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再契約は現場で


契約というものは、紙の上で結ぶものだと思っていた。


名前を書く。金額を決める。条件を読む。逃げ道を消して、最後に判を押す。

でも本当に人を縛る契約は、たいていもっと別の場所で結ばれる。


死ぬかもしれない場所。戻れないかもしれない場所。一歩間違えれば、名前も金額もどうでもよくなる場所。

深層ゲートの向こうは、そういう場所だった。


ロックが外れた瞬間、空気の質が変わった。


重い。暗い。冷たいわけではないのに、皮膚の内側へ薄く刃を差し込んでくるみたいな温度だった。

通路じゃない。もう設備の延長でもない。人工物が、途中でダンジョンに飲まれたあとの空間。


床はあるが、均一じゃない。鋼板の継ぎ目のあいだに灰色の鉱質が割り込み、そこから黒い筋みたいな魔力が滲んでいる。壁も同じだった。白い保守材の残骸の上を、知らない石がゆっくり侵食している。

照明は天井に残っている。だが、届き方がおかしい。手前だけを照らして、奥は急に深く落ちる。光が死んでいるわけじゃない。空間のほうが、届く前に光を飲み込んでいる。


待機欄が、網膜の隅で静かに走り始める。


『来た』

『深層本番』

『MIRA単独先行マジだったのか』

『カメラ間に合った?』

『佐久間いる?』

『労災申請フォーム、深層版に更新しました』


笑っている。笑っているくせに、全員が本気で見ている。


透はカメラを構えた。右肩に落ちる重さ。補助灯の位置。ドローンの待機。前腕の鈍い痛み。微風魔法でレンズの表面を薄く均す。全部がまだ、自分の身体の中に収まっている。


ミラは一歩前。抜いた剣の切先を下げたまま、深層の最初の闇を見ていた。

透はファインダー越しにその背中を見つめ、先に言った。


「条件、確認します」


ミラが少しだけ顔を動かす。驚いたようには見せない。だが、聞き返す前のほんの短い間があった。


「……何」


「今からは、俺が危険線を切ります」


コメント欄が速くなる。


『お?』

『何の話』

『いきなり来た』

『指揮官カメラ再開?』


透は前を見たまま続けた。


「無駄死にはしません。映像のために突っ込むのもなし。勝ち筋がないなら引きます」


ミラの目が細くなる。


「誰に言ってるの」


「あなたです」


「喧嘩売ってる?」


「違います。確認です」


空気が張る。張ったまま、深層の奥で何かが擦れた。石じゃない。生き物の脚が硬い床を探る音。

透は言葉を止めない。


「撮るだけじゃない。勝たせるために入ってます。だから、線を越える時は、俺が言います」


ミラは返さなかった。その代わり、右手のグローブだけが静かに固く握られる。

奥の闇で、赤いものが二つ開いた。


目だ。


最初に出たのは、獣型だった。だが地上の獣とは違う。灰色の甲殻を背に張りつけ、脚が長い。首が細い。正面からではなく、横へ回るための体だ。もっと静かで、もっと嫌な速さ。

一体。二体。遅れて三体。

深層の最初としては軽い。軽いが、三歩後ろが死ぬには十分な数でもある。


ミラが前へ出る。いつもの一歩目だ。短く、迷わない。

でも今日は、その前に透が補助灯を振った。照らさない。線だけ出す。右壁の低い位置へ、ほんの一瞬。

赤い目の一つが流れる。


「右、捨てていい」


ミラが半歩だけ修正する。正面を取らない。右へ来るはずだった個体を捨てて、左の薄い方へ入る。

白い刃が走る。甲殻が割れる。残り二体が左右へ散る。


透はドローンを低く滑らせた。高く上げると、この天井は危ない。空間の継ぎ目だ。人工物の名残とダンジョンの侵食が重なって、真上だけ密度が違う。

低く。右へ。音を壁に返す。一体の首が振れる。


「左、深い」


ミラが二歩目で入る。正面からじゃない。半歩高い床の縁を使って、上から落とす。


『うわ』

『始まった瞬間もう違う』

『カメラ戻ったら空気変わるな』

『ミラの一歩目が軽い』

『これこれこれ』


透はコメントを見ない。見なくても、温度は分かる。

最後の一体が、予想より速く壁を蹴った。ミラの右後方。絶対の死角。

透はそこで、初めて命令の形で声を出した。


「止まって」


短い。だが、ミラは止まった。

ほんの半拍。その半拍で、灰色の獣が振り抜いた脚が空を切る。空を切った首に、透の補助灯が一線入る。


「今」


白い刃が返る。首が落ちる。

静かだった。一瞬だけ、深層の入口が息を止める。


ミラが振り返る。目が合う。

何も言わない。だが、その目の中に、さっきまでとは違う種類の確認があった。止まれ、と言われて止まった。その結果、生きた。その事実の確認。


ミラが前を向き直る。


「……一回だけよ」


「次も言います」


「図々しい」


「知ってます」


その返しのあと、ミラの口元がほんの少しだけ動いた。笑いとは言えない。でも、完全な拒絶の形でもなかった。


深層の最初の区画は、広くないくせにルートが多く見える。

透は空間把握を少しだけ深く開いた。床の下。壁の裏。光の届かない段差。魔力の流れ。そして、視線の偏り。

深層の空気そのものが、一番明るい中央へ薄く寄っている。


「中央、罠です」


「見えたの?」


「見えたというか、寄ってます」


左の細い保守路へ入る。狭い。だが、狭いぶんだけ流れを一本にできる。

深層へ入ってからの最初の数分で、もう別の呼吸が出来始めている。一人が先に見て、一人が先に斬る。雇用でもない。使役でもない。その呼吸が、もう別物になり始めていた。


本命の区画の手前で、一度だけ立ち止まる。


前には大きな扉。向こう側に、本当に見せたい地獄がある。

ミラが扉の前で言った。


「条件」


透が顔を上げる。


「何ですか」


「さっきの続き」


短い。でも分かった。


「無駄死にはしない」


透が言う。


「勝ち筋がないなら引く。危険線は俺が切る。撮るだけじゃなく、勝たせるために動く」


ミラは前を向いたまま聞いていた。


「追加」


「はい」


「私が止まれって言ったら、止まる」


「分かりました」


「死ぬって言ったら」


そこでミラの声が少しだけ止まる。


「……そのとき考える」


透は即答した。ミラが振り返る。


「却下」


「じゃあ、死なせません」


その返答のあとで、前室の空気がほんの少しだけ緩んだ。切れずに済んだ糸が一本だけあった感じだった。

ミラは小さく息を吐く。


「最悪ね」


「知ってます」


「でも……今の方が、マシ」


その言葉は、契約書の判みたいな音で落ちた。

透は短く頷く。それで十分だった。

紙じゃない。金額もない。署名もない。でもこれが、間違いなく本当の再契約だった。


本配信接続のカウントが始まる。


五。

四。

三。


透は三歩下がる。自分で選んで、その位置を取る。

一番近い場所。一番支えられる場所。一番、落とさないで済む場所。


ミラが前を向く。黒いジャケット。右手のグローブ。白い刃。


一。

ゼロ。


扉が開く。


その向こうから来た風は、今までの深層の空気よりずっと重かった。見られるほど育つ何かの気配が、もう最初からそこにある。

透はカメラを上げた。


再契約は、現場で終わった。

だから次は、結果で証明する番だった。


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