戻る理由
深層ゲートまでの廊下は、やけに長かった。
実際に長いわけじゃない。
Aゲート裏から深層接続区画までは、走れば数分だ。
でも今日は、床の白も、壁の白も、照明の白も、全部が少しずつ前へ伸びて見えた。
機材ケースが右肩で跳ねる。
痛い。痛いが、重さの位置は分かる。重さの位置が分かるうちは、まだ走れる。
「通行権限!」
ゲート前の管理卓で、透は端末を叩きつけるみたいに見せた。
職員が顔を上げる。若い。現場の人間じゃない顔だ。びくつくのが早い。
「MIRAの撮影担当です。先行通過ログ出てるなら、こっちの入場処理を先に」
「え、でも、本配信はまだ――」
「知ってます」
声が、思ったより低く出た。
「だから今のうちに入るんです。単独先行をそのまま通したなら、画の成立責任はこっちにもある」
責任、という言葉だけで卓の空気が少し変わる。
運営卓の白い部屋で聞いた言葉が、別の場所で役に立つのは嫌だった。
職員が端末を切り替える。
権限確認。出演者情報。撮影枠。昨日の特番実績。今日の深層枠。
画面の一番上に、もう出ている。
MIRA 通過済
その文字列を見た瞬間、胃の奥が一段冷えた。
「佐久間さん、ですか」
背後から玲奈の声がした。
振り向くと、息を切らした玲奈が、片手にタブレットを持ったまま立っている。
「運営へは私が言います。入ってください」
「いいんですか」
「良くはありません」
即答だった。
「でも、今さら“撮影担当不在の単独先行は規定外です”なんて言っても、向こうは“絵になる”で押し切ります」
それは、そうだろうと思った。
玲奈は職員に向けて言う。
「責任はうちで持ちます。ログだけ残してください。佐久間さんを通して」
職員が迷う。迷ってから、玲奈の肩越しに後ろを見る。
そこに誰がいたのかは見なくても分かった。運営の誰かか、あるいは運営側の立場の人間だ。
「……分かりました。入場処理します」
ゲートの認証灯が変わる。
青から白。通過可能。
玲奈が短く言った。
「本配信開始まで、まだ十五分あります」
十五分。
長いようで、短い。短いようで、今は十分長い気もした。
「ログだけ見せてください」
玲奈がタブレットを差し出す。
ゲート通過記録。微弱ビーコン。先行ルート。
未公開層一番外縁へ向かう導線のうち、最短じゃない。少しだけ右へ寄る保守路を選んでいる。
「正面じゃない」
「ええ。本番開始前に、カメラが入りやすい位置を先に取りに行った可能性があります」
そこまで聞いて、透は息を吐いた。
まだ、画を捨ててはいない。捨てていないなら、追いつける。
「戻します」
玲奈は頷かなかった。
ただ、一度だけまっすぐ見た。
「戻すんじゃなくて、間に合わせてください」
それだけで十分だった。
透はゲートをくぐった。
---
未公開層一番外縁は、最初から優しくなかった。
空気が重い。
冷たいわけじゃない。湿ってもいない。ただ、密度だけが少しおかしい。肺へ入ったあとで、内側に薄く膜が残るみたいな重さだった。
照明は最低限。
保守灯が一定間隔で点いている。だが、一定なだけで足りてはいない。
白い通路のつもりで入ると、途中から急に灰色が混じる。人工の区画と、ダンジョンに食われた区画が、ちゃんと分かれていない。
足音が、少し遅れて返ってくる。
透は走りながら空間把握を薄く開いた。
床の継ぎ目。壁の膨らみ。保守路の段差。照明の死角。魔力の流れ。
そして、その先。
遠くに、一つだけ細い熱がある。
人だ。
速くない。止まってもいない。一定の速度で進んでいる。迷っていない歩き方だ。
「バカか……」
息の下で呟いて、さらに速度を上げる。
通路が二股に分かれる。左が正規導線。右が保守路。
ビーコンログ通り、ミラは右へ行っていた。
右は狭い。
狭いかわりに、見通しが悪い。見通しが悪いかわりに、本番開始後のカメラ位置としては悪くない。
この人は、一人で入ってもまだ画を捨てていない。
それが腹立たしかった。腹立たしいのに、少しだけ安心もした。
安心している場合じゃないのに。
最初の魔物は、通路の曲がり角で出た。
灰色の甲殻。細い脚。二体。
名前をつけるほどの相手じゃない。だが、この狭さで真正面からぶつかると足を止める。
透は走りながら補助灯を引き抜いた。
照らさない。振る。
白い線だけを一瞬、右壁へ流す。
甲殻の首がそちらを向く。向いた瞬間に左を抜く。
狭い。肩が擦れる。機材ケースが壁を打つ。痛みが跳ねる。
それでも止まらない。
「止まったら追いつけないだろ」
自分にだけ聞こえる声だった。
前方の熱が、少しだけ遠ざかる。
こちらが一度曲がりで減速したぶんだけ、差が開いた。
通路の先に、白が見えた。
保守路終端。その先で空間が開く。未公開層の前室みたいな、人工区画の残骸。
透は最後の角を曲がって、そこでようやく足を止めた。
ミラがいた。
前室の中心。崩れた制御盤と割れたモニターに囲まれた空間で、たった一人、抜いた剣の切先を下げて立っていた。
まだ敵はいない。だが、その背中は完全に「一人で全部の死角を塞ごうとする」硬い立ち方だった。
午前の死んだ画で見た、あの孤立した剣士の姿そのものだった。
振り向いたのは、透が壁へ背をぶつけるみたいに止まった瞬間だった。
「……何でいるの」
第一声がそれだった。
息が上がっていて、返事が少し遅れる。
「そっちこそ、何で先に入ってるんですか」
「質問に質問で返さないで」
冷たい。
でも、完全に冷たい声じゃない。予想外だった時のミラの声だ。
透は肩から機材ケースを下ろした。右肩が遅れて痛む。
「一人で入って、どうするつもりだったんですか」
「どうもこうもないわよ。位置取って、本配信に繋ぐ」
「カメラなしで?」
「固定はあとから入る」
「あとから入る前に死んだらどうするんですか」
ミラの目が細くなる。
「死なない」
「そういう話してるんじゃない」
「じゃあ何」
「午前の画を、今度は深層でやる気ですか」
そこで、ミラの口が一度だけ閉じた。
痛いところに入った。そう分かる止まり方だった。
透は息を整えきらないまま続ける。
「三歩後ろに誰もいないと、あなたは全部一人で拾うしかない。死角も、流れも、見せ場も、危険も、全部」
「分かってる」
「分かってるなら、何で一人で来るんですか」
ミラが視線を外す。
前室の奥。まだ開いていない深層ゲート。無機質な鋼板の扉。
「……来るなって言ったはずだけど」
小さい声だった。
透はそこで、ようやく分かった。
来るな、とは言っていない。
でも、ずっとそう言っていたのだ。
「行けば」とか「足、引っ張らないで」とか。
全部、形を変えた同じ音だった。
「言ってません」
「言ったようなものよ」
「じゃあ、聞きません」
ミラが、そこで初めてまっすぐこちらを見た。
目が冷たい。でも、その奥が少し揺れている。
「何でよ」
短い。本当に、何で分からないの、という聞き方だった。
透はそれにすぐには答えられなかった。
何で。
何で戻った。何で追いかけた。安全な方じゃなく、こっちへ走った。
妹。進行の限界。灰層素材。
でも、その事実だけじゃ今ここまで走ってきた理由には、少しだけ足りない。
透は補助灯を持ったまま言った。
「午前の画、見たからです」
ミラの眉が、ほんの少し動く。
「あなたが強いのは知ってます」
一拍。
「でも、強い人が一人で全部背負ってる画は、強いだけで終わる」
「……嫌」
「俺は、あれが嫌でした。ただの不機嫌な剣士みたいに見えた」
その言葉は、さすがに刺さったらしい。ミラの目が一瞬だけ鋭くなる。
「喧嘩売ってる?」
「売ってません」
「十分売ってるわよ」
「でも本当です」
透は一歩だけ近づいた。
「あなたは、あんな画で終わる人じゃない」
前室の空気が、少しだけ動く。保守灯の低い唸りが聞こえる。
「戻ってきた理由は、同情じゃないです」
「……じゃあ何」
「俺のカメラで、勝たせたいんです」
言ったあとで、少しだけ静かになった。
ミラが小さく息を呑むのが分かった。思いがけないところから殴られたような、呆然とした目だった。
怒鳴りもしない。否定もしない。その代わり、右手のグローブだけが逃げ場を探すように静かに握り込まれていく。
しばらくの沈黙のあと、不意に別の方向から声が飛んできた。
「……GENESISは」
「何ですか」
「まだ行けるんでしょ。安全で、綺麗で、壊れにくい場所」
言葉を選んでいるようで、全然選べていない声だった。平坦にしようとして、少し掠れている。
「そっち行けばいいじゃない」
透は首を振らなかった。
でも、答えはもう決まっていた。
「嫌です」
ミラの目が、少しだけ動く。
「何で」
「ここでしか撮れない画があるからです」
一拍。
「それに」
そこで透は止まった。止まったが、今さらもう引けない。
「引けない理由があるの、知ってるからです」
その瞬間、前室の空気が凍りついた。
ミラの目が、これまでにないほどの殺気と焦燥を帯びて透を射抜く。自分の最も脆い部分を無理やりこじ開けられた人間の、剥き出しの防衛本能だった。
だが、その刃のような視線は一秒ももたなかった。
怒るより先に、どうしようもない疲労と諦めが顔を覆う。
「……誰に、聞いたの」
震えるような、ひどく薄い声だった。
透はそれ以上は踏み込まなかった。名前も、病名も、期限も言わない。今ここで言えば、たぶん壊れる。
代わりに言った。
「半分だけです」
「白石」
「はい」
「……余計なこと」
そう言ったが、怒り切れていない。
ミラは少しだけ視線を落とした。
「……なら、なおさら帰ればいいのに」
「帰りません」
「何で」
「一人で背負わせたくないからです」
また、その言葉だった。でも今度は、前のときより静かに出た。
ミラは、長く息を吐いた。吐いたというより、胸の奥のどこかを一度だけ切ったみたいな息だった。
「勝手ね」
「知ってます」
「面倒」
「それも知ってます」
「死ぬかもしれないわよ」
「知ってます」
そこで、ミラがほんの少しだけ笑った。
笑った、というほどじゃない。口元の形が一瞬だけ変わっただけだ。
でも、それは今日初めて見る温度だった。
「……最悪」
「はい」
「本当に最悪」
「はい」
保守灯が一段だけ明るくなる。
深層ゲート起動前の事前通電だと、透には分かった。
本配信開始まで、もう長くない。
ミラは前室中央へ向き直った。
深層ゲートの扉。その手前の白線。床に古く残るマーキング。
「五分」
「はい」
「固定も代役も、あとから来る。本番前に位置だけ取る」
それは、最初にミラが一人でやるつもりだったことだ。
でも今は、一人でやる温度じゃなかった。
透は補助灯を握り直す。
「右の死角、俺が潰します」
ミラが一度だけこちらを見る。
「遅いのよ」
その言い方は、責めているようでいて、もう責める形じゃなかった。
「すみません」
「謝罪はいい」
一拍。
「落とさないで」
短かった。でも、それで十分だった。
命を。画を。自分を。たぶん、その全部を含んだ言葉だ。
透は短く頷いた。
「落としません」
その返答が終わるのと同時に、前室の上で赤い待機灯が白へ変わる。
本配信接続まで、あと三分。興行の時間が来る。
でも今の前室にある空気は、運営卓の言う「番組」とは少し違っていた。
透は三歩下がった。
無意識じゃない。自分で選んで、その位置を取る。
三歩後ろ。一番近い場所。
ミラが前を向く。
黒いジャケット。右手のグローブ。
削れていないわけじゃない。薄くなっていないわけでもない。
でも、今は一人じゃない。
深層ゲートのロックが、低く外れる音がした。




