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悪魔の理由


白い部屋では、言葉まで薄くなる。

運営卓は、そういう場所だった。


長机。壁面モニター。卓上端末。会議用の照明。

全部が明るいのに、何ひとつ温かくない。

Aゲートの白とはまた違う。あちらが現場の前で人間を削る白なら、こっちは数字のために人間を切り分ける白だった。


透は白石の半歩後ろに立っていた。

玲奈は卓の端でタブレットを抱えている。

ミラは、いつもの黒いジャケットのまま、椅子にもたれずに座っていた。


正面には運営側が三人。

中央にいる女だけが、妙に静かだった。


三十代半ば。切れ長の目。柔らかい声。

首から下げたIDには、久我山吹とあった。


「では、確認だけ」


久我が言う。

声は穏やかだった。穏やかな声ほど、引き返しにくいことを言う。


「本日二十一時。公式深層枠。エリアは未公開層一番外縁。目的は探索ではなく、映像と到達確認。危険度は極めて高いですが、昨日からの流れなら視聴は十分に見込めます」


見込めます。


その言い方で、人が死ぬかもしれない仕事を机の上に置く。


壁面モニターに、昨日から今日までの推移が映る。

同接推移。切り抜き波及。比較動画。ハッシュタグ流入。炎上率。再生維持。


そこに、見慣れた文字列がもう太く乗っていた。


#戦術カメラ

#指揮官カメラマン

#MIRA

#カメラマン誰


久我が画面を見たまま言う。


「昨日の特番で、チーム単位の視聴価値が確定しました。特に、MIRAさん本人と、撮影・判断を担う佐久間さんの組み合わせが強い」


強い。

その言葉が、商品説明みたいに聞こえた。


ミラが先に口を開く。


「で?」


短い。続きを言え、というだけの一音だった。

久我は気にしない。


「出演条件は、基本的に昨日と同じです。ただし今回は公式枠ですので、回収物と成功報酬に破格の上乗せがあります」


画面が切り替わる。

文字列。金額。契約条項。


透の目に最初に入ったのは、金額じゃなかった。


回収物優先交渉権


その下に、見覚えのある単語が並ぶ。


深層核片。

静脈結晶。

灰層素材。


控え室、机の端で見えた紙の断片と、同じ種類の言葉だった。


ミラは、そこで一度も質問しなかった。

普通なら聞くはずだ。危険度。配置。撤退条件。バックアップ。配信制限。

昨日のミラなら、最初にそこを削る。


でも今日は違う。

回収物の行に視線が止まったあと、あっさりと言った。


「受ける」


玲奈が一瞬だけ顔を上げる。

白石の眉が、ほんの少しだけ動く。

透は、その速さに息を止めた。


早すぎる。


久我は笑わなかった。笑わない代わりに、声が一段だけ柔らかくなる。


「判断が早くて助かります」


「条件は」


そこで初めて、ミラが次の言葉を出す。


「佐久間は入れる。画はこっちで組む。変な演出は入れない」


久我が透の方を一度だけ見た。


「もちろんです。むしろ、佐久間さんの参加が前提です」


一拍。


「ただし、今回の深層枠は途中中断なし。ブラックアウトも、基本的には不可。昨日の神回から今日の比較炎上まで、すべて一本の番組として扱います」


番組。


透は何も言わなかった。

攻略じゃない。救助でもない。

番組。


久我は続ける。


「そして、もし灰層素材まで回収できれば、その先の案件条件も大きく変わります」


灰層素材。

また、その言葉だ。


透は隣のミラを見た。

顔色は変わらない。

でも、右手のグローブだけが静かに閉じていく。


そのとき、やっと分かった。


この人は、深層枠を受けたいんじゃない。

受けるしかないのだ。


---


会議は、それでほとんど終わった。


運営側は満足そうだった。

昨日の神回に、今日の比較炎上。そこへ公式深層枠を重ねる。

数字としては、たぶん理想の流れなのだろう。


白石は最後までほとんど喋らなかった。

玲奈は必要なところだけを切って押し戻していた。

透は、場に立っているだけだった。


でも、ただ立っているだけで見えることもある。


ミラは、回収物の行だけを二度見た。

久我が「灰層素材」と言うたび、指先が少しだけ固くなった。

危険度の説明では、そこまで反応していない。


会議が終わって立ち上がる。

椅子の脚が、床を短く擦る。


久我が最後に言った。


「良い結果を期待しています」


結果。

透はその単語を背中で聞いた。命じゃない。無事でもない。結果。


白い部屋を出た瞬間、肺が少しだけ動きやすくなる。


---


廊下の角を曲がったところで、ミラの端末が鳴った。


着信音は短い。

だが、ミラはその瞬間だけ立ち止まった。


画面を見る。

普段なら、そのまま切るか、あとで折り返す。

でも今日は違った。


「……先に行って」


それだけ言って、廊下の奥へ歩いていく。

玲奈が何か言いかけてやめた。

白石は視線だけを動かした。


透は動かなかった。

動かなかったが、目だけは追った。


ガラス張りの小さな休憩スペース。

ミラがそこで通話を取る。背中しか見えない。

声はほとんど聞こえない。でも、完全に聞こえないわけでもない。


「……分かってる」

「今日、潜るから」

「無理じゃない」

「薬は切らさないで」


最後の一行だけが、妙にはっきり耳に残った。


薬。


透の背中が、じわりと冷える。


ミラは通話を切ったあと、少しのあいだ動かなかった。

ガラスに映る横顔は見えない。

でも、肩の線だけが、いつもより薄く見えた。


弱く見えた、ではない。薄い。

削れて、向こうの光を少しだけ通してしまうみたいな薄さだった。


その背中を見ているところへ、白石の声が落ちた。


「見るな」


短い。

振り返ると、白石が缶コーヒーも持たずに立っていた。


「……見てません」


「見てる顔だ」


透は黙る。

白石はそれ以上は責めなかった。

ただ、廊下の白い壁を見るみたいに前を向いて言う。


「今夜は重いぞ」


「分かってます」


「分かってねえよ」


言い方は乾いている。

でも、声の底にざらつきがあった。


「お前が戻ったから軽くなる話じゃない」


「何があるんですか」


白石は答えなかった。

答えないまま、少しだけ顎を引く。


「お前、見たろ」


透の喉が少しだけ詰まる。

控え室。机の端。医療機関のロゴ。高額請求。灰層素材。


「……家族、ですか」


白石は視線を動かさなかった。


「妹だ」


短い答えだった。


「進行が限界だ。灰層素材が要る。それ以上は本人に聞け」


そこで止まる。

止まり方が、本当だった。

誤魔化す時の止まり方じゃない。これ以上は言えない、の止まり方だ。


透は小さく聞いた。


「今夜の深層を受けたのも」


白石は立ち止まらなかった。


「受けたいからじゃねえよ」


その返しだけが、廊下の白さの中に硬く残った。


---


透はしばらく、その場から動けなかった。


受けたいからじゃない。

受けるしかない。


運営卓での速すぎる返答。

灰層素材。

薬。

医療機関。

高額請求。


別々だった断片が、やっと一本に繋がる。


暴君だから危険を選ぶんじゃない。

数字が好きだから潜るんじゃない。

誰かを見返したいからでもない。


引けない理由がある。

その理由が、金と深層と時間に噛まれている。


透はガラスの向こうを見た。

ミラはまだそこにいた。

通話は終わっているのに、動かない。

動けない、とは言わない。

ただ、次の一歩を出す前に、何かを一度だけ切っている人間の静けさだった。


その背中を見たとき、42話で感じた違和感の正体が、少しだけ分かった。


「行けば」


あの言葉は、透を突き放すためだけの言葉じゃなかった。


安全で、壊れにくい場所へ行け。

ここにいれば、もっと削れる。

もっと危ないところへ押し込まれる。

それでも自分は引けない。


だから、せめてお前だけは。


そう思った瞬間、胸の奥のどこかが静かに痛んだ。


---


玲奈が来たのは、ミラがようやく歩き出したあとだった。


「白石さん、何か言いました?」


「半分だけ」


玲奈はそれで通じたらしい。

小さく息を吐いて、タブレットを抱え直す。


「今夜の条件、さらに一つ増えました」


「何ですか」


「深層ゲート、出演者だけ先行通過できます」


透が顔を上げる。


「準備時間を短くするためです。運営は“入場から絵にしたい”ので」


最悪だった。

理屈としては通る。

興行としてはもっともらしい。

でも、単独で先に入れるということでもある。


玲奈は続ける。


「配信は切れません。途中ブラックアウトも、中断も、基本的には不可。昨日の神回から今日の比較炎上まで、全部を一本の番組として扱うそうです」


番組。

またその言葉だ。


「つまり、今夜の深層は攻略じゃなく興行です。到達でも、失敗でも、荒れでも、全部数字になります」


「最悪ですね」


「ええ」


玲奈は頷いた。


「でも、MIRAさんは受けます」


「引けないから」


玲奈の目が少しだけ止まった。

それだけで、答えは十分だった。


「……気づきましたか」


「少し」


「なら、もう余計な慰めはしないでください」


透は玲奈を見た。


「慰めるつもりはないです」


「なら結構です」


玲奈の声は、いつもの実務の声だった。

でも、その実務の下に疲れが見えた。


「必要なのは同情じゃなく、今夜の精度です」


それは、たぶん正しかった。


---


夜まで、まだ少しだけ時間があった。


機材確認。

バッテリー。

補助灯。

ドローン。

回線。

深層用の最低限の装備。


手を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済む。

だから透は、機材の順番をいつもより丁寧に追った。


補助灯を手に取る。

昨日の特番。

今日の午前配信。

三歩後ろ。

死んだ画。

灰層素材。

薬。

引けない理由。


一つずつが手の中に入って、少しずつ重さを変える。


白石が通りがかりに言った。


「顔、戻ったな」


「戻ってましたか」


「さっきまでは、戻る場所を間違えた顔してた」


透は返さなかった。

返せる言葉がなかった。


白石はそのまま通り過ぎる。

でも、三歩行ったところで足を止めた。


「お前が今日やることは一つだ」


振り返らないまま言う。


「気づいてることを、全部画にしろ」


それだけ残して、今度こそ行った。


透は補助灯を見た。

細い。軽い。

でも、昨日コアブレイカーの首筋に這わせたあの光が、今も手の中に残っている気がした。


気づいてることを、全部画にしろ。


それはたぶん、今までと同じで、少し違う命令だった。


勝つためだけじゃない。

生かすためだけでもない。

言えない理由ごと、画の中で支えるための仕事。


透は補助灯をケースへ戻した。


---


深層枠まで、あと四十分。


白い廊下の先で、ミラがこちらへ歩いてくる。

黒いジャケット。右手のグローブ。顔はもう整っていた。

さっきガラスの向こうで止まっていた人間と、同じ輪郭には見えないくらいに。


でも透は知っている。

整っているのは、崩れていないことと同じじゃない。


すれ違う直前、ミラが短く言った。


「遅刻してないわね」


「してません」


「そう」


それだけだった。


でも透はもう、その「そう」の薄さの意味を知っている。

硬い音の正体も、止まる指先の理由も、少しだけ知ってしまった。


知ってしまったから、前みたいには戻れない。


戻れないまま、今夜の深層へ行く。


それでよかった。

本当の理由を知らないまま立つより、ずっとよかった。


そのときだった。


Aゲート裏の端末が、一斉に短く鳴った。


玲奈の声が、廊下の向こうで少しだけ崩れる。


「……嘘でしょ」


透が振り向く。

玲奈がタブレットを持ったまま、こっちへ走ってくる。

いつも完璧に整っている営業の顔が、完全に剥がれ落ちていた。


「佐久間さん……MIRAさんが、先に入りました」


透の動きが止まる。


「深層ゲートの通過ログが出ました。出演者先行通過権を使っています。一人です。まだ本配信は始まっていません」


その瞬間、頭の中で全部が繋がった。


「行けば」

「足、引っ張らないで」

「遅刻しないで」


最初から全部が嘘だったわけじゃない。

呼ぶつもりも、使うつもりも、たぶんあった。

でも最後の最後で、この人は一人で背負う方を選んだ。


巻き込まないために。

理由ごと、自分だけで持っていくために。


「バカか、あの人は」


透は機材ケースを掴み上げた。

右肩に、これまでで一番重い痛みが走る。

でも、迷いはなかった。


カメラなしで、たった一人で公式深層の興行なんて成立するわけがない。

孤立した剣がどうなるか、今日の午前配信で見たばかりだ。


三歩後ろに誰もいなければ、あの人は全部一人で背負って、一人で潰れる。


透は白い廊下を蹴って走り出した。


向かうのは安全な天国じゃない。

悪魔のいる地獄の底だ。


間に合え、と思った。


祈るような一音が、Aゲートの冷たい空気を切り裂いた。


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