してください」
「どれ」
「光ってるやつ全部です」
「雑」
「急いで」
ミラが動く。
剣を高く振らない。
低く、短く。
床を払うみたいに切る。
割れた盤面と、這い出してきた小さい赤をまとめて叩き割る。
コメント欄がさらに荒れた。
『何壊してんの』
『画面暗い』
『敵見せろって』
『いや今の丸いやつ何』
『ちょっと待って今の見たくなかった』
見たくなかった。
その一行だけが、透の頭に残る。
いい。
熱狂じゃない。
嫌悪と回避だ。
それなら、まだ敵の育ちは遅い。
だが、運営はそうは考えない。
手元の端末が不快な振動を起こした。
【AUTO PRIORITY SHIFT:中央深部の映像を優先します】
最悪だった。
まだ壊し切れていない公式固定カメラの残りが、システム側の自動制御で穴の底を拾いにいく。
視聴者が嫌がる。
だからこそ見せる。
数字だけ見れば、運営はそう判断する。
「ミラ」
「何」
「残りの固定、まだ生きてます」
「どこ」
透はカメラ越しに探った。
正面上。
落ちかけた保守橋の裏。
あと一台。
小さい。
だが、穴の底へ向けてもうレンズの角度を変え始めている。
「橋の裏、一」
「遠い」
「届かなくても、視線だけ物理的に切れればいいです」
「それ、あんたの仕事でしょ」
「はい」
透はカメラを片手で固定し、もう片方でドローンを切り替えた。
上げる。
今までより高く。
敵の視界に入る危ない高さ。
でも、今は仕方ない。
ドローンの羽音が保守橋の裏へ激しく吸い込まれる。
固定の赤いランプが、わずかにそちらへ釣られる。
完全には切れない。
だが、一拍だけ遅れる。
「今、橋ごと!」
ミラが走った。
中央じゃない。
殻でもない。
橋へ。
剣が白く走る。
保守橋の支えの一本だけを正確に切る。
橋が大きく傾く。
裏に隠れていた固定カメラが、赤いランプごと床へ叩き落ちて砕けた。
コメントが止まる。
『は?』
『また壊した』
『運営泣いてるだろ』
『でも今のは正しい気がする』
その間にも、穴の底の赤が少しだけ開いた。
さっきより大きい。
だが、まだ全開じゃない。
透は直接見ない。
見ないまま、周囲の反応だけを拾う。
音。
圧。
床のわずかな脈。
そして、自分の胸の内側に湧き上がる、吐き気みたいなざらつき。
あれは、直視すると完全に壊れる。
たぶんミラももう本能で分かっている。だからこそ、あの人は一度も底を真正面から見ない。
巨大な殻が、そこで初めて大きく吠えた。
今までのハウリングとは違う。
低い。
空洞の底から絞り出したみたいな、内臓を揺らす音だった。
本物を庇うための声だ。
穴の底の赤が、その音に合わせてさらに一段開く。
周囲の空気が揺れる。
コメント欄じゃない。
配信の向こうでもない。
この空間そのものが、「見てしまいそうに」なる。
引力を持った視線だ。
透は即座にカメラを自分の足元へ完全に落とした。
「ミラ、下だけ見て!」
「見てる!」
返答が速い。
もう説明はいらない。
殻が突っ込んでくる。
真正面からじゃない。
穴を背にしたまま、身体だけを横へ強引に流す。
底を見せないための、文字通りの肉壁としての突進だ。
透は床の継ぎ目を読む。
殻の重さ。
崩れた舞台の縁。
まだ残っている黒い筋。
「左、半歩遅らせて」
ミラが透の指示に従い、動きを半拍だけ殺す。
殻の巨体が、そのわずかなタイミングのずれで足場を踏み外す。前脚が崩れた縁へ落ちる。
「今」
白い刃が、巨体を支えていた皮膜の付け根へ入る。
裂ける。
殻が大きく傾く。
庇う形が崩れる。
その隙間から、底の赤が直接見えかけた。
透はカメラを振らなかった。
振りたい衝動はあった。何がいるのか、確かめたい。見れば勝ち筋がもっと明確になる気がする。
でも、そこで見たら裏方として終わる。
透は代わりに、割れた観測盤の欠片を探した。
床の端。
灰の下。
半分だけ鏡面が残っている手鏡ほどの欠片。
補助灯はもう砕いた。
なら、使えるのは残っている光だけだ。
透は微風を細く流した。
灰を払う。
欠片の表面に、穴の底の赤がごく薄く映り込む。
直接じゃない。
反射。
しかも欠けた不鮮明な像。
それでも十分だった。
小さい。
本当に小さい。
目というより、赤い核に近い。
周囲にまぶたも顔もない。
ただ粘ついた赤だけがむき出しで、そこから細い黒い糸が無数に伸び、巨大な殻と床の残骸へ神経みたいに繋がっている。
舞台も殻も、すべてその小さな赤から生えた末端だ。
透の喉が、さらに冷えた。
「……ミラ」
「何」
「本体、殻の中じゃないです」
「知ってる」
「違います。もっとずっと小さい」
ミラの足が、ほんの一瞬だけ止まる。
「小さい?」
「舞台も、殻も、全部あれのただの服です」
言った瞬間、穴の底の赤が、反射の中で「こちら」を見た。
見てはいないはずだ。
欠片越しだ。
直視じゃない。
それでも、向こうは明確に気づいた。
鏡面の中の赤が、ふっと細く歪む。
笑ったように見えた。
嫌な汗が背中を爆発的に走る。
「バレた」
「何が」
「反射です!」
次の瞬間、穴の底から黒い糸が一斉に跳ねた。
殻へ。
床へ。
割れた観測盤へ。
そして、透の足元にある鏡面の欠片へ。
見られる窓そのものを、向こうから直接潰しに来る。
「欠片、捨てて!」
ミラが叫ぶより早く、透は全力で足元のそれを蹴り飛ばした。
砕ける。
赤い像が散る。
でも、遅い。
穴の底の核が、今度は自分から這い上がろうとしていた。
小さいくせに、重い。
丸いくせに、空間の底全部が一緒に持ち上がるみたいに見える。
あれが完全に表へ出たら、殻の比じゃない。
ミラが低く言った。
「次、どっち」
透は即答できなかった。
殻を先に完全に落とすか。
核を表へ出る前に押し込むか。
どっちも間違えば終わる。
穴の底の赤が、そこで初めて、はっきりとこちらへ向けてゆっくりと瞬きをした。
呪いみたいな重圧が空気を震わせる。
コメント欄がまた爆発する。
『今の何』
『小さいのいた?』
『待って、画面の奥に何か』
『嫌だ』
『それ映すな』
透はカメラをきつく握り直した。
次の一手を間違えたら、本当に終わる。
そして、もう“舞台を壊す”だけでは足りない。
最悪の本物が、上がってくる。




